この世界で生きるということは 7
◇◆◇◆◇◆
ボーダ大陸・南西
リュラ海溝付近 カナン島
長い琥珀色の髪をなびかせながら、彼女は真っ直ぐに伸びる通路を黙って歩いていた。
火の燈った蝋燭が設置された燭台が、通路に一定間隔で配置されている。薄暗い廊下にはそれ以外の照明は無いため、少し不気味な雰囲気を感じさせる。しかし彼女はかまわずに、真っ直ぐに前を見てひたすらに前進した。
彼女が規則正しく歩みを進めるたびに、硬い石畳の床を彼女のヒールが打ち付けられる甲高い音だけが響く。それ以外は、全くの無音。
やがて彼女の歩む道の先に、終わりが見えた。
その終着には大きな黒の扉。中央に十字架と茨を象った妙な模様が白く描かれている。彼女はその扉を軽くノックして、部屋の中の反応を待たずに「失礼します」と一言挨拶し、金の取っ手に手をかけた。
そして彼女はゆっくりと、飾り気のない黒色の扉を開ける。
「お呼びでしょうか」
「あぁ、エレスティンか」
エレスティンと呼ばれた彼女が、しっかりと一礼しながら入室をする。
彼女が足を踏み入れた部屋の先には、必要最低限の家具や本の詰まった本棚しかない質素な空間が広がっていた。そして、その部屋の中央で皮張りの椅子にゆったりと腰をかけて読書する男の姿が見える。
男はエレスティンが近づくと、読んでいた分厚い歴史書を閉じて顔を上げた。
「待っていたよ」
「お待たせして、申し訳ございません」
エレスティンは男の言葉に、律義にもう一度頭を下げて謝罪を述べる。男がそれに「いや、いいよ」と短く言葉を返すと、エレスティンは「はい」とまたも丁寧に頭を下げて返事をした。そうして顔を上げたエレスティンは、その翠色の双眸で男をまっすぐに見やる。
エレスティンの視線の先、淡い白藍の青という珍しい髪色をした男がわずかに微笑む。椅子に座りなおしたときに揺れた彼のその色素の薄い髪は、腰丈まであるエレスティンのそれと同等の長さに見える。その長い髪の毛を邪魔にならないように髪留めで束ねながら、男は髪と同色の珍しい眼差しをエレスティンに向けた。ただしエレスティンを見返したその眼差しは、左目だけだ。男の顔半分は、長い前髪に完全に隠れて表情一切が伺えない。
一見男の容姿は異質で少々近寄りがたいものであるが、しかし既にその彼の容姿を見慣れているエレスティンは男の外見の異質さなどまったく気にしない。
むしろよく伺うと、半分しか見えない男の容姿はそれだけでもわかるほどに精悍なものである。そんな彼に、こちらも美しい容姿の美女であるエレスティンが艶っぽい面持ちでこう声をかけた。
「読書ですか」
「あぁ」
「お好きですね、相変わらず」
「暇さえあればずっと読んでいたいさ。本は飽きない。多くの知識も得られるしね」
そう言って肩を竦める男に、エレスティンは愉快そうに目を細めた。
「貴方らしいですね」
彼女の言葉に、男も僅かに口元を緩めて微笑を浮かべる。しかしそんな男の柔らかな表情も、すぐに引き締められた。男の表情の変化に、エレスティンもまた笑みを消して男に向き直る。
「だが……残念だが、もうそんな暇もなくなってしまう」
「どういう事でしょう?」
男はゆっくりと立ち上がり、そしてエレスティンに告げた。
「さっき彼から連絡があった。……計画を、本格的に実行するとね」
「!?」
予想外の男の言葉に、エレスティンは大きく目を見開いた。
そんな彼女の反応を、落ち着いた面持ちで見返しながら男はさらに続ける。
「マギもミレイから同じ報告を受けたと先程知らせがあった。彼……いや、彼女か? とにかくミレイに聞いた話によると、"アンゲリクス"を目撃したとのことだ。おそらく、長く眠っていた彼女が動き出している、と」
「なるほど……」
「相変わらずミレイは行動が早い。本当に優秀な部下だよ」
「彼の?」
エレスティンの意味ありげな視線に、男は薄く笑って答える。
「勿論だよ。私の部下ではないからね。……私の部下たちにも見習ってほしいくらいだな」
「申し訳ございません」
エレスティンは男の部下の一人である。なので彼女はまたも小さくぼやいた男に頭を下げた。しかし男は苦笑いを浮かべて、慌てて手を左右に振る。
「いや、君はよくやってるよ。……他にいるだろう? うちには何人かの給料泥棒が」
「あぁ、ユトナとエルミラですか? エルミラはともかく、ユトナは困り者ですからね」
「わかっているじゃないか」
苦笑を深める男に、エレスティンは無言で微笑みを返した。
「まぁ……その話は、またにして……」
男は元の真面目な表情へと戻して、思わずそれた話を再開させる。
「ミレイが彼とこちらに、同時に報告を入れてくれたおかげで早く行動をおこせそうだよ。その時マギが受けた報告によると、目撃はボーダ大陸のアンジェラ国にあるガルガドという町だそうだ」
「アンジェラですか……」
「それで、早速空いている誰かをその近辺に調査に向かわせてほしい。"アンゲリクス"、そして彼女の確認がこちらでもほしいんだ。ついでに彼の命令では、アンゲリクスの捕獲をこちら側の任務に含めると言ってきた」
エレスティンは眉根を寄せて考える。
「捕獲、ですか。しかし今手が空いているのはユトナと……それ以外は基本戦闘員ではないエルミラ、レイチェル、リーリエ、そしてヒスだけです。あとは皆、他の調査に……戦闘員ではない彼らに荒事は難しいかと」
「……ユトナは行かないだろうし、確かにそのメンバーでは不安だな……」
エレスティンの報告に、男は困ったように腕を組んだ。そんな彼に、エレスティンは問い掛ける。
「ミレイは何を? あの人が動けばよいとも思うのですが……」
「あぁ、ミレイは例の"贄"の捜索だよ。そちらも重要だし、それはミレイにしか出来ないだろうからね。とりあえず今は、ミレイにはそれに専念してもらうって事になっている」
エレスティンは男の答えに「そうですか……」と、小さく呟いた。
「なら仕方がないですね。現在動かせる者だけで、どこまで出来るかわかりませんがやってみます」
エレスティンはそう言って、早速仕事に移ろうと部屋を退室しかける。しかしそんな彼女を男の低い声が止めた。
「ちょっと待ちたまえ。流石に戦闘員でない者が奴らと対決するのは、はっきり言って自殺行為だ。今回は動向調査のみでいい。……因みにアンジェラのガルガドに今現在、一番近い位置にいる戦闘員は?」
エレスティンは立ち去りかけた足を戻し、向き直りながら彼の質問に少し考える。
「……マギ、それとレイリスとカナリティア……ですかね。マギは何だかわかりませんが、暫く私用で出掛けるそうです。ですが、まだそう遠くへは行っていないでしょうから、呼び戻す事は可能です。……機嫌が悪くなって帰ってくるでしょうけど」
「私用? 相変わらずだな、彼は」
上司のような立場である自分に何も告げずに、『私用』だと言って勝手に何処かへ行ってしまったらしいマギ。彼の行動に男は困ったように苦笑し、そして溜息をついた。そうして彼は考え込むようにしばし沈黙する。
「……マギは怒らすと面倒だ。仕方ない、レイリスとカナリティアの二人に、任務が一段落ついたらそちらへ駆けつけて合流するように伝えておいてくれ。それで、調査にはエルミラとレイチェルに行ってもらう。これでどうだろう?」
男は白藍色の左目をエレスティンへと向け、彼女の様子を伺う。エレスティンは少しだけ意外そうに眉をひそめて男へこう言葉を返した。
「エルミラとレイチェルですか? うーん、その二人が行くなら……調査くらいなら、ヒスのほうがまだ……」
「いや、ヒスは確かにそういうことも出来るが、彼が外へ出るのは人がいない非常時のときだけだよ。彼をそういうふうに動かすのはあまりよくない。多少荒事が出来るといっても、彼はあくまでも医者なんだから。……君はエルミラたちじゃ不安なようだね」
男の優しい声音での問いと柔らな視線に、エレスティンははっとした様子で慌ててこう返事を返した。
「も、申し訳ございません! いえ、異論はありません」
エレスティンの慌てぶりに、男は小さく笑う。
「いや、いいんだよ。自分の意見はしっかりと持つべきだ。私は独裁者じゃない。君達部下の意見も含めて、一番最善だと思われる方法を行っていくつもりだから」
男はエレスティンの瞳を真っ直ぐに見つめて、落ち着いた口調でそう言った。左目しか見えない男の瞳だったが、しかし彼の白藍色の瞳はどこまでも真摯なものだった。そんな男の瞳を見つめながら、エレスティンは知らず微笑みを浮かべる。
「……わかっています。そんな貴方だからこそ、私たちはここにいるのですよ」
自分たち部下を思う偽りのない瞳に、エレスティンも同じ優しさを含んだ瞳を男へと返した。
エレスティンの思わず漏らした本音に、男は口元を綻ばす。しかし直ぐに、顔に苦笑いを浮かべてぼやいた。
「……何人か、とてもそう思っているようには見えない者もいるけども」
男のぼやきにエレスティンは思わず小さく笑ってしまった。そうして男もそれにつられたように、喉の奥で微かに笑う。そんな男の姿に、思わずエレスティンは胸の奥が熱く、そして満たされるのを感じた。
僅かに自分の体温が上がる。もしかしたらそれは顔色にも出てしまっているのではないかと思い、エレスティンは慌てて頭を下げた。
「そ……それでは、早速仕事に戻らせていただきます」
「失礼します」と早口に言って、エレスティンは俯き顔を隠したまま踵を返した。彼に自分の愚かしい感情を悟られたくなくて、彼女は逃げるように部屋のドアへと向かった。そして突如足早に部屋を出ようとするエレスティンの姿を特に不審がることもなく、男は微笑したまま彼女の後姿に「頑張ってくれたまえ」と一言声をかける。男の声を背後に聞き、エレスティンは扉のドアノブに伸ばしかけていた右手を止めた。
彼女の脳裏にふと、『このまま"計画"が実行されたら……』という考えが浮かぶ。
(……この計画が本格的に始動したら、私達は皆どうなってしまうかわからない……)
エレスティンは自分が彼にどんな感情を抱いているのかなんて、自分自身のことだからわかりきっていた。けれどもそれを彼に悟られないようにしていたし、まして伝えようなんて事は絶対に考えなかった。彼の側で、彼の助けとなる事だけがエレスティンの望みであって、幸せだったからだ。それで、今までは十分だった。
(……でも、本当にそれでいいのかしら)
『計画の実行』という言葉によって状況が変わってしまった今、自分たちの未来に保証は無くなってしまったのだ。いつかこの日が来るというのは彼女も含めて、仲間たち皆が理解していた事ではあったが。
"今のままで十分"という感情。
それは今までが危ういながらも、変わらぬ日々として確立されていたからだ。だから自分は知らずそれで"十分"だと認識していたんだと、エレスティンは心に思った。
今、この黒い扉を開ければ"始まって"しまう。
それが『悪夢の始まり』か、『楽園への一歩』なのか彼女にはわからないけれども。
「……ッ……ジューザス様っ!」
エレスティンは強い不安と不思議な衝動に駆られ、振り返りながら切羽詰まった声で男の名を呼んでいた。
「どうした?」
男――ジューザスは先程と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべている。ジューザスの瞳と、エレスティンの激情に揺れる緑の瞳とが絡んだ。そうしてエレスティンはまっすぐにジューザスと見つめ合ったまま、ゆっくりと震える唇を動かした。
「私は、貴方を……」
そこまでの言葉を紡ぎながら、しかしエレスティンの唇は止まる。
目を逸らすことなく、ただ優しげに次の言葉を待つジューザス。エレスティンはその視線からわずかに俯き、逃げるように逸らしてしまった。ジューザスの真っ直ぐな視線に、彼女は後ろめたさを感じてしまったのだ。
先程まで自分の中で煮えたぎっていた強烈な衝動も、何故だか今はいつもどおり愚かなものでしかないと思えた。
「……いえ……私は、ずっと貴方の味方ですから」
震える唇で、彼女は絞り出すようにそう続けた。そして伏せていた瞳を上げて、エレスティンは僅かに微笑む。
「……ありがとう、エレスティン」
儚く微笑むエレスティンに、ジューザスもまた静かな微笑を返した。
【この世界で生きるということは・了】




