悪役令嬢になったのは、ずっと前に死んでいたから
卒業夜会の大広間には、花の匂いが満ちていた。春を祝うために集められた白薔薇と、薄桃色の芍薬。王宮庭園から切り出されたばかりの枝は硝子の花器に挿され、壁際には金の燭台がいくつも並んでいる。
楽団の弦が柔らかく響き、貴族の子女たちは笑い声を抑えながら輪を作っていた。その夜が、学園で過ごす最後の夜だったから、誰もが少しだけ浮かれていた。
ただ一人を除いて。
エレオノーラ・ヴェルディス公爵令嬢は、大広間の中央に立っていた。
白銀の髪を結い上げ、首元まで詰まった黒い夜会服をまとっている。卒業夜会に黒を選ぶ令嬢など、普通はいない。けれど彼女ならばあり得ると、誰もが思った。
王太子レオンハルト殿下の婚約者。
冷たく、高慢で、誰にも心を許さず、最近では聖女候補ミリアに嫉妬していると噂される悪役令嬢。
白い花々に囲まれて立つ彼女は、葬儀の中心に置かれた棺のように見えた。
その足元だけ、なぜか燭台の光が薄い。床に落ちるはずの影が、少し遅れて彼女の形をなぞっている。
誰もそれに気づかない。
誰も、気づこうとしない。
悪役令嬢とは、そういうものだった。
冷たければ冷酷。
黙っていれば傲慢。
笑わなければ嫉妬。
笑えば嘲笑。
説明を求められる前に、周囲は彼女の理由を決めていた。
だから今夜も、彼女が黒いドレスで立っているだけで、人々は勝手に物語を作った。
最後まで意地を張るつもりなのだ。
卒業夜会まで聖女候補に嫌がらせをする気なのだ。
王太子に捨てられると分かって、喪服のつもりで黒を選んだのだ。
そう囁く者もいた。
エレオノーラは、そのすべてを聞いていた。聞こえていたのかもしれない。けれど、何も言わなかった。
王太子レオンハルトは、彼女の前に立った。
金髪に青い瞳。王家の正統を思わせる端正な顔立ち。学園では優しく、朗らかで、誰に対しても分け隔てない王子として知られていた。
その隣には、淡い水色のドレスを着たミリアがいる。聖女候補として神殿から学園に通う少女。薄い金髪と柔らかな頬を持ち、誰からも守られるべき存在のように見える娘だった。
だが今夜のミリアは、ひどく青ざめていた。
レオンハルトが一歩前へ出る。
「エレオノーラ・ヴェルディス」
その声は、広間の端まで届いた。
楽団の音が止む。
笑い声も止まる。
エレオノーラは顔を上げた。
美しい顔だった。陶器のような肌。薄く色を差された唇。だが、その唇には血の気がなかった。
「はい、殿下」
声は静かだった。感情も震えもない。まるで、決められた時間に鳴る時計の音のようだった。
レオンハルトは、その冷静さにかえって苛立ったようだった。
「私は今夜、この場で君との婚約を破棄する」
ざわめきが広がった。
望んでいた者もいた。
驚いたふりをした者もいた。
胸の内で安堵した者もいた。
これでようやく、物語があるべき場所へ進むのだと思った者もいた。
冷たい悪役令嬢は裁かれ、優しい聖女候補が救われる。
その分かりやすい筋書きに、誰もが乗りたがっていた。
けれどエレオノーラは、少しも動かなかった。瞬きすらしない。その沈黙が、周囲には傲慢に見えた。
王太子に婚約を破棄されても膝を折らない。
涙も見せない。
謝罪もしない。
さすが悪役令嬢だと、誰かが息を呑むように囁いた。
ミリアだけが、小さく首を振った。
「殿下、やはり今夜は」
「ミリア」
レオンハルトは優しく遮った。
「君は優しすぎる」
「そうではありません」
「君が許しても、私は許さない」
その言葉に、側近たちが頷いた。
侯爵子息グレインが一歩進み出る。
「エレオノーラ嬢、あなたはミリア嬢に対し、幾度も陰湿な嫌がらせを行った」
伯爵令息オスカーが続けた。
「まず、神殿から届いた祝福花を黒く枯らした件」
広間の隅で、誰かが「あれか」と呟いた。
学園中で噂になった出来事だった。ミリアの聖女認定を祝って飾られた白百合が、翌朝にはすべて黒く萎れていた。花弁は炭のように縮み、茎からは腐った水の匂いがしたという。
その前日、エレオノーラが花の前に立っていたのを見た者がいた。だから彼女の仕業だと、誰もが思った。
「あなたはミリア嬢の祝福を妬み、花に呪いをかけた」
エレオノーラは静かに答えた。
「わたくしは、花に触れておりません」
「言い逃れをする気か」
「触れておりません」
同じ声だった。
同じ温度だった。
否定しているのに、そこに必死さがない。そのせいで、ますます嘘に聞こえた。
ミリアが震える手を胸元に当てた。
「あの花は、エレオノーラ様が近くにいらしただけです」
「ミリア、庇わなくていい」
「庇っているのではなく」
「君はあの日、泣いていたではないか」
ミリアは言葉を失った。
泣いていたのは本当だった。花が枯れたからではない。花の前に立っていたエレオノーラの周囲だけ、空気が白く曇っていたからだ。
春の朝だった。暖炉もいらないほど暖かな日だった。それなのに、エレオノーラの周囲だけが冬のように冷えていた。しかも、彼女の口元からは息が出ていなかった。
ミリアはそれを見て、泣いた。
怖かったからではない。
いや、怖くなかったと言えば嘘になる。
ひどく怖かった。あの方は何なのだろう、と足が震えた。自分には見えてはいけないものが見えているのではないかと、目を閉じたくなった。
けれど、それ以上に悲しかった。
エレオノーラは、花を枯らそうとしてそこに立っていたのではない。誰かを傷つけようとしていたのでもない。ただ立っていただけだった。
ただ立っているだけで、花が死んだ。
それがあまりにも悲しかった。
ミリアは何度も言おうとした。
エレオノーラ様はおかしい、と。
あの方は、もう生きている方の冷たさではない、と。
けれど、言えなかった。
聖女候補とはいえ、まだ正式な聖女ではない。確証もなく公爵令嬢を死者だなどと言えば、正気を疑われる。王太子殿下の婚約者を怪異扱いした娘として、神殿へ戻されるかもしれない。
それだけではなかった。
エレオノーラが怖かった。
彼女のそばに立つと、体温だけではなく、自分の奥に隠していたものまで冷えていく気がした。
そして何より、ミリアは知っていた。
エレオノーラが悪役令嬢でいてくれる限り、自分は守られる側でいられる。
かわいそうな聖女候補でいられる。
殿下に庇われる理由ができる。
その卑しさに気づいた時、ミリアは初めて、エレオノーラではなく自分の方が恐ろしくなった。
だから言えなかった。
だから泣いた。
優しかったからではない。
弱かったからだ。
グレインはさらに続けた。
「次に、東階段でミリア嬢を突き落とそうとした件」
広間の空気がまた揺れた。
これは花よりも重い罪状だった。ミリアが階段から落ちかけ、手すりに掴まって助かった事件。すぐ上にはエレオノーラが立っていた。
だから、彼女が押したのだと噂になった。
「あなたはミリア嬢の背後に立ち、彼女を階段から落とそうとした」
「違います」
「ではなぜ、あの場にいた」
「殿下に呼ばれていたからです」
レオンハルトが眉を動かした。
半年前のことだった。
確かに彼は、エレオノーラを東階段の先にある回廊へ呼び出していた。ミリアとの距離について、婚約者としての振る舞いについて、話すつもりだった。
だが結局、彼は行かなかった。
ミリアが泣いていたから。
だから彼はミリアを優先し、エレオノーラへの使いを出すことも忘れた。彼女は一人で待っていたはずだった。
どれほど待ったのか、レオンハルトは知らない。
知ろうともしなかった。
「それと、ミリアを突き落とそうとしたことに何の関係がある」
「わたくしは、彼女に触れておりません」
「またそれか」
「触れておりません」
エレオノーラの言葉は揺れない。その揺れなさが、今夜は不気味だった。
ミリアは思い出していた。
階段でエレオノーラを見た時、彼女は手すりの近くに立っていた。俯き、何かを待っていた。
ミリアが声をかけようと近づいた瞬間、足元から冷気が這い上がってきた。真冬の墓石に触れたような冷たさだった。
膝から力が抜け、視界が白くなり、体が傾いた。
エレオノーラは手を伸ばした。
だが、その手に触れたらもっと冷たくなると、ミリアは本能で悟った。
だから手すりを掴んだ。
そして泣いた。
エレオノーラは何も言わなかった。ただ、階段の上に立ったまま、ミリアを見下ろしていた。
その姿だけ見れば、突き落とそうとした悪女に見えた。
だが違う。
違うのだ。
ミリアは、あの日も言えなかった。
言えば、自分が見たものを認めなければならない。自分が見ていながら沈黙したことも認めなければならない。
だから、泣いた。
泣いて、守られた。
守られながら、エレオノーラを悪役令嬢のままにした。
「殿下、お願いです」
ミリアは震える声で言った。
「この件は、もう一度きちんと」
「きちんと調べた」
レオンハルトの声は固かった。
「目撃者もいる。君が階段で倒れかけたことも事実だ。彼女がその場にいたことも事実だ」
「事実の並べ方が違います」
「ミリア」
「違うのです」
広間が静まり返る。聖女候補が王太子に逆らうことは珍しかった。
レオンハルトは、少し傷ついたような顔をした。
「君は、そこまで彼女を庇うのか」
「庇っているのではありません」
ミリアはエレオノーラを見た。
その目には恐怖があった。同時に、深い後悔があった。
「この方は、わたくしたちが思っているような意味では、人を傷つけていません」
その言葉に、エレオノーラの睫毛がわずかに動いた。
初めて、彼女が反応したように見えた。
だがすぐに、もとの静けさに戻る。
オスカーが鼻で笑った。
「聖女候補としてのお優しさは尊いが、罪は罪です」
彼は手元の紙を広げた。
「夜会でリリアーナ男爵令嬢を倒れさせた件もあります。あなたに腕を取られた直後、彼女は意識を失った」
それは、一月前の小夜会でのことだった。
男爵令嬢リリアーナは、噂を確かめるため、エレオノーラにわざと親しげに近づいた。冷たい令嬢がどんな反応をするか、友人たちと賭けていたという話もある。
リリアーナは笑いながらエレオノーラの腕に触れた。
次の瞬間、彼女は悲鳴を上げて倒れた。唇は紫になり、指先は氷のように冷たく、医師が来るまで震え続けた。
呪いだと噂された。
エレオノーラが身分の低い令嬢を罰したのだと。
エレオノーラは答えた。
「彼女が、わたくしに触れました」
「触れたから倒れたと?」
「はい」
「それを呪いと言うのだ」
「分かりません」
「分からない?」
「はい」
その言い方に、広間のざわめきが大きくなった。
令嬢を倒れさせておいて、分からない。なんと冷酷な。なんと無責任な。
そんな空気が一斉に膨らむ。
だがミリアは、唇を噛み締めていた。
分からないのは当然だった。
エレオノーラは、人を傷つけようとしていない。ただ、そこに在るだけで、生者の体温を奪ってしまう。
花を枯らす。
火を細らせる。
近づいた者を凍えさせる。
それは悪意ではない。
死者の性質だ。
ミリアは半年前から、それに気づいていた。
正確には、気づきかけていた。
エレオノーラが以前と違う。
笑わなくなったのではない。
怒らなくなったのでもない。
息をしなくなった。
食事をしなくなった。
声に、人間の湿り気がなくなった。
机の上に置かれた茶は冷めるのではなく、凍るように温度を失った。彼女が廊下を歩くと、春先でも窓硝子の内側に薄い霜がついた。
けれど誰も言わなかった。
冷たい令嬢だから。
悪役令嬢だから。
婚約者を奪われた嫉妬で、性根まで凍ったのだろう。
そう言えば、誰もそれ以上考えなくて済んだから。
レオンハルトは、最後の罪状を口にした。
「そして、君は私にも執着した」
エレオノーラは彼を見た。黒い瞳は、硝子玉のように澄んでいた。
「婚約者でございますから」
「婚約者だからといって、私の行動を制限する権利はない」
「王太子妃教育において、殿下の行動予定を把握することは義務でした」
「ミリアと話すことまで咎めた」
「咎めておりません」
「ならばなぜ、いつも私の前に現れた」
エレオノーラは、そこで初めて少し黙った。それは考えている沈黙ではなかった。答えが、どこか遠い場所から届くのを待っているような沈黙だった。
「分かりません」
彼女はそう言った。
「また分からないか」
「はい」
「自分のしたことも分からないのか」
「はい」
レオンハルトの顔が赤くなった。
「ふざけるな!」
彼の怒声に、燭台の火が大きく揺れた。
ただし、エレオノーラの近くの火だけは揺れなかった。青白く細いまま、針のように立っている。
「君はいつもそうだ。正しい顔をして、冷たい目で私を見る。間違っているのはこちらだと言いたげに、何も言わずに立っている。私は、そんな君にずっと息が詰まっていた」
エレオノーラは、黙っていた。
「ミリアといると、私はようやく息ができた。君には分からないだろう。君には人の心がないからな」
その言葉に、ミリアがはっきりと顔を上げた。
「殿下」
「事実だ」
「違います」
「何が違う」
ミリアは、震えながらも言った。
「心がないのではありません」
広間の空気が、冷えた。
「その方は、もう心を動かせないだけです」
誰かが息を呑んだ。
レオンハルトが眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「殿下、今すぐ断罪をおやめください」
「ここまで来て何を」
「婚約指輪に触れてはいけません」
その言葉が遅かった。
レオンハルトは、すでにエレオノーラの左手を掴んでいた。掴んだ瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
冷たかった。冷たいという程度ではない。墓の下から掘り出した石に触れたようだった。人の手ではなかった。
だが彼は、群衆の前で怯むことができなかった。
王太子として。
聖女を守る者として。
悪を裁く者として。
彼はエレオノーラの薬指から、王家の婚約指輪を抜き取った。
その瞬間、大広間のすべての灯りが青くなった。
楽団の弦が、誰も触れていないのに一斉に鳴った。花器の白薔薇が、音もなく萎れていく。薄桃色の芍薬は黒ずみ、花弁が床に落ちる前に灰のように崩れた。
広間の扉が内側から閉まる。窓硝子に霜が走る。誰かが悲鳴を上げた。
エレオノーラは、自分の左手を見ていた。指輪のなくなった薬指。そこだけが、不自然なほど白かった。
彼女はゆっくり瞬きをした。それは今夜初めて見る、生き物のような動きだった。
「……そうでしたわ」
声が変わっていた。
先ほどまでの時計の音のような声ではない。遠い眠りから覚めた者の、かすれた声だった。
「わたくし、半年前に死んでおりましたのね」
広間のざわめきが消えた。
誰も笑わない。
誰も否定しない。
ただ、その言葉だけが冷たい床を滑って、全員の足首に絡みついた。
レオンハルトは指輪を握ったまま固まっていた。
「何を、言っている」
エレオノーラは彼を見た。その瞳には、ほんのわずかに焦点が戻っていた。
「殿下に呼ばれた日です」
レオンハルトの喉が動いた。
「東階段の」
「はい」
エレオノーラは、静かに頷いた。
「あの日、わたくしは、ずっとお待ちしておりました」
春の始まり。まだ風の冷たい午後。東階段の先にある回廊。
レオンハルトに呼ばれたエレオノーラは、そこで待っていた。婚約者としての話があるのだと思っていた。聖女候補ミリアとの距離について、王太子としての振る舞いについて、これからの公務について。
彼女は小言を言うつもりではなかった。ただ、確認したかった。
自分は婚約者として、まだ必要なのか。
それとも、すでに役目を失っているのか。
だがレオンハルトは来なかった。
使者も来なかった。
代わりに来たのは、公爵家の馬車だった。
父からの急な呼び出し。母が倒れたと聞かされ、エレオノーラは屋敷へ戻った。
母は倒れていなかった。
父も母も、客間で待っていた。
机の上には、王宮からの非公式な問い合わせの書簡が置かれていた。王太子がミリアに心を寄せているらしい。婚約関係に不穏があるらしい。ヴェルディス公爵家として、娘の管理はどうなっているのか。
そういう内容だった。
母は泣いた。
父は怒った。
エレオノーラは責められた。
なぜ王太子の心を繋ぎ止められないのか。
なぜ聖女候補に付け入る隙を与えたのか。
なぜもっと柔らかく笑わないのか。
なぜもっと愛される娘になれないのか。
なぜ、王太子妃になるために生まれたのに、その程度のこともできないのか。
エレオノーラは答えようとした。
自分は王太子妃になるために生まれたのではない、と。
しかし言えなかった。
父の顔を見た。
母の涙を見た。
自分の部屋に戻る途中、古い北棟の階段で足が止まった。
そこは、子どもの頃に遊んではいけないと言われた場所だった。地下へ続く扉がある。ヴェルディス家の古い霊廟へ続く扉。
エレオノーラは、なぜそこへ行ったのか覚えていない。
ただ、胸が苦しかった。
息がしづらかった。
王太子の前にいる時よりも、父母の前にいる時よりも、ずっと息ができなかった。
誰かが自分を呼んだ気がした。
扉の向こうから。
地下から。
冷たい場所から。
彼女は階段を降りた。
灯りはなかった。
だが、霊廟の奥に置かれた石棺だけが、月明かりのように白く見えた。
ヴェルディス家に伝わる古い棺。
死者を一晩だけ戻すという、葬送魔術の器。
代々、当主の最期の言葉を聞くためだけに使われてきた禁忌の遺物。
その蓋が、少し開いていた。
エレオノーラは近づいた。
そして、足を滑らせた。
それだけだった。
叫ぶ暇もなかった。
石段に側頭部を打ちつけ、首が不自然な角度で折れた。
彼女はそこで死んだ。
半年前に。
それが、すべての始まりだった。
だが、公爵家は葬儀を出さなかった。
死を公表しなかった。
王太子との婚約が揺らいでいる時に、令嬢が霊廟で死んだなどと言えるはずがなかった。悪評が立ち始めた時期に死なれては、家名に傷がつく。婚約破棄される前に死なれては、王家に責任を問えない。
何より母が、娘の死を認めなかった。
だから、棺が使われた。
死者を一晩だけ戻すための魔術を、半年も引き延ばした。
王家の婚約指輪を楔にして。
公爵令嬢という身分を鎖にして。
王太子の婚約者という役割を棺の蓋にして。
エレオノーラは戻された。
正確には、戻されたように見せかけられた。
生きている娘ではない。
生前の記憶と礼法と習慣を、冷たい体に縫いつけたもの。
朝になれば学園へ行く。
授業を受ける。
王太子を見かければ礼をする。
聖女候補に会えば挨拶をする。
食事は口元へ運ぶが、飲み込まない。
眠るふりはするが、眠らない。
笑うべき時には、昔覚えた通りに口角を上げる。
怒るべき時には、何も言わない。
誰も気づかなかった。
気づかない方が楽だったから。
エレオノーラは冷たい令嬢だった。だから、冷たくてもおかしくない。
エレオノーラは完璧な婚約者だった。だから、感情がなくてもおかしくない。
エレオノーラは悪役令嬢だった。だから、花が枯れても、人が倒れても、聖女候補が泣いても、すべて彼女の悪意にすればよかった。
大広間の扉が、重い音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、ヴェルディス公爵と公爵夫人だった。二人とも夜会に招かれていたが、これまで広間の奥に控えていた。
公爵夫人は真っ白な顔で、夫の腕にすがっている。公爵は、王太子の手にある指輪を見て、唇を震わせた。
「殿下、なぜ指輪を」
レオンハルトは、ようやく声を絞り出した。
「どういうことだ」
公爵は答えなかった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
王太子の側近たちが、一歩ずつ後ずさる。先ほどまで正義を語っていた顔から、血の気が失せていく。
ミリアはエレオノーラへ駆け寄ろうとしたが、途中で足を止めた。
近づけば、彼女の体温を奪ってしまう。
それを、エレオノーラ自身も分かっているようだった。
彼女はかすかに首を振った。
「来てはいけません」
ミリアの瞳に涙が浮かんだ。
「エレオノーラ様」
「あなたは、優しい方でしたのね」
「違います」
ミリアは泣きながら言った。
「わたくしは、優しかったのではありません」
エレオノーラは静かに彼女を見た。
「怖かったのです」
「何が」
「あなたが」
その告白に、広間の誰かが息を詰めた。
ミリアはそれでも続けた。
「あなたのそばに立つのが怖かった。あなたを見るたびに、何か言わなければと思いました。でも、言えば自分も巻き込まれると思いました。聖女候補でいられなくなるかもしれないと思いました。殿下に守っていただけなくなるかもしれないと思いました」
涙が頬を伝う。
「それに、あなたが悪役令嬢でいてくだされば、わたくしは被害者でいられたのです」
エレオノーラは、何も言わなかった。
「最低でしょう」
ミリアは笑おうとして、失敗した。
「わたくしは、あなたの死の気配に気づきながら、自分が安全な場所にいるために黙っていました」
「そうでしたか」
「責めてください」
「なぜ」
「わたくしはあなたを助けなかった」
「あなたは、わたくしを殺してはおりません」
「でも、見ていました」
ミリアは震える声で言った。
「見ていただけでした」
エレオノーラは、ほんの少し目を伏せた。
「見ていた人は、たくさんおりましたわ」
その言葉は、ミリアだけに向けられたものではなかった。
大広間にいた者たちが、一斉に目を逸らした。
見ていた。
誰もが、何かを見ていた。
食事に手をつけない令嬢を。
冬でもないのに冷たい手を。
触れた花が枯れる様を。
誰かが倒れる様を。
王太子の隣で、ますます白くなっていく顔を。
だが、それを悪意と呼んだ。
性格と呼んだ。
噂と呼んだ。
そうすれば、自分の責任ではなくなるから。
公爵夫人が悲鳴のような声を上げた。
「黙りなさい!」
ミリアがびくりと肩を震わせる。
公爵夫人は、乱れた足取りでエレオノーラへ近づいた。
「エレオノーラ、あなたは死んでなんかいないわ」
彼女は涙を流していた。
深い母の愛のようにも見えた。だが、その目はエレオノーラを見ていなかった。自分が失いたくなかった娘の形だけを見ていた。
「あなたはここにいるじゃない。ちゃんと立っているじゃない。話しているじゃない。卒業夜会にも出られた。王太子妃になれるはずだった。まだ間に合うわ。指輪を戻していただけば」
「母上」
エレオノーラの声が、静かに遮った。
公爵夫人は涙を浮かべたまま笑った。
「大丈夫よ。お母様が何とかしてあげるわ。あなたは昔から少し不器用だったものね。でも大丈夫。王太子妃教育も終えている。礼法も完璧。あなたなら」
「母上」
「何?」
「わたくしは、死んでおります」
公爵夫人の表情が止まった。
「そのようなことを言わないで」
「半年前に」
「やめて」
「北棟の地下で」
「やめなさい!」
公爵夫人の叫びで、窓硝子に入っていた霜が一斉に割れた。鋭い音が広間に降る。
誰も動けない。
エレオノーラだけが、静かだった。
「なぜ、葬ってくださらなかったのですか」
公爵夫人は口を開けたが、声が出なかった。
代わりに公爵が低く言った。
「家のためだった」
広間の全員が、彼を見た。
公爵は背筋を伸ばしていた。半年前に娘の死を隠し、禁忌を使った男の顔ではなく、公爵家当主の顔だった。
「お前も分かるだろう。あの時期にお前の死を公表すれば、ヴェルディス家は終わっていた。王家との婚約は揺らぎ、聖女候補への嫌がらせの噂は広がり、すべての責任がお前と家に押しつけられた」
エレオノーラは父を見た。
「だから、死んだ娘を歩かせたのですか」
「一時的な措置のはずだった」
「半年です」
「仕方なかった」
「半年です、父上」
公爵の眉がぴくりと動いた。
エレオノーラの声には、怒りがあった。冷たい怒りだった。死者の怒りではない。生きていた頃に言えなかった娘の怒りだった。
「わたくしは、半年もの間、死んだまま学園へ通っておりました。花を枯らし、人を凍えさせ、誰かに触れることもできず、悪意があると責められ、それでも毎朝支度をされ、馬車に乗せられ、婚約者として礼をし続けました」
公爵は視線を逸らした。
「家のためだった」
「死んだ娘にまで、まだ役目を与えますの?」
その問いに、公爵は答えられなかった。
広間の誰も答えられなかった。
レオンハルトは、手の中の指輪を見下ろしていた。金細工の輪は、冷たいはずなのに、なぜか少しずつ重くなっている。まるで、そこに半年分の沈黙が詰まっていくようだった。
「私は」
彼はかすれた声で言った。
「私は、知らなかった」
エレオノーラは彼に目を向けた。
「はい」
「知っていたら、こんな」
「殿下」
彼女は穏やかに言った。
「知らなかったことと、見なかったことは、同じではございません」
レオンハルトの喉が詰まった。
「わたくしは、半年前から変わりました」
エレオノーラは、自分の胸元に手を当てた。
そこに鼓動はない。
「食事をしなくなりました。息をしなくなりました。近づく者を凍えさせました。けれど、殿下はそれを、わたくしの性格のせいにしました」
「エレオノーラ」
「わたくしが冷たい女である方が、都合がよかったのでしょう」
レオンハルトは何も言えなかった。その通りだったからだ。
彼はエレオノーラを怖がっていた。正しい婚約者としての彼女が、息苦しかった。だからミリアの柔らかさへ逃げた。
エレオノーラの沈黙を高慢と呼び、違和感を悪意と呼び、不気味さを嫉妬と呼んだ。そうすれば、自分は被害者でいられた。聖女を守る正義の王太子でいられた。
だが、今夜彼が断罪した相手は、悪女ではなかった。
半年前から死んでいた婚約者だった。
「それでも」
エレオノーラは、ゆっくりと膝を折った。
周囲が息を呑む。彼女は王太子に向かって、最後の礼をした。卒業夜会にふさわしい、完璧な礼だった。
「殿下。婚約破棄、承りました」
その言葉と同時に、広間の扉が開いた。
青白かった灯りが、少しずつ元の色へ戻っていく。枯れた花は戻らない。凍った窓も割れたままだ。
だが、空気だけが動き始めた。
エレオノーラの黒い夜会服の裾が、風もないのに静かに揺れる。彼女の体を縛っていた何かが、ほどけていく。
ミリアが駆け寄った。
今度は止まらなかった。
冷たさに震えながらも、エレオノーラの体を支えた。その体は、驚くほど軽かった。人一人の重さがない。半年もの間、役割だけで立っていたものの重さだった。
「ごめんなさい」
ミリアは泣いた。
「気づいていたのに、言えませんでした」
エレオノーラは、ほんの少しだけ首を傾けた。
「あなたが泣いた理由が、ようやく分かりました」
「ごめんなさい」
「怖かったでしょう」
「あなたの方が」
「わたくしは、怖がることも忘れておりました」
ミリアの涙が、エレオノーラの頬に落ちた。
その雫だけが、すぐには凍らなかった。
エレオノーラは、遠くを見るように目を細めた。
「温かいのですね」
それが、彼女の最後の言葉だった。
次の瞬間、彼女の体から力が抜けた。
崩れはしなかった。
灰にもならなかった。
叫び声を上げることもなかった。
ただ、糸の切れた人形のように、ミリアの腕の中で静かに動かなくなった。
今度こそ、完全に。
公爵夫人が泣き叫んだ。
公爵は立ち尽くした。
王太子は、手の中の指輪を握り締めたまま、一歩も動けなかった。
誰も彼を責めなかった。それが、かえって恐ろしかった。
責められれば、まだ裁きの中にいられる。だが誰も何も言わない。
広間に残ったのは、枯れた花と、割れた硝子と、悪役令嬢と呼ばれた死者の沈黙だけだった。
翌朝、ヴェルディス公爵家の北棟地下が開かれた。
王宮騎士と神殿の聖職者、そして王妃の命を受けた監察官が立ち会った。
霊廟の奥には、古い石棺があった。蓋には、内側から何度も爪を立てたような跡が残っていた。
その跡は古いものではなかった。半年前から少しずつ増えていたのだと、屋敷の古参の使用人が泣きながら証言した。
夜になると、地下からかすかな音がした。
石を引っ掻くような音。
爪が割れるような音。
けれど誰も扉を開けなかった。
奥様が、聞こえないと言ったから。
旦那様が、ただの鼠だと言ったから。
屋敷の誰もが、それ以上を確かめなかった。
棺の中に、半年前の少女の遺体はなかった。
そこに横たわっていたのは、卒業夜会の黒いドレスを着た十八歳のエレオノーラだった。
顔は穏やかだった。ようやく眠れた者の顔だった。
ただ、左手の薬指だけが、ひどく白かった。婚約指輪の跡が、くっきりと残っていた。
神殿の聖職者は、霊廟の石棺を調べたあと、公爵へ告げた。
「この棺は、一晩だけ死者を呼び戻すためのものです」
公爵は何も言わなかった。
「一晩だけならば、死者の言葉を聞くこともできましょう。別れを告げることもできましょう。ですが、それ以上はなりません」
聖職者の声は、怒りではなく疲労に近かった。
「それを半年も開けたままにした以上、代価はすでに支払われています」
公爵夫人が顔を上げた。
「代価?」
聖職者は答えなかった。ただ、北棟の小さな窓から見える庭を指差した。
春だというのに、ヴェルディス家の庭木には一つも新芽がなかった。温室の花はすべて蕾のまま黒ずみ、果樹園の若木は根元から乾いていた。
厩舎では昨夜、身ごもっていた牝馬が腹の中の仔を失っていた。
代々続く公爵家の屋敷で、その朝、卵を産む鳥は一羽もいなかった。乳を出す家畜もいなかった。
井戸の水は澄んでいたが、汲み上げると葬儀の花の匂いがした。
公爵夫人の顔が崩れた。
「そんな」
聖職者は静かに言った。
「死者を家の娘として半年歩かせたのでしょう」
誰も答えない。
「ならば、その家は半年の間、死者を中心に回っていたことになります」
公爵が、唇を震わせた。
「何を失った」
聖職者は、今度ははっきりと答えた。
「次代です」
公爵夫人が床に崩れ落ちた。
ヴェルディス家は、娘を死なせなかったのではない。
死んだ娘に、家の未来まで食わせていたのだ。
王太子レオンハルトは、その日の午後、自室で指輪を返すための箱を開けた。
だが、箱の中に指輪はなかった。代わりに、白薔薇の花弁が一枚入っていた。
半年前から黒く枯れるはずだった花弁。それは、不思議なほど瑞々しかった。
花弁の下には、細い筆跡で一文だけ書かれていた。
婚約破棄は承りました。
その下に、もう一行。
では、殿下はいつ、ご自分の役目を終えられますか。
レオンハルトは箱を落とした。
白薔薇の花弁が床に滑る。燭台の火が、細く青くなった。
そして彼は気づいた。
自分の薬指に、指輪を嵌めていたような白い跡が浮かんでいることに。
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今回は、悪役令嬢ものの定番である「断罪夜会」を、ホラー側から組み直してみました。
悪役令嬢だから冷たいのではなく、もう冷たくなっていた。 悪役令嬢だから人を遠ざけたのではなく、近づくと生者を傷つけてしまった。 悪役令嬢だから罪を重ねたのではなく、周囲が分かりやすい罪の形に押し込めていた。
そういう話です。
作中で一番怖いのは、死んだ令嬢そのものではなく、彼女を「娘」「婚約者」「公爵令嬢」「未来の王太子妃」という役割のまま使い続けた生者側だと思っています。
ミリアも完全な善人ではなく、気づいていながら黙っていた側です。 怖かったし、保身もあった。 けれど最後にそれを認めた分だけ、彼女はまだ生者として踏みとどまれたのかもしれません。
「悪役令嬢になったのは、ずっと前に死んでいたから」
このタイトル通り、彼女は悪になったのではなく、死んだあとも悪役を演じさせられていたのだと思います。




