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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと前に死んでいたから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/27

 卒業夜会の大広間には、花の匂いが満ちていた。


 春を祝うために集められた白薔薇と、薄桃色の芍薬。


 王宮庭園から切り出されたばかりの枝は硝子の花器に挿され、壁際には金の燭台がいくつも並んでいる。


 楽団の弦が柔らかく響き、貴族の子女たちは笑い声を抑えながら輪を作っていた。


 その夜が、学園で過ごす最後の夜だったから。


 誰もが少しだけ浮かれていた。


 ただ一人を除いて。


 エレオノーラ・ヴェルディス公爵令嬢は、大広間の中央に立っていた。


 白銀の髪を結い上げ、首元まで詰まった黒い夜会服をまとっている。


 卒業夜会に黒を選ぶ令嬢など、普通はいない。


 けれど彼女ならばあり得ると、誰もが思った。


 王太子レオンハルト殿下の婚約者。


 冷たく、高慢で、誰にも心を許さず、最近では聖女候補ミリアに嫉妬していると噂される悪役令嬢。


 白い花々に囲まれて立つ彼女は、葬儀の中心に置かれた棺のように見えた。


 その足元だけ、なぜか燭台の光が薄い。


 床に落ちるはずの影が、少し遅れて彼女の形をなぞっている。


 誰もそれに気づかない。


 誰も、気づこうとしない。


 悪役令嬢とは、そういうものだった。


 冷たければ冷酷。


 黙っていれば傲慢。


 笑わなければ嫉妬。


 笑えば嘲笑。


 説明を求められる前に、周囲は彼女の理由を決めていた。


 だから今夜も、彼女が黒いドレスで立っているだけで、人々は勝手に物語を作った。


 最後まで意地を張るつもりなのだ。


 卒業夜会まで聖女候補に嫌がらせをする気なのだ。


 王太子に捨てられると分かって、喪服のつもりで黒を選んだのだ。


 そう囁く者もいた。


 エレオノーラは、そのすべてを聞いていた。


 聞こえていたのかもしれない。


 けれど、何も言わなかった。


 王太子レオンハルトは、彼女の前に立った。


 金髪に青い瞳。


 王家の正統を思わせる端正な顔立ち。


 学園では優しく、朗らかで、誰に対しても分け隔てない王子として知られていた。


 その隣には、淡い水色のドレスを着たミリアがいる。


 聖女候補として神殿から学園に通う少女。


 薄い金髪と柔らかな頬を持ち、誰からも守られるべき存在のように見える娘だった。


 だが今夜のミリアは、ひどく青ざめていた。


 レオンハルトが一歩前へ出る。


「エレオノーラ・ヴェルディス」


 その声は、広間の端まで届いた。


 楽団の音が止む。


 笑い声も止まる。


 エレオノーラは顔を上げた。


 美しい顔だった。


 陶器のような肌。


 薄く色を差された唇。


 だが、その唇には血の気がなかった。


「はい、殿下」


 声は静かだった。


 感情も震えもない。


 まるで、決められた時間に鳴る時計の音のようだった。


 レオンハルトは、その冷静さにかえって苛立ったようだった。


「私は今夜、この場で君との婚約を破棄する」


 ざわめきが広がった。


 望んでいた者もいた。


 驚いたふりをした者もいた。


 胸の内で安堵した者もいた。


 これでようやく、物語があるべき場所へ進むのだと思った者もいた。


 冷たい悪役令嬢は裁かれ、優しい聖女候補が救われる。


 その分かりやすい筋書きに、誰もが乗りたがっていた。


 けれどエレオノーラは、少しも動かなかった。


 瞬きすらしない。


 その沈黙が、周囲には傲慢に見えた。


 王太子に婚約を破棄されても膝を折らない。


 涙も見せない。


 謝罪もしない。


 さすが悪役令嬢だと、誰かが息を呑むように囁いた。


 ミリアだけが、小さく首を振った。


「殿下、やはり今夜は」


「ミリア」


 レオンハルトは優しく遮った。


「君は優しすぎる」


「そうではありません」


「君が許しても、私は許さない」


 その言葉に、側近たちが頷いた。


 侯爵子息グレインが一歩進み出る。


「エレオノーラ嬢、あなたはミリア嬢に対し、幾度も陰湿な嫌がらせを行った」


 伯爵令息オスカーが続けた。


「まず、神殿から届いた祝福花を黒く枯らした件」


 広間の隅で、誰かが「あれか」と呟いた。


 学園中で噂になった出来事だった。


 ミリアの聖女認定を祝って飾られた白百合が、翌朝にはすべて黒く萎れていた。


 花弁は炭のように縮み、茎からは腐った水の匂いがしたという。


 その前日、エレオノーラが花の前に立っていたのを見た者がいた。


 だから彼女の仕業だと、誰もが思った。


「あなたはミリア嬢の祝福を妬み、花に呪いをかけた」


 エレオノーラは静かに答えた。


「わたくしは、花に触れておりません」


「言い逃れをする気か」


「触れておりません」


 同じ声だった。


 同じ温度だった。


 否定しているのに、そこに必死さがない。


 そのせいで、ますます嘘に聞こえた。


 ミリアが震える手を胸元に当てた。


「あの花は、エレオノーラ様が近くにいらしただけです」


「ミリア、庇わなくていい」


「庇っているのではなく」


「君はあの日、泣いていたではないか」


 ミリアは言葉を失った。


 泣いていたのは本当だった。


 花が枯れたからではない。


 花の前に立っていたエレオノーラの周囲だけ、空気が白く曇っていたからだ。


 春の朝だった。


 暖炉もいらないほど暖かな日だった。


 それなのに、エレオノーラの周囲だけが冬のように冷えていた。


 しかも、彼女の口元からは息が出ていなかった。


 ミリアはそれを見て、泣いた。


 怖かったからではない。


 いや、怖くなかったと言えば嘘になる。


 ひどく怖かった。


 あの方は何なのだろう、と足が震えた。


 自分には見えてはいけないものが見えているのではないかと、目を閉じたくなった。


 けれど、それ以上に悲しかった。


 エレオノーラは、花を枯らそうとしてそこに立っていたのではない。


 誰かを傷つけようとしていたのでもない。


 ただ立っていただけだった。


 ただ立っているだけで、花が死んだ。


 それがあまりにも悲しかった。


 ミリアは何度も言おうとした。


 エレオノーラ様はおかしい、と。


 あの方は、もう生きている方の冷たさではない、と。


 けれど、言えなかった。


 聖女候補とはいえ、まだ正式な聖女ではない。


 確証もなく公爵令嬢を死者だなどと言えば、正気を疑われる。


 王太子殿下の婚約者を怪異扱いした娘として、神殿へ戻されるかもしれない。


 それだけではなかった。


 エレオノーラが怖かった。


 彼女のそばに立つと、体温だけではなく、自分の奥に隠していたものまで冷えていく気がした。


 そして何より、ミリアは知っていた。


 エレオノーラが悪役令嬢でいてくれる限り、自分は守られる側でいられる。


 かわいそうな聖女候補でいられる。


 殿下に庇われる理由ができる。


 その卑しさに気づいた時、ミリアは初めて、エレオノーラではなく自分の方が恐ろしくなった。


 だから言えなかった。


 だから泣いた。


 優しかったからではない。


 弱かったからだ。


 グレインはさらに続けた。


「次に、東階段でミリア嬢を突き落とそうとした件」


 広間の空気がまた揺れた。


 これは花よりも重い罪状だった。


 ミリアが階段から落ちかけ、手すりに掴まって助かった事件。


 すぐ上にはエレオノーラが立っていた。


 だから、彼女が押したのだと噂になった。


「あなたはミリア嬢の背後に立ち、彼女を階段から落とそうとした」


「違います」


「ではなぜ、あの場にいた」


「殿下に呼ばれていたからです」


 レオンハルトが眉を動かした。


 半年前のことだった。


 確かに彼は、エレオノーラを東階段の先にある回廊へ呼び出していた。


 ミリアとの距離について、婚約者としての振る舞いについて、話すつもりだった。


 だが結局、彼は行かなかった。


 ミリアが泣いていたから。


 だから彼はミリアを優先し、エレオノーラへの使いを出すことも忘れた。


 彼女は一人で待っていたはずだった。


 どれほど待ったのか、レオンハルトは知らない。


 知ろうともしなかった。


「それと、ミリアを突き落とそうとしたことに何の関係がある」


「わたくしは、彼女に触れておりません」


「またそれか」


「触れておりません」


 エレオノーラの言葉は揺れない。


 その揺れなさが、今夜は不気味だった。


 ミリアは思い出していた。


 階段でエレオノーラを見た時、彼女は手すりの近くに立っていた。


 俯き、何かを待っていた。


 ミリアが声をかけようと近づいた瞬間、足元から冷気が這い上がってきた。


 真冬の墓石に触れたような冷たさだった。


 膝から力が抜け、視界が白くなり、体が傾いた。


 エレオノーラは手を伸ばした。


 だが、その手に触れたらもっと冷たくなると、ミリアは本能で悟った。


 だから手すりを掴んだ。


 そして泣いた。


 エレオノーラは何も言わなかった。


 ただ、階段の上に立ったまま、ミリアを見下ろしていた。


 その姿だけ見れば、突き落とそうとした悪女に見えた。


 だが違う。


 違うのだ。


 ミリアは、あの日も言えなかった。


 言えば、自分が見たものを認めなければならない。


 自分が見ていながら沈黙したことも認めなければならない。


 だから、泣いた。


 泣いて、守られた。


 守られながら、エレオノーラを悪役令嬢のままにした。


「殿下、お願いです」


 ミリアは震える声で言った。


「この件は、もう一度きちんと」


「きちんと調べた」


 レオンハルトの声は固かった。


「目撃者もいる。君が階段で倒れかけたことも事実だ。彼女がその場にいたことも事実だ」


「事実の並べ方が違います」


「ミリア」


「違うのです」


 広間が静まり返る。


 聖女候補が王太子に逆らうことは珍しかった。


 レオンハルトは、少し傷ついたような顔をした。


「君は、そこまで彼女を庇うのか」


「庇っているのではありません」


 ミリアはエレオノーラを見た。


 その目には恐怖があった。


 同時に、深い後悔があった。


「この方は、わたくしたちが思っているような意味では、人を傷つけていません」


 その言葉に、エレオノーラの睫毛がわずかに動いた。


 初めて、彼女が反応したように見えた。


 だがすぐに、もとの静けさに戻る。


 オスカーが鼻で笑った。


「聖女候補としてのお優しさは尊いが、罪は罪です」


 彼は手元の紙を広げた。


「夜会でリリアーナ男爵令嬢を倒れさせた件もあります。あなたに腕を取られた直後、彼女は意識を失った」


 それは、一月前の小夜会でのことだった。


 男爵令嬢リリアーナは、噂を確かめるため、エレオノーラにわざと親しげに近づいた。


 冷たい令嬢がどんな反応をするか、友人たちと賭けていたという話もある。


 リリアーナは笑いながらエレオノーラの腕に触れた。


 次の瞬間、彼女は悲鳴を上げて倒れた。


 唇は紫になり、指先は氷のように冷たく、医師が来るまで震え続けた。


 呪いだと噂された。


 エレオノーラが身分の低い令嬢を罰したのだと。


 エレオノーラは答えた。


「彼女が、わたくしに触れました」


「触れたから倒れたと?」


「はい」


「それを呪いと言うのだ」


「分かりません」


「分からない?」


「はい」


 その言い方に、広間のざわめきが大きくなった。


 令嬢を倒れさせておいて、分からない。


 なんと冷酷な。


 なんと無責任な。


 そんな空気が一斉に膨らむ。


 だがミリアは、唇を噛み締めていた。


 分からないのは当然だった。


 エレオノーラは、人を傷つけようとしていない。


 ただ、そこに在るだけで、生者の体温を奪ってしまう。


 花を枯らす。


 火を細らせる。


 近づいた者を凍えさせる。


 それは悪意ではない。


 死者の性質だ。


 ミリアは半年前から、それに気づいていた。


 正確には、気づきかけていた。


 エレオノーラが以前と違う。


 笑わなくなったのではない。


 怒らなくなったのでもない。


 息をしなくなった。


 食事をしなくなった。


 声に、人間の湿り気がなくなった。


 机の上に置かれた茶は冷めるのではなく、凍るように温度を失った。


 彼女が廊下を歩くと、春先でも窓硝子の内側に薄い霜がついた。


 けれど誰も言わなかった。


 冷たい令嬢だから。


 悪役令嬢だから。


 婚約者を奪われた嫉妬で、性根まで凍ったのだろう。


 そう言えば、誰もそれ以上考えなくて済んだから。


 レオンハルトは、最後の罪状を口にした。


「そして、君は私にも執着した」


 エレオノーラは彼を見た。


 黒い瞳は、硝子玉のように澄んでいた。


「婚約者でございますから」


「婚約者だからといって、私の行動を制限する権利はない」


「王太子妃教育において、殿下の行動予定を把握することは義務でした」


「ミリアと話すことまで咎めた」


「咎めておりません」


「ならばなぜ、いつも私の前に現れた」


 エレオノーラは、そこで初めて少し黙った。


 それは考えている沈黙ではなかった。


 答えが、どこか遠い場所から届くのを待っているような沈黙だった。


「分かりません」


 彼女はそう言った。


「また分からないか」


「はい」


「自分のしたことも分からないのか」


「はい」


 レオンハルトの顔が赤くなった。


「ふざけるな!」


 彼の怒声に、燭台の火が大きく揺れた。


 ただし、エレオノーラの近くの火だけは揺れなかった。


 青白く細いまま、針のように立っている。


「君はいつもそうだ。正しい顔をして、冷たい目で私を見る。間違っているのはこちらだと言いたげに、何も言わずに立っている。私は、そんな君にずっと息が詰まっていた」


 エレオノーラは、黙っていた。


「ミリアといると、私はようやく息ができた。君には分からないだろう。君には人の心がないからな」


 その言葉に、ミリアがはっきりと顔を上げた。


「殿下」


「事実だ」


「違います」


「何が違う」


 ミリアは、震えながらも言った。


「心がないのではありません」


 広間の空気が、冷えた。


「その方は、もう心を動かせないだけです」


 誰かが息を呑んだ。


 レオンハルトが眉を寄せる。


「どういう意味だ」


「殿下、今すぐ断罪をおやめください」


「ここまで来て何を」


「婚約指輪に触れてはいけません」


 その言葉が遅かった。


 レオンハルトは、すでにエレオノーラの左手を掴んでいた。


 掴んだ瞬間、彼の顔から血の気が引いた。


 冷たかった。


 冷たいという程度ではない。


 墓の下から掘り出した石に触れたようだった。


 人の手ではなかった。


 だが彼は、群衆の前で怯むことができなかった。


 王太子として。


 聖女を守る者として。


 悪を裁く者として。


 彼はエレオノーラの薬指から、王家の婚約指輪を抜き取った。


 その瞬間、大広間のすべての灯りが青くなった。


 楽団の弦が、誰も触れていないのに一斉に鳴った。


 花器の白薔薇が、音もなく萎れていく。


 薄桃色の芍薬は黒ずみ、花弁が床に落ちる前に灰のように崩れた。


 広間の扉が内側から閉まる。


 窓硝子に霜が走る。


 誰かが悲鳴を上げた。


 エレオノーラは、自分の左手を見ていた。


 指輪のなくなった薬指。


 そこだけが、不自然なほど白かった。


 彼女はゆっくり瞬きをした。


 それは今夜初めて見る、生き物のような動きだった。


「……そうでしたわ」


 声が変わっていた。


 先ほどまでの時計の音のような声ではない。


 遠い眠りから覚めた者の、かすれた声だった。


「わたくし、半年前に死んでおりましたのね」


 広間のざわめきが消えた。


 誰も笑わない。


 誰も否定しない。


 ただ、その言葉だけが冷たい床を滑って、全員の足首に絡みついた。


 レオンハルトは指輪を握ったまま固まっていた。


「何を、言っている」


 エレオノーラは彼を見た。


 その瞳には、ほんのわずかに焦点が戻っていた。


「殿下に呼ばれた日です」


 レオンハルトの喉が動いた。


「東階段の」


「はい」


 エレオノーラは、静かに頷いた。


「あの日、わたくしは、ずっとお待ちしておりました」


 春の始まり。


 まだ風の冷たい午後。


 東階段の先にある回廊。


 レオンハルトに呼ばれたエレオノーラは、そこで待っていた。


 婚約者としての話があるのだと思っていた。


 聖女候補ミリアとの距離について、王太子としての振る舞いについて、これからの公務について。


 彼女は小言を言うつもりではなかった。


 ただ、確認したかった。


 自分は婚約者として、まだ必要なのか。


 それとも、すでに役目を失っているのか。


 だがレオンハルトは来なかった。


 使者も来なかった。


 代わりに来たのは、公爵家の馬車だった。


 父からの急な呼び出し。


 母が倒れたと聞かされ、エレオノーラは屋敷へ戻った。


 母は倒れていなかった。


 父も母も、客間で待っていた。


 机の上には、王宮からの非公式な問い合わせの書簡が置かれていた。


 王太子がミリアに心を寄せているらしい。


 婚約関係に不穏があるらしい。


 ヴェルディス公爵家として、娘の管理はどうなっているのか。


 そういう内容だった。


 母は泣いた。


 父は怒った。


 エレオノーラは責められた。


 なぜ王太子の心を繋ぎ止められないのか。


 なぜ聖女候補に付け入る隙を与えたのか。


 なぜもっと柔らかく笑わないのか。


 なぜもっと愛される娘になれないのか。


 なぜ、王太子妃になるために生まれたのに、その程度のこともできないのか。


 エレオノーラは答えようとした。


 自分は王太子妃になるために生まれたのではない、と。


 しかし言えなかった。


 父の顔を見た。


 母の涙を見た。


 自分の部屋に戻る途中、古い北棟の階段で足が止まった。


 そこは、子どもの頃に遊んではいけないと言われた場所だった。


 地下へ続く扉がある。


 ヴェルディス家の古い霊廟へ続く扉。


 エレオノーラは、なぜそこへ行ったのか覚えていない。


 ただ、胸が苦しかった。


 息がしづらかった。


 王太子の前にいる時よりも、父母の前にいる時よりも、ずっと息ができなかった。


 誰かが自分を呼んだ気がした。


 扉の向こうから。


 地下から。


 冷たい場所から。


 彼女は階段を降りた。


 灯りはなかった。


 だが、霊廟の奥に置かれた石棺だけが、月明かりのように白く見えた。


 ヴェルディス家に伝わる古い棺。


 死者を一晩だけ戻すという、葬送魔術の器。


 代々、当主の最期の言葉を聞くためだけに使われてきた禁忌の遺物。


 その蓋が、少し開いていた。


 エレオノーラは近づいた。


 そして、足を滑らせた。


 それだけだった。


 叫ぶ暇もなかった。


 石段に側頭部を打ちつけ、首が不自然な角度で折れた。


 彼女はそこで死んだ。


 半年前に。


 それが、すべての始まりだった。


 だが、公爵家は葬儀を出さなかった。


 死を公表しなかった。


 王太子との婚約が揺らいでいる時に、令嬢が霊廟で死んだなどと言えるはずがなかった。


 悪評が立ち始めた時期に死なれては、家名に傷がつく。


 婚約破棄される前に死なれては、王家に責任を問えない。


 何より母が、娘の死を認めなかった。


 だから、棺が使われた。


 死者を一晩だけ戻すための魔術を、半年も引き延ばした。


 王家の婚約指輪を楔にして。


 公爵令嬢という身分を鎖にして。


 王太子の婚約者という役割を棺の蓋にして。


 エレオノーラは戻された。


 正確には、戻されたように見せかけられた。


 生きている娘ではない。


 生前の記憶と礼法と習慣を、冷たい体に縫いつけたもの。


 朝になれば学園へ行く。


 授業を受ける。


 王太子を見かければ礼をする。


 聖女候補に会えば挨拶をする。


 食事は口元へ運ぶが、飲み込まない。


 眠るふりはするが、眠らない。


 笑うべき時には、昔覚えた通りに口角を上げる。


 怒るべき時には、何も言わない。


 誰も気づかなかった。


 気づかない方が楽だったから。


 エレオノーラは冷たい令嬢だった。


 だから、冷たくてもおかしくない。


 エレオノーラは完璧な婚約者だった。


 だから、感情がなくてもおかしくない。


 エレオノーラは悪役令嬢だった。


 だから、花が枯れても、人が倒れても、聖女候補が泣いても、すべて彼女の悪意にすればよかった。


 大広間の扉が、重い音を立てて開いた。


 そこに立っていたのは、ヴェルディス公爵と公爵夫人だった。


 二人とも夜会に招かれていたが、これまで広間の奥に控えていた。


 公爵夫人は真っ白な顔で、夫の腕にすがっている。


 公爵は、王太子の手にある指輪を見て、唇を震わせた。


「殿下、なぜ指輪を」


 レオンハルトは、ようやく声を絞り出した。


「どういうことだ」


 公爵は答えなかった。


 その沈黙が、何よりの答えだった。


 王太子の側近たちが、一歩ずつ後ずさる。


 先ほどまで正義を語っていた顔から、血の気が失せていく。


 ミリアはエレオノーラへ駆け寄ろうとしたが、途中で足を止めた。


 近づけば、彼女の体温を奪ってしまう。


 それを、エレオノーラ自身も分かっているようだった。


 彼女はかすかに首を振った。


「来てはいけません」


 ミリアの瞳に涙が浮かんだ。


「エレオノーラ様」


「あなたは、優しい方でしたのね」


「違います」


 ミリアは泣きながら言った。


「わたくしは、優しかったのではありません」


 エレオノーラは静かに彼女を見た。


「怖かったのです」


「何が」


「あなたが」


 その告白に、広間の誰かが息を詰めた。


 ミリアはそれでも続けた。


「あなたのそばに立つのが怖かった。あなたを見るたびに、何か言わなければと思いました。でも、言えば自分も巻き込まれると思いました。聖女候補でいられなくなるかもしれないと思いました。殿下に守っていただけなくなるかもしれないと思いました」


 涙が頬を伝う。


「それに、あなたが悪役令嬢でいてくだされば、わたくしは被害者でいられたのです」


 エレオノーラは、何も言わなかった。


「最低でしょう」


 ミリアは笑おうとして、失敗した。


「わたくしは、あなたの死の気配に気づきながら、自分が安全な場所にいるために黙っていました」


「そうでしたか」


「責めてください」


「なぜ」


「わたくしはあなたを助けなかった」


「あなたは、わたくしを殺してはおりません」


「でも、見ていました」


 ミリアは震える声で言った。


「見ていただけでした」


 エレオノーラは、ほんの少し目を伏せた。


「見ていた人は、たくさんおりましたわ」


 その言葉は、ミリアだけに向けられたものではなかった。


 大広間にいた者たちが、一斉に目を逸らした。


 見ていた。


 誰もが、何かを見ていた。


 食事に手をつけない令嬢を。


 冬でもないのに冷たい手を。


 触れた花が枯れる様を。


 誰かが倒れる様を。


 王太子の隣で、ますます白くなっていく顔を。


 だが、それを悪意と呼んだ。


 性格と呼んだ。


 噂と呼んだ。


 そうすれば、自分の責任ではなくなるから。


 公爵夫人が悲鳴のような声を上げた。


「黙りなさい!」


 ミリアがびくりと肩を震わせる。


 公爵夫人は、乱れた足取りでエレオノーラへ近づいた。


「エレオノーラ、あなたは死んでなんかいないわ」


 彼女は涙を流していた。


 深い母の愛のようにも見えた。


 だが、その目はエレオノーラを見ていなかった。


 自分が失いたくなかった娘の形だけを見ていた。


「あなたはここにいるじゃない。ちゃんと立っているじゃない。話しているじゃない。卒業夜会にも出られた。王太子妃になれるはずだった。まだ間に合うわ。指輪を戻していただけば」


「母上」


 エレオノーラの声が、静かに遮った。


 公爵夫人は涙を浮かべたまま笑った。


「大丈夫よ。お母様が何とかしてあげるわ。あなたは昔から少し不器用だったものね。でも大丈夫。王太子妃教育も終えている。礼法も完璧。あなたなら」


「母上」


「何?」


「わたくしは、死んでおります」


 公爵夫人の表情が止まった。


「そのようなことを言わないで」


「半年前に」


「やめて」


「北棟の地下で」


「やめなさい!」


 公爵夫人の叫びで、窓硝子に入っていた霜が一斉に割れた。


 鋭い音が広間に降る。


 誰も動けない。


 エレオノーラだけが、静かだった。


「なぜ、葬ってくださらなかったのですか」


 公爵夫人は口を開けたが、声が出なかった。


 代わりに公爵が低く言った。


「家のためだった」


 広間の全員が、彼を見た。


 公爵は背筋を伸ばしていた。


 半年前に娘の死を隠し、禁忌を使った男の顔ではなく、公爵家当主の顔だった。


「お前も分かるだろう。あの時期にお前の死を公表すれば、ヴェルディス家は終わっていた。王家との婚約は揺らぎ、聖女候補への嫌がらせの噂は広がり、すべての責任がお前と家に押しつけられた」


 エレオノーラは父を見た。


「だから、死んだ娘を歩かせたのですか」


「一時的な措置のはずだった」


「半年です」


「仕方なかった」


「半年です、父上」


 公爵の眉がぴくりと動いた。


 エレオノーラの声には、怒りがあった。


 冷たい怒りだった。


 死者の怒りではない。


 生きていた頃に言えなかった娘の怒りだった。


「わたくしは、半年もの間、死んだまま学園へ通っておりました。花を枯らし、人を凍えさせ、誰かに触れることもできず、悪意があると責められ、それでも毎朝支度をされ、馬車に乗せられ、婚約者として礼をし続けました」


 公爵は視線を逸らした。


「家のためだった」


「死んだ娘にまで、まだ役目を与えますの?」


 その問いに、公爵は答えられなかった。


 広間の誰も答えられなかった。


 レオンハルトは、手の中の指輪を見下ろしていた。


 金細工の輪は、冷たいはずなのに、なぜか少しずつ重くなっている。


 まるで、そこに半年分の沈黙が詰まっていくようだった。


「私は」


 彼はかすれた声で言った。


「私は、知らなかった」


 エレオノーラは彼に目を向けた。


「はい」


「知っていたら、こんな」


「殿下」


 彼女は穏やかに言った。


「知らなかったことと、見なかったことは、同じではございません」


 レオンハルトの喉が詰まった。


「わたくしは、半年前から変わりました」


 エレオノーラは、自分の胸元に手を当てた。


 そこに鼓動はない。


「食事をしなくなりました。息をしなくなりました。近づく者を凍えさせました。けれど、殿下はそれを、わたくしの性格のせいにしました」


「エレオノーラ」


「わたくしが冷たい女である方が、都合がよかったのでしょう」


 レオンハルトは何も言えなかった。


 その通りだったからだ。


 彼はエレオノーラを怖がっていた。


 正しい婚約者としての彼女が、息苦しかった。


 だからミリアの柔らかさへ逃げた。


 エレオノーラの沈黙を高慢と呼び、違和感を悪意と呼び、不気味さを嫉妬と呼んだ。


 そうすれば、自分は被害者でいられた。


 聖女を守る正義の王太子でいられた。


 だが、今夜彼が断罪した相手は、悪女ではなかった。


 半年前から死んでいた婚約者だった。


「それでも」


 エレオノーラは、ゆっくりと膝を折った。


 周囲が息を呑む。


 彼女は王太子に向かって、最後の礼をした。


 卒業夜会にふさわしい、完璧な礼だった。


「殿下。婚約破棄、承りました」


 その言葉と同時に、広間の扉が開いた。


 青白かった灯りが、少しずつ元の色へ戻っていく。


 枯れた花は戻らない。


 凍った窓も割れたままだ。


 だが、空気だけが動き始めた。


 エレオノーラの黒い夜会服の裾が、風もないのに静かに揺れる。


 彼女の体を縛っていた何かが、ほどけていく。


 ミリアが駆け寄った。


 今度は止まらなかった。


 冷たさに震えながらも、エレオノーラの体を支えた。


 その体は、驚くほど軽かった。


 人一人の重さがない。


 半年もの間、役割だけで立っていたものの重さだった。


「ごめんなさい」


 ミリアは泣いた。


「気づいていたのに、言えませんでした」


 エレオノーラは、ほんの少しだけ首を傾けた。


「あなたが泣いた理由が、ようやく分かりました」


「ごめんなさい」


「怖かったでしょう」


「あなたの方が」


「わたくしは、怖がることも忘れておりました」


 ミリアの涙が、エレオノーラの頬に落ちた。


 その雫だけが、すぐには凍らなかった。


 エレオノーラは、遠くを見るように目を細めた。


「温かいのですね」


 それが、彼女の最後の言葉だった。


 次の瞬間、彼女の体から力が抜けた。


 崩れはしなかった。


 灰にもならなかった。


 叫び声を上げることもなかった。


 ただ、糸の切れた人形のように、ミリアの腕の中で静かに動かなくなった。


 今度こそ、完全に。


 公爵夫人が泣き叫んだ。


 公爵は立ち尽くした。


 王太子は、手の中の指輪を握り締めたまま、一歩も動けなかった。


 誰も彼を責めなかった。


 それが、かえって恐ろしかった。


 責められれば、まだ裁きの中にいられる。


 だが誰も何も言わない。


 広間に残ったのは、枯れた花と、割れた硝子と、悪役令嬢と呼ばれた死者の沈黙だけだった。


 翌朝、ヴェルディス公爵家の北棟地下が開かれた。


 王宮騎士と神殿の聖職者、そして王妃の命を受けた監察官が立ち会った。


 霊廟の奥には、古い石棺があった。


 蓋には、内側から何度も爪を立てたような跡が残っていた。


 その跡は古いものではなかった。


 半年前から少しずつ増えていたのだと、屋敷の古参の使用人が泣きながら証言した。


 夜になると、地下からかすかな音がした。


 石を引っ掻くような音。


 爪が割れるような音。


 けれど誰も扉を開けなかった。


 奥様が、聞こえないと言ったから。


 旦那様が、ただの鼠だと言ったから。


 屋敷の誰もが、それ以上を確かめなかった。


 棺の中に、半年前の少女の遺体はなかった。


 そこに横たわっていたのは、卒業夜会の黒いドレスを着た十八歳のエレオノーラだった。


 顔は穏やかだった。


 ようやく眠れた者の顔だった。


 ただ、左手の薬指だけが、ひどく白かった。


 婚約指輪の跡が、くっきりと残っていた。


 神殿の聖職者は、霊廟の石棺を調べたあと、公爵へ告げた。


「この棺は、一晩だけ死者を呼び戻すためのものです」


 公爵は何も言わなかった。


「一晩だけならば、死者の言葉を聞くこともできましょう。別れを告げることもできましょう。ですが、それ以上はなりません」


 聖職者の声は、怒りではなく疲労に近かった。


「それを半年も開けたままにした以上、代価はすでに支払われています」


 公爵夫人が顔を上げた。


「代価?」


 聖職者は答えなかった。


 ただ、北棟の小さな窓から見える庭を指差した。


 春だというのに、ヴェルディス家の庭木には一つも新芽がなかった。


 温室の花はすべて蕾のまま黒ずみ、果樹園の若木は根元から乾いていた。


 厩舎では昨夜、身ごもっていた牝馬が腹の中の仔を失っていた。


 代々続く公爵家の屋敷で、その朝、卵を産む鳥は一羽もいなかった。


 乳を出す家畜もいなかった。


 井戸の水は澄んでいたが、汲み上げると葬儀の花の匂いがした。


 公爵夫人の顔が崩れた。


「そんな」


 聖職者は静かに言った。


「死者を家の娘として半年歩かせたのでしょう」


 誰も答えない。


「ならば、その家は半年の間、死者を中心に回っていたことになります」


 公爵が、唇を震わせた。


「何を失った」


 聖職者は、今度ははっきりと答えた。


「次代です」


 公爵夫人が床に崩れ落ちた。


 ヴェルディス家は、娘を死なせなかったのではない。


 死んだ娘に、家の未来まで食わせていたのだ。


 王太子レオンハルトは、その日の午後、自室で指輪を返すための箱を開けた。


 だが、箱の中に指輪はなかった。


 代わりに、白薔薇の花弁が一枚入っていた。


 半年前から黒く枯れるはずだった花弁。


 それは、不思議なほど瑞々しかった。


 花弁の下には、細い筆跡で一文だけ書かれていた。


 婚約破棄は承りました。


 その下に、もう一行。


 では、殿下はいつ、ご自分の役目を終えられますか。


 レオンハルトは箱を落とした。


 白薔薇の花弁が床に滑る。


 燭台の火が、細く青くなった。


 そして彼は気づいた。


 自分の薬指に、指輪を嵌めていたような白い跡が浮かんでいることに。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、悪役令嬢ものの定番である「断罪夜会」を、ホラー側から組み直してみました。


悪役令嬢だから冷たいのではなく、もう冷たくなっていた。 悪役令嬢だから人を遠ざけたのではなく、近づくと生者を傷つけてしまった。 悪役令嬢だから罪を重ねたのではなく、周囲が分かりやすい罪の形に押し込めていた。


そういう話です。


作中で一番怖いのは、死んだ令嬢そのものではなく、彼女を「娘」「婚約者」「公爵令嬢」「未来の王太子妃」という役割のまま使い続けた生者側だと思っています。


ミリアも完全な善人ではなく、気づいていながら黙っていた側です。 怖かったし、保身もあった。 けれど最後にそれを認めた分だけ、彼女はまだ生者として踏みとどまれたのかもしれません。


「悪役令嬢になったのは、ずっと前に死んでいたから」


このタイトル通り、彼女は悪になったのではなく、死んだあとも悪役を演じさせられていたのだと思います。

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― 新着の感想 ―
王子が全然ミリアの話を聞いていないように感じました。先入観があってこうなったのかもしれませんが、常にこの調子ならエレオノーラも疲れるでしょう。断罪がなくても道は暗いような気がします。
一番怖いのは死んでることに半年も気付かない周りだよな。特に婚約者である王子。 そもそもの始まりであるバカ王子の浮気を息子を注意するでなく婚約者に責任を問う王家がなぁ。今回は禁忌の術を使った公爵家の責…
>「死者を家の娘として半年歩かせたのでしょう」 >「ならば、その家は半年の間、死者を中心に回っていたことになります」 >「何を失った」 >「次代です」 まさに人を呪わば穴二つ;他人を呪い殺そうとすれば…
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