わたしの品行方正な婚約者について
「ねえ、フラン。どうしてかわかる?」
わからない。
わかりたくもない、という方が正しいかもしれない。
「ミハ、エルさま・・わたし、は」
柔らかな月明かりが差し込むだけの、夜の闇に包まれた室内で、わたしの婚約者は恐ろしいほど美しく微笑んでいた。
ほんの数分前まで、わたしこと――フラン・シュターナスは自分の部屋で、いま流行りのミステリー小説を読んでいた。今日の放課後、同じクラスのカルアに借りたものだ。
「なあフラン、これ知ってる?」
帰り支度をしている途中、片手に本を揺らしながらカルアがやってくる。
『マスターの建前』と書いてある。
読書は好きだが、初めて見るタイトルだ。
知らない、と答えると、彼がその本を渡してきた。
「いま、巷ではやりのミステリー小説なんだよ。結構面白かったから貸してやる」
子爵家嫡男のカルア・ゴートンは物心つく前からの幼馴染だ。同じ学院に通うことになったことも驚いたのに、まさか同じクラスにまでなるなんて思いもしなかった。入学して半年経つが、何かと気にかけてくれたり、課題を教えてもらったりととても心強い存在だ。
ありがとう、と本を受け取ると不意に教室の外から、女の子の黄色い声が上がったのが聞こえた。あっ、と思わず声を方を向く。
「あ、ミハエルさまっ・・」
「フラン、迎えに来たよ」
微笑みの貴公子こと、ミハエル・キルスタン
この学院で言うと、2学年先輩の3年生で、品行方正な生徒会副会長。
そして、わたしの婚約者である。
侯爵家という身分もさることながら、いつも穏やかで所作の全てが高貴で、なぜこんな素敵な人がわたしなんかの婚約者なのだろうといつも思っている。
だって、シュターナスは子爵家だし、子爵家の中でも、ほとんど力も無い弱小貴族だ。わたしと結婚しても、彼には何のメリットも無いはず。
ミハエルさまであればもっと素敵で身分の高い方と一緒になれるのに。
「フランとのデート、久しぶりだよね。本当に待ち遠しかったんだ」
「はい、わたしも楽しみにしていました」
今日は放課後のデートで、最近新しくオープンしたカフェでお茶をすることになっている。
ミハエルさまと一緒に学院を抜けるまでの道中で他の生徒たちの視線がちくちく刺さる。
正門付近でこちらを見ながら、こそこそと話しているのは、侯爵家のご令嬢アンナさまの取り巻きたちだ。
「どうして、あの子なのかしら」
「本当にね…。ミハエルさまがお可哀そう、お相手がアンナさまならとってもお似合いですのに」
不釣り合い。
そんなこと、自分が一番よく分かっている。
けれど、この婚約はキルスタン侯爵家からの申し入れによって結ばれたため、子爵家であるシュターナスがどうこうしたところで、どうにかなるものではないのだ。
はじまりは突然だった。
本当に、何の前触れもなく、キルスタン侯爵家から婚約の打診が届いたのは。
わたしも父もその知らせが届いた時は、しばらく絶句した。
その後おこなわれた顔合わせの場で、じゃあ後は若いお二人で・・となった時
「びっくりさせてごめんね、実は一目惚れなんだ」とはにかむ様に言ったミハエルさまに、胸の奥がとくんと鳴ったのを今でも覚えている。
だけど、どこでお会いしたのだろう。お会いしているなら忘れるはずがないのに…と考えあぐねているとミハエルさまがくすっと笑った。
「キーハ孤児院で、ボランティアをしていただろう。たまたま視察をしていて、その時に見かけたんだ」
「そうだったのですね…!申し訳ありません。変な顔を、しておりましたでしょうか」
「いいや、その反対だよ。考えている表情がとても愛らしくて・・うん、本当に君は可愛いな」
「そんなこと…ありがとうこざいます」
ふと、向かいのソファから立ち上がったミハエルさまが、隣に座った。
パーソナルスペース度外視の距離に魂が抜けそうになる。
「婚約、してくれるよね?」
「は、はいっ」
「本当に…?嬉しい、生まれてきてからこんなに嬉しかったことはないよ」
弱小子爵家が侯爵家、しかもシュターナス家の申し入を断れるはすがないのだ。
もしそこに心が伴わなかったとしても。
優しくも強い瞳に目が逸らせない。
そっと重ねられた右手がぎゅっと握られる。
とうにわたしの許容値は振り切っていた。
半年前オープンした王都にある喫茶店は瞬く間に予約必須の大人気店になった。
季節のフルーツをふんだんに使ったタルトが有名で、わたしはいちじくのタルト、ミハエルさまはりんごのタルトを頼んだ。
「あの、ここは予約を取るのが大変だったのではないですか?」
「いいや、すんなり取れたよ?」
友人の男爵家のエマは、昨日の予約で2ヶ月先まで埋まっていると言われたと言っていた。
ミハエルさまがいつ予約をしたのか定かではないけれど、わたしがミハエルさまにこのカフェの話をしたのが先週だから…多く見積もっても1週間前。
きっとミハエルさまだから、だ。
本当に、住む世界も何もかもが違いすぎる。
「あ、ミハエルさま、最近流行りのミステリー小説を知っていますか?」
「ミステリー小説か、知らないな。面白いのかい?」
「わたしも、まだ読んでいないんですけど…これ、マスターの建前というタイトルで、隠れ家にあるバーのマスターが難事件を次々に解決していくらしいのです」
カルアに貸してもらった本を取り出しながら、紹介をする。
「実はさっきカルアに貸してもらって、今日から読もうかなあと」
「フラン、今度のデートはどこに行きたい?」
どうしたのだろう…ミハエルさま、なんだか機嫌が悪いような。
さっきまでは普通だったのに。
意図的に話題を逸らされたように感じて、続けようとした言葉を飲み込む。
「えっと…次は、ミハエルさまが行きたいところに行きたいです」
「じゃあさ、西南にあるシュターナス家の別荘に行きたいな」
「別荘…ですか」
「うん、ハレル州にあるから3泊4日くらいかなあ」
「な、なるほど」
ハレル州、泊まり…3泊4日
さ、さんぱくよっか!?
「ちょうど春休みに入るし、来月の初旬はどう?」
「はい、大丈夫です」
努めて笑顔で返したものの、心臓は忙しなく動く。
来月まであと半月…心の準備をするには足りない気がする。
帰りの馬車、いつもなら向かい合わせに座るのに今日は隣に座ったミハエルさま。
すると、ポケットから何かを取り出して、渡してくれた。
「これ、何かわかる?」
手のひらサイズの淡いピンク色の丸い石。
何だろう、魔道具…?
だけど、何の魔道具かは分からない。
「おそらくですが、魔道具ですよね?」
「そう、これは離れていても会話が出来る魔道具なんだ」
そんな便利な魔道具が存在するなんて。
きっと、いや確実に、高価なものであることに違いない。
こわいので、価格は聞かないでおくが。
「寝る前にこれで通信しないか」
肩を寄せられ、フランの声が聞きたいんだ。と耳元で低い声が落とされる。
頬に一気に熱が集まる。指先一本さえ動かせなくて、わかりましたと絞り切るので精一杯だった。
ミハエルさまとのデートを終え、今は夜。
入浴も着替えも全て済ませたので後は寝るだけだ。
ミハエルさま、今日も素敵だったな。
あ…来月の旅行デートはどうしよう。
そんなことを考えつつ、背伸びをしながらベッドに腰をかけた。枕元に置いていたマスターの建前が目に入り、パラパラとめくる。
読み始めると、気づけば数十分が経過していた。
面白くて夢中になってしまった。
そろそろあかりを消そうとした時、机の上でミハエルさまから渡された魔道具から柔らかい鈴の音がした。
「ミハエルさま?」
「ああ、フラン。聞こえる?」
「聞こえます。すごい、本当に会話ができるんですね」
魔道具からミハエルさまの声がする。
とても不思議だ。
それから、他愛もない話をした。
今日のタルトは美味しかったとか、カール先生の文字の癖が強くて読めないとか。
ミハエルさまの声が好きだ。
とても優しくて温かくて、聞いているだけで落ち着くから。
「あ、さっきまでマスターの建前を読んでいて、とっても面白くて気づけば数十分も経っていたんです」
「そう」
「カルアって流行りに敏感で、何でも知っていて、すごいんです。そうだ、この本、わたしが読み終わったらミハエルさまに貸しても良いかカルアに聞いてみます」
ミハエルさまとの繋がりができるのはカルアにとっても良いだろうし。
「必要ないよ」
少しの沈黙の後、とても冷たい声がした。
一瞬、誰の声かわからないほど。
声だけで、ミハエルさまが怒っているのがわかった。
「もう我慢の限界だ」と、聞こえた瞬間だった。突然体が強く引っ張られる感覚がした。変な浮遊感にぎゅっと目を閉じる。
数秒後、どさりと地面に着地して、おそるおそる目を開いた。
「フラン」
「ひゃあ!」
月明かりしか灯っていない、仄暗い空間だった。
背後から声がして、思わず叫んでしまう。
けれど、その声の主を間違えるはずがない。
振り返った先に、彼がいた。
「ミハエルさま?」
「あの魔道具はね、会話が出来るだけじゃない。転送機能も付いているんだ」
一つの魔道具に二つの機能を持たせるなんて、聞いたことがない。
目の前で薄ら微笑むミハエルさまが、わたしの知っているミハエルさまでは無くて。
本能が彼を避けるように、思わず後ずさる。
「ようこそ、フラン。僕の部屋は初めて来るよね」
そう言いながら、縮まっていく距離に焦る。
ここはミハエルさまのお部屋らしい。
来る、というのは語弊があって否定したいと思ったが、そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。
「ねえ、フランどうしてか分かる?」
連れてこられた理由?
わからない。
わかりたくない、というのが正しいかもしれない。
「誰が他の男の話をして良いって言った?」
「ミハ、エルさま・・わたし、は」
「あいつのことは、いつも嬉しそうに話すよね」
へなへなと座り込んだわたしに視線を合わせるミハエルさまの指が、頬を撫でた。
「僕には心からの笑顔なんてみせたことがないくせに」
確かに、わたしはミハエルさまの前ではいつも緊張していたし、気を許すなんて、たぶんきっと、この先ずっと出来ないと思っている。
だって不釣り合いなのに。
住む世界が違うのに。
でも、そんな風に思うなんて、こんなに怒りを表すなんて、彼は、本当にわたしのことが好きなの…?
「ああ、あの子爵家を潰そうか」
「ま、待ってください…!」
不穏な台詞が聞こえた気がして、思わず彼の腕を掴む。
その掴まれた腕を一瞥して、ミハエルは恐ろしいほど優しく笑った。
「ミハエルさま、どうか、それだけはやめて欲しいです。すみません、こんなお願い」
今のミハエルさまならやりかね無い。
カルアとカルアの家族が路頭に迷ってしまったら、と必死に懇願をしていた。
「なんでも、します。ミハエルさまの望む通りにします。わたしに出来ることなら、なんでもします…だから」
「わかったよ、フラン」
優しい声色に戻った。
ミハエルさまが、涙が滲んだわたしの目尻を拭う。
次の瞬間。壁に押し付けられ、動きを封じられる。
「約束だよ」と、顎に添えられた手のひらに強制的に上を向かされた。反対の手が首元を覆い、躊躇なくその手に力が込められた。
呼吸をしようと、必死に首元の手を外そうとするもぴくりともしない。
あなたは、だれ。
加虐的なこれが本当の彼の姿だったのだと知る。
「愛しているよフラン」
きっと他の令嬢だったら、泣いて喜ぶのだろうか。
わたしにとっては、鎖のような重たい、重たい枷だ。
そして、噛み付くような口づけを落とされ、思考がぼやける。そのままフランは眠るように意識を失った。
「あーあ、やっちゃった」
壁にもたれかかったまま静かに眠る彼女を見つめながら、ミハエルが呟く。
こんな素顔、一生見せるつもりなんて無かったのに。
ミハエルはフランを抱き、優しくベッドに寝かせる。
涙の跡にそっと触れながら
まるで悪魔のように、ミハエルは美しく微笑んだ。
でも、良いんだ。
君が手に入るなら、
「別に心なんていらない」
Fin
お読みいただきありがとうございました!




