1-10.裂け目
空気が張りつめていた。
リズナの街に、冷たい霧のようなものが漂い始めたのは、リューエル監察官が再訪してからわずか数日後のことだった。
「彼女は、帝国に忠誠を誓うつもりはないようですね」
軍の臨時集会所で開かれた朝の報告会。リューエルは書類の束を机に置き、音もなくページをめくった。
「監視対象の一人、ロゼル=ルヴィエ。年齢十七、職業はパン職人。民間人でありながら街の人望が厚く、子どもたちに信仰の歌を教えていたという証言もあります」
レオンは椅子の背もたれに軽く寄りかかるふりをしながら、内心のざわつきを押さえていた。
ロゼルの名前が出ることは予想していた。しかし、これほど早く、これほど的確に彼女が狙われるとは――。
「今朝、彼女の店から旧教文書とされる紙片が押収されました。本人の関与を確認するため、午後の尋問対象に指定します」
「待ってください」
声が出ていた。リューエルが顔を上げる。部屋の空気が一瞬で冷え込む。
「彼女は以前から穏やかな性格で、信仰的な発言も控えています。あの紙片が彼女のものだと決めつけるのは……」
「決めつけではありません。確認です。あなたも軍属である以上、疑いに対しては中立の立場でいてください」
そう言い切ると、リューエルはそれ以上何も言わず、席を立った。
扉が静かに閉まる音が、レオンの胸に鉛のように響いた。
夕刻。
パン屋の裏手、まだ陽の残る石畳の道。レオンは見張りを避けながら、急いでロゼルの家へと足を運んだ。
「……来ると思ってたよ」
戸口に立つロゼルの姿は、いつもよりやつれて見えた。目の下にうっすらと影。肩には布袋がかけられ、足元には包みが二つ。
「逃げるつもりだったのか?」
「うん。昨夜までは、ね」
ロゼルは無理に笑みを作った。けれどその目は、濁りのない決意に満ちていた。
「子どもたちの顔が浮かんじゃってさ。あの子たちが、いきなり私がいなくなったらどう思うかって……。エルも、毎朝パンを取りに来るでしょ。心配かけたくなかった」
「けど、君がここにいれば――」
「分かってる。でも、私は“信じてる側”だから」
声が震えることはなかった。
その一言に、レオンは返す言葉を見つけられなかった。
「逃げようと思えば逃げられた。でも、それじゃ何も変わらないでしょ? 誰かが残らなきゃ。私は……パン職人として、ただそれだけでいたいの」
少しの沈黙のあと、ロゼルは布袋をレオンに押し付けた。
「これ、差し入れ。明日、私がどうなるかは分かんないけど……。食べる人がいる限り、私はパンを焼く。たとえそれが、最後の日でも」
レオンは袋を受け取った。ほんのりとあたたかく、小麦とバターの匂いがかすかに香る。
その温もりが、どこまでも優しく、どこまでも痛かった。
翌朝、ロゼルは自らの足で、軍の集会所に姿を現した。
彼女は逃げなかった。
疑われ、取り調べを受けることを知りながらも、街と子どもたちを守るために。
その背に、帝国の正義では測れない“強さ”があった。
そして、レオンの中で何かがまた、静かに崩れ始めていた。




