表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/19

1-10.裂け目

空気が張りつめていた。

リズナの街に、冷たい霧のようなものが漂い始めたのは、リューエル監察官が再訪してからわずか数日後のことだった。


「彼女は、帝国に忠誠を誓うつもりはないようですね」


軍の臨時集会所で開かれた朝の報告会。リューエルは書類の束を机に置き、音もなくページをめくった。


「監視対象の一人、ロゼル=ルヴィエ。年齢十七、職業はパン職人。民間人でありながら街の人望が厚く、子どもたちに信仰の歌を教えていたという証言もあります」


レオンは椅子の背もたれに軽く寄りかかるふりをしながら、内心のざわつきを押さえていた。

ロゼルの名前が出ることは予想していた。しかし、これほど早く、これほど的確に彼女が狙われるとは――。


「今朝、彼女の店から旧教文書とされる紙片が押収されました。本人の関与を確認するため、午後の尋問対象に指定します」


「待ってください」


声が出ていた。リューエルが顔を上げる。部屋の空気が一瞬で冷え込む。


「彼女は以前から穏やかな性格で、信仰的な発言も控えています。あの紙片が彼女のものだと決めつけるのは……」


「決めつけではありません。確認です。あなたも軍属である以上、疑いに対しては中立の立場でいてください」


そう言い切ると、リューエルはそれ以上何も言わず、席を立った。

扉が静かに閉まる音が、レオンの胸に鉛のように響いた。


夕刻。

パン屋の裏手、まだ陽の残る石畳の道。レオンは見張りを避けながら、急いでロゼルの家へと足を運んだ。


「……来ると思ってたよ」


戸口に立つロゼルの姿は、いつもよりやつれて見えた。目の下にうっすらと影。肩には布袋がかけられ、足元には包みが二つ。


「逃げるつもりだったのか?」


「うん。昨夜までは、ね」


ロゼルは無理に笑みを作った。けれどその目は、濁りのない決意に満ちていた。


「子どもたちの顔が浮かんじゃってさ。あの子たちが、いきなり私がいなくなったらどう思うかって……。エルも、毎朝パンを取りに来るでしょ。心配かけたくなかった」


「けど、君がここにいれば――」


「分かってる。でも、私は“信じてる側”だから」


声が震えることはなかった。

その一言に、レオンは返す言葉を見つけられなかった。


「逃げようと思えば逃げられた。でも、それじゃ何も変わらないでしょ? 誰かが残らなきゃ。私は……パン職人として、ただそれだけでいたいの」


少しの沈黙のあと、ロゼルは布袋をレオンに押し付けた。


「これ、差し入れ。明日、私がどうなるかは分かんないけど……。食べる人がいる限り、私はパンを焼く。たとえそれが、最後の日でも」


レオンは袋を受け取った。ほんのりとあたたかく、小麦とバターの匂いがかすかに香る。


その温もりが、どこまでも優しく、どこまでも痛かった。


翌朝、ロゼルは自らの足で、軍の集会所に姿を現した。

彼女は逃げなかった。

疑われ、取り調べを受けることを知りながらも、街と子どもたちを守るために。


その背に、帝国の正義では測れない“強さ”があった。


そして、レオンの中で何かがまた、静かに崩れ始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ