夢
よく分からないものが書きたくて、2時間で書き上げたものです。
皆様は夢というものを見たことがありますでしょうか。そう、寝ている時に見るあれでございます。えぇ、半分以上も挙がりますね、しかし私にそれを見た事は無いのです。いいえ、それでは些か誤解が生じるでしょうか。正確に言い直すならば、一度だけ、たったの一度だけ見たことがあるのです。それは尋常ではなく、夢というものが尋常であるのか疑問ではありますが、それは奇怪なもので、もう二度は見られないものでした。
私は気付けば、ぽつんと見知らぬ場所に立っておりました。そこは形容しがたいほどに雑多で、我々の住む片田舎のような清貧さは無く、ただひたすらに物が溢れておりました。町中の喧騒は耳に届くのですが、何故か声の主たちは見えないのでありました。私は歩きました。少し行った所で、私は彼と出会いました。彼は2mほどの体躯を持ち、肌は我々に有り得ぬ色で、ギョロギョロと飛び出た目が殊更に異常でありました。私は彼に名前を聞きました。不思議な事に、私はちっとも怖くはありませんでした。というよりも、それが当たり前であるかのように私から声を掛けました。彼はその問いに答えました。残念ながら、彼の名前は聞き馴染みの無い音であったので、覚えてはいません。外つ国のものであるように私には感じられましたが、それも定かではございません。ともかく意外なまでに友好的な彼とは話を続けました。私は何故だか、特に親しい友人を相手にするような心地でありました。
「なあ、ここは一体何処だい」
「おかしな事を言うな、分からないで此処にいるのかい。いやむしろ、分からないから此処にいるのかい」
彼は私と話す時、いつも不思議な事を言いました。しかし彼と話すのは大層楽しいことでありました。というのも、此処には彼以外見当たらないのでありました。彼はしばしば姿を消しました。何処に行っているのか聞くと、決まって彼ははぐらかすのでありました。
そうやって月日は過ぎました。彼と私以外いない世界。いやはや、改めて考えてみると、1年はそうしていたように思えます。実の所はもっと短いかもしれないし、長いのかもしれません。私はその頃になると、眠ることが増えました。彼によると、何日も眠り続けることもあったそうです。私は当然夢の中で夢を見るはずもありませんから、ただ記憶が断線するだけのような気分であります。彼とは1年の間に色々な事を話しました。彼は私と随分違いましたから、聞いてみたことがあります。
「お前さんは何を食べるんだい」
「あんたと同じものだ」
意外なことに、彼は雑食でありました。またある時は彼の見た目に思い切って言及した事があります。
「お前さんは私とは随分違うね」
「何言ってるんだ、一緒だろう」
いやいやそんな事はないと思って私は掌を見つめて、ああやはりそうだ、思った通りの私の手だ、と安心しました。なんとなしにくるりと手の甲を見てみると、初めは青白い骨ばった私の甲であったのに、だんだんと彼と同じように変化していったのです。嗚呼なんだこれはと思わず抑えた口の感触は硬く、鱗のように感じられました。彼の差し出す鏡を見れば、それには見慣れた私の顔は無く、彼と同じに尋常ならざる色の、飛び出た目を持つ生物になっておりました。
「同じだろう。驚くことも無い」
不思議な事に、あれだけあった違和感が彼のその一言に霧散してしまったのでありました。それから私は彼の連れて来る生物と度々会うこととなりました。どうやら女性であったり、老人であったり様々でありました。しかし皆一様におかしな色で飛び出た目を持っておりました。ある人は嫌に義務的であるのにおかしな事ばかり言いました。ある人は優しげであるのに何処か私を嫌っている風でした。私は彼と2人の世界が崩された事よりも、彼の連れて来る者達の視線が嫌でありました。彼は私の心境を知ってか知らずか、度々彼らを連れてきました。
そんな日が続きました。ある時、私は彼に連れられて街を歩きました。そこは沢山の異形、いえ、その時の私と同じ者で溢れかえっておりました。私はいつの間にか彼の傍ではなく、手頃な石の上に座っておりました。そこで私に気付くこともなく通り過ぎてゆく者を見送りました。ここで私は多くの理不尽を見ました。思い返すのも嫌な程に、多くの。失礼、これを語ると気分の悪くなる者もありましょう。割愛とさせて頂きます。そして私はいつの間にか、石ころになっておりました。道行く者に蹴飛ばされ、どんどん遠くに運ばれてゆきました。私は下水に落ちました。そこは大層汚れたことろで、溝鼠がうんといました。私は鼠となりました。その次は蛙に、その次は露草に。私は転々と姿を変えました。私はこの事に、なんの違和も抱いてはおりませんでした。まるでそうあるのが正しいように。最後に、私は奇妙な虫になりました。名前も知らないような、しかし気色の悪い虫でありました。私はその姿であの優しかった彼の元に帰りました。彼は言いました。あんたのような気持ち悪いものなど知らない、目の前から消えてくれと。私はそれに大層な衝撃を受けました。やはり彼も、私の事を中身ではなく見た目で判断するのだと。大変な悲しみ、そして絶望に襲われました。そしてこみ上げてくるのは怒りでした。煮え滾る溶岩ではなく、冷え切った吹雪のような静かな失望でした。
私はそこで目が覚めました。朝日が顔に差して、寝汗を吸った着物を気持ち悪く思いました。最悪な朝でした。布団から出て、ふと鏡を覗いてみると、そこにはいつも違う姿が映るようになりました。かつて私のなった姿が、見る度に映し出されるのです。私はもう、どれが本当か分からなくなりました。そのせいで、私の家に鏡はたったの1枚しかありません。他は全て外してしまいました。その残った1枚は、かつて彼に貰った手鏡でございます。
夢はもう、一度も見ていません。
ネガティブ・ケイパビリティ
──不確実性や疑い、未知を許容する能力。