とある辺境の修道院にて
いわゆる「悪役令嬢」は登場しません。「ざまぁ」もありません。
あしからずご了承願います。
むかしむかし、とある国の、とある辺境の片隅に修道院がありました。
始まりは、人里離れた森の奥深くに、一人の隠者が結んだ庵でした。
隠者の徳を慕う者が一人、また一人と集まってきて、小さな修道院ができました。
そのうちに、戦乱が起こりました。
元居た修道院が襲撃されて、命からがら逃げてきた者。大切な聖典を戦火から守るために、書物を背負って避難してきた者。村を焼け出された信徒たちを連れて、安住の地を探す者。
そうした者たちが、人里離れた森の奥深くの小さな修道院にやってきました。
人が増えて、修道院は大きくなり、周りに村もできました。
森を切り開いて作った畑と放牧地、畑を耕作する信徒たちの集落。近くを流れる川には水車を据え、周囲に広がる森の木々は木材や薪炭として利用されました。
やがて、戦乱が終わりました。
国境に接している辺境の地を守るために、辺境伯が置かれることになりました。修道院のある森も、辺境伯の領地の内となりました。
人里離れた森は戦火を免れましたが、徴税役人がやって来るのは免れませんでした。
修道院も周りの村も、さほど豊かではありません。税が重いと暮らしが苦しくなります。
そこで当代の修道院長は、辺境伯に任ぜられた方と話し合い、取り決めをしました。
『辺境伯の庇護の下、修道院のある森すべてを修道院の所有地と認め、開拓を許可し、税金を免除する。そして今後辺境伯が出兵する時には、修道院とその所有地内にある村は、要請に従い物資を供出する』
このとき辺境伯となった方は、すぐまた戦いが起きるだろうと案じていました。
ですから今は免税特権を修道院に与えて、広大な森を開拓して豊かになってもらい、将来戦いが始まった時に、穀物や木材などの物資をがっぽり取り立てよう、と考えたのです。
やせたガチョウも太らせれば美味しく食べられる、と初代辺境伯はうそぶきました。
ガチョウも金の卵を生むようになれば食べられずにすむ、と当代の修道院長は言い返しました。
初代辺境伯の時代には、その後戦争は起きませんでした。
修道院では、果樹園と薬草園が作られました。村人たちのために施療院も建てられました。
二代目辺境伯は、以前病気になった時に修道院から届けられた薬で治ったことを覚えていました。
これからも良い薬が手に入るならと、取り決めを続けることにしました。
二代目辺境伯の時代には、一度も戦争は起きませんでした。
修道院では、麦畑と葡萄畑が広げられました。質の良い麦酒と葡萄酒ができました。
三代目辺境伯は、お祝いに修道院から贈られた葡萄酒がお気に召しました。
これからも美味しい葡萄酒が手に入るならと、取り決めを続けることにしました。
三代目辺境伯の時代には、戦争が起きるだろうと案ずる人はいなくなりました。
修道院では、図書室と写字室を整えました。保管していた大切な聖典や貴重な書物を永く後世に残すために、写本が何冊も作られました。
それからも代々取り決めは続けられていきました。
そして――――――
◇◇◇
聖堂の鐘が鳴り始めました。
祈りの時間と、午前中の仕事の終わりを村中に告げ知らせる鐘の音。
開いた窓から薫風とともに入ってきた鐘の響きに、教室となっている大部屋の空気がふっとゆるみます。子供たちが石筆を置く音。ガタガタと椅子を動かす音。
お祈りの時間だと告げる、シスター・マーシーの貫禄ある声が大部屋に響くと、ざわめきがおさまりました。
子供たちに計算を教えていた、ブラザー・ニコラスがベンチから腰を上げました。一番年かさの彼がまず祈りの言葉を唱え、子供たちと勉強を教えていた大人たち、みんなで復唱します。
それが終わるやいなや、数人が部屋を飛び出していきました。今日のパン当番の子供たちです。監督役に当たっていた若い修道士が一人、慌ててあとを追いかけていきます。
ここの台所は手狭で、今の人数分のパンを焼くにはとても足りません。なので修道院のパン焼窯で、一日分のパンをまとめて焼いてもらい、それを昼に子供たちが取りに行くことになっています。
このお使いには監督役の修道士が一人は付き添うことになっています。当然つまみ食いは禁止。それでも食いしん坊な子供は進んでやりたがります。運が良ければ、窯で焦げたパンの切れ端をもらって食べられるので。
パンを取りに行っている間に、大部屋を教室から食堂に模様替えしなければなりません。と言っても、勉強道具を片付け、椅子やベンチなどの配置を変えるだけ。子供たちも大人たちもみんなでやればそれほど時間はかかりません。
台所では大鍋に、当番の子供たちが下ごしらえを手伝った野菜と豆のスープが煮込まれています。ここからパン焼き窯まで、当番の子供たちが行って戻って来るには、それなりに時間がかかります。だから配膳の当番の子供たちが、机の上を食卓として使えるように整えるまでには、まだ少し時間があります。
食事の支度が始まるまでの間、当番の仕事がない子供たちにとっては、大部屋に集まったままお話を聞く時間になります。修道士や修道女が子供たちに、聖典に出てくる例え話や、広く知られている昔話を語り聞かせるのです。
じっと座って話を聞く子供たちが退屈して騒がないように、少しでも楽しめるように、工夫もしています。その一つが物語を分かりやすく絵で示すことです。遠い昔のこと、遠い国のことは、聞いただけでは子供たちに分かってもらえないので、絵を見せるのです。
それはシスター・アイリーンが始めたことでした。彼女は王都近郊の湖のほとりの女子修道院から、貴重な古い書物を書き写すためにここの写字室へやってきた、まだ若い修道女です。とても上手に文字を書くので、頼まれて子供たちに文字の書き方を教えるようになりました。書き写している書物の内容をよく覚えているので、その話を子供たちに聞かせる役目も任されるようになりました。
彼女が昔の修道院長の逸話を語った時のことです。その修道院長の姿を、写本の挿絵担当の修道士が祈祷書の余白に描いていたので、持って来て子供たちに見せたところ、大いに喜ばれました。その修道士は、子供たちが喜んでくれるならと、切れ端に描いた習作や下絵を渡してくれるようになりました。
今日は、シスター・アイリーンが写字室から新しい絵を持って来てくれました。
語り手も彼女が務めます。はきはきした元気な声が部屋の隅々まで届きました。
「むかし、二人の王子様がおりました。兄王子は醜い恐ろしい顔をしていましたが、心の綺麗な優しい方で、隣国と戦争が起きないよう望んでいました。弟王子は美しい綺麗な顔をしていましたが、心の歪んだ恐ろしい方で、隣国と戦争を起こそうと考えていました。その隣国のお姫様がお嫁に来ることになりました。美しいお姫様は兄王子と結婚する約束をしていました」
そう快活に語りながら見せる絵には、怪物のような醜い姿で花束を持った王子と、天使のような美しい姿で宝石の首飾りを持った王子。二人の王子の前には、着飾ったお姫様が桜草の花咲く中に立っています。
「優しい兄王子はお姫様を歓迎しました。とても珍しいお花を贈ったり、王宮で一番綺麗な景色が見える場所に案内したりしました。けれども、お姫様は兄王子の醜い恐ろしい顔を見て、近寄るのも嫌がりました。醜い王子との結婚は嫌だといって、お姫様が一人で泣いていると、綺麗な顔をした弟王子がやってきました。そして、わたしと結婚しましょうと言って、きらきら光る綺麗な宝石を贈りました。美しいお姫様は綺麗なものが大好きでした。お姫様は泣き止みました」
次の絵は、片側に独りうなだれる醜い王子、その足元には投げ捨てられて散った花束。もう片側には、宝石の首飾りをつけたお姫様と一緒に笑っている美しい王子、その周りには、咲き誇る花々とお祝いする大勢の人々。
「お姫様は、綺麗な顔をした弟王子と結婚したいと言いました。美しいお姫様は美しい弟王子と結婚するべきだ、と国中のみんなも考えました。それで、お姫様と兄王子との結婚の約束は、なかったことになりました。そしてお姫様は弟王子と結婚することになりました。みんなが二人の結婚を喜んで、国中でお祝いしました」
その次は、片側に三つの棺と数名の喪服の人物が描かれた慎ましやかなお葬式の絵。もう片側には盛大な祝典の絵。お城から手を振る美しい一組の男女と町にあふれる笑顔の人々。
「兄王子は悲しみのあまり、涙の池で溺れて死んでしまいました。兄王子の死を悲しんだ王様とおきさき様も、後を追うように亡くなってしまいました。結婚した弟王子とお姫様は、新しい王様とおきさき様になりました。国中の人々が美しい王様と美しいおきさき様に大喜びで、盛大にお祝いしました」
さらに次は、片側に軍隊が行進している絵。軍隊の先頭に立っているのは王様ではなく、将軍らしき人物。楽しそうに笑う兵士たち、それを見送る笑顔の人々。もう片側には、嘆き悲しむ人々と、慌てて武器や兵士を集める人々。
「やがて二人は、玉のような王子様を授かりました。みんなとても喜びました。王子様の誕生のお祝いはそれは盛大で、隣国の王様とおきさき様も招かれました。そしてお二人ともお祝いのさなかに亡くなりました。新しい王様は、この機会に隣国を攻め取ると言いました。すでに戦争の準備もできていました。それを聞いて、みんなとても喜びました。王様に命じられて、将軍や兵士たちは勇ましく隣国に向かいました」
そして、最後の絵。二つの国の軍が戦っている様子。戦場から遠いお城で楽しそうにしている王様。そのそばには大人に囲まれた小さな子供。おきさき様らしき姿があるのは、少し離れたところにある塔の上。町にいるのは、怪我をした人たちと、泣いている女性や子供、老人たちだけ。彼らの足元には金盞花が一輪、さり気なく描かれています。
絵が指し示す国の状況は明るいものではありません。なのに、語る声は最初から最後までずっと、とても明るく弾んでいて、まるで、これがハッピーエンドであるかのよう。
「こうして、戦争が始まりました。どちらの国からも、多くの人が次々に戦場へ行きました。そして多くが帰らぬ人となりました。町にも村にも、だんだん人がいなくなって寂しくなりました。それでも戦争は今でもずっと続いています。おしまい」
彼女が語り終わると、しん、と静かになりました。
シスター・マーシーが軽く咳払いをしてから、ぐるっと子供たちを見渡して尋ねました。
「さて、みなさん。この話から分かること、学べることは何でしょうか?」
分かった、と元気よく声をあげたのは一人の男の子。
「キレイじゃないと結婚できない!」
くすくすと笑い声が子供たちから広がりました。
「確かに、人に好かれるためには、身なりをキレイに整えるのも大切なことでしょう。みなさんもちゃんと顔を洗って、髪をとかしていますか? 服はきちんと着ていますか? では他には?」
「贈り物をするなら、値段の高いもの!」
「ケチはモテない!」
「……戦争が、始まったのは、お姫様のせい、なの?」
子供たちが口々に答える中に、小さな女の子のふるえる声が混じりました。ここに来てまだ間もない子です。ぎゅっと抱きしめている小さな木の人形は、大切な父親がくれた贈り物。その父親はひと月ほど前に、戦場で亡くなりました。
「お父さんが、死んじゃったのは、お姫様のせい、なの?」
部屋が静まり返りました。女の子のかぼそい泣き声がみんなに聞こえるほどに。
食事の支度が始まり、シスター・アイリーンは大部屋の隣の物置に、持ってきた絵を置きに行きました。子供たちが勉強道具などをあわてて片付けたせいか、少し散らかっています。後からブラザー・ニコラスがやってきて、静かに話しかけました。
「どうしてこの話をすることにしたのかな?」
「してはいけなかったでしょうか?」
「とがめているわけではないよ。ただ、どういう気持ちで話していたのか、聞いておきたくてね。笑顔で話していたのに、なんだか泣いているように感じたよ」
「泣いてなんか、いません」
「そうだね、なのにどうして見ていて、つらい気持ちになったのだろうね」
「それは、申し訳ありません」
「謝ることはない。ただ、心から笑顔で語れる楽しいお話だって他にあっただろうに、この話をあえて選んだのはどうしてなのか、気になってね」
「……どうしてでしょう。知って欲しかったのかもしれません。本当のことを」
今日のお話の元になったのは、この国の現国王が即位前に市中に広めさせた『怪物王子から美しき姫を救い出した麗しの王子』とかいう、真実の愛とやらの物語。
かなり脚色されて事実とはかけ離れた恋物語になっていますが、モデルはもちろん現国王と現王妃、そして現国王の兄である前王太子。当時大いに市中で語られたので、この話を知らないのは、その頃に生まれて間もなかった子供たちと、人里離れた修道院で暮らして世事に疎かった者だけでしょう。もっとも今となっては、この話を市中で語る者はおそらくいません。
彼女はその脚色された恋物語を、自分の見た事実に基づいて修正したのです。
では、事実はいったいどんなものだったのでしょう。
まず、前国王の第一王子であった前王太子は、怪物のような醜い顔ではありませんでした。ただ、少々強面で無愛想だったというだけ。前王太子も前国王も、また隣国の先王も、戦争より婚姻による同盟を選びました。しかし隣国の王女の虚栄心を満たすような華やかなもてなしは、この国ではできなかったかもしれません。
一方で、現国王が輝くような美貌の持ち主なのは事実通り。まだ第二王子だった頃に開戦派として知られていたのも事実。その第二王子が、見目麗しい隣国の王女に言い寄ると同時に、隣国を攻め取るべきとの主張を取り下げたのです。開戦派の人々もおとなしくなりました。隣国の大使は、王女が第二王子を懐柔したものと思っていました。それで、婚約者を第二王子に変更することに同意したのです。最後まで反対していたのは、王子たちの両親である国王夫妻でした。
隣国の王女が、婚約者を嫌って遠ざけて婚約者の弟と親密になったのは、間違いなく事実。
それを世間が、美男美女でお似合いだの真実の愛だのともてはやしたのも、王太子との婚約解消と第二王子との再婚約を国民がこぞって祝福したのも、まぎれもない事実。
隣国との戦争が始まった時、正義の戦いだと賛同する者がほとんどだったのも、すぐに勝って帰れるとちょっと出稼ぎに行くような気分で戦場へ向かった者が多かったのも、疑いない事実。
「本当のこと。それは、貴女が侍女として王宮で見聞きしたことだね」
「はい。でも、王太子殿下の御葬儀が終わるとすぐ、修道院に入りましたので、その後のことは伝え聞いただけですが」
「それでも、当時の王宮を知っていて語ることができる者はもう、ほとんどいないそうだね。貴女が見聞きしたことは、何らかの形で残すべきだとは思うよ」
「そうかもしれません。実は写字室で、この戦争についての記録を作ることになりました。わたくしは戦争が始まるまでの出来事をまとめるよう頼まれております。それで当時のことを思い出しては書き留めているところなのです」
「それは大変な作業だな。当時を思い出して、つらくなることは?」
「いいえ、それほどでは。今ここでの日々と比べると、遠い世界の昔の出来事のように感じてしまうのです。まだ十年とたっておりませんのに。描かれた絵を見ても、まるで年代記の中の出来事みたいで」
「そちらの絵はその記録のためのものだったのか。ここに置いていても良いのかい?」
「はい、もう使うことのない下絵だそうです。子供たちにといただいてまいりました」
「そうか……子供たちへの贈り物に感謝していると伝えてもらえるかな」
「はい、必ず」
婚約を発表してさほど間を置かずに、第二王子と隣国の王女は結婚式をあげました。婚約者を弟に奪われて傷心と噂された王太子は、まもなく王都近郊の湖で溺死しました。公式発表は事故死でしたが、自殺の噂が不自然なほど素早く広がりました。おそらく、暗殺の疑いに目を向けさせないためでしょう。
王太子の葬儀の後、国王夫妻が相次いで急死しました。公式発表は心労による突然死。こちらも暗殺の疑いが極めて濃い状況です。前国王夫妻の葬儀が終わった直後に即位したのが第二王子、すなわち現国王です。この頃に多くの侍女や侍従が、病気や事故で王宮を去り、王宮の人員が刷新されました。
現国王が即位して一年とたたずに、世継ぎの王子が生まれました。盛大な誕生祝いが行われ、王妃の両親である隣国の国王夫妻も招かれてやって来ました。そして、誰も生きて帰ることはできませんでした。
公式発表では、この国の国王を暗殺する計画が発覚したため、首謀者である隣国の国王夫妻とその随行員を全員処刑。隣国の者たちは生まれたばかりの王子を利用して、この国を乗っ取ろうと陰謀をめぐらしたのだと説明されました。その陰謀にかかわったとされて、隣国の大使も、隣国から王妃に従って来た侍女たちも、投獄の後処刑されました。
王妃一人だけが生かされて、塔に幽閉されました。生まれて間もない世継ぎの王子は、母親である王妃から引き離され厳重に守られて、国王が用意した乳母と養育係に王太子として育てられることになりました。
こうなっては、真実の愛などと口にする者はいなくなりました。
この国を乗っ取ろうとした隣国を許してはならない、という大義名分を掲げて、国王は戦争を始めました。開戦派は、おとなしくしているように見せかけて、ひそかに戦争の準備を進めていたのです。この戦争はすぐに勝って終わるだろうと、この国の者たちは考えました。王を失った隣国はきっとすぐに降伏して、この国の一部になるだろうと言われていました。
しかし、そうはなりませんでした。
開戦してもう六年になりますが、戦争が終わる気配はありません。
「それにしても、世間の噂とは当てにならないものだね。王妃殿下は臆病な兄王子より勇敢な弟王子を選んだ英明な御方、と聞いていたのだが。先ほどの貴女の話では、外見と甘言につられて婚約者を変えたと。実際、それほど浮ついた御方だったのかい?」
「そうですね……美しいものがお好きだったのは本当です。民の暮らしぶりなど意に介さず、ご自分が安楽な生活を送ることのみに意を用いる、浅慮な御方だったとお見受けしました。思慮深い王太子殿下とはあまり話が合わなかったようです。あのお二方がご結婚なさっていたとしても、きっと考え方の違いからうまくいかなかったのではないでしょうか」
「なるほど。では、もしも前王太子殿下が生きておられれば、この戦争は起こらなかったかな?」
「……どうでしょうか。亡き王太子殿下が戦争を望まれていなかったのは確かです。ですが、弟君を……今の国王陛下が戦争を起こそうとするのを止められたかどうかまでは」
「ならば、国王陛下は……当時は第二王子殿下でしたな、どのような御方だったのかな? 戦争を望んでおられたのだから、猛々しい振る舞いをされていたとか?」
「いえ、そのようなことはありませんでした。王女様……今の王妃殿下とご一緒のところを何度かお見かけしましたが、いつも微笑んでいて、優雅な振る舞いをされていました。戦って奪えばいいなどと、恐ろしいことを言うようには見えませんでした。ですが、お側近くでお仕えしたいとはどうしても思えなくて、それが自分でも不思議でした」
「心のどこかで、恐ろしい御方だと感じていたということなのかな?」
「そうなのでしょうか。言われてみれば、知らず知らずのうちに、避けていたような気もします」
誕生祝いに招かれた王の留守を預かっていた隣国の大臣は、万一の場合への備えに抜かりがありませんでした。だから自分たちの王が殺害されたとの知らせを受けるとすぐに、定められた後継者を新たな王として即位させました。あまりにも素早い対応に、この事態をあらかじめ知っていたのではと、疑われてしまうほどでした。
それで内紛が起こりかけましたが、あらゆる事態を想定して備えた大臣の手腕と、新王の篤実な人柄とで、切り抜けました。何より、この国から攻め込まれたので、隣国の者たちは内紛などしている場合ではなく、力を合わせて国を守らなければなりませんでした。
隣国の新王は、自ら兵を率いて戦場に赴き、この国の軍を一度ならず退けました。しかし、先王夫妻の仇を取るまでは和平はありえないと主張する者たちが多くいて、和平交渉を進めることはできませんでした。
この国の現国王は、戦場に送った将軍に、隣国を奪い取るまで戻るなと命じました。となると、この国の側から和平交渉などできるはずもありません。国王の意向に反してまで和平を進言できる者も王宮にはいません。
国境地帯の戦場に駆り出された辺境伯は、両国の状況を知り、この戦争はすぐには終わりそうにないと悟らざるをえませんでした。そして思い出したのです。領内の片隅にある森の中の修道院と、古い取り決めのことを。
「しかし、そうして避けていたのでは、国王陛下がどうして戦争を望んでおられたのか、本当のことは分からなかったのではないかな」
「ええ、分かりません。どうして王位を奪い取ってまで隣国と戦争をしたかったのか、隣国を奪い取って何がしたいのか。そもそも陛下の心の内など、分かる者がいるとは思えません。それでも、陛下は生きておられる。生きていれば、いくらでも自分の考えを言えるではありませんか。しかし亡き王太子殿下は、もう何も仰ることができない。醜さゆえに婚約者に相手にされなかったと不名誉な噂を流され続けても、一切反論することはできないのです。あの御方は陛下ほどの美貌ではなかったでしょうが、陛下のように国を荒らすような真似は決してなさらなかったでしょう。あの御方の治世を待ち望んでいたのは、わたくしだけではありません。けれども、あの御方の命と一緒に、あの御方の抱いた理想も、わたくしたちの希望も、何もかもすべて、あの湖にのみこまれて消えてしまった。全部陛下のせいです」
「消えてはいないよ、貴女が覚えているのだから」
「わたくし一人が覚えているからといって、何になるというのです」
「だから記録に残し、子供たちに語って記憶に残そうとしているのかい。それが貴女なりの復讐ということかな?」
「復讐? それが何になるというのです。亡くなられた方々は戻ってきません。わたくしにできるのは、ただ日々働き、祈ることだけではありませんか」
「そうだろうか。貴女が言うよりもたくさん、できることはあると思うがね。ここは聖域だ。この森はかつて戦乱に追われた人々を受け入れた避難所だった。おそらくこの戦争でも、この地が兵火にさらされることはないだろう。貴女が書き留めたことは、記録として図書室に残り、きっと後の世に伝えられる。それこそ、国王陛下がこの地上から去って、一切反論ができなくなってしまった後もずっと」
古い取り決めに従って、辺境伯は修道院長に物資の調達と戦場への輸送を要請しました。同時に、戦場から遠く離れた修道院の所有地内で、将来ある子供たちを保護し教育するよう頼み込みました。
もともと修道院に入る予定だった辺境伯の末息子は、予定を早めて修道院へ向かいました。彼とともに、辺境伯の親族や家臣の子女が十人ほど、修道院の付属学校で学ぶことになりました。
その後も次々と、戦死者の遺児たちや、戦場で傷を負ったり病にかかったりして戦えなくなった兵士たちが、修道院へと送られてきました。それでとうとう、付属学校の宿舎や施療院の病室では、受け入れきれなくなりました。宿舎に入れるには幼すぎる子供たちは、女子修道院で預かっていましたが、それにも限度があります。
施療院と女子修道院のちょうど中間あたりに建っていた穀物倉庫が空っぽになったので、改築して子供たちの生活と教育の場所にすることにしました。そして回復はしたものの戦場に戻れない兵士たちにも、そこで子供たちの世話の手伝いをするよう頼みました。手伝いを引き受けた元兵士の中には、子供たちと一緒に読み書き計算を学ぼうとするものもいました。
修道院の外からやってきた兵士たちは、世間に広められた物語も、それが実際に何をもたらしたのかも、見聞きしています。けれど子供たちの前でそれを語ることはありませんでした。
「そうでしょうか。ここが今後もずっと無事とは限らないでしょう。陛下が何か手を回すかもしれませんし、記録が失われない保証はありません」
「確かに。でもすでに森の奥に避難場所を用意して、本当に守らなければならない貴重な書物は、万一に備えて保管場所を移し始めたと、聞いているよ。この国のだろうが隣国のだろうが兵がやってきたら、医学書や教本を持って森の奥に避難するようにと、施療院にもここにも指示が出ている。避難させる書物の中に、貴女の書いたものを紛れ込ませることは造作ないのではないかな。……さて、みんなが待っているようだし、昼食をとりに行こうか。午後からは写本室で作業をするのだろう? 腹ごしらえは必要だよ」
「……はい」
二人は大部屋へ戻っていきました。
新緑の風にのって蝶がひらひらと、その背中を追いかけていきました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。