71.微笑みの少女
(ん……)
アイリスがゆっくりと意識を取り戻すと、まず目に飛び込んできたのはどこまでも広がる真っ青な空だった。
(生き……てる……?)
まだぼんやりとした頭でそう思うと、アイリスは恐る恐る自分の右手をそっと左胸に当てた。すると、あったはずの傷がなくなっている。痛みもない。
アイリスは今のこの状況が理解できず、体を起こして辺りを見回した。すると、どうやらここはグランヴィルと戦っていた場所のようだった。しかし、彼の姿はもうここにはない。
自分の服を見てみると、左胸を中心に赤黒い血がべったりと付いており、彼との戦闘が夢ではなかったことがよく理解できた。
「目が覚めた?」
(この声……!)
アイリスはこの声に聞き覚えがあった。先ほど意識を失う前に聞いた、少女の声だ。
声の主の方にバッと顔を向けると、そこには池に素足を浸けながら座っている可愛らしい少女がいた。
アイリスよりもいくらか幼く見えるその少女は、膝元まで伸びるウェーブがかった桃色の髪を持ち、キラキラと輝く水色の瞳をこちらに向けている。ノースリーブの白いワンピースを身にまとい、頭に花冠を載せた彼女の腕や足には、ところどころに植物のツルが巻かれていた。
アイリスが驚いた表情で少女を見つめていると、彼女はこちらに向かって微笑みかけながら自己紹介をしてくれた。
「初めましてアイリス。私はライラ。人族からは『恵みのライラ』と呼ばれているわ」
「…………!!」
少女の言葉に、アイリスは絶句した。
『恵みのライラ』といえば、大陸南方を治める四大魔族だ。確か彼女は二千年以上生きているはずだが、こんな少女の見た目をしているとは思ってもみなかった。
(一日で二人も四大魔族に会うなんて……どんな厄日なの……)
あっけに取られアイリスが何も言えずにいると、ライラが心配そうな顔を向けてくる。
「傷口は塞いだけれど、大丈夫? 動けそう? あなたのお仲間にはもう連絡して事情を伝えておいたから、そのうち迎えが来るはずだけれど……」
ライラの言葉に、アイリスは大きく目を見開いた。なんの面識もない四大魔族が、なぜわざわざ助けてくれたのだろうか。しかも彼女の領地は、この場所とはほぼ正反対に位置している。
「あなたが助けてくれたの……? どうして……?」
アイリスが驚いた顔でそう尋ねると、ライラは可愛らしく微笑みながら言葉を返してきた。
「あなたがグランヴィルに殺されそうになったら助けてあげて欲しいって、エマに言われてたのよ」
アイリスは、ライラの言葉にまた驚かされてしまった。
(剣神グランヴィルの家族を殺した挙げ句、彼に復讐され命を落とし、そして私を救ってほしいと恵みのライラに頼んでいた――?)
エマ・アトラスは一体何がしたかったのだろうか。そういえば龍王ヘルシングも彼女と知り合いだと言っていた。人族の中では随分と魔族との接点を持っているのも気になる。
アイリスはエマ・アトラスという人物が一向に理解できず、この際、彼女の知人らしきライラに根掘り葉掘り尋ねることにした。
「どうして彼女はそんなことをあなたにお願いしたの?」
「さあ……そこまでは聞かされてないのよ。あの子、肝心なことは何も話さないんだもの」
アイリスの問いに、ライラは少し悲しげな表情を浮かべながら、素足でパシャパシャと池の水面を叩いていた。そして彼女は、遠い目をして言葉を続ける。
「あの子は、不用意に何かを話すことで未来が変わってしまうことを、とても恐れていたわ」
「未来が変わる……?」
「あの子、未来が視えたの」
(未来視の力!?)
ライラからの話に、アイリスは驚かされっぱなしだ。エマ・アトラスに未来視の力があるなど、アトラス王国の記録には一切残されていなかった。その力はおそらく彼女のギフトだと思うが、なぜ隠されていたのだろうか。その理由も、『未来が変わることを恐れていた』ことに関係するのかもしれない。
「じゃあ、私がグランヴィルに殺されそうになるのも、彼女は事前にわかってたってこと?」
「ええ、そうでしょうね」
アイリスは、エマ・アトラスが一体どんな未来を視て、どういう理由で自分を助けたのか、皆目見当がつかなかった。ただ子孫を救いたかった、ということだろうか。
「彼女のこと、もっと教えて」
「もちろん。何でも聞いて。答えられる限り答えるわ」
ライラが快諾してくれたので、アイリスはさっそく質問を投げかける。
「エマ・アトラスがグランヴィルの家族を殺したというのは本当?」
「それは絶対に違うわ。あの子はそんなことをする子じゃないもの。何か誤解があったんじゃないかしら」
そう答えるライラは、どこか悔しそうな顔をしていた。やはりエマとグランヴィルには、何か行き違いがあったのかもしれない。
「彼女はグランヴィルに殺される時、なぜ抵抗しなかったのかしら? グランヴィルが、あの女は潔く死んでいったって言ってて」
「……エマは死ぬ前、彼に殺されることを受け入れたような顔をしていたわ。『これでいいんだ』って言ってた」
アイリスの問いに、ライラはとてもつらそうな表情を浮かべながらそう答えた。その様子から、ライラはエマのことをかなり慕っていたことが伺える。
(エマ・アトラスはグランヴィルと行き違いがあって、誤解されたまま彼に殺された。そして『黒髪緋眼』に恨みを持ったグランヴィルが私を殺しに来ることを見越して、ライラに助けを頼んでいた……ってとこかしら。でも、だとすると――)
「グランヴィルの誤解を解かない限りは、私はずっと命を狙われるということね」
アイリスが渋い顔をしながらそうつぶやくと、ライラはニコリと微笑みながらこう言った。
「ああ、そのことなら大丈夫よ。グランヴィルにはきつく言い聞かせておいたから、当分あなたを襲ってくることも無いと思うわ。もしまた彼が殺しに来ても、私が守ってあげるから安心して」
彼女の言葉に、アイリスは驚いてポカンと口を開いた。
あの恐ろしいグランヴィルにきつく言い聞かせることができる人物など、この世にほとんどいないだろう。彼がライラに説教を食らっているシーンを想像して、アイリスは思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、すごいわね。ありがとう、ライラ。あなたが味方についてくれるなんて、これほど心強いことはないわ」
「いいのよ。それよりも、反人族派の魔族の中でも、特に過激派の動きが活発になっているわ。気をつけるべきはそちらの方かも。あなたが本気を出せば敵わない相手ではないから、過度に不安がる必要もないけれど」
ライラはそう忠告すると、人差し指を顎に添え、困ったような顔をしながら続ける。
「あなたの周りで、魔族が絡んでそうな事件がいくつかあったでしょう? 私の方でも調べてるんだけど、なかなか手がかりが見つからなくて」
「!? どうして事件のこと知ってるの!?」
アイリスが驚いた声を上げると、彼女はニッコリと微笑みながら言葉を返した。
「知ってるわよ。私はあなたが生まれてから、ずっとあなたのことを見守ってきたんだもの」
そう言う少女は、まるで愛しい我が子を見つめる母のような面差しをしていた。アイリスは実母と会ったことがないため母という存在がどういうものかわからないが、彼女の表情を見て自然とそう思ったのだ。
しかしアイリスは、ライラが自分を見守る理由が全くと言っていいほど思いつかなかった。
「見守ってきたって、どうして……?」
「友人であるエマの、大切な子孫ですもの。グランヴィルに殺されないように、ずっと見守ってきたわ」
アイリスの率直な疑問に、ライラは変わらず微笑みながらそう答えた後、すぐに表情を暗くして言葉を続ける。
「でも、あなたが母国で酷い目に遭ってたとき、助けてあげられなくてごめんなさい。エマにはあなたをあの国から救うようには特に言われてなくて……。エマに言われた以外のことをして、彼女の視ていた未来を変えてしまうのが怖かったの。あなたを助けようとすれば、あの国と戦争になる気がして」
ライラはそう言うと、申し訳なさそうに俯いた。しかし一方のアイリスは、ライラを責める気持ちなんてこれっぽっちも抱いていなかった。
(そっか……私が母国にいた時も、ずっと、見守ってくれてたんだ……)
助けてもらえなかったことよりも、ライラが自分を見守ってくれていたその事実に、アイリスは思わず泣きそうになってしまった。
師匠と別れ、ずっと独りで耐えてきたと思っていたのに、ずっと見守っていてくれていた存在がいたのだ。決して、独りじゃなかった。孤独に耐えてきた数年間が、全て報われた気分だった。
そしてアイリスは、泣きそうな笑顔を浮かべながら、ライラに心からの礼を言った。
「……ううん。ううん、いいの。見守ってくれていて、ありがとう。……すごく、嬉しい」
「私ができることなんて、それくらいだったから。……アイリス、今、幸せ?」
優しい眼差しのライラに唐突にそう聞かれ、アイリスは笑顔で即答した。
「うん、すごく! 母国にいた頃より、とても自由に過ごせているわ」
「そう。それなら良かった」
そう言うライラは、とても安心したような笑みを浮かべていた。彼女の笑顔に、心がじんわりと温かくなる。
そしてアイリスは、ふと疑問に思ったことをライラに尋ねてみた。




