偽善者
カインは結局、待ち合わせ場所を間違えた、とスマホを見て帰っていった。まあ場所を間違えたのはカインではなく、アレンの方だったようだが。
同じ学年だけど、顔を知らなかった。樒は記憶力には自信があるから、同級生なら、知らないはずがなかった。しかも、あんな一目で不健康とわかりそうな子を忘れるなんてあり得ない。
たぶん、学校が違うんだろうな、と樒はなんだか寂しく現実を受け止めた。だから、樒はまたね、という言葉を飲み込んだのに。
「君とはまた会える気がする。だから『またね』」
なんて、カインはさらりと言ってしまった。
不思議な子だ。なんだか、彼の言葉というだけで、本当にまた会えるような気がした。だから、また会えるまで、頑張ろうと思えた。
次の日、テストで百点を採り、「やればできるじゃない」と褒められた。ただ、その言葉遣いに苛立ちを感じる。まるで、今まで樒が本気じゃなかったみたいな、努力をしていなかったみたいな決めつけに聞こえて。
称賛を素直に受け取らなかった樒はコーラ味の棒付き飴を噛み砕く。その様子は周囲から恐れられた。
ついにグレたと思われただろうか。樒は笑う。たかが飴玉一つを噛み砕いただけだろうに。
樒は家に帰らず、ゲーセンに行くことにした。小遣いならある。憂さ晴らしだ。シューティングゲームでもしようか、もぐら叩きでもしようか。リズムゲームもいいな、なんて考えていたら。
カインが相変わらず、真っ白い顔で、男子集団の後ろを歩いているのが見えた。据わっている目や男子たちとの距離感から見て、とても「オトモダチ」には見えない。
「カードゲームしようぜ」
「最近のガチャガチャ高いよな。金足りるかな」
「おら、カイン、対戦型の太鼓ゲームしようぜ」
「……うん」
何あれ、と樒は思った。薄っぺらい善意が滲んでいて気持ち悪い。
カインはとても友達がいるようには見えなかった。こんなゲーセンにだって、来たことないはずだ。コーラも飲んだことのないような子どもが。太鼓ゲームのばちを握らされ、盗難防止につけられた紐をむず痒そうに眺めている。一方の対戦相手は一人分だけばちを借りてきていた。
明らかに不慣れな相手に気遣うこともできないアホガキ。樒は見ていて苛々する。何が苛々するって、アホガキどもには悪意がない。むしろ善意の奉仕活動でもしているかのような雰囲気なのだ。
気に入らない気に入らない。
なんで自分の抱く善意が他人にとっても善意たりうると盲目的に信じられるのだろう? ばちを持ち戸惑う姿に何も思わないのか? そもそもあの顔色と目の隈を見て、具合が悪そうだと思わないのか?
人並みの気遣いをしているふりをして、人並みにすら達していない気遣いが、樒の業腹を煮立たせる。たまらず太鼓ゲームのコーナーへ、つかつかと高らかに足音を立てて歩いていた。
「あ」
「ちょっとそこのガキ」
苛立った樒の目付きは悪い。ガキと呼ばれた男子が、なんだよ、と樒に目を向け、ひっ、と悲鳴を上げた。
カインはぼーっと樒の顔を見ていた。
「ウチと一戦どう?」
据わった目のまま笑う樒に、男子は赤べこのように首を上下にのみ振った。
「アンタさあ」
自販機でクリームソーダを買う。がこん、と勢いよく缶が落ちてくる。
「友達付き合いとか大事にするタイプなの?」
キンキンに冷えたクリームソーダの側面を結露が伝う。樒がそれをカインに渡すと、カインは不思議そうにそれを見つめた。
「雨のお礼よ。受け取って」
「……こんなに飲めないよ」
「じゃ、一緒に飲みましょ」
自販機前のベンチに二人並んで座る。樒がプルタブを持ち上げると、ぷしゅ、と景気のいい音がした。
「炭酸、飲める?」
「うん……わからない……」
「じゃあ飲んでみなさい」
「うん」
ちみり、と、初めて缶ジュースを飲むみたいに慎重に、カインはクリームソーダを飲んだ。飲んだというより、舐めたの方が近いかもしれない。
炭酸は平気そうだった。ごくごくとは飲まないものの、ちみりちみりと何も言わずに飲む辺り、お気に召したのかもしれない。
「で、友達付き合いとか大事にするタイプなの?」
再びその問いを口にすると、カインはプルタブによって開かれた僅かな湖面に目を落としながら答える。
「姉貴が……気にするから……」
「なに、アンタのお姉ちゃんも偽善者なの?」
「違う」
偽善者、という言葉に反応したカインの声は、それまでのぽやっとした感じなど微塵もないほどに底冷えのする声だった。
カインの目が樒を見つめる。穴が空きそうなほどに。眼力が強いのに、何故だか「睨まれている」という感じはしなかった。何なら本気で穴を空けるために見ているのかもしれない。
カインの目は黒い黒い洞のように、向こうが見えなかった。
「姉貴はいい人だし、偽善者なんかじゃない。そこらに転がる石ころどもと姉貴を同じ扱いにするな」
「……わかったよ」
さてはシスコンか、と少し思ったが、言わぬが仏、と思ったので口には出さなかった。
「お姉ちゃんの言葉、そんなに気にするもん? ウチはお兄しかいないからわかんないけど」
「姉貴は……僕が孤独だと、それを自分のことのように悲しむ。いや、姉貴は、わかりたくないこともわかってしまうから、人一倍敏感なんだ。だから、安心させたくて。一人じゃないよって」
一人じゃない。それは、カインが? それとも姉が?
そんな疑問が喉まで出かかったが、樒は飲み込んだ。触れてはいけないような気がしたのだ。こないだコーラ味の飴玉をもらっただけなのに、そこまで立ち入るのは図々しい気がした。
「だからってあんな分別のなさそうな連中と付き合う必要ないでしょ。大体、アンタのお姉ちゃんがアンタの幸せを願って心配してるんなら、アンタが嫌々相手と付き合うことこそ、望まないことでしょうに」
「そっ……………………か……」
言い返しかけたカインは、途中で樒の言う意味を理解し、再び缶に目を落とした。
「別に心配なんて、勝手にさせときゃいいのよ。杞憂なんだから」
「それはそうだけど……」
「友達付き合いより、その目の下の隈のがウチは心配なんだけど? 睡眠不足にしたってひどくない?」
「……眠れないんだ」
慢性不眠症。幼いのに、カインはそう診断されたらしい。けれど、カインはまだ子どもだから、効き目の強い薬を処方するわけにもいかないし、薬をたくさん処方するわけにもいかない。物は睡眠薬である。飲む量を間違えれば死んでしまうこともある薬を簡単に処方できるわけもなかった。
「薬は飲んでいるけど、全然眠れない。眠いは眠いんだけど、眠れても眠りに落ちた感覚で、飛び起きてしまう……そういう病気」
「それは難儀ね。ま、虐待とかじゃなくてよかったわ」
「……心配してくれてたの?」
不思議そうな目を向けてくるカインに、樒はでこぴんをお見舞いする。
「心配しない方がどうかしてるわよ。そりゃお姉さんも心配するわ」
「うん。だから、気晴らしに体を動かすとか、ゲーセンに行くとか、色々やってみてる。でも、僕がやりたいことじゃないから、気は進まなくて」
「そりゃそうでしょ。眠れてないのに体動かすとか普通は死ぬところよ。……あ」
樒はいいことを思いついた、というように、ゲーセンの奥へ向かう。幼児向けのバルーン遊具があった。
「これやってみない? 跳ねるだけよ?」
何も考えないでできるから、と、そう提案した。