カインと樒
アレンから聞く「稗田阿礼」という歴史上の偉人の記憶は、何故だかいつもとても悲しい。樒は阿礼の人生が悲恋のように聞こえていた。
太安万侶のことを樒は尊敬している。偉大なる古事記の編纂者だ。同時に嫌っている。兄と同じ名だからだ。
多樒の人生は兄、多康麿の存在なくしてはあり得なかったかのように思える。親は男の子と女の子が欲しかったらしく、見事に二連ガチャで揃えた。とても優秀な康麿と、そこそこ優秀な樒。兄の名前の由来はかの古事記編纂者である。一方樒は女の子だから植物の名前で、魔除けになる名前だ。樒とは狐が苦手な臭いを発する植物で、人に化けた狐を見分けるのに煎じ薬を飲ませたり、葉と葉を擦り合わせて臭いを際立たせたりするのだそう。
まあ、康麿も樒も、親が親なりに愛を持ってつけてくれた名前だと思う。センスが独特だとは思うけれど。
樒が兄を追い越したいと思うのは、生まれついて持ったこの髪のせいだ。黄金色をしている髪は、学校に行けば教師に疎ましそうに見られる。髪色に関しての校則は昨今緩くなってきたが、教師が髪を染めるのを禁じられていた世代であることに変わりはない。当たり前に金髪をしている樒が不良生徒のような目で見られるのは仕方のないことだった。
仕方ない、とは理解していても、窮屈さは変わらない。でも、これでグレてしまっては完全に相手の思うつぼだと感じた。だから、樒は誰よりも真面目に、必死に、勉強を頑張ることにした。スポーツも、男子と少しは張り合える程度になろう、と。
けれど、教師が樒の努力を評価することはなかった。樒には優秀すぎる兄がいたからだ。
兄、康麿は天才だった。小学校一年生で、小五レベルの漢字の読み書きができたし、テストはいつも満点。非の打ちどころがない天才だ。運動神経もよくて、顔もいいし、人もいい。樒はそんな兄のことが誇りだったし、大好きだった。
「なんでこんな問題もできないのかしら。お兄ちゃんはあんなに優秀なのに」
「後から生まれた女の子でしょう? 所詮は兄の劣化版ってことね」
「お兄さんなら百点を採っていたのに、なんでこんな下らないミスをするんだ」
そんなことを、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日。
樒は小学校入学時点で、三年生までの漢字の読み書きができたし、割り算も理解していたし、英語の基本文法は理解できていた。運動に至っては兄よりできた。
それなのに。お兄さんは五年生の勉強もできていたよ、と。お兄さんはこんなケアレスミスしないよ、と。お兄さんお兄さんお兄さん。兄の名前しか、教師の口からは出て来なかった。樒は「多樒という人物なんて、存在しないんじゃないか」とまで錯覚するようになった。
学校に入る前は「お兄ちゃん、勉強教えて」と無邪気に話しかけて、勉強を教わっていたはずなのに、家に帰って、兄を見て、それを先生たちみんなが言う「お兄さん」だと思うと、康麿は自分の知らない生き物のような気がして、気持ち悪くなった。
それから、兄とは話さなくなり、「お兄ちゃん」と呼べなくなって、まだなんとか「お兄」と兄のことを示す体裁を保てている。
ものすごく落ち込んでいたときだ。カインと出会ったのは。
「あの、顔色悪いですけど、大丈夫ですか?」
そう上擦った子どもの声が聞こえてきて、樒はきぃこきぃこと漕いでいたブランコを止め、顔を上げた。
笑ってしまいたくなるくらい、彼の方が顔色が悪かった。アイシャドウの強いおばさんだってそんなにはならない、というほどに目の下を覆う色濃い隈。元々色白なのかは知らないけれど、肌色と隈の色の差が激しくて、体が全体的に華奢で、彼がランドセルを背負っていなければ、小学生だとは思えなかっただろう。
カインを見た第一印象は、学校でいじめを受けている上に、親に虐待を受けている子どもだった。どんな人生を送れば、小学生でそんな顔色ができるのだろう、と。
「君の方が顔色悪いよ。早く家に帰ったら」
「構わないでほしいんですか?」
なんだか、返答に困る問いかけだった。構わないでほしい、というのをストレートに言えるほど、さっぱりしていなかったし、だからといって側にいてほしい、なんて素直には言えない。どっちの思いが強いのか、天秤にかけても判然としない。たぶん、一人でいたかったけど、誰かに側にいてほしかったのだと思う。そんな複雑な心境を人生十年も生きていない子どもが正確に言葉で表せるわけもなかった。
黙りこくる樒に、カインは静かに声をかけ直す。
「隣、いいですか?」
ブランコでそんなことを聞くやつもなかなかいない。変なやつ、と樒は思った。
「みんなの公園で、みんなの遊具なんだから、好きにすればいいじゃない」
「みんなのってことは、あなたのでもあるってことでしょう?」
閉口してしまった。こんなに知恵のある返しをしてくる子どもなんて、樒は知らなかった。
「それに、静かにしたいとき、隣でブランコきこきこ言って、ひゅんひゅん風が来たら嫌じゃありません? 僕は嫌なので、聞きました」
「そう。ウチは気にしないよ」
「じゃあ、遠慮なく」
ランドセルを適当に下ろして、カインは樒の隣のブランコに腰掛けた。きぃ、きぃ、と鎖が軋む音が増えた。
「……漕がないの?」
「姉貴と待ち合わせてるけど、漕ぐのに夢中で、見逃したらやだなって」
「お姉さん、どんな人?」
「美人」
他愛もない話をした。カインとの共通点なんて、その当時は年上の兄弟がいることくらいだった。
会話して、別にいじめられてもいないし、家族にちゃんと愛されているというのはわかった。ただ、訳もなく、眠れないのだ、と彼は語った。
「親がすごく心配して、姉貴もすごく心配してくるから、病院とか、カウンセリングとか行くけど、なんだか見当外れな気がして。疲れるばっかりで嫌だなぁって思ったら、あなたを見つけたんです。おんなじみたいに見えたんです」
「ふーん。っていうかあなたとか言わなくていいよ。ウチの名前は樒。年そんなに離れてないはずだけど」
「僕はカインです。小三です」
「タメじゃん。敬語なしで」
「そう……樒はなんか、ほっとするね」
そう言って、カインはブランコを降りた。
「お姉さん待たなくていいの?」
「待つけど、そこのコンビニで何か買ってくる」
「お金持ってるの?」
「家が山の中だから、どしゃ降りのときとか、連絡取れるように」
「山ぁ?」
「神社なの」
道理で独特な雰囲気をしている、と樒は思った。
樒は人の持つ雰囲気というか、性質みたいなものをなんとなく感じ取れる目を持っていた。特殊能力と言われると違うけれど、言葉を覚えるほどに、人の空気を明瞭に言い表せるようになっていった。おそらく、誰にも褒められない才能だ。
カインからは陰鬱な雰囲気というより、自然が放つ独特な陰の空気があった。夜の森みたいな。
メロンフロートを飲んだことがなさそうな感じがした。俗世に慣れていない、生まれたての神様みたいだ。
頭の中で、カインのことをぐるぐると考えていたら、カインが戻ってきて、棒つきキャンディを渡してくる。オレンジ色の包装紙だった。
「よくわからないけど、樒が好きそうだと思った」
「いや、よくわからんもんを初対面のやつに食わすなよ」
コーラも飲んだことがなさそうだ、と茶色い飴玉を口に含んだ。棒が、大人が吸っている煙草みたいに口からはみ出て、おかしかった。
甘くて酸っぱい味がして、なんでこの味が好きだってわかったんだろう、と考えると、おかしくて涙が出てきた。
カインは何も言わない。だから、側にいてほしい、と樒は無意識に思った。
ちょうど空が包装紙と同じ色になる時間のことだ。