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樒と春子

 樒はびしょ濡れの制服姿でふらふらと歩いていた。アルコールの臭いが目に染みて痛い。思考が上手くまとまらなくて、もしかしたら一升瓶で頭のどこかが切れたかもしれない、と考え、笑った。

 自分はいつだってキレている。怒っている。何故兄ばかり評価されるのか。兄より出来が悪いかもしれないけど、自分だって人並み以上のことはしているはずなのに。学芸会の劇の台本なんて、兄すら書いたことがないだろうに。中学では「式部さま」なんて渾名がついているのだ。成績優秀で、物語を書くのが上手いから。樒という名前と紫式部をかけた渾名だ。

 ああでも、と思い至る。親に認められなくても、周りに認められているだけ、自分はまだましなのか、と。つらい人は同級生にも、担任にも認めてもらえない。こんな立派な渾名をつけてもらえることもない。それに比べたら。

 不毛だ、と目を瞑って頭を振ったところで、右頬がひきつれるような心地がした。手で探ってみると、少し右頬が切れていた。痛みは感じない。怒鳴ったからアドレナリンが出て痛覚が鈍くなっているのかもしれない。頭痛はするのに。

 樒はそこでふと立ち止まる。

「……どこに行こうとしてるんだろ……」

 飛び出してきたばかりの家に戻ろうとはとても思えなかった。稗田神社は徒歩で行くには遠いし、暗い。それに、カインと顔を合わせるのが気まずかった。たぶん、アレンにも合わせる顔がない。どんな顔をして「今まで黙っていてごめん」だとか、言えるのだろうか。

 服をどうにかしようにも、そのまま飛び出てきてしまったから、着替えがない。今日は運動着なんて持っていない。鞄はスクールバッグだけだ。ああ、見ればスクールバッグも酒でびしょびしょだ。きっとあのお酒は高いのに。鞄の中身は濡れていないだろうか。財布にいくら入っていたっけ……とりとめのない思考が、樒の脳内をぐるぐると回る。

 自然と歩いていた。向かった先は公園。カインと初めて会って、話した場所だ。遊具のある公園は今の時代絶滅危惧である。子どもの声が五月蝿いとか、保育園や幼稚園にクレームの入る時代だ。くそくらえと思う。

 樒はブランコに向かった。近くにはコンビニがある。が、酒臭い中学生なんて、通報案件だ。母のことは嫌いだが、別に警察沙汰にしたいわけじゃない。子どもを背後から一升瓶で殴るのは虐待通り越して殺人未遂ですらあるのだけれど。

 どうでもいい。どうでもよかった。ブランコの座面に腰を落ち着ける。きいこきいこと軋む音を心地よく感じた。

 樒は遊具の中でブランコが一番好きだ。この無造作に小さく揺れる感じ、金属が擦れて出る軋むような音。座面の木の板の表面の木目。あらゆる面で、ブランコは親しみが持てる。

 ブランコもまた、絶滅危惧の遊具である。勢いよく漕いで飛び降りた子どもが怪我をすることが多いから。立ち漕ぎをして、座面が抜ける危険があるから。理由はまあ、色々とある。ジャングルジムがなくなるよりか、納得のいく理由だ。

 大人は変だ。今時の子どもはゲームばかりする、だなんて、どの口が言うのだろう。子どもから公園を取り上げて、遊具を取り上げて、ボール遊びは危ないだの、ペットは感染症が心配だの、子どもの遊ぶ方法を奪うだけ奪っておいてからに。

「馬鹿なんじゃないの」

 樒は鞄をとさ、と傍らに置いて、ブランコでゆらゆら揺れる。これからどうしよう、とかどうでもいい。明日も学校だけれど、制服がこれではどうしようもない。コンビニで買えるのはせいぜい下着くらいなもので……パーカーとか売っていただろうか。ああでも、あまり財布にお金が入っていないから贅沢はできない。ネカフェが近くにあったような気がするけれど、中学生が一人で入れただろうか。いや、どうでもいい。

 つい、と空を見上げる。あれ、と思った。月も星も見えない。空を雲が覆っている。

「あ」

 ぽつ、と一滴。樒のスカートに染みた。た、たったったっ、たっ……何かのリズムを刻むように雨滴が地面に吸い込まれていく。ぽたぽたと、ゆっくり辺りを濡らしていく。追い討ちのようだった。

 まあでも、恵の雨とも思えた。水気は臭気を洗い流してくれる。いつまでも酒の臭いをさせて濡れているくらいなら、雨に洗い流してもらった方がよっぽどいい。鞄の中身も諦めがついた樒はブランコから立ち上がった。

 夜、雨の公園。会社帰りのくたびれたサラリーマンすら来ないであろうその場所で、樒は踊った。踊りなんて習ったことがないけれど。

 古事記についての考察で、古事記は稗田阿礼が舞踊と共に暗誦したという説がある。その真偽のほどは阿礼の生まれ変わりだというアレンに聞けばわかるのだろうが、それは少し野暮だと思ってしていない。

 日本には民族芸能として、歌と舞を合わせたものが多く残っている。能なんか、和風オペラみたいなものだ。

 歌の意味なんて深く考えずに、何度も何度も見聞きしているうちに、なんとなく覚える。民族芸能はそんなものだ。昔の人が、文字が書けなくても、読めなくても、後の世に伝えられるようにと残したもの。そういう形でなら、舎人という身分の阿礼が日本最古の歴史書たる古事記の全てを暗誦できたのにも説明がつく。

 盲目の琵琶法師たちが平家物語を紡いだのと同じだ。音、音楽で言葉を覚える。意味は後からでもいい。

 樒がぴん、と伸ばした腕の上で、雨粒が弾ける。樒は濡れるのも気にせず、歌い、踊った。アイドルみたいな歌って踊るではなく、日本舞踊もどきだ。

 平家物語を歌って、古事記を歌って、百人一首を歌って。音楽にしてしまえば、すらすらと暗誦できる。覚えることに労はなかった。

 それから、好きな映画の歌を歌った。勉強のために洋画を字幕なしでしか見せられないから、映画を楽しむために、色々な国の言葉を勉強することとなったが、樒はこっそり、地上波放映された吹き替え版のものを録画したことがある。そこで出会ったのが、東雲春子という声優だ。

 彼女は名脇役が多く、主人公の友人だったり、師匠だったりをする。それで、彼女のすごいところは日本語版の歌詞ではなく、元々の歌詞でそのまま滑らかに歌うところだ。

 パンフレットに書いてあった春子のコメント。「この歌は美しいので、そのままを伝えたかったから、リスニングを懸命にして、オーディションで歌ったら、発音いいね、と褒められたのをよく覚えています」……つまりは、音楽とは国境すら越えてしまうものなのだ。

 それはきっと、素敵なことだ。意味をわかってもらえなくても、いつか誰かが調べて明かしてくれるまで、伝えるという意志が根底にある。それはとても素敵なことだ。時空を越える魔法のような術だ。

 歌いながら一回転すると、ぱし、と肩を掴まれた。気づくと降り注いでいた雨が止んでいる。いや、止んでいるのではない。樒の上に、傘が翳されたのだ。

「ちょっと、こんな時間にこんなところで、こんな天気の中何やってるの。えっと、樒ちゃん、だっけ?」

 樒に傘を被せていたのは、春子だった。夕方ぶりである。

 樒は急に気まずくなった。恥ずかしいというか。声をかけられたということは、多かれ少なかれ、見られていたということである。本人に。

「春子さん、えと、あの」

「ほら、話聞くから、鞄持って。ぐしょぐしょじゃない。うちにおいで。傘持ってないの?」

「持ってないです……」

「コンビニのビニール傘買おうか。ほら、行きましょう」

「いや、でも」

「家に帰りたくないんでしょ」

「え」

 春子に迷惑をかけるわけには、というより先に、根幹となる本心を当てられてしまい、二の句が継げなくなる。

 こんな時間──といっても今が何時なのかはわからないのだが──にこんなところで、雨に濡れるがままの中学生の家に帰らない理由は相場が「帰りたくないから」だろうか、と思い至る。普通なら、「お父さんやお母さんが心配しているでしょう」と注意するはずだが、春子はそんな月並みなことは言わなかった。

 やはり、茜という訳ありの養子を持つだけあって、春子自身もかつてそういう苦悩があったのだろうか、とぼんやりしていると、春子に手を引かれる。ブランコの傍らに置き去りにしていたスクールバッグを、どうにもならないことはわかっているだろうに、大きなハンカチで拭いてくれていた。傘も樒の方に傾けてくれる。

 細かな気遣いが、じんわり染みて、目から熱いものが滴った。

 春子はそんな樒をぽんぽんと撫でるだけで何も言わず、ビニール傘を買って樒を東雲家へと招いた。

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