樒と康麿
それから、カインとの交流は密やかに続いていた。カインの不眠症は治らないが、樒と遊んだときだけ、よく眠れるというのだ。
あの顔色の悪い触れれば折れそうな子どものことを少しでも健康にしたかった。だから、樒はたまにカインと遊んでいた。
樒は名前の由来などを調べるのが好きな方だった。だから、カインという名前をすぐに外国人みたいな名前だ、なんて言えた。今時、日本人が外国人みたいな名前をつけるのは普通だ。国際化が進んで、どの国でも覚えやすいような名前にする傾向が強くなっている。女の子なら、アリスとか。男の子のカインもかっこいい名前として受け入れられつつあった。
それでも、カインという名前は残酷だ。有名なのは「カインとアベル」という話だろうか。兄弟殺しの英雄の名前である。
きっと単に呼びやすいからという理由でカインという名前がつけられた。その名前にどんな物語が込められているかも知らず、軽い気持ちで名付けをする親という存在が、樒は許せなかった。兄の康麿のことがあるから尚更。
現実的ではない。ただの虚妄だと一蹴されるかもしれないが、兄がかの太安万侶と同じ音の名を持つが故に、その名に引きずられて、兄の魂とか気質とか、そういったものが兄を完全無欠のような人間にしてしまったのかもしれない。
そういう考えがあるから、そういう考えをしないとやっていけないから、樒は名前という自分では選べないように課されたものを業と捉えるようになっていた。
つまりカインは兄弟殺しの名前だ。カインという名に課された業が、カインに慢性的不眠症という病をもたらしているのではないかと樒は考えた。兄弟殺しをしたカインと稗田カインは違う人物なのに。何故業を背負わねばならないのか、理不尽を感じた。兄の康麿の存在にも理不尽を感じたが、それとは別種の理不尽だ。
樒が憤ったところで、どうにもならない。
無力感に苛まれる樒にカインが姉のアレンのことを明かしたのは、知り合って一年経った頃だ。
「姉貴は、自分を『稗田阿礼』の生まれ変わりだと思っている。そのことで姉貴が思い悩んでいるのを見てられなくて、その精神的負担をどうにかしたくて、僕はいつも悩んで眠れない」
その告白を受けたときから、樒は覚悟をしていた。
もし、樒の仮説、名前の因果というやつが正しいのなら、兄とカインの姉が出会ったら、どうなってしまうのだろうか。
「姉貴の中にいる稗田阿礼は、太安万侶に恋心を抱いていたらしい。それが原因で、阿礼は都を追われた。でも、阿礼の心から消えなかった安万侶への想いと、阿礼が持っていた能力が姉貴を苛んでいるんだ。阿礼の能力は知ってる?」
「確か、書物に触れるだけでその内容を把握できるとか、そんな特殊能力があったという話がどこかの文献にあったわね」
きな臭くなってきて、樒は咥えていた棒つきキャンディを舐めるのをやめた。
「まさか……」
「姉貴は物に触れるとそのものの記憶や未来まで読み取る能力を持っている。書物の中身はもちろん、それを綴った著者の思いまで、明瞭に読み取れるんだ。……そのことに苦しんでいる」
それは、とても人間業ではなかった。
稗田阿礼の生まれ変わりになってしまった業。それがカインの姉を苛んでいる。しかも阿礼は太安万侶への好意を持ったままだ。
カインはぽつりとこぼす。
「太安万侶の生まれ変わりがいたとして、その人に会って、その人を姉貴が好きになったとして……姉貴は幸せになれるのかな。幸せになれるなら、その人を探したい。姉貴に、幸せになってほしいんだ」
そんなカインの切実な思いに、樒は何も返せなかった。
名前の業や因果が作用するのなら。
「樒の苗字が多だからって、こんな話をするのも変だと思うけど」
カインがニヒルに笑ったのを覚えている。
だから樒は今までカインにもアレンにも、兄がいることは教えたものの、兄の名前を教えたことはなかった。何か始まってしまうかもしれない、という、漠然とした恐怖があったからだ。
カインとは普通の友達でいたかった。アレンとは普通の姉妹のような関係でいたかった。因果なんて関係がない、と自分に言い聞かせてきた。
その結果がこれである。
樒は気を失ったアレンを布団に寝かせ、時折魘される彼女から滴る汗を濡れタオルで拭いていた。魘されるアレンからは「やすまろさま……」という声が時折聞こえる。
「ねえ、樒」
障子戸を開けたカインから声をかけられる。
樒はゆっくりと振り向いた。
「どうして、樒の兄貴が太安万侶だって教えてくれなかったの?」
当然の問いだ。樒は胸が張り裂けそうになりながら、用意していた事実を述べる。
「お兄はお姉みたいに前世とかそういうのを語ることはしなかった。ただ名前が同じだけだっていつも否定してた。だから、生まれ変わりだなんて考えたこともなかったし、お兄も自分が太安万侶の生まれ変わりだなんて、思っていないと思う」
だから、因果なんてないんだ、と思っていた。
「太安万侶の容姿なんて知らないよ。だから、似ているなんて思うわけないじゃん。名前だって、親が勝手につけただけだよ。同一人物なんて、思うわけない……」
「違うでしょ、樒」
カインの冷たい声が降り注ぐ。
「樒は思いもよらなかったんじゃない。思いたくなかったんだ」
「……カイン」
「思わないようにしていた。そんなことあってたまるかって。僕たちの関係を変えたくなくて、ずっと目を逸らし続けていたんだ」
「カイン!!」
もうそれ以上言わないで。ウチを苛まないで。罪悪感なんか、持たせないで。
言いたいのに、喉に何かがつっかえて、言葉が出なかった。
もう、外は暗い。
「……帰る」
「樒」
「お兄と話さなきゃ」
樒の言葉に、カインは手を掴まえることができなかった。
樒は鞄を引ったくって、帰っていった。
頭がくらくらする。おそらく、山から駆け降りてきたからだ。高低差で頭がおかしくなっている。そう思うことにした。
ばくばくと五月蝿い心臓を落ち着かせるように、深呼吸を一回……二回……途中でひゅっと変な息の吸い方をしてしまい、樒は噎せる。ひどい気分だった。
カインと喧嘩のようになってしまった。いや、樒が一方的に癇癪を起こした、とも言えるが……友達に変な隠し事なんてするんじゃなかった。
けれど、樒は怖かったのだ。兄を紹介したら、あの姉弟にとって、自分は用済みになってしまうのではないか、と。必要とされなくなるのが怖かった。
玄関の鍵を開けて、ただいま、というのと一緒だ。並んでいる靴の中には、兄のスニーカーがある。いなければよかったのに、と思う。
だが、日も暮れ、月の昇る夜。品行方正の兄が帰っていないわけがないのだ。
「ちょっと樒、また友達の家?」
出てきたのは父でも母でもなく、兄だった。多康麿。樒がこの家で一番苦手な人物だ。
「もうお夕飯できてるよ。樒のこと、待ってたんだ。遅くなるなら、連絡くれればいいのに」
母親みたいなことも、父親みたいなことも、全て康麿が言うようになった。何故なら、両親は樒に興味がないから。一番すがりたくない人物だけが、この家で唯一の拠り所なのだ。
「お兄はいつもそういうけど、ウチがケータイ持つの許されてない理由、知ってるの?」
「え?」
「……アンタのせいだよ……」
震える声は吐息に溶けて、康麿に届かない。樒はぐ、と拳を握りしめた。
「……いつもお世話になってる友達、稗田さんっていうの。お兄、今日そういう名前の女の人に会ったでしょ」
「あっもしかして稗田神社の子? 今日お世話になったんだ。よかったら今度連れてってよ」
康麿の一言に、樒の右拳が飛んだ。康麿はよろけて二、三歩下がる。
手が、じんじんと熱い。指が掌に食い込んでいるはずなのに、痛みを感じなかった。痛くないのに、樒は泣いていた。
「いつも……アンタはいつもいつもそうだよ! 無責任な善意で他人を傷つけてることを知らないんだ!! 誰かが苦しんでいることも、ウチがくるし」
がしゃーん、と今度は樒の後頭部で一升瓶が弾ける。樒は制服も鞄もぐしょ濡れになり、滴る雫からはアルコールのつんとした臭いがした。
目付き悪く、ぎろりと振り向けば、そこには母親の姿。少し赤らんで見えるのは、どこかから流血したからだろう。そんなことで眼力のなくなる樒ではない。
「康麿に何してるの!?」
「アンタは自分の子に何してんの?」
「ちょっと母さん、何してるの!?」
「え、康麿?」
最愛の息子から窘められ、愕然とする女性。この人は一体誰なんだ、と呆然とする頭で考える。
誰でもいいや、と樒は玄関から家の外へ出ていった。逃げるように。冷めた夜へ。