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目をぱちくりとさせ様子を窺っていると、どういうわけか不意に左肩に手をかけられる。軽く浮かされ心持ち右側に体を傾けられるが、相手の意図が読めない。
おとなしく従うと、斜めになった体勢のおかげで長い黒髪が滑り落ち、白い首元が露わになる。そこへ静かに口づけが落とされた。
「やっ」
体が浮き上がっていたのもあり、レーネはそのまま体を翻して隠れるようにうつ伏せの姿勢を取った。纏っていた掛け布はいつのまにか取り払われ、自分だけ心許ない姿をさらしている。
今さら羞恥心に襲われていると、背にしていた気配が近くなり、うなじに生温かい感触があった。驚きで言葉を失っている合間に、肌に添わされた唇がゆっくりと下りて、肩甲骨辺りを軽く吸う。
「っ、んっ……」
今度はさすがに声が漏れた。先ほどと違うのは、痕はつかないほどの塩梅で乱暴さは微塵もない。むしろ丁寧に優しく刺激され、なんだかレーネは泣き出しそうになった。
それをぎゅっと目を瞑って懸命に耐える。しかし視界を遮った分、他の箇所に余計に神経が集中し、ますます自分の置かれた状況を意識せざるを得なくなる。
晒している肌の至るところに音を立てて口づけられ、触れてくる骨張った手は熱を持ったかのように熱い。唇で、舌で、吐息で、肌をかすめる髪にさえ反応し、皮膚が勝手に粟立っていく。
わからない。相手がなにを考えているのか。顔が見えないからだとか、そういう話じゃない。苦しくて、じわじわと追い詰められていく一方でもっとと求めそうになる。
情けなさと共に声も抑えたくて、ベッドに顔を埋めてシーツを掴んでいると、その手に大きな手が重ねられた。
「レーネ」
伝わる体温と耳元で吐息混じりに囁かれた声には、懇願にも似た余裕のなさを感じる。
すぐそばにクラウスの顔があるのに、表情を確認することもできない。それどころか耳たぶに口づけを落とされ、軽く甘噛みされて心が掻き乱されていく。
「ふっ」
くぐもった声が漏れ、とにかく嵐が過ぎ去るのを待とうと身を縮める。すると相手の動きが急に止まった。
密着していたはずの気配さえなくなり、レーネはおそるおそる埋めていた顔を浮かせ、首を少しだけうしろに動かす。
片方の瞳にクラウスの姿を捉えると、彼は切なげに顔を歪めてレーネを見下ろしていた。いつもの不遜さはなく、レーネは信じられない気持ちで瞬きを繰り返す。
そのはずみで目を覆っていた薄い膜が涙として零れそうになった。それを拭うかのごとくクラウスはレーネの目尻に唇を寄せる。
反射的に目を閉じ再び彼女の金の瞳が姿を現したとき、ふたりの視線がぶつかる。時が止まったような感覚。
気づけば唇を重ねられ、レーネもそれを受け入れていた。何度も触れるだけの口づけが繰り返され、まるで大事なものを扱うかのようにクラウスの手はレーネの頬や髪を優しく撫でる。
私を飼い慣らしたいの? 懐柔したいだけ?
愛されていると錯覚するキスに溺れていく反面、レーネの胸には膿んだような痛みが広がっていった。
意識半ばで辺りが明るくなってきたのを感じ、レーネは気だるさの残る体をゆっくりと起こした。
アルント城は街を見下ろせる高い位置にあり太陽の光を受けやすい。歴代に渡り増築を繰り返した結果、要塞を兼ねた石造りの頑丈さと宮殿としての華やかさを併せ持っている。高さの揃わないいくつもの尖塔の青い屋根が特徴だ。
部屋の主はとっくに出ていっており、レーネはとりあえず服を拾って手早く着る。
感傷に浸っている時間はない。自分にはここでするべきことがある。気持ちを切り替えて部屋を出ようとするとノック音が響き、返事を迷っているうちに先に扉が開いた。
初老の厳しい顔をした女性が姿を現す。手首まで覆う飾り気のない濃紺の衣服に白い前掛けを身に纏い、髪は邪魔にならないようきっちり束ねられている。
「おはようございます、マグダレーネさま。移動でお疲れのところ申し訳ありません。陛下から身の回りのお世話を仰せつかりました、タリアと申します」
深々と頭を下げる侍女にレーネは慌てた。これはなんの茶番だろうか。世話役など自分には必要ない。
むしろ自国ではレーネ自身がゾフィの侍女としてずっとそばで仕えて世話を焼いていた。しかしタリアはレーネの心の機微など、まったく気づかない。
「未来の女王陛下にお仕えできること、とても光栄に思います。至らない点もあるかと思いますが、どうぞなんなりと……」
「ちょ、ちょっと待って!」
さらに聞き捨てならない内容が耳に届き、思わずレーネはタリアの言葉を遮る。さっきから誰の話をしているのか頭がついていかない。
女王陛下といえば、レーネにとってはゾフィだ。けれどタリアが指している人物は当然違う。
たしかに自分を妻にするとクラウスは言っていた。とはいえ所詮はあの場での戯れ言だと思っていたのだが……。
「マグダレーネさま?」
タリアが心配そうに声をかけてくる。ここで自分の思いやクラウスとの関係を告げたところでどうにもならない。レーネは諦めて、タリアの指示に従った。
豪華な朝食が用意され、着ていた服は地味すぎると再度着替えるよう要求される。いつも整える側だったのに鏡台の前に座らされ他人に黒髪を編んでもらっているのが不思議でたまらない。
「手筈を整え次第、陛下から正式に結婚の報告がなされると思います。自国とあまり変わりはないでしょうが、早くここでの生活に慣れてくださいね」
タリアの言い分から、レーネが侍女として振る舞っていたとは知らされていないのだと推測する。たしかに国王陛下と結婚するなら余計な事実だ。レーネはノイトラーレス公国の君主の姉、王女として認識されていればいい。
複雑な思いを抱えていると、タリアが思い出したように付け加えてくる。
「陛下からの託けを承っています。『城の中ならどこへ行っても、なにに触れてもかまわない。自由に過ごせ』と」
レーネは目を見開く。クラウスはレーネが探し物をしていると知っていた。そのうえでこの伝言をわざわざ残したのだとしたら、相当な自信だ。宣戦布告とも捉えられる。
「ただし、ひとりでは行動させられません。私が常にお供しますからね」
まずは城の内部を案内すると意気込むタリアをよそに、レーネは悔しさで唇を噛みしめ、目的を達成すべく動き出した。