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意識を手放せないまま馬車に揺られ続け、一行が城に戻ったのは夜の帳がすっかり降りたあとだった。
車内がいくら国王用にと広い造りになっていても、体はどうしても凝り固まる。レーネは自身の肩を揉みつつ夜に輪郭を滲ませるアルント城を眺めた。
これはなにかの夢か。ぼんやりとそれぞれに指示を出すクラウスに視線を移す。いまだに自分の置かれた状況が信じられない。レーネの扱いに関しては一番後回しだった。
「彼女はどうするつもりだ?」
他の面々がいなくなったのもあり、ルディガーは軽い口調でクラウスに尋ねる。
「今から客室を用意させるのも手間だろう。彼女はこちらで預かる」
「陛下のお側におくなど、なにをしでかすかわかったものではありません! 本来なら不敬罪で捕らえてもおかしくない存在です!」
すかさずバルドが口を挟むが、ルディガーが冷静に返す。
「とはいえ仮にもノイトラーレス公国の王女だ。無体な真似は我が国の信用をも落としかねない」
その指摘はある意味、正しい。おかげでバルドは言葉を詰まらせた。
代わりに厳しい眼差しをレーネにぶつけるが、レーネの瞳は虚無に揺れていた。心ここにあらずといったレーネの肩をクラウスが抱く。
「そういう話だ。あとはこちらの好きにする。彼女については明日、改めて報告しよう」
ルディガーとバルドに下がるよう告げ、クラウスはレーネを自室へと誘導する。夜の城はおそろしく静かだ。
見張りの者と何人かすれ違うが、彼らは王の姿を確認するとすぐさま頭を下げ、膝を折る。
建物の構造上、玉座のある謁見の間は門から一番離れた位置に置かれる。従って国王の自室も城の奥にあった。
肩に添えられた手に力強さはないが、有無を言わせない圧力を感じる。衣服越しにでも触れられた箇所から熱が伝わり、じりじりと火傷しそうだ。
これならまだ前回と同様に地下牢に連行された方がいい。そんな憎まれ口を叩く気力も今のレーネにはない。
一際大きな扉には、やはり王家の紋章が刻まれている。双頭の鷲。それを複雑な面持ちで見つめていると、中へ案内されレーネは渋々足を踏み入れた。
洋燈の明かりで灯された王の自室は、自国でレーネに宛がわれていた部屋の何倍もの広さがある。
本棚や机と椅子が手前にあり、奥にはソファや天蓋付きの寝台が配置されている。細かい細工の施された調度品はどれも一流で、赤と金で統一されているのは、玉座と共通している。
クラウスは脱ぎ捨てたジュストコールをソファの背もたれに放り投げ、首元のジャボを乱暴に緩めて外すと、まだ部屋の入口付近で突っ立ったままでいるレーネに視線を向けた。
「いつまでそうしているつもりだ?」
質問に返事はなく、硬い表情をしているレーネにとりあえずこちらに来るよう訴える。するとレーネはしばし迷った末、観念して王の元へ近づいていった。
徐々に距離が縮まり、クラウスの姿がよりくっきりと見える。穏やかな橙色の明かりは心を落ち着かせるどころか不安を掻き立てていく一方だ。
今のクラウスはシャツ一枚に黒のズボンとそこらへんの青年と大差ない姿だ。しかし着飾るものがなにひとつなくても纏うオーラがものを言う。
無造作ながらシトリンを彷彿とさせる美しい髪に、夜の深淵を切り取ったかのような瞳、陶磁器さながらの白く滑らかな肌など、どれをとっても芸術に近いその外貌だけで人々を魅了する。
余計なものがない分、強く確信する。彼は王になるべくしてなったのだ。
あと一歩で彼の手が届く範囲になり、その寸前でレーネは足を止めた。
「……私をどうするつもり?」
冷静に、かつ抑揚なく尋ねた。そこに怯えや不安など一切ない。あくまでも強気なレーネにクラウスは妖しく笑った。
「決まっている。友好の証としてノイトラーレス公国の王女を望んだんだ。妻にする以外になにがある?」
あまりにも予想していなかった回答に、レーネは足元がふらつきそうになるほど激しく動揺した。この男は正気なのか。
狼狽を隠しきれず、今度は素で王に問いかける。
「なにを……考えているの?」
クラウスはなにも言わずに一歩踏み出し、レーネとの距離をあっさりと縮める。そして彼女の細い腰に腕を回して顔を近づけた。
「お前のことだ」
はっきりと告げられた言葉はレーネの胸に突き刺さる。クラウスはわずかに目を細め、慈しむように彼女の頬を撫でた。
「ずっとこの日を待ち望んでいた。お前を手に入れるためなら、なんだってするさ」
言い終わるのとほぼ同時に口づけられ、レーネは瞬きひとつできなかった。
離れた瞬間、抗議しようにもすぐさま唇が重ねられ言葉を封じ込められる。距離を取りたくて足掻くが、逆にさらに腰を引き寄せられ密着する形になる。
せめてもの抵抗にと唇を真一文字に引き結び、受け入れないようにと必死だった。
「レーネ」
ところがキスの合間に耳元で甘く囁かれ、なにかが溶かされそうになる。愛しさの混じる声色は、レーネの心の奥底できつく蓋をしていた気持ちを溢れ出させようとする。
思えば再会してから、彼に名前を呼ばれるのは初めてだ。違うと言ってやりたい。レーネは愛称で正式な名前はマグダレーネだ。
けれど皮肉なことに、親しい者は皆『レーネ』と呼ぶ。だからクラウスがそう呼んでも違和感などない。
「レーネ」
今度は至近距離で、目を合わせしっかりと告げられる。顔を近づけられるものの触れるか触れないかの距離で今度はあきらかにこちらの様子を窺っていた。
そう呼んでほしかった、呼んでほしくない。
深い色を宿した瞳に捕まり、葛藤が押し込められる。レーネはゆるゆると躊躇いがちに目を閉じた。
再び口づけが始まり、唇の力を緩めると先ほどよりも性急に求められる。頬に手を添えられ、角度を変えて重ねるうちにキスはあっさりと深いものになっていった。
馬鹿だ、私。
心の中で自身を罵りつつ、自らも大胆に舌を差し出すと、すぐに絡め取られ器用に刺激され、腔内を侵されていく。
「んっ、んっ」
いつのまにか結んでいたレーネの髪はほどかれていた。長い黒髪が重力に従ってはらりと落ちるが、本人はあまり気にしない。
それよりも翻弄される口づけについていこうと精いっぱいだった。髪に触れていた手はゆるやかに耳に移動し、顔の輪郭をなぞって襟元へとかかる。
一瞬だけ肩を震わせたが、大きく抵抗はしなかった。このあとの展開はいちいち確認するまでもない。今だけ、一度だけだと必死に言い聞かせ、レーネはおとなしく身を委ねた。