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どこまでも澄み渡る青空は、できればノイトラーレス公国まで続いていればいい。レーネは行儀悪くソファに足を乗り上げ、背もたれに越しに見える窓からぼんやりと外を眺めていた。
先ほどから初夏の爽やかな風が青葉の瑞々しい香りを運んでくる。なびく黒髪を無意識に手で押さえたとき、部屋にノック音が響いた。
振り返り返事をしようとするとその前に扉が開く。
「横になっていなくていいのか?」
相手の開口一番の台詞にレーネは思わず苦笑した。
「大丈夫。心配しすぎよ」
クラウスはゆっくりと中に足を踏み入れレーネのそばまで歩み寄ると、彼女の隣に腰を下ろした。そして遠慮なく彼女の頭に触れる。
「そうは言っても、あまり顔色がよくない」
「そんなことない。たた少し残念だなって」
寂しそうに告げるレーネに、クラウスが複雑そうな面持ちになった。なにに対してかを聞くべきか迷っていると、彼の思考を吹き飛ばすかのごとくレーネはひときわ明るい声で続ける。
「だって妹の晴れ舞台よ? 私もゾフィの結婚式に出席してお祝いしたかったの!」
予想外の回答にクラウスは目を丸くした後、安堵混じりのため息をついて微笑んだ。
「挙式前に一度、会いに来るそうだ」
その答えに、レーネは花が咲いたように笑顔になる。
「本当!? よかった。……それにしても、ゾフィの情報はあなたからばかりね」
「なんだ、妬いているのか?」
レーネの頭を撫でながら、からかいを含めて尋ねると彼女はあっさり頷いた。
「うん。私は実の姉なのに」
「そっちか」
呆れた口調のクラウスに対しレーネはおかしそうに笑う。そのまま彼に身を寄せて胸に顔を埋めると、背中に腕を回された。優しい抱擁を受け入れレーネの心は満たされていく。
「嘘。本当は嬉しいの。私がいなくてもあの子が立派な君主になっていて」
レーネもわかっている。ゾフィは私情を挟まずにノイトラ―レス公国の君主としてアルント王国の国王であるクラウスとやりとりしているだけだ。
ゾフィにとってレーネは姉である前にクラウスの妻だ。ならば国王を優先するのは当然だった。それでも彼女たち姉妹の絆が弱くなったわけではない。
私がそばにいなくても、ゾフィはもう大丈夫なんだ。
ゾフィの結婚相手は幼い頃から姉妹に仕えていたレオンだった。レーネがいなくなり拠り所をなくしたゾフィを、レオンはいつも以上に気遣い極力そばにいた。
さらに十八歳の誕生日を迎えて片眼異色ではなくなり、取り乱して落ち込むゾフィの支えになったのもレオンで、ゾフィの中で彼が特別な存在だと自覚するまでにそう時間はかからなかった。
ただレオンがゾフィの気持ちを受け止めるまで少し時間がかかったのは致し方ない。
「まさかゾフィとレオンが結婚だなんて……」
たしかにゾフィはレーネよりもレオンに懐いていたし、彼もまた女王となるゾフィをレーネ以上に気にかけていた。
しかし、それはいわば保護者みたいな存在だとレーネは勝手に思っていたのだが。
「そうか?」
考えを巡らせているレーネに声がかかる。レーネはちらりと上目遣いにクラウスを見た。
「あの男と剣を交えることになったとき、彼女は俺の心配など微塵もせず、彼ばかりを気にかけていた。あれが彼女の本音だろう」
思いがけない指摘にレーネは目を見張る。言われてみればそうかもしれないが、当事者であったクラウスがそこまで見ているとは思いもしなかった。
相変わらず人を、周りをよく見ているとレーネは感心する。
「俺への気持ちは幼い頃によくある憧れというものだ。本気じゃない」
きっぱりと言い切るクラウスにレーネはふと疑問が湧いた。
「憧れと恋ってどう違うの?」
この手の感情に関してはレーネにとってはまだまだ未知数だ。真面目に問われたが、クラウスは渋い顔になる。
「……その問答をしていたら三日三晩かかるな」
「あ、逃げた」
すかさず切り返したが、レーネも突き詰めるつもりはない。わずかに顔を綻ばせ自らクラウスの頬に手を添えた。
愛でも恋でも憧れでもかまわない。どんな想いでもきっと――
「好きな人と一緒にいられるのは幸せなことだから」
ぽつりと呟くと、頬に添えられた手に男の手が重ねられる。
「……お前は、幸せなのか?」
神妙な顔で尋ねられた質問にレーネは目を細める。
「うん。幸せ」
この気持ちは本物だ。それだけは、はっきりと言える。レーネはそっと目線を落として空いている方の手で自身の腹部を撫でた。
「あなたがいて、この子もいるしね」
まだ膨らみはなく正直実感も湧かないが、レーネの中には新しい命が宿っていた。クラウスはレーネの額に口づけを落とすと、口角を上げ不敵に笑う。
「レーネの狼狽え方はなかなかだったな」
「あなたが冷静すぎなの!」
レーネは生真面目に言い返した。




