沖合にて
※性描写を含むので苦手な方はご注意ください。
どこかから鳴き声が聞こえた気がして、僕は船のデッキに座ったまま周囲を見渡した。
クルーザーが船着き場を出発してから二時間ほど経っていた。船は沖合をゆったりとしたスピードで走っている。
それは始め、鳥の鳴き声のように聞こえた。だが、日が暮れ始めた空には、ただの一羽も鳥の姿は見当たらなかった。
僕はそれを認めると、いやあれは鳥の鳴き声なんかじゃなかったぞと思い直した。あれはそう、哺乳動物の鳴き声みたいに聞こえた。例えば、海豹や海驢みたいな鳴き声だ。いや、僕は海豹や海驢の鳴き声などちゃんと聞いたことはないのだが 海の哺乳動物として思い浮かんだのが海豹や海驢だったのだ 、そんな感じの鳴き声だった。だが海豹や海驢がこんな太平洋の沖合にいるわけもない。
とにかくその音は、まるでどこかで笛を吹いているのが聞こえてきたような甲高い音だった。しかし、それでいて細い身体から発されたような力のない声ではなく、しっかりと肉のついた身体から発されたような太さのある声だ。
奇妙なのはその聞こえ方だった。声は耳を介して僕に聞こえてくるのではなく、直接脳の中に響き渡ってきたように思えた。さらに、それは動物が鳴いているというよりも、人間が喋っているように聞こえた。普通、唐突に動物の鳴き声が聞こえても、ただ『鳴き声が聞こえた』と認識するだけであって、その動物が何を考えて鳴いたのかなんてことは意識しないし伝わっても来ない。しかし、その鳴き声からは それがどのようなものかはハッキリしないものの、なにか意志のようなものがあることが感じられた。その鳴き声はそういう漠然としながらも奇妙な感じを僕に与えた。
僕は再び海の方へ向けて耳を澄ませてみた。だが、声が聞こえてきたのはその一度きりだった。
それほどはっきりと聞こえたわけではなかったし、こんな沖に哺乳動物などいるはずもない。風の音かなにかを鳴き声だと勘違いしただけかもしれない。その音がたまたま妙な聞こえ方をしたように感じただけかもしれない。
デッキにいる僕以外の三人に目を向けると、特に周囲を気にする様子もない。なにも聞こえなかったか、もしくは聞こえていても特に気に留めなかったようだ。やはり僕の気にしすぎだったのだろう。
デッキの座席には僕のほかに香菜と雅美が座っていて、船尾の操縦席でラバーを操っている良一と談笑している。その会話の内容は、僕が聞いた あるいは聞いたと勘違いした鳴き声に気を取られているうちに、何についての話なのかわからなくなっていた。僕が一時、会話から離脱した後も、なんの支障もなく会話は続いていたのだ。僕は、きっとこの場に自分がいなくともなにも変わりはないのだろうと思い、無性に虚しくなると共に、来たことを後悔し始めていた。
雅美は良一の彼女だが、香菜までが彼に夢中なように見えるのが気に入らなかった。
僕はもう一度海に目をやった。遥か向こうの水平線上で太陽が沈もうとしている。黒く染まりかけた海のうち、太陽の延長線上の海面にのみ、反射した光の道筋ができていた。僕は、太陽と共に海の彼方に沈んでしまいたいと、その光景を見ながらぼんやりと考えた。
それからしばらく、鳴き声のことは思い出さなかった。
クルージングをしに行かないかと持ち掛けてきたのは良一のほうだった。彼の叔父がクルーザーボートを持っていて、今秋それを貸してもらえるのだという。
良一の叔父は大学の附属病院に勤めている腕の良い外科医で、年収もかなりのものらしい。海辺に別荘を持っていて、年に二回有休をとり、その別荘で二日間ほどの休暇を楽しむのだそうだ。良一の叔父は元々クルージングが趣味で、数年前自分のクルーザーを買ったのだ。良一も何度か乗せてもらい、操縦を教わったりしたことがあったらしい。そして、良一が貸してほしいと拝み倒した結果、一日だけという約束で、特別に別荘とクルーザーを貸してもらえることになったのだそうだ。
大学でつるんでいる男連中で行くのだと思っていた僕は、二つ返事で承諾した。ところが、話を聞くとどうやら雅美が一緒に来るらしい。そもそもクルーザーを借りた理由というのが、良一から話を聞いて、雅美が自分も乗ってみたいと言い出したからなのだそうだ。
僕はまさか良一の恋人が一緒とは思わなかったので、ほかには誰が来るのかと聞いた。しかしほかには誰も誘っていないという。僕は友人カップルのデートにひとりで同行するなど真っ平御免だったので、慌てて断った。
聞くところによると、始めはふたりで行くつもりだったらしいのだが、そのうち折角だから誰かほかの人たちも誘おうということになったらしい。それで僕に声をかけたのだそうだ。
「じゃあ誰か気になる女の子を誘えよ。いい機会だしお前もそろそろ彼女つくれ」
良一はあっけからんとした様子で言った。僕は全く気乗りがしなかったが、彼にしつこく頼み込まれ、しぶしぶと承諾した。
承諾した後、激しい後悔に襲われた。といっても、誘う当てが無いではなかった。香菜は僕と良一の共通の知り合いで、雅美とも幾度か面識があった。それに、個人的に気になる異性でもあった。背は小柄で目は大きくぱっちりしていて顔立ちは幼いが魅力的な女の子だ。だがこの状況で誘えばどう思われるかと考えるとなかなか言い出せなかった。メンバーはすでに出来上がっているカップルを除けば、誘ってきた当人のみ。下心がないと考えるほうが難しいだろう。なかなか彼女に声をかけられないまま、悶々とした状態で数日が過ぎた。ようやく思い切って話を持ち出すと、思いの外彼女は快諾した。
当日は良一の車で現地へ向かうことになった。彼の車は日産の赤いスポーツカーで、しかも今年の初めに販売開始したばかりの新型だった。そのスポーツカーが大学の駐車場に入ってくると、女の子たちは大はしゃぎした。
「良一君って凄いんだね。叔父さんは別荘と船を持ってるし、良一君はこんなに恰好いい車持ってるし……」
香菜にそう言われると、良一は照れ臭そうに笑って見せた。
それは良一ではなく、良一の家が凄いのではないか。僕は面白くなかった。車中でも四人で雑談をしたが、毎回話の中心になるのは良一だった。良一は「彼女をつくれ」なんて言って、僕に香菜を誘わせたくせに、僕と彼女の仲を取り持ってくれるようなことは一切しなかった。別荘に着いて、彼の叔父のクルーザーを見て、その度に場の空気は盛り上がったが、それに比例して僕の中の疎外感はどんどん膨らんでいった。
僕はなぜここにいるのか。良一はなぜ僕を誘ったのだろう。この三人の中に僕の存在を気に留めている者はいるのだろうか。僕は途中からそんなことばかり考えるようになっていた。それは僕と三人の間に溝を掘っていく作業みたいに思えた。重いシャベルで、土を掬い上げては放り投げ、地面を削っていく。溝はどんどん深く広くなっていく。そのうち、溝に水が流れ込んでくる。最初はちょろちょろと少しずつ流れてきた水が、次第に量と勢いを増していき、川になった。川は溝から溢れ出し、その幅をどんどん広げていった。川が広がっていく度に、僕と三人の距離は離れていき、川は湖になり最終的には海になった。そしてもう、そのときには三人の姿は水平線の彼方へと消え去っていた。
船に乗ってから、僕は元々海が嫌いだったことを思い出した。小学校三年生の時に初めて行ったきり、一度も来ていない。
海は死の臭いがする。鼻を刺激する潮の臭いは、死体の腐敗臭のようだ。それに、海では実際にたくさんの人が死んでいる。大時化による船の転覆事故による死者、海水浴中に波に攫われ溺れ死んだ人、人食いザメに襲われて死んだ人もいる。それに、行方不明者だって数多くいる。海の臭いや濁りは、そういった人々の無念がこもっているみたいで酷く恐ろしくなる。
すべての命は母なる海から生まれたというが、僕にとって、海は生まれる所というよりも死んでいく所という印象が強い。だが、生命はそこで生まれたからこそ、またそこに還ろうとするのだろうか。だからこそ、生命が尽きる所という印象が強いのかもしれない。生まれて、死んでいく所であるなら、死んでいく所だと思うのは当然のことだ。命が誕生したという歴史は、必ず後から死の歴史に塗り替えられてしまうものである。生は死に勝つことはできないのだ。
「沢田君、大丈夫?」
突然肩を叩かれ、ハッとした。いつの間にか自分の内側へと向いていた僕の意識は、一瞬で外側へ浮かび上がった。
「ぼうっとしてたみたいだけど、どうかした?」
声をかけてきたのは隣に座っていた香菜だった。彼女は僕の顔を覗き込んできた。
「ああ、ごめん。少し船酔いしたみたいだ」
僕は目を合わせていると、さっきまで考えていたことが見透かされてしまいそうな、一種の後ろめたさを感じ、慌てて少し視線を逸らした。
「平気? 下で横になってきたら?」
「じゃあ、少しの間そうさせてもらうよ」
僕が立ち上がると、香菜は自分のバッグを探りプラスチックのケースを取り出した。
「これ、酔い止め薬。持ってきたから使って」
僕は香菜が差し出したそれを受け取り、「ありがとう」といった。香菜は微笑みを浮かべた。ついさっきまで散々ネガティヴなことを考えていたが、少しでも気にかけてもらえていたことは素直に嬉しく、少しだけ心が軽くなった。
デッキから階段を下のキャビンまで降りた。立っていると床が僅かに揺れたが、さっきまでしていた波の音は聞こえてこなかった。けれど、何だか落ち着かなかった。ここは半分くらい海に浸かっているのだと思うと嫌な感じがした。デッキにいたときは海の上だったのに、天井一枚隔てた空間に降りるだけで海面より深い水位に接することになる。床や壁を隔てているだけで、ここは半分くらい海の中なのだ。しかも、床の下は遥か奥底まで続く深海なのだ。そう考えるとゾッとした。これならデッキにいる方がまだマシかもしれない。
僕は狭いキャビンの中を歩き、これまた窮屈な洗面台の前に立った。プラスチックのケースから酔い止め薬を三錠取り出し、水の入ったコップを片手にそれを飲み込もうとした。
そのときだった。
船体がなにかにぶつかったような激しい音がした。その衝撃と共に船内は激しく揺れ一方に傾いた。バランスを崩した僕の左足が宙に浮き、倒れそうになったが右足でなんとか踏ん張った。左手に持ったコップから水が零れ、僕のシャツに勢いよくかかった。右手に持っていた錠剤は手から零れ、カランカランと音を立てて洗面台に落ち、排水溝の中に吸い込まれていった。
傾いた船体はもう一度水平に戻ろうとし、今度は逆方向に傾いた。僕は頭から洗面台に突っ込みそうになったが、陶製の縁に手をついてそれを阻止した。船はその後も揺れ続けたが、最初のときのように大きく傾くことはなかった。僕は洗面台にしがみついて揺れが収まるのを待った。
一体なにが起こったのだ。僕は努めて平静を保ちながら考えた。
クルーザーがなにかと衝突した。そうに違いない。だが近くにぶつかるようなものなどあっただろうか? ついさっき降りてくるときには、船や陸地などは見当たらなかった。そもそも、ここは海岸から二時間以上も離れた沖なのだから、岩場などもあるはずがない。では、一体なにと衝突したのだろう?
揺れは収まったが、船は進行を止めていた。さっきの揺れのせいで、通路のキャビネットが開いて中の救急道具などが散らばっていた。僕は物を踏まないよう、足元に注意しながら通路を進んだ。
そういえば、デッキにいた三人は大丈夫だろうか。耳を澄ませると声が聞こえてきた。女の声。香菜か雅美、どちらかの声だ。なにやら慌てているように聞こえる。
僕は上に向かって、どうかしたのかと声を張り上げた。しかし聞こえていないのか、あるいは応える余裕がないのか、返答はない。僕は嫌な予感がした。急いで上へ行こうとしたが、さっきの激しい揺れでバランス感覚がおかしくなっていて、ふらついて思うように前に進めない。もう一度呼びかけるが、やはり返答はない。僕はよろめきそうになる足を踏ん張って、なんとかデッキへと続く階段までたどり着いた。階段に手をついて、這い蹲るような姿勢で階段をよじ登った。
デッキには、下半身を横たえて上半身だけを起き上がらせている雅美の姿があった。身体のどこかを船体に打ち付けたらしく顔を顰めている。雅美は僕と目が合うと、船尾の方を指差した。
「良一が落ちたの」
そちらの方に目をやると、香菜が船尾のところで、船に這い上がろうとしている良一を引き上げようとしていた。僕はデッキに出ると、香菜に手を貸して良一を引き上げた。
「大丈夫か?」
「ああ、平気だ」
良一は甲板にへたり込むと、弱弱しく震える声で答えた。髪や服から水滴を滴らせ、唇は紫色に変色している。
「畜生! 寒い」
いつの間にか日はすっかり見えなくなっていて、空は漆黒に染められていた。もう十月だったし、夜になって冷えた海水はさぞかし冷たいことだろう。僕は着ていた上着を良一に差し出し、良一はそれで身を包んだ。雅美はぶつけたらしい脛を懸命に擦っていた。
「一体なにがあったんだ」
「わからない。途中まで何事もなく進んでたのに、いきなりなにかにぶつかったみたいに凄い衝撃がきたんだ」
「座礁とかじゃないの?」
雅美が言い、良一は海水をたっぷり吸い込んだシャツを絞りながら答えた。
「周りを見れば岩場はどこにもないことがわかる」
海はまったく静かで、辺りにはなんの気配も感じられなかった。
良一は再び船を動かそうと、船室に入りクルーザーのエンジンキーをまわした。しかしエンジンはかからない。もう一度試してみたが、船外機はうんともすんとも言わなかった。さっき、船体がなにかと衝突したときになにかしらのエンジントラブルが発生したのかもしれない。
「どうするの」雅美が声を震わせながら言った。「私たち戻れないってこと?」
「落ち着けよ。待ってればきっと船が近くを通るって。今夜通らなくても、遅くても明日の朝には、漁船かなにかがこの辺りを通って見つけてくれる筈だ。そうずれば、沿岸警備隊を呼んでくれて、俺たちは陸地に戻れる」
良一は自信たっぷりにそう言ったが、その後顔を顰めた。
「ああ、この船が俺のじゃないってわかったら面倒なことになるかもな。叔父さんには日没以降は海に出ないって言ってあったんだ。これがバレたらきっとこっ酷く叱られるだろうな……。くそっ、なんて運が悪いんだ」
海は暗い夜空の色に染められていて、空との境界線もはっきりしない。何も見えない無機質な闇がどこまでも平べったく続いている。僕たちの乗っている船は海面に浮いているというよりも、闇色の巨大な球体の内部に閉じ込められているように感じられる。時折静かに打ち寄せてくる波の音で、そうでないことはわかるが、周囲のその光景を見渡すとどこまでも心細かった。
それから交代でひとりずつ甲板に残って、近くを船が通らないか見張ることになった。最初に良一が見張りをすることになり、残りの僕たち三人はキャビンに降りることになった。
時刻は八時半。寝るにはまだ早過ぎる。僕たちは持参したトランプで大富豪やババ抜きをして遊ぶことにした。
トランプは大いに盛り上がった。僕は、海の上のこの特殊な状況下で高揚しているのか、今日一日の欝々とした気分などすっかり忘れて大はしゃぎした。トランプでは僕か雅美が一番になり、香菜はほとんどの場合ビリで、僕はそれをからかったりした。トランプに飽きると三人で雑談をし、僕はいつもより快活に、饒舌になった。普段僕は話の中心になることは少ないが、ふたりは相槌を打ったり笑ったりして僕の話を熱心に聞いてくれた。
僕は意識せずに、香菜の方ばかりを向いて話をしてしまう。香菜も、僕の言葉に対して感じよく返答してくれるため、僕が香菜の方を向く頻度は益々多くなった。次第に、会話は自然と、僕と香菜ばかりが話すようになった。雅美は、最初のうちは適当に相槌を打っていたが、そのうち退屈したように欠伸をし、ソファーの上に横になった。けれど、僕はそれでもまったく構わなかった。
先ほどの不安と緊張は早くも僕の中から消え去っていた。むしろ僕は、この非常事態を楽しむようになっていた。良一の言っていた通り、朝までには誰かが見つけてくれると信じていたからだ。もし万が一、船がこの近辺を通りかからなかったとしても、良一の叔父は今日僕たちがクルージングに出ていたことを知っている。明日になっても甥と連絡がとれなければ、不審に思って通報するだろう。このまま見つけられることもなく海の上を漂うことになる心配はまったくないと言っていい。
なにより、こんな非常事態であっても誰かが傍にいるということは大きかった。先程はとてつもない不安と心細さを感じていたが、そういう状況下だからこそ、人の温もりに触れていると、普段は意識することがない、他人が傍にいることの安心感を一層感じられて心強かった。
思ったままのことを香菜に言ってみたが、返ってきたのは意外な答えだった。
「それは違うんじゃないかな。人ってさ、誰かといる時の方が孤独だよ。本当は孤独ってひとりでいる時に感じるものじゃなくて、他人と一緒にいるのに、本当は一緒にいると思い込んでいただけだったんだって気づいた時に感じるものなんだよ。だから誰かといることって、ひとりでいることより失望させられるし、心細いことなんだよ」
思いがけない答えに、僕は一瞬香菜を怒らせてしまったのだろうかと思ったが、彼女の声色も表情も、驚くほど平坦で無機質だった。彼女の言っていることは分かるような分からないような気がしたし、僕の言ったことに対する返答としては大いにずれているような気もした。けれど、僕はそれ以上なにも言わず、何だか気まずくなりかけた会話を軌道修正した。
会話の途中で僕は、トイレに行ってくる、と席を立った。すると香菜も上の様子を見てくると言って立ち上がった。
トイレから戻って数分が経っても、香菜は戻ってこなかった。しばらくキャビンの中にいたから外の空気でも吸っているのだろう。雅美はすっかりソファで眠りこけている。それからさらに五分経った。良一と話し込んでいるのかもしれないと思い、僕も行ってみることにした。
デッキに顔を出すと香菜の笑い声が聞こえてきた。ふたりは船尾のところに並んで腰かけて話している。ふたりの様子はなにやら、かなり親し気な雰囲気に見えた。僕はふたりに近づこうとした。
そのとき、良一の片腕が香奈の背中を上り、彼女の肩に触れた。それはかなり自然だった。自然で違和感はないが、なにか特別な意味の込められた触れ方だった。僕は思わずその場で動きを止めた。香菜は自分の肩にまわった腕に気づいたはずだったが、嫌がるそぶりはまったく見せなかった。まるで何事もないかのように、そのまま笑って喋り続けた。
ふたりと僕の間に、目に見えないが明確な壁が築き上げられたような気がした。ふたりが僕に気づいた様子はない。しかし、なにかはっきりとした拒絶のようなもの、こちらに入り込んでくるなと言わんばかりの空気を、ふたりから感じた気がした。
僕は落胆した。そういうことだったのだ。僕はひとりで勝手に舞い上がっていたに過ぎない。月明りに照らされた海面を背景に並んだふたりの背中を見ながら、キャビンでの香菜とのやりとりを思い出した。あの会話も、香菜からすればなんてことないものに過ぎなかったのだろう。当然だ、だって香菜はただ相槌を打っていただけじゃないか。僕がひとりで勝手に盛り上がっていただけなのだ。
そう思うと恥ずかしくてたまらなかった。それと同時に、僕の内から黒いものが静かに湧き上がってくるのを感じた。香菜も雅美も、良一のどこかそんなにいいというのだろう。少し顔立ちが良くて、家が裕福だというだけではないか。家がいいのは良一自身の長所じゃない。それに、そのふたつを除けば奴は大したおつむもないチキン野郎じゃないか 。今まで自分でも意識したことがなかった良一への負の感情が一時に溢れ出してくる。普段彼を羨むことはあれ、ここまで嫉妬の感情がむき出しになったことはなかった。僕は香菜に対しても八つ当たり的な苛立ちを感じた。同時にそんな自分の感情に嫌気が差した。
僕はあまりの惨めさに、今すぐ海に飛び込んでしまいたかった。ふたりが気づかないうちに、そっと。こんな惨めな思いをしているよりも、その方がマシに思えた。そして彼らが、僕がいなくなったことに気がつき、青ざめるところを想像した。けれど自分で飛び込んだとは思われたくない。だから、事故で落ちたのだと思ってほしかった。
僕は少しの間海面を見つめ、項垂れたまま、ふたりが気づかないうちにキャビンに戻ろうとした。
そのときだった。僕は、海の中に『それ』を見た。
海から目を逸らそうとしたとき、暗い海面のすぐ下に真っ白い影のような物体が浮かんでいるのを僕は視界の端で捉えた。
『それ』はクルーザーから数十メートル離れた海面をゆっくりとこちらに向かって漂ってきてた。僕から見えている大きさと、船とその物体の距離から考えて『それ』はかなりの大きさであるようだった。
僕ははじめ、『それ』を鯨だと思った。
全長二十メートルほどの白い鯨。
鯨など直接見たことのなかった僕は、驚きと興奮で息を呑みつつ食い入るように見つめた。『それ』はどんどんこちらに近づいてきた。それに従って朧気だった『それ』の姿が段々はっきりと見えるようになってきた。
そして、目を疑った。
『それ』の頭部は鯨ではなく、人間のそれに酷似した形をしていた。幅の広い胴体よりも少し小さめの丸形が付きだしていて、その付け根は人間の首回りと同じく頭よりも細くなっている。雪のように真っ白で、毛は一本たりとも生えていなかったが、それはまさしく人間の頭と同じ形をしていた。ただ、恐ろしく大きかった。
そして、頭部の下に生えているもの。それを僕は鰭だと思っていたが、そうではない。それは腕だった。白くて巨大な腕は肘の所で折り曲げられ、頭と首の両側の境目に両手の甲が並んでいる。手には五本の指がちゃんとついていて、腕以外の何物でもなかった。
だが『それ』には、足はなかった。胴体は後ろへいくほど細くなっていき、身体の一番下は尾鰭になっていた。尾鰭は水平についていて、そこだけまさしく鯨のようだった。
僕は夢でも見ているような心地で、突然現れたその正体不明の生物を見つめていた。といっても、僕には生き物を見ているという感覚はまるでなかった。不思議なことに、『それ』からは生き物のしなかったのだ。どちらかというと、幽霊みたいに朧気な存在のように思える。その理由のひとつに、『それ』が驚くほど白い姿をしていることが言えるのではないだろうか。真っ黒な海面に浮かぶ白い姿。暗闇の中の白という光景は、闇夜に浮かぶ白い服を着た幽霊の姿を思わせる。それに、白という色はどうしても死を連想させるのだ。ホラー映画に出てくる幽霊は、大抵白い服を着て登場する。死人に着せる経帷子もやはり白だし、死人の顔は白くなる。何より白という色において重要なのはその特異性だ。今、暗黒の海の中に『それ』の姿がくっきりと浮かんでいるように、白はほかの色と違って黒に取り込まれないのだ。絵具で黒とそれ以外の色を混ぜる時も、黒に取り込まれず、影響を与える色は白だけだ。それがとても異質に感じられる。そして、闇に浮かぶ白というのは一層、不気味さを際立たせる。
『それ』が生き物に感じられない理由はもうひとつある。『それ』は海中を進んでいるのに、まったく身体を動かしていないという点だ。普通は水棲生物であっても、尾鰭を動かして水中を泳ぐだろう。しかし『それ』の尾鰭は微動だにせず、腕もただの飾り物であるかのように固まっている。身体をまったく動かさずに進む様子は生きているようには思えず、やはり幽霊そっくりに思えてしまう。
『それ』は船に近づきながら、段々と海面から下へと潜りはじめた。『それ』の幻想的といえるほど白く巨大な肉体は、漆黒のなかへと徐々に沈んでいった。暗い海の底に消えていく様子も、幽霊が消えるように静かで、ゆっくりとした消え方だった。やがてその姿は漆黒の海の底へと消え、完全に見えなくなった。
僕はそのまま眼下の闇を見続けていた。そこはブラックホールだった。ブラックホールは僕が今立っている船体の下でどこまでも果てしなく広がり続け、船の周りを取り囲んでいた。これから僕たちは、船ごとこの無限に広がる闇のなかに引き摺り込まれるのだ。その現実から眼を背けることを許されないかのように、僕は恐るべき暗黒から目を逸らすことを許されていなかった。そして、たった今そこに吸い込まれていった『それ』の姿を思い浮かべた。
自分でも不思議なほど無感動で空虚な僕の心臓が、少しずつ鼓動を早めていくのが感じられる。僕は高揚していた。今ぼくは、これまで誰ひとりとして見たことのないものを見たのだ。その姿は神秘的とすらいえるものだった。僕はそれに魅せられてしまった。
僕は興奮気味に、デッキにいるほかのふたりに今見たものを伝えようと振り返った。そうするまで僕は、起きている異変に全く気づいていなかった。
船尾に腰をかけていた香菜と良一はいつの間にか立ち上がり、デッキの中程まで後退していた。ふたりは肩と肩が触れ合うほどくっつき合って、忙しなく、不安気に周囲を見渡していた。僕はふたりを真似して周りを見回すまでもなく、なにが起こっているのか見えていた。しかしそれがどのような意味を持つのかは全くわからなかった。
船の周囲を、光が取り囲んでいる。それは海から筋となって船体よりも高い位置まで伸びていた。幾つもの光の筋は、ひとつひとつが綺麗に横並びになって壁を形成している。僕がさっきまで見ていた方にも眼を遣ると、そこにもいつの間にか光の壁が出来ていた。船を囲む光の壁は次々と色を変えていく。ピンク、赤紫色、赤茶色、緑色、緑白色。そのひとつひとつの色が自らの存在を強烈に主張し合っている。まるでオーロラのような神秘的な光は、その強烈な輝きで僕の眼を焼いた。
周囲は不気味なほど静かだった。僕も香菜も良一も、誰ひとりとして声を発さない。いや、もし発していたとしても僕は気づかないだろう。静かな筈なのに、船の上は音で溢れているからだ。光の発する音で溢れているのだ。それは直接耳に聴こえる音ではなく、視覚的な音だ。光が主張することで生まれる打撃が、僕たちのあらゆる外的感覚を感じ取る身体的機能を支配し、錯覚を起こさせているのだ。
異変を感じて起きたらしい雅美がデッキに顔を出し、そのままその場にへたり込んだ。しかし僕たちの誰もそれを気に留めなかった。僕たち全員が、今起きている現象を飲み込んで、科学的に解明する方法を混乱する頭で模索していた。だがそんな方法など見当たる筈もなかった。僕たちは今目の前で起きている事象を受け入れることを先延ばしにしたいだけなのだ。だから頭をフルで回転させようと躍起になる。答えを探そうとすることに気をそらせるからだ。
香菜が身を竦め、良一が安心させるように彼女の肩に手を回した。そんなふたりの様子を、雅美は呆然とした表情で見ている。
僕はふと、香菜は初めから良一が目当てで誘いに乗ったのかもしれないなと、ぼんやりと思った。雅美は、女にしてはそのへんの勘が鈍かったのかもしれない。僕は彼女に同情した。僕たちふたりは負け組同士というわけだ。
どれくらいそうして立っていただろうか。三十分か一時間くらい経過したような気もするが、実際は数分しか経っていなかったのかもしれないし数十秒も経っていなかったのかもしれない。
ふいに香菜が、ゆっくりと光の壁に近づいていった。そして船尾の所に座り込み、下の海面を覗き見た。「危ないぞ」と良一が肩を掴んだが、彼女には聞こえていないようだ。僕もそちらに近づいて、香奈のもう一方の肩越しに覗き込んだ。
光の壁が透けて、その向こうの漆黒の海面が見える。どうやらこの光は、このクルーザーの下から発せられているようだった。僕たちが立っている真下の海底に光源があるのだ。そしてそこは、ついさっき『それ』が潜っていった所だった。
香菜は、微動だにせずに光を発する海面を見続けていた。
「綺麗……」香菜は小声で言った。「ねえ、こっちを見てるわ」
なにが見ているのだろうか。僕は香菜の視線の先を覗き込んだが、海の中から鮮やかに輝く光以外のものは見えない。
僕は今更になって、起きていることの異常性を認識し始めた。そして麻酔から覚めて麻痺していた感覚を取り戻すかのように、不安を感じ始めた。
デッキの方を振り返ると、雅美は未だに呆けたような表情でこちらを見ている。その視線は香菜と良一のどちらに向けられているのか、それとも僕に向けられているのか、判別し難い。良一は香菜の肩に手を置いたまま固まっている。なぜか彼まで魂が抜けきったかのような表情をしていた。
香菜は相変わらず、海面から目を離そうとしない。その眼にはなにか、恍惚としたものが宿っているように思えた。海の中のなにかに魅せられているみたいに。
僕はもう一度海面に目を遣った。すると、なにかごく小さなものが浮かんでいるのが見えた。なんだろうと目を凝らした。
それは錠剤だった。小さくて白い、一粒の錠剤。それはさっき、香菜が船酔いをした僕にくれ、船がなにかに衝突した時に、その衝撃で洗面台の排水溝のなかに落としてしまったあの錠剤だった。それがなぜ海面に浮いているのだろう。排水管のなかを通って、どこかから海に排出されたのだろうか。錠剤は少しの間、海面にぷかぷかと浮かんでいたが幾度か波に揺られ、見えなくなった。
僕は急に激しい嘔吐感に襲われた。海のなかに吐き出してしまいたかったが、なんとか堪えた。
「こっちを見てる……」
また香菜が言った。その声音からは、どこか嬉しそうな響きが感じ取れた。
彼女の口の端がつり上がっているのが見えた。彼女は笑っていた。眼には光が反射して、光は眼球のなかで次々と色を変えている。
「私を見てるわ」
ふいに、香菜が海面に向かって手を伸ばした。光を透過している海の水に触れようとしているようだったが、船の上からでは届く筈もなかった。僕は「よせ」と言って彼女を止めようと手を伸ばした。
僕の手は香菜を僅かに掠って宙を空振りした。
伸ばした僕の指の先で、香菜の丸まった背中が前へ傾いていく。香菜の身体はそのまま、でんぐり返しでもするみたいに前へ転がった。その動きはスローモーションで見ているようにゆっくりだった。一瞬、反転した香菜の目が僕の目と合った。彼女は、まるで夢から覚めた直後のようなキョトンとした表情をしていた。僕は反射的に伸ばした腕で彼女の手を掴もうとしたが、手の先は再び宙をかいた。直後に、バシャンと水面を激しく張った音がして飛沫が高く上がった。
その途端海面で強烈に輝いていた光が、静かに、波が引いていくように消えていった。光が完全に消え去ると、海は元の静寂を取り戻した。
静寂に石が投じられるように、香菜が海面でもがく音が聞こえてきた。僕は彼女を引き上げようと手を伸ばした。『それ』は先程見た時と同じく、まったく身体を動かさずに香奈めがけて進んでいた。
その時、僕は初めて『それ』に恐怖を覚えた。
香菜が弾かれたように悲鳴を上げた。
急に香菜の周囲の海が煮え立つかのように激しく泡立ち始めた。香菜は泡の中で溺れそうになりながら必死にもがいている。
『それ』は海面から顔を突き出して、泡の中でもがく香菜をすぐそばで見つめていた。僕は初めて『それ』の眼を見た。眼球は深い黒で、虹彩は血のように赤い。その眼はまるで笑っているように見えた。
今度は背後から雅美の悲鳴が聞こえてきた。
次第に香菜の腕はもがく動作をやめ、彼女は顔の下半分まで海水に浸かった。水が口に入り込んでいるのだろう。悲鳴も聞こえなくなった。香菜のパンプスとストッキングが海面にぷかりと浮かんできた。香菜はついに頭まで海の中に沈み込んでしまい、長い髪が散らばっているのだけが見える。泡立ちは未だに収まらず、そこから今度は香菜のズボンが浮かび上がった。
僕は理解した。香菜はただ沈んでいるのではなく溶けているのだ。彼女の身体はあの泡の中で海水となって、この広大な海と交わってしまっているのだ。
ようやく泡立ちが収まると香菜の姿はどこにもなく、彼女の衣服だけが海面に浮かんでいた。『それ』は再び海に潜り、暗い海の底へと消えていった。
僕と良一は青ざめた顔で香菜の衣服を見つめながら立ち尽くしていた。雅美は半狂乱になりながら叫び続けていた。
良一が怒鳴った。「うるさい、黙れ、黙るんだ!」
「でも、でも……見たでしょう? 何かがいた。だって、眼が、眼が……。それに、人が溶けて……」
雅美はまた叫びだした。スイッチを押すと叫ぶ機械の人形みたいだった。
「黙れと言っただろ! さもないと海に放り投げるぞ!」
彼女は叫びだしたときと同じように、機械的に叫ぶのを止めた。
「畜生。なんだよ、ありゃあ。あんな化け物がいてたまるか」
良一は独り言のように呟いた。
夜の海とはこれほど静かなものだろうか。もはやここが日暮れまで僕たちが航海していた海と同じだとはとても思えなかった。僕たちはなにかの拍子に全く異なる次元の海に迷い込んでしまったのだろう。だから『それ』が現れたのだ。
ふいに衝撃が訪れた。船体が激しく傾いた。それは先程の衝撃よりも遥かに激しい揺れだった。巨大なものが船底を思い切り突き上げたような衝撃だ。船外に放り出されそうになる。僕はほぼ倒れ込むような形で手摺に掴まり、船体に両手首を酷く打ち付けた。視界の端を良一の身体が転がっていく。良一は何かに掴まろうと必死に手を振りまわしていたが、デッキの床を虚しく滑るだけであった。彼は海面に放り出された。
僕はかろうじて甲板から投げ出されずに済んだ。雅美はキャビンへの入り口にしがみついていた。
先程の衝撃で船が動いたからか、良一と船の間隔はそれなりに離れていた。船体の下から、再び『それ』の姿が浮かび上がってきた。『それ』は相変わらず身体を動かさず、見えないなにかに引っ張られているかのように一定の速度で良一に向かっている。
船尾から身を乗り出し、良一に向かって「逃げろ!」と声を張り上げて警告した。行ってから。どこに逃げればいいのだろうと思った。
僕の声にハッとした良一は、水面下に現れた『それ』に気づくと、青ざめた顔で反対方向に向かって泳ぎだした。しかしそちらの方向には、夜空との境界も曖昧な、漆黒の海がどこまでも続いているだけだ。良一が上がるための陸地などはどこにも見当たらない。良一は両腕で交互に、懸命に海面の水を掻いている。運動が得意な良一は元々泳ぎも得意だが、急に海に投げ出されたうえに気が動転しているためか、さほど早く泳げていない。対して、『それ』は速度を緩めることもなく、良一との距離を着実に詰めていく。たとえ、良一が本調子で泳げていたとしても、追いつかれるのは時間の問題であっただろう。
やがて、海面から『それ』の海坊主のような姿が突き出した。『それ』は良一のすぐ後ろについていた。良一は恐怖のあまり振り返れなかったに違いない。半分は諦めつつも生への執着を捨てきれず、泳ぎ続けたのだろう。
『それ』が良一に向かって手を伸ばし、彼の胴体ほどもある巨大な掌で彼を捕らえた。その時にはもう、良一の姿は『それ』に隠れて見えなくなっていた。だが、『それ』の身体越しに見える水飛沫や気配で、抵抗し、もがいているのがわかった。『それ』は良一を後ろから抱きすくめるかのように、彼を包み込んだ。香菜のときと同じように、海面が激しく泡立っているのがわかった。
いつの間にか僕のすぐ後ろに来ていた雅美が、泣きながら僕の背中に縋りついた。僕のシャツを掴みながら顔を背中に擦りつける。あんまり力強く縋るものだから僕は船から押し出されそうになり、デッキに手をついて、背中で彼女を押し返すようにしながら身体を支えなければならなかった。その間も『それ』から目を離さなかった。
やがて泡立ちが収まった。
ふいに肩まで海面から出ていた『それ』の頭がゆっくり空を向いた。すると、不気味な笛のような音が辺りに響き渡った。その音には聞き覚えがあった。日暮れ時に僕が聞いたなにかの鳴き声だ。
冷たいものが背筋を這い上がっていくのがわかった。鳴き声は『それ』のものだったのだ。『それ』はあのときから僕たちの近くにいたのだ。そして、ずっと僕たちを襲う機会を待っていたのだ。船にぶつかってきたのも『それ』だったのだ。
『それ』の鳴き声は、続いて数度響いた。透き通るような高く美しい響きにも関わらず、その音にはどこかゾッとさせるものがあった。その美しい鳴き声が、あの恐ろしい生き物から発せられているというアンバランスさも、その要因なのかもしれない。
ひとしきり海に鳴き声を響かせた後、『それ』は再び静かに海中へと潜っていった。海は静寂を取り戻した。
しばらく周囲を警戒したが、その後『それ』は一向に現れる気配を見せなかった。それでも、またいきなり船にぶつかって僕たちを海に振り落とそうとするかもしれないと考え、僕と雅美は夜が明けるまでキャビンに籠ることにした。
僕はラウンジのソファに膝を抱えて座り、時が過ぎるのを待っている。雅美は奥のベッドの隅で、頭まで毛布に包まって縮こまっている。先ほどまでと比べると落ち着きを取り戻したようだったが、それでもまだかなり怯えていた。怯えようでいうなら僕も他人のことは言えない。平静を保とうとしていたが、先程の光景やあの鳴き声が、どうしても脳裏に焼き付いて離れなかった。
「一体なんなの? あの化け物」震える雅美の声が聞こえてきた。
「わからない」
「海にあんなのがいるなんて聞いたこともない。海には常にたくさんの船が行き来をしているのよ? なのに、あれだけ巨大な生き物が今まで発見されなかったなんて、あり得ると思う? あんなのが目撃されたら世界中で大騒ぎになる筈だし、私たちだって知らないわけないわ」
「たしかに、今では人類は海のたくさんのことを知っているかもしれない。でも、すべてを知り尽くしているわけじゃない。むしろ、この広大な、陸地よりも遥かに広い海全体に比べたら、僕たちが持っている海の知識なんて多分十分の一にも満たないと思う。今もっている知識だけで全てを知ったように思ってしまうけど、それは思い込みで、実際には知らないことの方が遥かに多いんだよ。だから、人類が行き着いたことのない海に、さっきのやつみたいなのがいたとしてもおかしくない。それが気紛れかなにかでこんな太平洋の沖合に現れて、僕たちは偶然それに出くわしたのかもしれない」
「じゃあ、知られていなかっただけで、どこかの海にはあんなのがほかにもいるかもしれないってこと?」
「その可能性は十分にある。現にアイツは、今までこの海のどこかにいたんだ。ずっと長い間ね 何十年、何百年、あるいは何千年かもしれない 。誰にも見つからずに……。あるいは、今までに何人かはアイツの姿を目撃し人がいたかもしれない。でも、人間ってのは自分たちの常識内に当て嵌まらない物事はなかなか認めようとしないものなんだ。ほとんどの人は、人類がこれまでの歴史で知り得なかった存在なんて、この世にはもう無いと信じ切っているか、人類の理解を遥かに超えたものがあると考えると恐ろしくて仕方がないから、そんなものあるわけがないと必死に自分に言い聞かせているんだ。だから、そういう存在が少しでも垣間見えると、そんなわけない、嘘だ迷信だ勘違いだと必死に否定する。もし、今までにあの生き物が目撃されたことがあったとしても、遠目からとか、海の中に薄っすら見えたとか、そういう形で目撃されたんだろう。そうすれば、目撃した人はただの見間違いだったんだ、で片付けることができるからね。でも、アイツはいた。人類がこれまで知り得なかった存在なんて、きっとこの世にはまだまだいるんだ。人間の知識も科学、未知の存在に対しては全く無力なんだ。ただ見たことがないからという理由だけでその存在を否定しようとするのは傲慢だよ」
そう。『それ』はずっと長い間、海のどこか深いところで生き続けてきたのだ。人間と海洋生物が混ざったような気味の悪い姿もさることながら、オーロラのような光を放ったり、人を海水に溶かしてしまうあの恐ろしい能力。あれは生き物の枠組みも、自然の常識すらも超えた存在だ。何らかの理由で突然変異を遂げたか、あるいは地球外からきたのかもしれない。どちらにしても、あのような姿で海の環境に適応するには相当な時間を費やしたに違いない。
もしそうだとして、『それ』が僕たちの船を狙って襲ったのだとしたら、今までにも人が『それ』と接触し、襲われたというケースがあったのではないか、と僕は思い至った。だとすれば、その人々は香菜や良一のように消されてしまったと考えるのが自然だ。
僕はかの有名なマリー・セレスト号事件を思い出した。十九世紀、ポルトガル沖で発見されたその船から、船員たちが忽然と姿を消してしまっていたという事件だ。船内には食べかけの朝食や、書きかけの航海日誌など、直前まで人がいた形跡があり、さらには救命ボートもすべて使われずに残っていたという。こういった不可解な謎を残しながら、この事件の真相は現在に至るまで全く解明されていないが、発見される前、その船の船員たちが今の僕たちと全く同じ状況下にあったと考えると、説明がつくのではないだろうか。
ほかにも、海ではこれまで不可解な遭難による行方不明事件が多数起こっている。〈魔の三角地帯〉と呼ばれる海域も存在し、そこでは特にそういった事件が多く起きているようだ。マリー・セレスト号が発見されたのもその海域である。
もし、『それ』が古くから存在していた生き物だとしたら、先程この船を襲ったように、これまでにもたくさんの船を襲ってきた筈だ。だが、『それ』の存在は人々に認知されることはなかった。襲われた者たちは、皆物言わぬ存在となって海に溶け込んでしまったからだ。
一体どれほどの船がこの広大な海で消え、どれほどの人々が飲み込まれていったのだろう。人々が認知していない分も含めれば、一体どれほどの数にのぼるのだろう。その全てに『それ』が関わっているとまでは言わないが、いくつかはそうであるのかもしれない。
『それ』は一体何なのだろう。僕の頭に『それ』の正体についてひとつの可能性が浮かんでいた。
『それ』は元々人間だったのではないだろうか。あの姿といい、あの鳴き声。まるで何らかの感情が備わったようなあの鳴き声は、『それ』が人間だったからこそ出せるのではないか。『それ』はほかの人類より何倍も速く進化を遂げた姿なのかもしれない。だとしたら『それ』は人類の未来の姿なのだろうか。全ての生き物は海から生まれたから、海に還るべきだということだろうか。あるいは、『それ』は海という死の呪縛に捉われた姿なのだろうか。
突然、冷たいなにかが僕の片手に触れた。
思わず悲鳴をあげそうになったのを寸でのところで堪えた。
いつの間にか僕のすぐ隣までにじり寄っていた雅美が、僕の片手に手を触れていた。その手はまるで死人のように冷たく、ぶるぶると震えていた。
「私、怖いよ……」
かぼそく震えた声で雅美が言った。その声は今にも消え入りそうに聞こえた。
「私たち、死んじゃうのね」
「そんなことない。きっと助けが来てくれるさ」
しかし、そんな僕の言葉は全く説得力を持たず、虚しく響くだけであった。雅美は諦めているかのように力なく首を振った。
あれから永遠にも感じられる時間が過ぎ去ったように思えるのに、外はまだ暗く、時刻はまだ真夜中だった。近くを船が通ることもなく、助けを呼ぶ手段もない。僕たちはたったふたりきりで、どこまでも続くような真っ暗な海の上にいるのだと改めて思い知らされた。しかも、周囲の海にはまだ『それ』がいて、襲撃の機会を狙っているかもしれない。
雅美は僕の手の甲に置いていた手をその腕に這わせた。僕の腕をひんやりとした手が昇っていき、肘の所にしがみついた。彼女は腕に密着するように僕に寄り添おうとする。ぴったりとくっついているのに、それでもまだ足りないというように僕にその身体を押し付けてきた。
自分の置かれた状況を再認識し心細くなっていた僕は、思わず彼女の身体を抱きしめていた。雅美の身体は服の上からでもわかるほど冷たかった。彼女は縋るように僕のシャツの背中を引っ張る。まるで引きちぎらんとするみたいに。
「抱いて……」
ほとんど聞こえないような声で雅美は言った。しかし、彼女がそれを望んでいるのは明らかだった。そして、僕もそうだった。
雅美を愛おしいと感じたわけではない。ただどうしようもなく不安なのだ。不安で怖くてたまらないから、唯一傍にいる人間の温もりを感じたくて堪らないだけなのだ。それは彼女も同じだろう。
僕たちはほとんどお互いの身体を引き摺るようにしてベッドまでたどり着いた。僕と雅美は自分の身体を投げ出すようにベッドに倒れ込んだ。僕は彼女の中に入った。
それは冷たい交わりだった。彼女の身体と同じように冷たかった。そしてどこか空虚で、目を覆いたくなるような感じがした。それでも止められなかった。僕はその交わりの中心を突いた。そこだけは温かかった。
僕は突くのと同時に顔を上げた。ベッドの上には、船体に沿って長方形の窓が取り付けられていた。その枠の中に、終わりがないかのような闇の世界が広がっている。そこにぼんやりと白いものが浮かんでいた。
『それ』が幽霊みたいに海上からこちらを見つめているのだ。『それ』は上半身をほとんど海面から突き出していた。そして、ゆっくりとだがこちらに近づいてきているように見える。僕は動きながらも、『それ』から目を離すことができなかった。
やがて、『それ』の周囲が発行し始めた。香菜が海に落ちた時と同じ光だった。次々に色を変えながら強烈に輝く光。僕はその光をじっと見つめた。そこに吸い込まれていきそうな感覚だった。
僕は水中を泳いでいた。
しかし、そこには海中のような暗さも深さもなく、太陽の光が差し込んでいて明るい。潮の匂いもしなかった。
そこはプールの中だった。僕はプールの水面を、両足で交互に打ち付け、腕をしなやかに動かしながら軽快に進んでいった。後ろにはほかに何人か泳ぎ進む者たちがいたが、僕の方が数倍も早く確実にその距離を広げていった。
壁に手をつくと同時に笛の音が鳴り響いた。
プルーサイドに上がった僕を待っていたのは群衆の拍手と歓声だった。ドーム型の巨大な観客席に大勢の人が所狭しと蠢いている。拍手したり、興奮して叫んだりする人々の姿はまるでひとつの生き物みたいに見えた。
灰色の空にオーロラが、半透明の生地で出来た色を変えるカーテンのように、ゆらゆら揺れながら輝いていた。プールサイドは一面氷に覆われている。いつの間にか、観客席の周りも、どこもかしこも氷に覆われていた。けれど少しも寒くなかった。
氷上の表彰台に立たされた僕の所に、女の子がふたりやってきた。ひとりは黄金色のトロフィーを僕の腕に抱えさせてくれ、もうひとりは緑色のレイを僕の首にかけてくれた。彼女はその後、僕の頬に優しく触れるだけのキスをした。
人々の歓声は止むことを知らなかった。誰もが僕に注目し、僕を称賛していた。
それは夢のような快感だった。
気がつくと僕は果てていた。
まるで夢から覚めた後のような虚無感に襲われた。僕は沈み込むようにベッドに倒れた。雅美がゆっくりと目を開け、そして突然凄まじい悲鳴を上げた。
僕は驚いて跳ね起きると、雅美が目を向けている方に目をやった。
窓のすぐ外から『それ』が中を覗き込んでいた。ほとんど窓に顔を張り付けんばかりにして、丸く大きな赤い眼をこちらに向けている。雅美は再びパニックになって這い回り、ベッドから転がり落ちた。
僕は酩酊状態のように、酷くぼんやりしていてその場から動けなかった。『それ』を間近に見ても不思議と恐怖は湧いてこなかった。
僕は、『それ』が放った光を思い出した。あの幻はこいつが見せたものだったのだ。
『それ』が今度は窓を海水に変えて僕たちを捕らえてしまうか、船ごと沈めてしまう気なのだろうと思った。しかし、『それ』は静かに窓から離れていき、再びどこかへ消え去ってしまった。
それから、僕と雅美は台所とトイレが隣り合っている部分の、窓が目に入らない位置に隠れていることにした。
雅美は先程までよりも冷たくなり、顔は青ざめてしまっていた。なにやら凄く具合が悪そうな様子であった。毛布を何枚も持ってきて包ませたりしたが、震えはまるで収まらなかった。しかし、暖房設備などもないのでこれ以上できることはない。
キャビネットの救急箱にも役に立ちそうな薬なども入っていない。この船の中ではまともな処置など出来はしないだろう。医者に見せる必要がある、と考えて、直後に医者に見せられるだろうか、と思った。もはや無事に発見されて陸地に戻ることすら絶望的であるように思える。
それでも、僕はミノムシみたいに毛布に包まっている雅美をひとまず置いて、外の様子を見るためにデッキに出た。いつのまにか空は薄明るくなっていた。暗闇を水平線の向こうからまだ見えてもいない太陽が照らし、光と闇のふたつの色が混じりあって灰色になっている。その光景に、不思議と安堵のような感情が沸き上がってきた。
甲高い鳥の鳴き声が聞こえてきた。見上げると上空三十メートルほどの所に鳥が数羽飛んでいた。海猫だろうか。ほかの生き物を見るのがとても久しぶりのことのように感じた。白い数羽の鳥たちは、そのしなやかな翼を真っ直ぐに伸ばして同じ方向へ 微かに日の光が差し込み始めた地平線の方へと滑空していく。
鳥たちが飛んで行った方向に、太陽が姿を現し始めたのが見えた。そこに、なにやら黒い小さな物体がぽつんと浮かんでいる。僕は目を凝らしてその物体を見つめた。浮標か小さな島だろうかと思ったが、その物体は動いているようだった。水平線に対して平行に、顔を出し始めた太陽の中を横切っていく。
僕は飛びすさるような勢いでデッキから船室に入ると、中に置いてあった双眼鏡をひっつかんだ。再びデッキに戻ると先程の方角に双眼鏡を向け、ふたつの円筒形のガラスを覗き込んだ。双眼鏡を動かしながらそれを探していると、さっきの物体が見つかった。相変わらず、それは僕の視界を横切っていく。今度はそれがはっきり見えた。
船だ。
僕は狭いデッキの上を反復横とびでもするかのような、馬鹿みたいな動きで飛び上がった後、入り口の壁に激突しながら船室に転がり込んだ。そして、計器類の上に取り付けられたお粗末な警笛装置を鳴らした。ブォーン、と壊れかけのラッパのような耳障りな音が響き渡る。僕は更に立て続けに三度鳴らした。ブォーン。ブォーン。ブォーン。
頼む。気づいてくれ。
祈るような思いでもう一度双眼鏡で見ると、船の進行方向がこちらに向かって角度を変え始めていた。こちらに気づいたのだ。その途端、僕の心は一気に深い安堵感に満たされ始めた。深い闇の牢獄にいるかのような長い一夜を経て、はじめて僕の心に光が差し込んできた。ようやく帰れるのだ。
僕はしばらく恍惚とした気持ちに浸っていたが、下にいる雅美のことを思い出し彼女にも知らせてやらなければと思った。
キャビンへの階段を降りながら雅美を呼んだ。返事はない。眠っているのかもしれない。あるいは返事もできないほど具合が悪くなっているのだろうか。そう考えながら階段を降りきると、降ろした片足の踝のあたりまでが水に浸かり、飛沫が跳ねた。
僕は急のことで足を水にとられ、そのまま水の中に倒れこんでしまった。床に手をついて身体を支えたが、勢いで顔が水面擦れ擦れのところまできて少し水を飲みこんでしまった。慌てて体制を立て直しげほげほと咳き込む。水は塩辛い味がした。
キャビンの中はどこもかしこも水浸しになっており、まるで浅めの池のようだった。そして潮の匂いに満ちている。水は、船が波で揺られるのに呼応するようにゆらゆらと揺れている。自分も海の一部なのだと主張しているかのようだ。僕のいる階段の下からは、通路の向こうの狭いキッチンスペースが見える。そこに僕が雅美にかけてやった毛布が、厚みで半分ほど水に浸かっていた。雅美はどこにもいなかった。
僕は状況を察知すると同時に、何が起こったのかをほとんど理解していた。それが確信に変わったのは、毛布の下に雅美が来ていたピンク色のセーターが見えたときだった。それは消えてしまった主を探すかのように、微妙な浮力でゆらゆら揺れる毛布の下から顔を出した。
ああ、人間の身体のほとんどが水分で出来ているというけれど、そのすべてが水に変わってしまったらここまでの量になるものだろうか?
僕は雅美の中に浸かっているのだ。そう思った途端、僕は急激に吐き気を催して、先程飲んでしまった水をすべて、胃の中から吐き出そうとするかのように、腹から喉にかけて絞るように力を入れながら咳き込んだ。しかし僕の口からは、鳥の首を絞めたような嘔吐く音が漏れるだけであった。さっき僕は雅美を飲んだのだ。雅美の一部が僕の胃のなかで揺れている。
雅美はせっかく海水になったにも関わらず海に還れないことを嘆くかのように、ゆらゆらと揺れ、哀れっぽく壁に当たっては微弱な飛沫をあげて弾け飛んだ。僕は雅美と繋がっている。雅美が僕の髪や顔や身体すべてに触れ、溶け込もうとしている。
僕はついに耐え切れずに悲鳴を上げ、時折躓きながらデッキへ続く階段を無我夢中で這い上った。そしてデッキの上に倒れこんだ。僕の身体から滴となった雅美が滴り落ち、デッキの床の上に広がっていく。僕の心臓は凄まじく冷たい恐怖と嫌悪で鼓動を高鳴らせ、掠れた喘ぎ声が絶え間なく口から洩れた。
僕はよろよろと身体を起こすと、手摺を掴んで凭れかかり、縋るように海を見た。もうさっきの船がすぐそこまで来ているはずだ。
だが船はどこにも見当たらなかった。そんなはずはない。さっき確かに見たのだ。僕は動揺してあちこちに目を凝らして船を探した。
見つかった。船はさっきと同じく水平線に平行に、海の上を横切っていた。さっき進路を変えたと思っていたのに、船は当初の進路のまま海を進んでいる。こちらに気づいたのではなかったのか。僕の勘違いだったのだろうか。まさか、そんな馬鹿な。船はどんどんこちらから遠ざかっていく。
待ってくれ。
絶望的な気分で船室に飛び込むと、再び警笛を鳴らした。何度も何度も無我夢中で押した。だが船は速度を緩めることもなくどんどん遠ざかっていく。船との距離はさっきよりも更に開いてしまっていた。僕は子供のように半べそをかきながら、それでも警笛を鳴らし続けた。ブォーンと耳障りな音が辺りに虚しく響き渡った。
「置いていくな! こっちへ来て僕を助けてくれ!」
だが僕の掠れた哀願の叫びなど届くはずもない。船は小さな黒い点と化し、やがて見えなくなった。
僕はその場にへたり込み、声を殺して泣いた。
馬鹿め。なぜちゃんと船がこちらに向かっているか確認しなかったんだ。
自分の短慮を嘆いても、もう後の祭りだ。僕は、僕に気づかずに去った船を呪い、いるかどうかもわからない神を呪った。どうせ助けてもらえないのなら、なぜ無駄な希望を持たせたのだ。こんな形で裏切られるのなら、始めから希望など持たなければよかった。雅美のように諦めていればよかったのだ。
僕はここで死ぬのだと思った。もう帰れないのだ。誰もいないこの広大な海の真ん中でひとりきりで死んでいくのだと思った。
ふと、船の後方から、白く巨大なものがこちらに向かって進んでくるのが見えた。『それ』は海面から顔を突き出してこちらに向けている。あの赤い眼が僕をしっかりと捉えているのがはっきりとわかった。
なんでお前が来るんだ。
ふつふつと静かな怒りが沸いてきて、僕は『それ』を睨み付けた。
「来るなよ!」
靴の裏で床を力任せに蹴りつけながら怒鳴る。激しい音と共に船体が微かに揺れる。だが『それ』は相も変わらず、一定の速度でこちらに向かってくる。
「来るな! お前なんかどっかに行っちまえ!」
『それ』の眼が段々と大きく見えてくる。まだそれほど近くに来ていないのに、眼だけがはっきりと見えるのが不思議だった。
僕は水中を泳いでいる。
素晴らしい快感。
拍手。喝采。
皆が僕を見ている。
僕はその途端、自分は一体何に希望を持っていたのだろうと思った。
あの船に助けられたとして、帰れたとして、元の生活に戻れたとして、それが一体何だというのだ。なにも変わらないじゃないか。また同じ日々が続いていくだけじゃないか。この船の上で起きていたことと同じではないか。勝手に期待を持って、勝手に裏切られて、勝手に憎む。そんな道化みたいな、虚しい日々が続いていくだけではないか。今まで気づいていなかっただけで、ずっとそうだったではないか。この船であったこととなにもかわりはしないではないか。そんな日々に戻ることに、どんな希望が見出せるというのだろう。
僕はそんなことを望んでいたのではなかったのだ。
『それ』はまだまっすぐ僕を見つめている。僕も『それ』の真っ赤な目をじっと見つめた。
お前は……。
僕は自分でも思いがけず、『それ』のことを考え出した。『それ』はずっと長い間、この広い海の中でどう生き続けてきたのだろう。不気味な姿をして、人間を消してしまう化け物。人間でもなく、動物でもない存在。もし、味方などなくずっと生きてきたのだとしたら、僕と同じように孤独だったのだとしたら。
お前は、僕が好きなのか?
急に、『それ』の赤く大きな無機質な眼が、悲しみを帯びた光を宿しているような気がした。顔を歪めることも、涙を流すこともないのだが、なぜかそんな気がしたのだ。
僕は、『それ』に消されてもいいような気がしてきた。ほかの三人のように海水にされて、永遠に海を漂うことになってもいいのではないかと思った。だって、期待して裏切られるだけの現実よりも、アイツが見せてくれる幻の方がよっぽどいいじゃないか。
『それ』と船との距離はかなり縮まりつつあった。あと一分もしないうちに、『それ』は水面から身体を出し、僕をあの大きな手で包み込むだろう。そして、僕を海水に変えてしまうだろう。僕は海の一部となって、『それ』と一緒に海を漂うことになる。
それも悪くないかもしれない。
苦しいのだろうか。香菜はもがいていた。たぶん、凄く苦しいのかもしれない。でも、その瞬間さえ過ぎれば楽になれるだろう。
それに、アイツは僕に同情してくれるのではないかという気がする。もしかしたら、僕には苦しくないようにしれくれるんじゃないだろうか。だってアイツは優しい幻を見せてくれるのだ。
きっと優しくしてくれるだろう。さっきのような幻で、すべての苦しみから解放してくれるだろう。
『それ』はもう間近に迫っていた。今度は『それ』の眼が本当に大きく見えている。『それ』が海面から白く大きな両手を出し、船の上の僕に向かって伸ばしてきた。僕はその間、『それ』の眼の奥をじっと見つめていた。あの優しい幻を探すかのように。
完
この作品に登場する怪物は、海の都市伝説で知られるUMAのニンゲン/ヒトガタをモデルにしました。
もしかしたら本当にそういう生き物が自分たちの知らないところで生きているのかも……と思うと、恐ろしくもあり、魅力的でもあり……。
そういったことを感じながら読んで頂けたら幸いです。