被災したF-2B戦闘機は恋する少女の夢を見る
あれから5年経った今も、あの日のニュース写真は目に焼き付いている。
突如町を襲った大地震。
間髪入れずに襲ってきた大津波。
それから逃れて、何とかたどり着いた避難所で、苦労して充電したスマホで僕はそのニュース写真を見てしまった。
泥に呑まれた、自衛隊の航空基地。
取り残されたF-2戦闘機達。
そして。
建物に頭をぶつけて力なく横たわる、泥まみれのF-2が1機。
その機首に書かれた文字は、114。
僕はその写真が信じられなかった。
航空自衛隊・松島基地。
そこが、一番身近にあった自衛隊の基地だったというのもあるけど。
建物に頭をぶつけたF-2は、僕が一番親近感を感じていた機体だったから――
* * *
僕の地元にある航空基地、松島基地は、アクロチーム・ブルーインパルスがいる事で有名な基地だ。
もちろん、いるのはブルーインパルスだけじゃない。
戦闘機パイロットを育てる部隊もいて、選び抜かれた学生達が戦闘機パイロットを目指す最後の関門となっている基地。それが松島基地なのだ。
僕が幼稚園児だった頃、そんな松島基地に新型機が配備された。
それが、F-2。
F-16をベースに開発された日本初の多用途戦闘機で、『平成の零戦』なんて呼び方もされる。
松島にもパイロット養成用として配備された事に、僕は喜んだものだ。
何せ2人乗りの訓練用とは言っても、練習機じゃない本物の戦闘機。
まだ世界のきな臭さを知らなかった、この頃の僕にとって、戦闘機はヒーロー同然の存在だった。
それに、F-2は他の戦闘機にはない青系の迷彩――洋上迷彩が塗られていて、それがかっこいいとも思ったのだ。
幸運にも、その年の松島基地航空祭ではF-2のコックピットが早速見学できるようにされていた。
僕は父さんと一緒に、F-2の横から伸びる長蛇の列に並んで見に行く事にした。
その間、僕は尾翼や胴体に書かれた数字がふと気になった。
「ねえとうさん、あのすうじ、なに?」
「あの数字か? あれはね、『シリアルナンバー』っていうんだ」
「しりある、なんばー?」
「戦闘機の名前みたいなものだよ。同じ数字の機体は、1つもないんだ。ほら、あっちの機体とこっちの機体とじゃ、数字が違うだろ?」
「ほんとだー」
僕はこの時初めて、製造番号というものを知った。
今まで意識した事もなかったカクカクしたフォントの数字の並びに、初めて興味を持った瞬間だった。
「えーとこっちのは、にー、さん、はち、いち、いち、よん……」
だから、僕はこれからコックピットを見る事になるF-2の尾翼に書かれた数字の並びを、がんばって読んだものだ。
そして、遂にコックピットを見学できる時が来た。
「うわあ……!」
よくわからないスイッチやディスプレイが並ぶ新時代のコックピットを見て、僕は興奮した。
動かし方は全くわからないけれど、とにかくかっこいい。それだけだった。
そして興奮のあまり、僕は見張っている自衛隊員さんや父さんの目が逸れた隙を突いて、こっそりコックピットに飛び込んだ。
でも、当然ながら失敗。
見事にバランスを崩して、僕は不格好な姿でコックピットに座ってしまった。
その状態で座れたのは、ほんの一瞬だけ。すぐつまみ出されて父さんや自衛隊員さんに怒られたのは、言うまでもない。
でも、父さんは僕の事を頭ごなしに怒らなかった。
「いいか。乗り物はね、自分の事を気持ちよく使ってくれる人に操縦されたいって思ってるんだ。なのにお前はあんな迷惑な事して勝手に乗ろうとしたんだから、114号さんはきっと怒ってるぞ。乗りたいんだったら、ちゃんと勉強してパイロットになってから出直してこいってね」
あまりに正論過ぎて、僕は反論できなかった。
ヒーローだと思っていた人に、迷惑をかけてしまった。
そう思って反省した僕は、
「ぼくのなまえは、キヨト・ユウです。つぎはちゃんとパイロットになってからのります。ごめんなさい114ごうさん」
と、機体の正面でぺこりと頭を下げて謝った。
なんで自己紹介までしたのかはわからないけど、見ていた客からはくすくすと笑われた事を覚えている。
これが、このF-2・114号機との運命の出会い、と言ってもいいかもしれない。
僕は別に、戦闘機がかっこいいとは思っていても乗りたいと思っていた訳じゃなかった。
でも、人には一度人前で宣言した事は絶対に成し遂げようとする性質があるらしい。
何より、一瞬だけでもあのF-2のコックピットに座れた事は、恥ずかしくもあったけど忘れられなくて、不謹慎だけどもう一度乗れたらなあって思っていた。
その度に脳裏に浮かぶのは、『乗りたいんだったら、ちゃんと勉強してパイロットになってから出直してこい』という父さんの言葉。
だから、思ったのだ。
もし自分が本当に自衛隊のパイロットになって、あの114号機に乗れたら、「小さい頃、ちょっとだけだけどこいつに乗った事あるんだぜ」って自慢できるんじゃないかって。
気が付くと、僕は将来の夢に『自衛隊のパイロット』と書くようになっていた。
勉強はもちろん、体力もいるって聞いたから体力作りも熱心にやっていた。
他にも、カメラやアマチュア無線の使い方を父さんから教わって、休みの日になったら松島基地の滑走路近くまで行って、F-2の写真を撮りに行くようになった。
基地から離着陸するF-2が、見られるかもしれないからだ。
戦闘機のフライトは不定期なものだから、毎回来た時に飛んでくれるとは限らないものだけど、だからこそF-2が動いている所をカメラに収められた時の味は格別だった。
特に、あの114号機を見られた時は、猶更。
目の前を114号機が移動していく様子が見られた時は、写真を撮るのはもちろん、思わず手を振っていたものだ。
気が付けば、114号機は思い入れの深いF-2になっていた。
うまく撮れた114号機の写真はスマホの壁紙に設定して、眺めながらいつか本当に乗れたらなあ、と本気で思っていたものだ。
そのせいで、「ユウは戦闘機に恋してるのか?」と友達にからかわれる事もあったけど。
これって、人に置き換えたら恋してるって事になってしまうのだろうか。
でも、その夢はあの震災で脆くも打ち砕かれた。
憧れていた114号機は、痛々しい姿を写真にさらけ出して、飛べなくなってしまった。
修復されるかどうかはわからない。
ニュースでは状態の良い機体だけ修復するって報道されていたから、あれだけ盛大に被害を受けた114号機の修復を絶望視する声を、ネットで多く見た。
そして、被災した松島基地はしばらく使えなくなる、F-2パイロットの養成に大きな制限がかかって、狭き門になってしまうとも――
何より、僕自身も大切な家族を1人なくしてしまった。
「父さんは後から行く! だからユウは母さんを頼む!」
そう言って僕達を先に逃がし、家に残った父さんは、今も行方がわかっていない。
家自体が潰れた訳でもないのに。
追って家から逃げようとしたけど間に合わず、津波にさらわれたのかもしれない。
今でも思う。
あの時、どうして無理やりにでも父さんを連れ出そうとしなかったんだって。
そう、僕は弱かった。
避難生活している間も、ずっと誰かに助けられっぱなし。
何もできなかった。
誰も助けられなかった。
明日ちゃんと家に帰れるのか、そもそもまた普通に暮らせるかどうかさえわからなくて、不安に押し潰されそうになる毎日。
母さんがいくら無事を祈っても、全然帰ってこない父さんの事を、自然と諦めていく自分。
だから、いつの間にか思っていた。
こんな弱い僕に、自衛隊員なんて務まるのかなって。
松島基地の様子を見に行く余裕もなくなっていく中で、僕の夢は次第に風化していった。
気が付けば、将来どんな学校に進学するのかなんて、どうでもいいと思うようになっていた。
周りに立ち入り禁止の場所が増えた事もあって、写真を撮りに松島基地に行く事もなくなっていた。
でも、スマホの壁紙だけは、そのままにしていた。
元気に飛べていた頃の114号機の写真を見る度、複雑な気持ちになっていたけど、どうしても変える事ができなくて。
そのまま、5年の月日が流れていった。
僕にとっては、空白の5年って言ってもいいかもしれない――
* * *
空は曇っているけど、僅かながら日が差し込んでいる。
この日、復興した松島基地では、他の基地に避難していた部隊が帰ってきた事を記念して、復興感謝イベントが開かれた。
この基地では、6年ぶりの航空祭。
僕は運よく抽選に当たって、このイベントに行く事ができた。
久しぶりにF-2やブルーインパルスが、松島の空で飛んだ。
ジェットエンジンの轟音を響かせながら優雅に飛ぶ姿を見て、多くの人達は喜んでいたけど、僕はどうも素直に楽しめる気になれなかった。
せっかく持ってきたカメラも、ほとんど使う気が起きないほどに。
まず、展示されている機体が航空祭にしては少なくて、妙に寂しい事。
それもそのはず。この松島基地の舞台しかいなくて、よその基地から来た機体が全くなかったから。
そしてもう1つは、自衛隊――いや、軍事の世界そのものに小さい頃ほど魅力を感じなくなった事。
軍事の世界に、正義も悪もない。
右も左も自分の主義主張を押し通すために、気に入らない相手の粗探しをして、徹底的に叩く輩ばかり。
人間は、自分の欲を貫くためなら、どこまでも残酷になれるという現実に、年を重ねて気付いてしまったのだ。
それでもここに来たのは、飛行機自体が好きだったからだろう。
今見ても、F-2はかっこいい戦闘機だと思うから。
でも、飛んでいる姿を見ると思ってしまう。
戦闘機は人殺しの道具だ。
そんなものに、どうして人は魅せられるんだろう、なんて。
ああ、ダメだダメだ。
こんな変な事ばかり考えるなんて、最近の悪い癖だ。哲学者じゃあるまいし。
なら、こんな所にだらだらいないで、もう帰ろうか――
「ユウ、ユウ、キヨト・ユウ」
と。
誰かが僕を呼んでいる。しかもフルネームで。
ここに自分の知り合いなんていたっけって考えるより先に、体が反応した。
「あ」
振り返った瞬間、僕は息を呑んだ。
そこには、1人の女の子がいた。
背中まで下ろした長い髪は、黒髪にメッシュなのか青い部分が多く混ざっている不思議なカラーリング。
さらに、アルファベットのOか数字の0かはわからないけど、円の形のイヤリングを耳に付けている。
服装は肩が首元ごと露出しているゆったりしたワンピースで、青を基調にした配色と相まって涼しそうな印象。
顔立ちはクールそうだけど、性格が冷たそうには見えない。
何というか、透き通った氷のようなきれいさを持つ人だった。
正直言って、こういう女の子に会うのは初めてで、自然と体が硬直してしまった。
「やはり。そなたがキヨト・ユウなのだろう?」
女の子は妙に古臭い言葉遣いで、僕に問いかけてくる。
「え、そう、だけど――?」
「久しぶりだな。しばらく見ない内に随分と立派になったではないか、ユウ」
女の子は表情を少し緩めて、どこか嬉しそうに話しかけてきた。しかも下の名前で。
立派になったなんて面と向かって異性に言われるのは、恥ずかしい。
でも、僕はこの女の子に見覚えが全くない。
小学校の頃の同級生かなと思ったけど、こんなにきれいな人がいた覚えなんてない。
「ひ、久しぶりって、どうして僕の事知ってるの? どこかで会った事あったっけ――?」
すると、女の子はずい、と一歩僕に近づいてきて、顔を覗き込んでくる。
整った顔が迫ってきて、思わず少しだけ身を引いた。
「ユウ、私の事を忘れたのか? いつもこの基地に来ては私の事をカメラで追いかけていただろう?」
「へ――!?」
言ってる事が、わからない。
この松島基地で女の子をカメラで追いかけていたなんて、心当たりが全くない。
いたとしたら、そいつはとんでもない変態だ。
見れば、近くを通りかかっている人が不審者を見るような目で、僕を見ている。
「な、何言ってるんだ!? 僕はストーカーとか盗撮なんてする趣味ないです、全然!」
なぜか敬語になっちゃったけど、人違いされているとしたら大変だ。
こういうものは、例え冤罪でも警察に連れて行かれたら最後だって話を聞いた事がある。
だったら、何とかして無実だと証明しないと――!
「……何訳のわからない事を。いつも堂々と撮りに来ていたではないか」
でも、女の子はクールな表情のまま目を細めて、さらにとんでもない事を言った。
「堂々と、撮りに来ていた……!?」
ますます話がわからなくなってくる。
女の子の写真を堂々と撮りに来るって、どういう事なんだ?
そんな趣味の悪い事した覚えなんてもちろんないし、そもそもそんなアイドルのカメラマンみたいな人が、なんでこの基地に来る必要があるんだ?
頭がこんがらがってきた時。
「まさか、『次はちゃんとパイロットになってから乗ります』と言った事も、忘れたのか?」
女の子の言葉で、こんがらがっていた思考が、一気に初期化された。
「え……!?」
次はちゃんとパイロットになってから乗ります。
それは、僕の知り合いでも知っている人がほとんどいない、小さい頃に言った言葉だ。
それを、この子はどうして――
「どうして、その言葉……!?」
「どうしても何も、私に言った言葉だろう?」
私に、言った?
そりゃ、近く通りかかった人が聞いていた可能性はあるけど、自分に言った言葉なんて解釈する人なんかいないはず。
あれはF-2戦闘機に言った言葉で、女の子に対して言った言葉じゃない。
そもそも、女の子に乗るなんて、言葉の意味からしておかしいし……
この子は一体、何者なんだ?
わからなくなった僕は、観念して名前を聞く事にした。
「ダメだ、降参だ。君は誰なの? 名前聞けば、思い出せるかも」
「……仕方ないな」
ふう、と女の子は呆れたようにため息をついた。
「私には、人間でいう名前などない」
「名前がない……?」
「だが、『23-8114』という番号ならばある」
「え……!?」
それは、まさに衝撃だった。
人が番号を名乗るなんて事にも驚きだけど。
その番号が、自分にとって馴染みのある番号って事に、もっと驚いた。
自分が小さい頃、勝手に乗り込もうとして謝った、あの戦闘機。
この基地に来ては、カメラで撮ろうとしていた、あの戦闘機。
いつか本物のパイロットになって乗りたいと思っていた、あの戦闘機。
そう考えれば、女の子が言っていた事も全部辻褄が合う。
「やっと思い出してくれたか?」
女の子の表情が、緩んだ。
僕の考えていた事が、正解だと言わんばかりに。
という事は、という事は――!?
「23-8114って、あのF-2の……!?」
「そうだ。私はF-2戦闘機B型の114号機だ。そなたと話がしたくて、こうして会いに来た」
「え、ええ――!?」
僕は、頭の中が真っ白になってしまった。
「ひゃ、ひゃ、ひゃ、ひゃくじゅう、よん号機……」
頭を落ち着かせるために、番号を復唱する。
信じられない。
あのF-2が、こんなにきれいな女の子になって現れる、なんて。
僕は、夢でも見ているのか?
でも、女の子は114号機じゃないとわからない事を確かに口にしていた。
何が何だかわからないけど、本当の事だと信じるしかない。
とにかく落ち着こう。
向こうも、何か不思議そうに僕の事見ているし、何か答えないと――
「えーっと――じゃあ、君の事はなんて呼べばいいんだ?」
最初に浮かんだのは、なぜかそんな疑問だった。
「普通に114号で構わぬが」
「いや、人を数字で呼ぶなんて、なんか抵抗があるし……何かニックネームって――ないか」
何かニックネームとか付いてなかったかな、と考えて、すぐに諦める。
アメリカ軍のB-2爆撃機には、全機に『スピリット・オブ・●●号』というニックネームがついているという話を聞いた事がある。
でもそんなのは、稀な例だ。戦闘機でニックネームが付くのは、ほんの一握り。ましてや自衛隊でニックネームがついた戦闘機なんて、ほとんど聞かない。
だから、ニックネームを付けるとしたらここで考えるしかない。
とは言っても、いいニックネームなんてすぐに思いつかない。
「114だから、イイヨ――なんて安直すぎるか。うーん……」
番号だから語呂合わせにしてみようかと考えるけど、やっぱりいいものが浮かばない。
何せ語呂合わせなんてした事がないのだ。
何か114って番号を使った電話番号でいい語呂合わせってなかったかな――と思って、ひとつ思い出した事があった。
「そうだ、アイス。アイスって呼んでいいかな?」
「……アイス? なぜにアイスなのだ?」
「電話番号の114番の語呂合わせに、『アイス』ってしていたのがどこかにあったのを思い出したんだ。これ、君に似合いそうって思って……」
そう。
たまたまどこかで見て、何だあの語呂合わせ、って不思議に思った語呂合わせがあった。
でも、透き通った氷のようにきれいだから、これが似合いそうって思った事なんて言うのが恥ずかしくて、そこだけは黙っていた。
「嫌、かな?」
「……いや、いい響きだ。気に入ったぞ」
少し不安になったけれど、意外とすんなり受け入れてくれた。
僕は改めて、不器用ながらも彼女に挨拶する。
「じゃあ、その――よろしく、アイス」
「そう改まらなくてよい。それより聞かせておくれ、そなたの事を」
かくして、僕はF-2の114号機と名乗る女の子アイスと、格納庫の陰に座って話をする事にした。
でも、どうも緊張してしまって、彼女の質問にどうしてもぎこちない口調で答えてしまう。
どうして女の子の姿になっているのかとか、震災の後どうしたのかとか、聞きたい事はいっぱいあるけど、そうする余裕が全然ない。
「ほう、御父上から写真の撮り方を教わって撮っていたのか……よければ見せてくれぬか? そなたが撮った私の写真を」
「え、う、うん……」
僕は要望通りに、スマホの待機画面を見せた。
少なくとも、これが一番うまく撮れたという自信がある一枚だから。
アイスは、興味深そうに画面をのぞき込むと。
「ほう……なかなかうまく撮れているではないか。他にはないのか?」
満足した様子で、次の写真を催促してきた。
「え? ま、まあ、あるけど……これとか……」
僕はとりあえず画面を女の子に向けながら、画面をフリックして写真を次々と切り替える。
それも、アイスは熱心に見ていた。
「ほう……どれもうまく撮れているな。嬉しいぞ。ここまで私の事を熱心に撮っていたのだな」
「ね、熱心に撮っていたって……」
アイスは満足そうに笑んでいる。
うう、やっぱり恥ずかしい。
目の前で女の子の姿をしている相手をカメラで追いかけていたなんて、まるでアイドルの追っかけじゃないか。
そんなオタクみたいな事をしていたと思うと、恥ずかしくて直視できない。
僕は特別オタクなんて自覚なかったけど、これじゃ飛行機オタクって言われても反論できないな――
「ところでユウ。パイロットになって私に乗るという気持ちは、今も変わってないのか?」
と。
アイスは僕に、一番聞かれたくない事を問うてきた。
「そ、それは――」
思わず目を逸らす。
パイロットになるのを諦めた、なんて言ったらアイスは傷付くかもしれない。
でも、ここで嘘をつける自信も、別の話に逸らすテクニックもない。
どう答えればいいのか、わからない。
「……なぜそこで黙るのだ?」
アイスが、様子のおかしさに気付いて顔を覗き込んでくる。
顔が近くまで来て、ますます焦る。
ダメだ。ごまかせる自信なんてない。
なら、もう正直に言うしかない――!
「そ、その――ごめん!」
僕はまず、深々と頭を下げた。
「ユ、ユウ?」
「君を傷付ける気は全然ないんだけど――正直に言う! 君のパイロットになるって事は本気で思っていたんだけど――いろいろあって、諦めたんだ」
「な――」
アイスが、絶句している。
ああ、もしかしたらこれで失望されただろうか。
でも、口にした以上、後戻りはできない。言ったからには、最後まで言い切るしかない。
「別に、君の事が嫌いになった訳じゃないんだ。けど、その、震災でいろいろあって――」
そこで、言葉を止める。
これから、自分には向いてないって思った事をどうオブラートに包んで伝えようか、必死に考える。
「震災……そうか……」
残念そうなアイスのつぶやき。
それにつられて、僕は少し顔を上げた。
アイスは、顔をうつむけていた。
目元が見えないから、表情は読み取れない。
そして。
「私は、そなたの夢まで壊してしまったのか……」
と、よくわからない事を口にした。
「え?」
「そなたの事情はわかった。次は私の番だな」
アイスは顔をうつむけたまま、ゆらりと立ち上がる。
そして僕に背を向けると、けが人のようなどこか力ない足取りで、歩き始めた。
「ついて来てくれ」
* * *
「ちょ、ちょっと、ここ勝手に入っていい所じゃ――」
「構わぬ」
招かれたのは、とある格納庫。
イベントで開放されていない場所だから、当然関係者以外立ち入り禁止の場所だ。
でもそこは、シャッターこそ閉まっていたけど、横のドアだけが、不自然なまでに無防備に開いていた。
アイスは、ためらいもなくその中へ入っていく。
僕は戸惑ったけど、一瞬周りを確認してから、覚悟を決めて後を追いかけた。
中は、日差しが小さな窓からしか入ってこない、薄暗い空間だった。
人の家のようなきれいさなんて全然ない、武骨で冷たい壁と天井。
その真ん中に、それはぽつりと立っていた。
「あ」
僕は、絶句した。
そこにあったのは、1機のF-2戦闘機。
でもそれは、あまりにも無残な姿になっていた。
尾部のエンジンも、機首にある鋭いレドームもすっぽりと取り外されていて、機体のパネルもところどころが抜け落ちてハチの巣状態になっていた。
胴体を支える車輪もなくなっていて、代わりに固定式の台で機体が支えられている。
そして。
その機首には、僕が見知った『114』の番号――
「アイス……これって――」
「そうだ。これが、今の私だ」
アイスに顔を戻す。
相変わらず、目を伏せていて表情は見えない。
でも、彼女が纏っていたクールな雰囲気は、一転して葬式のような物悲しさを帯びていたのはわかった。
「みすぼらしいだろう? あの震災から、ずっと私はここに閉じ込められたままなのだ……ダメになったパーツを外され、飛べなくなった抜け殻同然の状態で、な……」
抜け殻同然。
その言葉は、とてもショックなほど重たかった。
思い出す。
あの時ニュースで見たこの機体の写真を。
津波に流されて建物に頭を突っ込んだ114号機は、他の機体に比べて損傷が大きかったのは明らかだった。
ただでさえ、中身も入り込んできた津波で、ズタズタに腐食したんだから。
それ以来、飛ぶための部品があらかた外されて、こんな光の届かないような場所に、ずっと閉じ込められていたなんて。
どう見ても、廃棄されたようにしか見えなかった。
だから、想像してしまう。
人としての姿かたちを持ったアイスが、津波に呑まれて溺れる姿を。
彼女もまた、震災の被害者。
その事実を、改めて思い知らされる。
「すまぬ、ユウ……あんな無様な姿を曝け出したせいで、私はそなたの夢まで奪ってしまった……本来ならば、わたしの方がしっかりせねばならぬというのに……!」
だというのに。
どうしてアイスは、自分が悪いみたいな事を言うんだ。
「な、何言ってるんだ! 君は何も悪くない! 津波は、仕方がない事だったんだ! 僕達の力じゃ、どうにもできない事だったんだから!」
わかっている。
あの時アイス達F-2は、すぐ飛べる状態になくて、無理にでも飛ばそうとすると隊員達が危険に晒される状態だったという事を。
だから、見捨てるしかなかったんだと。
本当に、仕方がない事だった。
僕達は、自然災害と戦う事なんてできない。
だから、この判断を下した隊員の事を、恨むつもりは全くない。
「そうだよ、僕だって、何もできなかった……逃げる事しか、助けられる事しかできなかったんだ……だから、お互い様なんだよ。だから、自分を責めなくていいんだよ、アイス……」
「……」
アイスは、何も答えない。
「そうだ、修理は? 修理の予定はないの?」
ふと思い出して、僕は聞いていた。
でもアイスは、首をゆっくりと横に振った。
「……実を言うとな、私はもうじき解体されるのだ」
「解体……!?」
「そうだ、使えるパーツだけを抜き出して、私という存在は消えるのだ。まだ、10年も飛んでないのにな……」
解体。
消える。
その衝撃が、更なる重さとなって僕にのしかかってくる。
つまり、それって、アイスが、死ぬって事――
「だからこそ、私はそなたに会いたかった。消える前にもう一度、そなたの顔を見たかった」
アイスの体が、ゆっくりと僕の方に向く。
そして、ゆっくりと、とぼとぼと、僕に歩み寄ってくる。
「私は、いつの日も私の事を追いかける、そなたの事がずっと気になっていた。あの時の言葉を本気にしていると思って、顔を見る度に嬉しく思っていた。そして、いつの間にか思っていたのだ――私は、そなたに操縦されたい、とな……」
「え……?」
「私はこれまでも優秀な訓練生や教官達に操縦されてきたが、私という個を追いかけるそなたのような人間はいなかった。そなたならば、言葉通り必ずパイロットになって私の前に現れるような、そんな気がしたのだ。私が乗り手を選ぶ立場にないのはわかっておる。だが、それでも……そなたに操縦されたい、そなたに身を委ねたいという気持ちが、どうしても頭から離れぬのだ……津波によって、飛べなくなってからもな……ふふ、おかしいだろう? もう叶わぬ夢とわかっておるのに、まだそなたの事を思っているなんて――」
次第に声が震えてきているように感じるアイスが、僕の目の前で足を止める。
相変わらず、目を伏せたままで、顔を上げてくれない。
でも僕は、口を挟む事ができない。
「せめて――せめて消える前に、この気持ちを伝えてから消えたかった、のだが――なぜか、なぜか満たされぬ……違う感情が、沸き上がってくる……」
今にも泣き出しそうなほどに、ますます震え始めるアイスの声。
ふと、アイスの頬を一筋の何かが流れていく。
反射した光で、僕はそれが何なのかすぐにわかった。
アイスは、泣き出しそうなんじゃない。本当に、泣いていた。
「私は、消えたくない……! もう一度、飛びたい……! そなたの、翼になりたい……!」
初めて、感情を露わにした声を出すアイス。
顔をうつむけたまま、両手で拳を作って必死にこらえているけど、抑えられていない。
その姿が、溶け出して今にも形を失いそうな氷みたいに見えた僕は。
「ア、アイス……」
恐る恐る露出している肩に手を伸ばしていた――けど。
その手はアイスの肩を、何の抵抗もなくすり抜けた。
「……え?」
目を疑った。
自分の腕が、アイスの体にめり込んでいる。
なのに、何も感じない。
まるで、アイスの姿が立体映像であるかのように。
でも、アイスは何かを感じ取ったのか、めり込んだ腕にそっと手を伸ばしてきた。
その手は、やっぱり僕の体をすり抜ける。
掴めそうで、掴めないおかしな感覚。
アイスの体は、幽霊みたいに実体がなかった。
「できるならば……この手で、そなたに触れたい……だが、どれも、叶わぬ夢だ……」
アイスが、ようやく顔を上げた。
その目は、涙で溢れていた。
そこには、会ったばかりの時のクールな雰囲気なんて、どこにもなかった。
「ああ、それでも……私は、そなたが、欲しい……! そなたが、恋しい……! そなたが、愛しい……!」
さらに僕の頬に伸びた手は、空しくすり抜ける。
叶わぬ夢という現実を、突きつけるように。
ああ。
アイスの言葉自体は、普通に聞けば顔を真っ赤にして動転ものの事なのに。
動転する所か、嬉しいとも感じず、逆に悲しくなってくる。
こんな事を言ってくれた人が、もうすぐいなくなるんだと思うと――
「アイ、ス……」
「この思いを、どうすれば、どうすればよいかわからぬ……っ!」
また、アイスは顔をうつむけた。
伸ばしていた腕も、糸が切れたようにだらりと下げて。
そのまま、すすり泣き始める。
頬から零れ落ちる涙が、床へ落ちる事なく消えていく。
そんなアイスを、僕は見ているだけで何もできない。
こんな時に慰められる、いい言葉が思いつかない。
気の利いた別れの言葉も、思いつかない。
情けないな、僕。
こんな時に女の子1人泣かせたまま、何もできないなんて。
本当に、僕って――
「おい君! そこで何をしている!」
そんな時。
突然大きな叫び声が入ってきて、現実に引き戻された。
振り返ると、そこには軍服を着た自衛隊員が何人かいた。
やばい、見つかった。
「ここは立ち入り禁止だぞ! どうやって入った!」
どかどかと足音を立てて、僕の前に壁を作る自衛隊員達。
まずい。
今の僕は、立派な不法侵入者だ。こんな事されても、文句は言えない。
とにかく、事情を説明しないと――
「えっと――その、この子に、呼ばれて……」
僕はアイスの姿が見えるように横にずれて、説明する。
でも。
「この子? 何を言ってるんだ君は? 1人なのに幻覚でも見ているのか?」
「え?」
話が通じない。
自衛隊員は、まるでアイスの事が見えてないような事を言っている。
「幻覚なんかじゃありません! ほら、アイスも何か言ってよ!」
僕はアイスに促した。
でも、いつの間にか泣き止んでいたアイスは、顔をうつむけたまま黙り続けている。
僕の声が聞こえていないのか、それとも何か別の理由で黙っているのか――
「怪しいな。おい、連行しろ」
僕の左右から、自衛隊員が挟んでくる。
両方の腕をしっかりと掴まれた僕は、そのままアイスから引き剥がされて連れていかれる。
それに抵抗する権利なんて、僕にはない。
「ちょ、ちょっと待ってください! アイス! アイスッ!」
それでも。
僕は、取り残されたアイスに振り返って、声を上げていた。
せめて、せめて最後の挨拶くらいちゃんとしないと、と思って。
でもやっぱり、そんな権利は僕になかった。
「さらばだ、ユウ。そなたは、生きろ……」
格納庫から連れ出される直前。
アイスは顔を上げないまま、今にも消えそうな声で、別れの言葉を言い残した。
* * *
「本当なんです! 信じてください!」
「そんな戦闘機が女の子の姿になるなんてゲームみたいな話、ある訳ないじゃないか。君、ゲームのやりすぎなんじゃないの?」
案の定、僕は狭い部屋で自衛隊員と机を挟んで向かい合い、尋問を受ける事になった。
僕はアイスの事を正直に説明したけど、やっぱり信じてくれない。
尋問されながらわかった事は、どうやらアイスの姿は自衛隊員達には見えていなかったらしい事。
もしかしたらアイスは、それをわかっていて黙っていたのかもしれない。
でも、だったら見えていた僕は一体何だったんだって事になる――
「なあ、あいつ見つけた時さ、後ろに何か影みたいなの見えなかったか?」
「影? 俺は何も見えなかったぞ?」
「そうか。もしかしたら、最近噂になってる幽霊を見たのかもな、あいつ……」
「おいおい、こんな時に気味悪い事言うな」
後ろで監視している自衛隊員が、何かひそひそと話している。
ゆ、幽霊!?
僕がさっきまで話していた女の子が幽霊だったって言われると、少しだけ背筋に寒気が走る。
確かに、あんな状態になっても未練が残っていたら、幽霊になっていてもおかしくないから、やけに説得力がある。
「お前ら静かにしろっ!」
「は、はっ!」
その2人は、すぐに注意されて黙り込み、びしっと姿勢を正した。
そして、尋問が再開される。
「君、何か変な薬に手を出してはいないだろうな?」
「そ、そんな! してる訳ないじゃないですか!」
「精神状態はまともなようだが、一応検査してもらった方がいいかもな」
話がどんどん物騒な方向に進んでいく。
ああ、こんな事が周りにバレたらどうなるんだ。
僕はあっという間に悪者扱いだ。
そんな風に悲観し始めた時、不意にドアがノックされた。
「ご苦労様ですー、自衛官の皆さん」
間を置かずにドアが開き、陽気な事を言いながら誰かが入ってくる。
スーツ姿の女の人だった。
自衛隊の制服じゃない所を見ると、自衛隊員ではなさそうだ。
「あ、あなたは……!?」
「後は私が代わりますから、ご退室願いまーす。あ、撮影と録音も禁止ですから、機械も全部持って行ってくださいねー」
女の人は、ゴマをするような声でそう言って、自衛隊員達の退室を催促し始めた。
え、ここでいきなり尋問する人交代?
しかも撮影と録音が禁止とか、一体どういう風の吹き回し?
そんな僕の疑問をよそに、自衛隊員達は意外と文句を言わずにしぶしぶと退室していった。
「改めまして、こんにちは。あなたがユウ君ね」
「あ、はい……」
机を挟んで、まるで訪問販売に来た営業マンのような雰囲気の女の人と向き合って挨拶する僕。
この人、一体何者なんだろう。
自衛隊員じゃない人が尋問を代わるなんて、どういう事なんだろう。
わからないまま、話は始まった。
「私はちょっとした事情で自衛隊と協力している、こういう者よ」
まず女の人は、僕に一枚の名刺を差し出した。
僕は手に取って、それを読んでみる。
「ヤハギ霊体研究所所長、ヤハギ・ヨウコ……?」
何だ、これ。
いかにもオカルトっぽい、聞いた事もない研究所の名前。名刺自体はきれいに作られているけど、なんか胡散臭そうな名前だ。
でも、自衛隊とは全然関係なさそうな名前だ。どうしてこんな人が――
「あなたの話は聞かせてもらったわ。どうやらあなたは、見えないものが見えるようね」
「え……?」
単刀直入とばかりに女の人――ヤハギさんが口にしたのは、予想に反したオカルトな言葉だった。
「あなたが見たっていうF-2・114号機の女の子の事よ。アレは普通の人には存在を認識できないものなの。姿も見えないし、声も聞こえない。見えたとしてもシャドーマンみたいに明確な姿には映らないの。この松島基地で幽霊が出てるって聞いてやってきてみれば、まさかすぐに『あたり』が見つかるなんて思いもしなかったわ。しかも互いに相思相愛だったなんて、まさに運命ね――」
「あ、あの、話がよくわからないんですけど……もしかして、アイスの事、何か知ってるんですか?」
「何かって、つまり何が知りたいの?」
「その、戦闘機が、どうして女の子の姿になって出てきたのかとか――」
「うーん、教えてあげてもいいけど、極秘事項なのよね、それ……」
ヤハギさんは、だらしなく頬杖を突きながら、さりげなくとんでもない単語を口にした。
「ご、極秘事項!?」
アイスって、極秘事項になるほどヤバい存在って事なのか!?
それなら、自衛隊員達が追い払われたのも納得できる。
どうやら僕は、とんでもない存在と関わってしまったのかもしれない。
「そう、トップシークレットって奴。絶対に口外しないって約束ができるなら、教えてあげるわよ?」
「……はい。喋りません」
でも、知りたい気持ちは変わらなかった。
ここまで来て、今更引き下がる訳にもいかない。こうなったら、もう乗りかかった舟だ。
「よし、じゃあ教えるわね」
ヤハギさんは姿勢を正すと、語り始めた。
「結論から言うとね、あの子の正体は戦闘機に宿った魂が人の姿を得た存在――私達はシンプルだけど戦闘機娘と呼んでいるわ」
「戦闘機娘……」
「ユウ君も聞いた事がないかしら。百年使われた道具には魂が宿って妖怪になるって話。それに似たようなものよ。もっともアレの場合は、いくら魂を宿した所で、そのままだと人とコミュニケーションが取れない。だから人の姿を象った分身――わかりやすく言えばゲームのアバターみたいなものを作って、人の前に現れるって訳。とは言っても、不完全だからさっき言ったみたいに普通の人には見えないんだけどね」
そのままだと人とコミュニケーションが取れない、か。
確かにアイスも、僕に会いたかったって言っていた。
でも、そんな気持ちだけで、戦闘機が魂を宿したりするのだろうか。
百年使われた道具には魂が宿るって話は聞いた事があるけど、そもそもF-2はまだ15年くらいしか使われていない。
「その、どうして戦闘機が魂を持ったんですか? それも、女の子の魂を……」
「いい質問ね。あなた、114号さんに恋されたんじゃない?」
「恋……!?」
言われて途端、脳裏にアイスが言った言葉が蘇る。
――そなたに操縦されたい。
――そなたに身を委ねたい。
――そなたが欲しい。
――そなたが恋しい。
――そなたが愛しい。
僕は、アイスに悲しい恋心を抱かれていた。
尋問の時は話が話だから言わなかったのに、どうしてヤハギさんはわかったのだろうか。
「ほほう、どうやら図星のようね。その恋がキーワードなの。戦闘機娘が人の前に姿を現す理由――それこそ、人に恋したからなの。誰だって、好きになった人には会って話しかけたくなるものでしょ。それだけの事なの」
「そんなの、どうしてわかったんですか?」
「前例があるからに決まってるでしょ」
「前例? アイス以外にも、戦闘機娘っているんですか?」
「もちろん。世界のあちこちにね。F-2の戦闘機娘も、114号が最初じゃないわ。F-2の最終号機・564号がもう戦闘機娘として覚醒しているの。その子は自分を担当する整備士さんに恋をしちゃってね、無邪気でなかなかいい子よ。ま、564号に限らず、現れた戦闘機娘はみんな例外なく人に恋をしているの」
「そ、そうなんですか……」
戦闘機も、人に恋をするなんて。
何だか、いろいろと不思議な世界だ。
「で、ユウ君。あなたは114号――いえ、あなたの呼び方のアイスで通しましょうか。アイスの気持ちに応えたい?」
すると。
ヤハギさんは、僕の顔を覗き込むように顔を乗り出して笑みながら、ストレートに僕の気持ちを聞いてきた。
「え……!?」
「別にからかったりしないわよ。正直に答えて。その様子だと、満更じゃない感じだけど」
「……できるなら、応えたいです。ずっと憧れてた戦闘機でしたから。でも、もうすぐ解体されるんでしょう……?」
僕は、うつむきながらだけど、正直に答えた。
すると。
「そう。ならあの子を助けられるわよ。ユウ君がその気になればね」
「え、助けられる……?」
「これを見てくれるかしら」
ヤハギさんは、懐から何かを取り出して、僕の目の前に置いた。
それは、銀色に輝く2つの指輪だった。特に宝石が付いている訳でも文字が刻まれている訳でもなく、一見するとどこにでもありそうなもののように見える。
「この指輪……何ですか?」
「この指輪をアイスが付ければ、アイスは実体としての人の体を得て、完全な存在になるの」
「完全な存在になるって、どういう事ですか?」
「まあ、早い話が普通の女の子になれるって事」
「指輪を付けただけで、ですか?」
「あ、正確に言うと、ユウ君とアイスが揃って指輪をつけたらって事」
「そ、揃って指輪を付ける――!?」
心臓がどきりと高鳴った。
2人で同じ指輪を付けるなんて、それじゃまるで――
「何か、まるで結婚指輪みたいですね……」
「まあ、そうね。でも、互いに命を預け合うって事だから、結婚と似たようなものなんじゃないの?」
「に、似たようなものって……」
「あ、ちなみに小指につける決まりになっているから。人は右手、戦闘機娘は左手ね」
うーん。
指輪を渡して一緒に付けるとなると、妙に緊張してくる。
異性に指輪を渡すなんて、ずっと未来の話だと思っていた事を、まさか今になってする事になるなんて。
でも、これを一緒に付ければ、アイスを助けられる。
普通の女の子にする、って形で。
そう思うと、迷いなんて生まれなかった。
僕は自然と、指輪に手を伸ばしていた。
「……ただし!」
でも。
触るなとばかりに、ヤハギさんが指輪を素早くすくい取ってしまった。
「何の対価も払わずに、って訳には行かないわ」
「な、何ですかいきなり対価って!?」
「何言ってるの。何の対価もなしに願い事を聞いてくれるのは神様だけよ。ユウ君がアイスを助けたいなら、1つだけ条件があるの」
ヤハギさんは真剣な眼差しで僕をにらみつつ、人差し指を顔の横で立てた。
急に態度が変わった事に、僕も一瞬怯んでしまった。
「それって、何ですか……?」
「アイスと一緒に、『来たるべき脅威』と戦ってもらう事よ」
「来たるべき脅威と、戦う……?」
ヤハギさんが口にした、よくわからない言葉。
でも、戦うという意味だけは理解できて、思わず反論していた。
「ちょ、ちょっと待ってください! アイスは普通の女の子になれるって、さっき言ったじゃないですか!」
「それはあくまで『見た目』の話。『立場』まで普通になれるとは一言も言ってないわ。私はね――いえ、自衛隊はね、アイスに利用する価値があるからユウ君に助けて欲しいと思っているの」
利用する価値。
兵器として見れば普通な言葉だけど、女の子としてのアイスの姿を知った後だと嫌な意味合いに聞こえる。
ヤハギさんは、臨時ニュースを伝えるニュースキャスターのように語り始めた。
「今はまだ一般人のあなたには詳しく言えないけど、今この世界には、未曽有の危機が迫っているの。それが具体的にいつ来るのかはわからない。でも確実にやってくる。10年後かもしれないし、来年かもしれない。いや、もしかしたら明日かもしれない。自衛隊はこの『来たるべき脅威』に対抗するために、もう秘密裏に動いているの。私が協力しているのも、そのためよ」
「えっと……その脅威がやってきたら、どんな事が起こるんですか?」
「最悪、この世界は滅びてしまうでしょうね」
「そ、そんな!?」
「この『来たるべき脅威』に対抗するためには、戦闘機娘の力がどうしても必要なの。いえ、そもそも戦闘機娘という存在そのものが、この『来たるべき脅威』に対抗するために生まれた存在だから」
「『来たるべき脅威』に対抗するため……?」
話がどんどんわからなくなってくる。
戦闘機娘は人に恋したから現れたってさっき言ったのに、なぜかよくわからない脅威のために生まれたって話になっている。
何とか話に追いつこうと、僕は質問する。
「じゃあ、アイスはその『来たるべき脅威』の事を知ってるって事なんですか?」
「いえ、恐らく知らないでしょう。戦闘機娘は自然発生的な存在だから。戦闘機娘は例外なく人に恋してるって話をしたけど、それはね、人と兵器が強く結びつかないと対抗できない脅威の存在を本能で感じ取っているからだと思うの。所謂、吊り橋効果みたいな感じって言えばわかるかしら」
吊り橋効果。
揺れる吊り橋の上で異性と出会ったら、揺れない橋よりもその異性が魅力的に感じるって話か。
そういえば、人間は危機的状況に置かれるととにかく子孫を残そうという本能が働いて発情する、って話も避難所で聞いた事がある。
そういうものをアイスも感じ取ったから恋をしたって言われても、実感が湧かない。
アイスのあの気持ちが、そんな損得勘定から来るような感じには見えなかったから。
「戦闘機娘は、パートナーとなる人と強く結びつく事で、初めて本当の力を発揮できるの。並外れた身体能力で生み出す、普通の兵器じゃあり得ないほどの力をね。まあつまりね、あなたは運命に選ばれたのよ。世界を救う勇者となり得る存在に」
「僕が、世界を救う勇者……?」
どんどんスケールが大きくなっていく話に、やっぱり頭が追いつかない。
「ユウ君は戦闘機娘の見る事ができて、互いの気持ちを確かめ合う事ができる、貴重な素質を持った人よ。だから自衛隊としては喉から手が出るほど欲しい人材だけど――共に血を流す覚悟がない人は、お断りしているわ」
ヤハギさんの視線が、鋭さを帯びる。
「ユウ君。これはある意味、悪魔との契約よ。兵器の本質は戦いにあるって事くらい、わかるでしょう? 助ければ、あなたもその『使い手』として、一緒に戦う事になる。その覚悟がないなら、助ける事は諦めて。アイスの思いは、うたかたの夢で終わらせて」
息を呑む。
ヤハギさんの言葉は、その視線と同じように、僕の心を鋭く貫いた。
* * *
その日、家に帰った僕は、あまり食事も喉を通らず、ほとんどベッドに倒れて過ごしていた。
頭の中にあるのはただひとつ、アイスの事だけ。
「アイス……」
その名前を、何度天井に向かってつぶやいただろう。
今回のつぶやきも、明かりも点けていない暗い天井へと消えていった。
『ユウ君には1日だけ時間をあげるわ。アイスは明日にでも解体する場所に運ばれるらしいから。この日を逃したら、本当にもう会えなくなるわ。だから明日までに必ず、答えを出して』
ヤハギさんが僕にくれた猶予は、1日だけ。
明日までに、アイスをどうしたいかの答えを出さないといけない。
あまりにも短い時間。
せめて、1週間は欲しかった。いや、1か月あっても足りないかもしれない。
人――いや、物の命と自分の将来を決める大事な事を1日だけで決断しろなんて、あまりにも短すぎる。
ふとスマホを取り出して、アイスにも見せた写真をぼんやりと眺めた。
不思議だ。
昨日まではただの戦闘機だったのに、今は女の子の姿が重なって見える。
透き通った氷のようにきれいだった、女の子の姿が。
あの子は、僕の前で何度も飛んでいた。それこそ、気持ちよさそうに。
それを追いかけていた僕の事を、ずっと見てくれていた。
そして、僕の事を好いてくれた。
なのに震災の津波に呑まれて飛べなくなって、また飛べるかどうかもわからないままずっと格納庫の中に閉じ込められていた。
そして、再び飛ぶ願いが叶わぬまま、もうすぐ解体される。
なんて、悲しい話。
今でも目を閉じれば、解体の恐怖に怯えるアイスの姿が、脳裏に浮かび上がってくる。
僕の力で助けられるなら、助けてあげたい。
でも――
「僕は、アイスを助けるために戦えるのか……?」
たったそれだけの不安が、あまりにも重い。
わかっている。
戦闘機というものは戦争でしか使えない。
戦争がなければ、本来は生まれる必要がない存在。
元々訓練部隊にいたアイスも、助ければ戦場に行く事になる。
それに、僕もついて行かないといけないのだ。
「……」
戦うなんて、できる訳ない。
震災で何もできなかった僕に。
前は自衛隊を目指して体を鍛えたり勉強したりしたけど、それだけでやっていけるほど甘い世界じゃない。
どんなに体を鍛えたって、勉強したって、いざという時に何もできないなら何も意味がないと、震災で思い知らされた。
精神力が弱いようじゃ、自衛隊にいても邪魔になるだけだ。
――でも。
「……」
自衛隊は、常に死と隣り合わせだ。
戦地に行ったら死ぬ可能性があるのは当然。
パイロットだったら、普通に飛んでいるだけでも何かを間違えて死ぬ可能性だってある。
死ぬのは、当然怖い。
命を懸けて誰かを守る勇気なんて、僕は多分持っていない。
――でも。
「……っ」
ダメだ。
僕には無理だ。
身の丈以上の事をしちゃいけない。
だから諦めよう。
アイスの事は、きっぱりと忘れた方がいいかもしれない。
そう思って、僕はスマホをベッドの脇に少し乱暴に置き、枕に顔を伏せた。
――でも。
――でも。
――でも、どうして。
「アイス……ッ」
アイスの事が、頭から離れないんだろう――?
――久しぶりだな。しばらく見ない内に随分と立派になったではないか、ユウ。
――嬉しいぞ。ここまで私の事を熱心に撮っていたのだな。
目を閉じると、アイスの言葉が蘇ってくる。
クールだったけど、確かに嬉しそうだった表情と一緒に。
――私は、消えたくない……! もう一度、飛びたい……! そなたの、翼になりたい……!
――私は、そなたが、欲しい……! そなたが、恋しい……! そなたが、愛しい……!
そして、悲痛な叫びも。
目の前で見せた泣き顔も――
「……っ」
拳をぐっと握り絞める。
助けたい。
やっぱり、助けたい。
もう一度、飛ばしてあげたい。
例えそれが、戦場だったとしても。
あんな風に泣いていたアイスの事を、見捨てるなんてできない。
そうしたら、また震災の時と同じになる。
アイスは生きろ、って言ったけど。
父さんの時みたいに、また自分だけ逃げて生きるなんて。
そんなのは嫌だ。
だって、僕は。
アイスは。
僕は、アイスの事が――
僕の中で、熱い何かが次第に強くなっていった――
* * *
次の日。
僕は走った。
ひたすらに、がむしゃらに走った。
通りすがる自衛隊員の事も構わず、広い松島基地の中を、全力で走っていく。
こんなに必死に走ったのは、久しぶりだ。
足が棒になりそうだけど、止まる訳には行かない。
目指す場所は、あの格納庫。
アイスと別れた、あの格納庫。
そこに、まだ彼女がいる。
シャッターが開いている。もしかしたら、運び出されるのかもしれない。急がないと。
何度も足がもつれそうになったけど、それでも足を止める訳にはいかない。
真っ直ぐ飛び込んだ僕は。
「アイスッ!」
躓きそうになった足を何とか踏み留めて、呼びかけた。
中にいる、みすぼらしい姿となったF-2戦闘機に向けて。
これから作業を始める所だったのか、もう自衛隊員達が集まっている。
「おい、誰だ君は? ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」
「あ、いえいえ! 彼は、彼は関係者です……もう、ちょっとは追いかける側の、身にもなってよ……」
僕を見つけた自衛隊員に、後から追いかけてきたヤハギさんが息を切らせながら説明する。
でも僕は、構わずにアイスの姿を探す。
いない。格納庫のどこに見当たらない。
でも、本体はまだそのままなんだ。どこかにいるはず。
「いるんだろ? 出て来てくれアイスッ!」
自衛隊員達の視線に構わず、呼びかける。
すると。
僕の目の前に、浮かび上がる影のように誰かの姿が現れた。
「ユウ……?」
アイスだ。
よかった。まだ無事だった。
「なぜ、ここに……?」
アイスは僕を見て目を見開いている。
もう来ないものだと思っていたのかもしれない。
僕は息を整えながら、懐からあるものを取り出して、黙ってアイスに見せる。
「何だ、これは……? 指輪、か……?」
僕の右掌の上にあるのは、あの指輪だ。
片方は、もう僕の右手の小指に付いている。
ああもう。
本当は何か言ってから見せたかったけど、うまい言葉が思いつかない。
なら、ストレートに言うしかない。
大きく息を呑んでから、僕はアイスに告げる。
「その――これを受け取って、一緒に飛んで欲しいんだ!」
「……!」
アイスだけじゃなくて、周りの自衛隊員達も驚いたのがわかった。
無理もない。
向こうから見れば、誰もいない所に向かって言っているようにしか見えないんだから。
「どういう、事なのだ……? これを受け取るだけで、飛べるというのか……?」
そう質問するアイスは、少し困惑しているように見える。
僕は気持ちを落ち着かせて、話を続けた。
「これを付ければ、僕が君の使い手になって、解体されずに済むんだ。代わりに、やらなきゃいけない事もあるんだけど――」
「やらなきゃいけない事とは、何だ?」
「え、その、よくわからないけど、一緒に『来たるべき脅威』と戦うとか何とか……」
「戦う……? そなたと、共に……?」
「……正直、戦うなんて、僕にできるかどうかわからない。でも、君を見捨てる事なんて、どうしてもできない。このまま、君が解体されるなんて嫌なんだ。だって、僕は――」
言葉が詰まる。
一番大事なところになると、やっぱり緊張して心臓が高鳴ってくる。
アイスはじっと、続く言葉を待っている。
僕は緊張を振り払うために、大きく息を吸って、
「僕は、アイスの事が好きなんだ!」
自分の、正直な気持ちを告白した。
「……!?」
アイスが息を呑んだ。
場が沈黙する。
ああ、何だかこっちも恥ずかしくなってくる。
言い切ったのに、心臓の高鳴りは収まる気配がない。
思わず目を逸らして、僕は言葉を続けた。
「やっぱり、こんなの、おかしいかな……? 君が戦いたいかどうかも、僕が戦えるかどうかもわからないのに、一緒にいたいなんて――」
「……おかしい訳、ないだろう」
でも、アイスが言葉を遮ってきた。
「訓練用とはいえ、私は戦闘機だ……いざという時に戦う覚悟など、できておる……それに、第21飛行隊にいた身だ……そなたが望むなら、いくらでも私が鍛えてやる……」
「アイ、ス……?」
ゆっくりと、顔を戻す。
見ると、アイスは。
「一緒にいられるならば、それだけで充分だ……」
頬をほのかに赤く染めて、満足そうに口元を緩めていた。
「だから、ユウ」
そして。
つい、とアイスは左手を伸ばして。
「私を、そなたのものにしておくれ……」
僕に、指輪を付けるように催促した。
「アイス……」
僕は息を呑んだけど、アイスはさあ、と言うように目で僕に促してくる。
うう。
これじゃ本当に、結婚するみたいじゃないか。
僕は右掌にあった指輪をそっと持ち替えて、アイスに一歩近づく。
そして、その左手の小指に、そっと指輪を持っていく。
実体がない相手にうまくできるのかとちょっと不安になりながら。
「手が震えているぞ?」
「えっ!?」
だからか。
アイスに優しくだけどそう指摘されて、僕はかなり動揺した。
「いや、そなたも緊張しているのだな、と思っただけだ。気にするな」
別に大した事じゃなさそうに、アイスは言う。
うう、なら口に出さなくてもいいじゃないか。
そう思いつつ、僕は指輪をゆっくりとアイスの小指に通す。
手に少し触れるけど、何も感じない。
そうして指輪が小指の奥まで入った瞬間、僕とアイスの指輪が共鳴するように光った。
さらに、アイスの手がぼんやりと光り始めた。
いや、違う。
アイスの全身が、光っている。
「……!」
自分の体が光っているのを見て、アイスは少し驚いているようだ。
そして、ふと気が付くと、アイスの本体であるF-2戦闘機も、一緒に光っていた。
まるで心臓の鼓動のように、ゆっくりと規則的に点滅している。
まるで、命が宿ったかのように。
おお、と周りの自衛隊員達の声。
その光が消えた時、僕も右手に何かの感触を感じた。
「え?」
見れば、アイスの指が、僅かに動いている。
それが、ゆっくりと僕の手にからみつく。
すり抜けていない。
僕の手に、重なっている。
「これが、ユウの、手……?」
からめた指で僕の右手を手繰り寄せ、そっと握る。
伝わってくる、肌の柔らかさ。
触れる事ができなかったはずのアイスが、僕に触れている。
それは、つまり。
「やったわ! 実体を得たわ!」
ヤハギさんが、答えとばかりに声を上げた。
自衛隊員達も、女の子が出てきた、どうなってるんだ、といろいろどよめいている。
「触れられる……ユウに――」
アイスの左手は、そっと僕の右腕をなぞっていく。
僕の体の輪郭を、確かめるように。
心拍数が上がっていく。
異性に体をなぞられるなんて、初めての事だ。
でも、体は固まってしまって、動く事もままならない。
アイスは、さらに右手も伸ばしてきて僕の肩に触れる。
その瞬間。
アイスの目が、明らかに潤んでいた事に気付いた直後。
「ああ、ユウ……ユウッ!」
我慢できないとばかりに、いきなり僕に抱き着いた。
「わわっ!?」
体が、一気に密着する。
目の前でさらりと揺れる、青と黒の髪。
胸元に、何か大きく柔らかな感触がある。
これって、もしかして――?
アイスって体が細く見えてたけど、こんなに大きかったの――?
そう感じた途端、心臓がオーバーヒート寸前まで高鳴り始めた。
「ア、ア、アイ、ス……」
ダメだ。
うまく、喋れない。
女の子にこうされる事は初めてだし、どうしたらいいのかわからない。
「立派な体つきだな……私を目指して、鍛えてくれていたのだな……」
や、やめてくれ。
そんな事、言われたら、恥ずかしくて、死んじゃいそうだ。
でも、抱きしめたい。
このむき出しの小さくて丸い肩を、抱きしめたい。
そんな欲望が、少しずつ込み上げてきて、自然とアイスの肩に手が伸びた。
そっと触れた肌は、とてもすべすべで、柔らかかかった。同じ人間とは、思えないくらいに。
肩に触れられた事に気付いたのか、アイスが顔を離して僕と目を合わせた。
鼻先が触れ合いそうなほどの、至近距離。
その水晶のような目からは、一筋の涙が頬へ流れていた。
最初会った時見せたものとは、違う涙が。
僕は不思議と、吸い込まれるようにその表情に見入っていた。
ああ。
アイスって、やっぱり、きれいだ――
「ユウ……」
アイスが、ゆっくりと目を閉じる。
これからするべき事を、本能でわかっているかのように。
「アイス……」
気が付くと、僕も本能に任せて目を閉じていた。
そして、自然と互いの顔が近づいて。
互いに背中へ両手を回して。
そっと、互いの唇を重ね合わせていた。
初めて唇で味わう、柔らかな感触。
それが心地よくて、周りの人目の事なんてすっかり忘れて、何度も何度も味を確かめていた――
* * *
こうして、僕はアイスと一緒にいる事を選んだ。
本当の意味での戦闘機娘となったアイスは、真の意味で戦える戦闘機となるべく、本格的な修復される事になった。
そして、極秘の存在である戦闘機娘を秘匿する意味で、僕はアイスと一緒にとある南の孤島で暮らす事になった。
その名は、つくも島。
自衛隊の極秘試験場が存在し、一般のあらゆる航空機や艦船どころか、普通の自衛隊機も進入が禁止されているエリアで、マニアでは『日本版エリア51』として密かに噂になっていた場所だ。
隣人がいない南の孤島という、秘密を隠すには最適の場所で、僕達の新しい生活が始まった――
「……ユウ。起きろ、ユウ」
誰かの優しい声がする。
同時に、肌に触れる柔らかな刺激。
頬に、額に、鼻先に触れられる度に、感覚が目覚めていく。
その心地よさに、あ、と思わず声を出した瞬間、その口が塞がれた。
ゆったりと丁寧に吸われる、僕の口。
暖かくて、甘い味。
気が付けば、それを自分から吸って味わっていた。
ぼんやりしている自分の意識を、そこから手繰り寄せるように。
「アイス……」
目を開けると、すぐ目の前にアイスがいた。妙に色っぽく笑んでいる。
僕の上に覆い被さっているアイスは、体中からとても柔らかい感触がする。特に、胸元が。
見下ろすと、アイスは肩や首元だけじゃなくて、細い腕も、押し潰された大きな胸も露わになっていた。
全身の肌と肌が、触れ合っている。
服を挟まずに、直に体温を感じる。
僕もアイスも、揃ってベッドの上で裸になっていた。
ああ、そういえば僕達は――
「起きたか、ユウ」
「ああ、おはよう」
挨拶をして、もう一度唇を重ね合わせた。
今度は、無防備なアイスの背中に手を回して、しっかり抱き締めながら。
柔らかい肌の触り心地に、熱く感じる体温、酔うほどに甘い口付けの味。
このままずっとこうしていたいという衝動が、僕の頭の中を支配し始める。
でも、アイスの唇が、未練がましく離れる。
「本当ならば、もっとこうしていたいが……」
その言葉通り、アイスの目はまだ物足りないとばかりにとろけている。
それがとても艶やかで、僕もその顔を引き寄せてもう一度口付けたい気持ちになる。
でも、不意にドアをどんどん、とノックする音が聞こえてきた。
誰かが起こしに来たのかもと気付いて、僕は我に返った。
「今日は、私達が初めて飛ぶ日だ。あまりだらだらするのはよくない」
「……そうだね」
窓からは、眩しい日差しが差し込んでいる。
今朝も、日差しが強くなりそうだ。
すっきりと晴れて、強い日差しが差し込む、飛行試験場の駐機場。
僕はそこで、今まで身に着けた事もない戦闘機パイロット用の装備を身に着けて、準備を整えていた。
フライトスーツに対Gスーツ、ヘルメットに酸素マスクと至れり尽くせり。
小さい頃航空祭で触らせてもらった事はあるけど、実際に身に着けるのは初めてだ。やっぱり動き辛い。
「いい、ユウ君。コックピットに入ったら、難しい事は考えずに直感で操作して。戦闘機娘が一緒なら、シンクロして自然と理解できるから」
「はい」
ヤハギさんはそう説明するけど、正直言って本当にそうできるかどうか実感がなくて、結構緊張する。
何せT-7練習機から始める飛行訓練をすっ飛ばして、いきなり飛ぶ事になるんだから。
「アイス、そっちは大丈夫?」
「無論だ。そなたを受け入れる用意は、いつでもできている」
隣にいるアイスも、フライトスーツを着ている。
ただ、ヘルメットとか一切つけていなくて、つけているものと言えばインカム程度。
戦闘機娘は普通の人間より身体能力が高いから、対Gスーツとかは必要としないらしい。
「だからユウも、安心して私に身を預けてくれ」
「うん、わかった」
アイスは、僕の事を信じている。
なら、僕もしっかりしないと。
「では、行ってきます」
僕は気を引き締めて、ヤハギさんに教わった通りの敬礼で挨拶した。
アイスも、合わせて敬礼する。
そして振り返ると、そこに僕達がこれから乗る戦闘機がいる。
そこには、完全に修復されたアイスの本体――F-2・114号機が、日の光を浴びつつフライトの時を待っていた。
僕はいよいよ、アイスと一緒に飛び立つ。
まさか子供の頃から思っていた事が、こんな形で叶うなんて。
そしてアイスにとっては、震災以来の悲願だった復活フライトになる――
コックピットに入ると、不思議と操作方法が自然と脳裏に思い浮かんできた。
マニュアルを読んだ訳でもないのに、まるで最初から覚えていたかのようにすいすいとスイッチを操作して、エンジンを始動。
F110-IHI-129エンジンがタービン音を響かせ始めると、ディスプレイに表示されているエンジン回転数がゆっくりと上がり始める。
いろいろな機能が動き始め、その全てが異常なく動作している。
わかる。
全部わかる。
やっぱり僕は、アイスとシンクロしているんだ。
人馬一体っていうのは、まさにこういう事なのかもしれない。
操縦桿が右側にあるサイドスティック方式のコックピットと相まって、まるでロボットアニメの主人公になったような感覚がする。
「うむ、体の調子がいい。いいフライトができそうだ」
後席に座るアイスが、そんな感想を漏らす。
乗っている間、アイスは機体と感覚が繋がっているらしい。だから機体の状態も体調のように感じ取れるそうだ。
アイスがそういうのなら、きっと大丈夫だろう。
整備士によって、車輪止めが外された。
妙な高揚感と緊張感の狭間で、僕はゆっくりとスロットルレバーを押し込んだ。
すると機体が、ゆっくりと前進を始めた。
初めてとは思えない操作に自分でも驚きつつ、機体を滑走路へと進めて止める。
ここに入ると、いよいよ離陸するって実感が湧いてくる。
早く飛びたいという気持ちと、ちゃんとできるかなという不安。
その両方が、僕の胸で高まってくる。
「さあ行こう、ユウ」
「……うん!」
僕はゆっくりとスロットルを最大まで押し込む。
出力最大。アフターバーナー点火。
「ブレーキリリース、行きます!」
そして、ブレーキを解除すると、機体が勢いよく飛び出した。
加速していく風景。
滑走路の真ん中あたりに達した所で、ゆっくりと操縦桿を引く。
すると、機体はゆっくりと機首を上げ――体がふわりと浮かび上がる感覚。
滑走路から浮かび上がったのだ。
飛んだ。
本当に飛んだ。
それだけで、テンションが少し上がった。
車輪を収納して、さらに上昇していく。
青い大海原へと飛び出す機体。
背後に見える島が、どんどん小さくなっていく。
アフターバーナーを切って見渡せば、水平線のかなたまで青い海が広がっている。
まさかテレビの映像じゃなくて、この目で実際に見る事ができる日がくるなんて。
僕は離陸ができたという実感と一緒に、そう感動せずにはいられなかった。
「ああ、飛んでいる……私は、飛んでいる……! 二度と飛べぬと思っていた空を……」
後席に振り返ると、アイスは目を閉じて、飛行の感覚に浸っている。
一時は、もう二度と飛べないと思われていた空。
そこに、アイスは帰ってくる事ができた。
他の誰でもない、僕自身の力で。
「ユウ。そなたがいなければ、こうしてまた飛ぶ事は叶わなかった……感謝してもしきれぬ」
「あ……ど、どういたしまして」
でも、そうアイスに言われるとやっぱり照れる。
恥ずかしくて、思わず顔を戻す。後席に振り返る事ができない。
それをごまかそうと、僕はアイスに操縦された感想を聞いてみた。
「その――離陸は、うまくできてた?」
「ああ、初めてにしては上出来だ。そなたはなかなかセンスがあるようだな」
「え? そ、そう……」
「こんな操縦ができるそなたとなら、私はどこまでも行けそうだ。惚れ直したぞ、ユウ」
う。
そんな人から嫉妬されそうな事を、こんな所で言わなくても。
アイスって、こういう事をどこでも平然と言ってくるよな。
でも、それがアイスらしいというか何というか、憎めない所だ。
こうやって僕の事を信じてくれる事が、やっぱり嬉しい。
ヤハギさんが言っていた『来たるべき脅威』の事は正直不安だけど、アイスと一緒なら、やっていける気がする。
恥ずかしくて口には出せないけど、僕は本当に、そう思うんだ――
「そ、それは、ありがとう……」
「でだ。早速だが頼みがある」
「何?」
「これからフル出力で上昇してくれぬか? 行ける所まで高く飛んでみたい」
「わかった」
アイスの願い通りに、僕はアフターバーナーを点火して、ゆっくりと機首を上げる。
垂直に近い機首上げ。
反動で、体が座席に沈み込む。
それに耐えながら。アフターバーナーの力に任せて、力強く進む。
僕達は、白い雲の壁を突き抜けて、どこまでも上昇していった――
「やっぱり洗練されたものって、みんな美しいよねえ……例え人殺しの道具だとしても」
でも。
その間、僕達のフライトを双眼鏡で見ていたヤハギさんが、双眼鏡を降ろしてそうつぶやいていたなんて、僕達には知る由もなかった。
「戦闘機娘……人の希望となる天使か、それとも――人を惑わす悪魔か……」
終
どうも、読んでくださってありがとうございます。作者のフリッカーです。
何気なく戦闘機の擬人化をやりたいと思いながらも、どんな話にしたいのかなかなか定まらず迷走しまくった結果『試作品』という形で書いたのが本作になります。
故に、『来たるべき脅威』がどんな存在なのかは全く決めていません。そもそも、これと戦う話にするかどうかも定かでなないです。よって続くかどうかもわからないです。
続きが気になるとか、こうしたらどうというアイデアがある方は、何なりとコメントしてください。
さて、本作を書きたいと思ったきっかけは、周りにある戦闘機の擬人化はおかしいと感じた事です。
具体的には、例えばイーグルの擬人化だったら「イーグル」と名乗る所。
それはあくまで『種族』であって、『個』ではないんです。イーグルという種族はこの世に1233機存在するというのに、なぜイーグルとしか名乗らないのか。人間が自分の事を「人間」としか名乗らないようなものです。
加えて、僕は子供の頃、父が持っていた古いブルーインパルスの本で、使用されていたF-86Fがシリアルナンバー毎にどのくらいチームで運用されていたかを紹介していたのを読んでいました。短期間だけ運用されていたのもあれば、結成当初から解散時まで使われた生き字引というべき存在まであって、とても面白かった記憶がありました。
そういう訳で、「戦闘機をシリアルナンバーごとに擬人化してみよう」というコンセプトで思い立ったのが、本作の始まりです。
今作でF-2の最終号機・564号機についても少しだけ触れられているのは、本来なら同じ種族でも容姿や性格が全然違う擬人化キャラをいくつか用意してお話をやりたかったからで、正式に描くなら114号機=アイスとの絡みをしっかり描きたいです。
ともあれ、この小説で戦闘機のシリアルナンバーというものに少しでも興味を湧いてくだされば幸いです。シリアルナンバーごとの逸話や歴史も、調べてみるとなかなか面白いですよ。
今年、被災したF-2の一部が修復されて松島基地に帰ってきましたが、今回のヒロインを務めた114号機は、まだ修復されるかどうかわからないらしいですね……あれだけダメージを受けてると難しいとは思いますが、是非とも復活して欲しいです。
あと、この物語を書いてF-2にも親しみが湧いてきました。最初は対艦にステータスを振りすぎたせいで器用貧乏になっていた感があったけど、少しずつそれを克服していっている所とか……
長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。
それでは、またいずれ。