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0〜1 前兆


こんな世界なんて、いらない。滅んでしまえばいい。

彼女は杖を振り上げた。

「世界に、滅びを」



1

窓の外からは騒がしい蝉の声。うだるような暑さの中、津木名千夜つきなちよは自室に寝転んでいた。綺麗な長い黒髪が畳の上を流れている。


和室である。小さな卓袱台と、畳まれた布団、そして箪笥が置いてあるだけの簡素な部屋だった。冷房はなく、扇風機だけが動いている。手に持ったうちわは胸の上に乗ったまま止まっていた。


「暑いね」


千夜の隣に座っているのは所沢凪斗ところざわないと。千夜のクラスメイトである。千夜は普段から煩わしい人間関係は築かない人だが、珍しいことに凪斗とは気が合うらしい。凪斗は自分と千夜を交互にうちわで扇いでいる。


「そりゃあ、夏だもの。でも私、夏は好き」

「なんでさ? 海とか山とかに行くのが好きってわけじゃないんだろ?」

「夏はわかりやすいから。春や秋は好きじゃない。中途半端な気温だから。夏は、ずーっと暑いから好きなの」

「ふーん。じゃあ、冬は?」

「あんまり」


凪斗は首を傾げた。そんな彼を見て千夜は言った。


「夏の、殺人的な暑さが好き。日本では寒さで死ぬ人はそんなにいないじゃない? でも、暑さで死ぬ人は結構いるから」

「……僕、寒くなってきた」


千夜は寝転んだまま手を伸ばして扇風機のスイッチを切った。カラカラと音を立てて羽は減速し、止まった。


「違う違う、扇風機なしは流石にツライって。でも、今の言葉で背すじがゾワッとした」

そう言って凪斗は扇風機を付けた。


「ねえ、物理教えてくれるんじゃなかったの?」

凪斗が千夜の部屋にいるのは、そのためだった。



凪斗が現実を突きつけられのは昨日のこと。物理の授業で、テストが返ってきたのである。


「赤点だあ」


ため息まじりの凪斗の呟きを耳にして、前の席の千夜が振り返って言った。

「このテストで赤点を取るなんてあり得ない。まことに稀有なり、とでも言うべきかしら?」

「津木名さんは何点だったの?」


「96点」


凪斗はため息をついた。

「ねえ、僕に物理教えてくれない?」

「どうして?」

「……駄目なら別にいいけど」

「いいわ。教えてあげる。明日私のうちに来なさい」

「え、家で?」


驚きに目を見張る。


「他にどこかあるわけ?」

「あ、いや、どこかの喫茶店に行ってもいいし、なんなら僕のうちでも」

「自分の家が一番落ち着く」

僕は落ち着かないんだけど、と内心動揺しつつ、凪斗は冷静を装って応えた。

「分かった。じゃあ、津木名さんの家で」



というわけで現在に至る。

「物理? あー、暑いからやっぱりやめた」

「僕の時間返せ」

「時間は戻らないわ。精々長生きすることね」

「僕、これでも忙しいんだ」

「学生なんて暇な身分だと思うけどね」

「勉強で忙しいんだよ。頭のいい津木名さんには分からないかもしれないけど」

「分からないわ。物理だって、高校物理はものすごく簡単よ」

「今、全国の高校生の大半を敵に回したよ」

「いいわ。全国の高校生が束になったって、私に敵いやしない」

「その絶対的な自信はどこから来るのさ」

凪斗はあきれて呟いた。


「無駄口叩いてないで物理の勉強をなさい」

「でも目に見えないものなんて僕には分からないよ。特に力学」

「目に見えないものを式という形で見えるようにしてくれてるんじゃん」

「うーん」

「あー頭がくらくらする」


突然、千夜は頭を押さえた。


「え?」

凪斗は動きを止めて千夜を見た。

「大丈夫? この部屋暑いからかな? やっぱり冷房買うべきだよ」

「ううん。暑いのは関係ない。あんたの物理が壊滅的だから」

「悪かったね。これでも一生懸命勉強したつもりだったんだけど…って津木名さん?」

「大丈夫。よくあるのよ、こういうの」


千夜はずっと頭をおさえたまま苦痛に顔を歪めていた。凪斗は心配そうに眉をひそめた。

「頭痛持ち?」


「うーんとね」

千夜は視線をさまよわせた。凪斗もつられて上を見たが、くすんだ茶色の天井があるだけだった。


「あんたにだけ教えてあげる。私ね、ひどい時は意識を失うの」


凪斗は目を見開いた。

「なんか、そういう病気があるって聞いたことある」

凪斗は不安げに答えたが、千夜はつまらなそうに言った。

「へえー。私、医学関係はあんまり知らないや」

「行ったほうがいいよ、病院」

「そうかな。まあいいや。ちょっと寝ようかな」

凪斗は慌てた風に教科書を閉じた。

「あ、あのさ、僕、ここに居たほうがいいのかな。でも、やっぱり居たら邪魔かな。帰ろうかな」

「好きになさいよ」

千夜は目を閉じた。


凪斗は手持ち無沙汰で千夜の顔を眺めていたが、やがて物理の教科書を開いた。

しかし、見えない力は、やはり彼には見えないままだった。

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