第八十七話 ノヴィエヴァーデン共和国の滅亡
投稿失敗してました。
A.G.2881 ギネス二七〇年 アルメル一年
雪の月(十一の月) 木の週の六日(三十日)
ノヴィエヴァーデン共和国 エアフ
空中戦艦ナグルファー号によるザルデン軍に対する蹂躙が始まった時、銀騎士エッカルトはエアフの城壁上という特等席からそれを眺める機会を得ていた。
ザルデン軍の本陣には三〇〇〇近い兵士が居たが、弓矢の届かない高さから一方的に無数の鉄球と炎弾をばら撒かれて潰走していったのである。
一体これまでの数ヶ月に渡る苦闘はなんだったのかと馬鹿馬鹿しくなるほどであったが、シュマルカルデン、ノヴィエヴァーデン両軍の士官たちの手前、表面上は大喜びしてみせた。
即座に敵残存兵力、特に纏まった戦力を維持している北東の部隊を包囲殲滅すべく、板状携帯端末を通じて旗下の部隊に指示を出した。
今では板状携帯端末無しの戦闘指揮など考えられない。
シュマルカルデン王国でも同じ物が作れたら良いのにとは思うが、魔導具の研究開発ではノイエ・ブランザ王国が頭一つ分、いや、三つ分か四つ分は確実に上であるように思えたから、当分はノイエ・ブランザの板状携帯端末を使い続けるしか無いだろうとは思っていた。
それよりも問題はこれからである。
エアフの街の全てを破壊し尽くしてでも防衛する、それは良い。その結果としてノイエ・ブランザの大魔導師が自ら出向いてくれたのだ。
シュマルカルデン同盟軍はエアフを守り通したのだ。が、住民の三割以上が奴隷として連れ去られ、残った住民のほぼ全てがマルク領やランディフト、ローデンステット等の諸都市に逃げ込んでいる。
エアフ、いやエアフだけではない、ノヴィエヴァーデン共和国そのものが事実上ゼロからの復興になるであろう事を思うと、共に戦ったノヴィエヴァーデンの将兵達の苦労はまさにこれからなのだ。
戦友としては得難い資質の男達ばかりであったし彼らの郷土愛を思うと心苦しいのだが、シュマルカルデン同盟諸国はノヴィエヴァーデンの共和主義者達を野放しにはしないだろうと思っている。
要するにシュマルカルデン同盟諸国はノヴィエヴァーデン共和国の復興には力を貸さないだろうと思えたのである。
刻々と変化する戦況を先読みしつつ隷下の部隊に次々と指示を出し、ザルデン軍の部隊の一つ一つを確実に包囲して殲滅してゆくエッカルト。
そこには武勇も無ければ堂々たる姿も雄々しい掛け声も無く、一言の言葉も発する事なく指先一つで全ての指示が終わってしまう新しい指揮官の姿があった。
戦闘の推移を見ながら糧食の手配までたった一人で終わらせてしまうのだから、エッカルトこそが新時代の戦争の申し子だと言っていい。
アニィが纏めている戦闘諸評を見ても、その戦術士官としての働きは群を抜いている。
戦争全体を組み立て勝利へと導く手腕、兵の心を掴んで離さず死地へと向かわせるような力があるかと言えばわからない。
戦争のあらゆる局面を常に安心して任せる事が出来る者となると、ユーリウスにとってはヴィーガン侯爵ハルトやマルク辺境伯ゲオルグ、一段下がってボニファンくらいであったが、事が局地戦の戦術指揮レベルであれば、エッカルトの手腕は際立っている。
既にどうやってノイエ・ブランザ王国に招くか密かに検討されている程であるのだ。
もちろんこれほどの逸材をシュマルカルデン王ヴィルフリートが手放すとも思えなかったが。
「エアフの状況も粗方固まったな」
「はい。ルツに集結しているザルデン軍の主力がどう動くかはわかりませんが、ノヴィエヴァーデンに侵攻したザルデン軍はこのままテューピースレーンまで引くでしょう」
ナグルファー号の作戦室の大地図を見ながらユーリウスとコンラートが安堵の溜息を吐いている。
突如現れた空中戦艦ナグルファー号を見たザルデン軍の指揮官が、それまで優勢に進めていた総攻めを取りやめ、何を血迷ったのか全軍に集結を命じてくれなかったらこれほど手早く片付く事は無かったはずなのである。
単に空中戦艦という存在に恐怖して自身の周囲に戦力を置きたがっただけであったが、そこまではコンラートにもわからない。
折角纏まってくれたのだから丁度良いと、即座に出向いて鉄球の雨を降らせてやっただけの事である。
「それにしてもノヴィエヴァーデン共和国は酷い事になってるな。これ程悲惨な状態になっているとは思わなかった。元々はザルデン王国の一部だったのだろう? なぜここまで徹底的に破壊したんだ?」
「……ユーリウス様にもお分かりのはずですが?」
なんとなく、ではあったが、ユーリウスにもわからない事は無い状況ではある。
特に自由都市として発展してきたエアフの街は税も安くザルデン王国内でも最も優遇されてきた。
それがブランザ王国の滅亡とそれに続く大乱の最中に独立を果たしてザルデン王国に牙を剥いたのである。
特に二度目の討伐軍は当時即位したばかりのザルデン王が自ら兵を率いてエアフに侵攻し、その戦いの最中に王が討ち取られるという大惨敗を期していたのである。
結果、ザルデン王国は継承権を持つ王族の尽くを失い、メンディス・ディッタースドルフ両大公国の大公であり、リプリア王国の国王とは再従兄弟である現ザルデン王ヴェルビィングを得てその勢いを盛り返したのだから、ある意味皮肉と言えば皮肉な話ではある。
が、ザルデン王は兎も角その臣下達にしてみれば、ノヴィエヴァーデン共和国とその国民は殺しても飽き足らない憎き裏切り者だったのだ。
「まぁわからない話でもないんだが……それにしてもやり過ぎだろうこれは?」
「寧ろこの程度で済んでいるのが不思議なくらいです。シュマルカルデン同盟が無ければノヴィエヴァーデン共和国の国民は一人残らず奴隷となっていたでしょう」
そこまでするか? と思わないでもないユーリウスであったが、これはコンラートが正しい。
都市や農村周辺の食料生産力を無視して動員可能なゲルマニアの諸都市においては、各ギルドの保護下にある市民を除けば全ての成年男性を(場合によっては女性も)兵士として利用可能であったし、ギルドの保護下にある市民とて、強権を持ってギルドの規模に応じた人員の提供を命じる事も可能であるのだから、いざとなれば敵対する都市の住民を根こそぎ奴隷にするか虐殺した上で、各地で動員した男女を強制的に植民させる事も可能なのである。
植民で減った労働力は奴隷で補えば良いのだ。
農地など放置しても一〇年もすれば人口は回復するし、新しい都市には他の地域に送り込んだ奴隷と交換した元からいる奴隷を送り込めば、強権で植民させた住民達の反発も押さえ込める。
「……なるほど。ついでに堕民を新都市の市民にしてやれば忠誠心溢れる中核市民も手に入るわけか。支配者層にとっての一〇年など大した時間でも無いしな?」
「その通りです」
「やっぱり狂ってるぞこの世界は」
「そう思うのはユーリウス様だけです。私はそんなユーリウス様を支持しますがね?」
ふん、とコンラートの下手くそな追従を鼻で笑うと再び戦力配置を確認するユーリウス。
「後はザルツ公領を落とせば終わりだな。マルク辺境伯ゲオルグはザルツ公領に転封したい。ザルツ山地の鉱山をくれてやれば乗ってくると思うんだが……ヴィーガン卿を交えて相談したいな」
「ザルツ公領ですか……全土をマルク・マルクにお与えになるのですか?」
「そうだ。辺境伯には相応しい地域だろう?」
ユーリウスの言葉に大地図を見ながら頷くコンラート。
「まさに。ですがロートシートからフェストゥン砦までの街道整備はこちらで行うべきでしょうね」
「わかった。それにフェストゥン砦にも迷宮を植えた方が良いよな?」
「そうですね。ですがそれはマルク・マルクに話を通してからの方が良いでしょうね」
「なるほどな。ではそうしよう」
そう言って板状携帯端末を操作して街道整備の為の予算とゴーレム、それから人員を確保し、責任者にアンゼルムを充てる。
何れは橋をかけるつもりで良い場所を検討する様にという指示も付け加えた。
「一旦司令部に戻ってから明日はノヴィエヴァーデン共和国の元首閣下に会いにいくとしよう」
「わかりました」
「それじゃ後は任せる」
そう言って作戦室を出てゆくユーリウス。
意識を失っていたカタリーナの見舞いに行くのである。
火傷の状態は酷かったが、中間種であればアルメルブルクで跡も残さず綺麗に治療(修理?)出来る事から、周囲の者達も然程気にした様子は無いのだが、治療にはそれなりの時間がかかる。
その為カタリーナを艦長から外して高速飛行船でアルメルブルクに戻すのである。
それをカタリーナに伝えなくてはならないのである。
ユーリウスが臨時の医務室となっている個室に入ると、包帯の巻かれた痛々しい姿で上半身を無理やり起こしたカタリーナが居た。
「寝てくれ。無理をする事はない」
「いいえ。私はユーリウス様からお預かりした艦を傷つけ死傷者まで出してしまいました。ユーリウス様の信頼を裏切ってしまったのです」
「やめろ。カタリーナは良くやってくれた。初見で対応出来る相手ではなかったのだ。カタリーナの行動に不備はない」
「ですがユーリウス様――!」
と、なにやら反論しようとするのを遮って続ける。
「――やめろ。カタリーナは本当に良くやってくれたんだから。それよりも先ずは傷を癒やす事だ。今アルメルブルクでは三番艦の建造を始めさせている。ナグルファー号とエイル号で得た戦訓を反映した拡大強化型だ。カタリーナにはその三番艦の艦長になってもらう。だから艦の完成までには万全な状態にしておけ。マーリアの仇はお前が討つんだ。……良いな?」
「……はい。ユーリウス様。必ず」
「うん。だから今は休め」
そう言ってカタリーナを寝かしつけると額に張り付いていた髪を撫で付けて微笑み部屋を出る。
見ていられなかったのである。
カタリーナもマーリアもユーリウスが一から造り出した第三世代――第一世代が元から完成した状態で眠っていた中間種、第二世代が一部、記憶部分や肉体部分のみが残っていた個体――と呼ばれる中間種であり、第三世代の中間種はユーリウスにとって、謂わば子供の様な存在だったのだ。
意識の無いカタリーナと上半身を吹き飛ばされて転がっていたマーリアを見た時、ユーリウスは初めてその気持に気付いて二重に衝撃を受けていたのである。
絶対に許さない。
誰であれ、必ず報いを受けさせる。
そう誓ったのである。
となれば敵を知らなくてはならなかった。
カタリーナをこんな目に合わせてマーリアを殺したのはリプリア王国、もしくはクラメス教団であろうと予想していたユーリウスであったが、特に証拠がある訳ではないのだ。
ただし十中八九はクラメス教団だろうとは思っている。
旧テオデリーヒェン大公国、ズルトブラン州で暴れ回っているゲリラはその大半が傭兵や山賊の様な連中であったが、クラメス教団の司祭が指揮している部隊だと判明している。
その中にユーリウスを襲った刺客の様な手練が混じっていたのだ。
流石にユーリウスを狙ってやって来た刺客に匹敵する様な連中は居なかったが、それでも機動歩兵の一個小隊が苦戦する程の手練である。
ゲルマニアの民を魔族とまで蔑む様な連中がゴロゴロ居る教団であれば、ゲリラの戦力を維持する為だけになんの罪もない農村を襲って財貨を奪い、住民達を皆殺しにするくらい平気でやるだろうと思ったのだ。
「……宗教団体なんて何処の世界でも皆同じだ。一般の信徒が何千何万と死のうと屁とも思わないだろうが、司祭だの司教だのって連中が死ねば大騒ぎする。ゲルマニアの民を一人殺す毎にクラメスの司祭だか司教だかを一人殺してやる事にしよう……どこまで我慢出来るか試してやろうじゃないか……」
ナグルファー号の船内で一人呟いたユーリウスは、その場で板状携帯端末を取り出してノイエ・ブランザの各地に指示を出し始めたのである。
ノヴィエヴァーデン共和国の元老の一人であるハインツ・パイゼンは、八〇年以上昔にヴァーデンハムの森に暮らす猟師の五男として生まれた。
貧しくても温かい家族に囲まれた幸せな少年時代を過ごしていたハインツであったが、十歳の頃に流行り病で父と二人の兄と妹を亡くし、三男一人では母と姉を養うだけで精一杯になってしまったのである。
幸いハインツは身体も丈夫で体格が良かった事から、家族の為にと自ら身売りを決めた。
獲った獲物を買ってくれていた近隣の農村でもそうした話は幾度と無く聞いていたから、ハインツ自身もそれが当然だと思っていたし、他の家族も当たり前の様にハインツの言葉を受け入れた。
それがハインツの運命を変えた。
運が良かったのだろうと思う。
幾人かの奴隷商を介してハインツを買ったのは、エアフに本拠を置く中堅商会シィウエタウバの会頭で、若くて大きく体力もありそうなハインツを倉庫番として購入したのである。
それが後にハインツの義理の父親となるクヌート・パイゼンだった。
最初は確かに奴隷とその主人という関係だったのだが、ハインツが任された倉庫が穀物倉庫であった事でクヌートの目に止まったのである。
他の倉庫では必ず発生するネズミやグナディラという穀物を食い荒らす害獣や甲虫による被害が、ハインツの倉庫では殆ど無かった。
基本的に暇を持て余す倉庫番の仕事であったが、何れは自身を買い戻して猟師になろうと思っていたハインツは、手製の罠や小型の弓でネズミやグナディラを狩りまくっていたのだ。
その時は単に面白い小僧が居ると思っただけであったが、その年の冬に穀物相場で当てた麦の現物が大量に入荷して倉庫が溢れたのだが、クヌートが新たな倉庫を手配している三日の間にそれらを綺麗に仕舞い込んでしまったのである。
これには流石のクヌートも驚き――最初は盗まれたのだと思ったらしい――慌ててハインツを問いただしたが、当時のハインツはなんとなく積み方を変えれば全部入ると思っただけで上手く説明出来なかった為、折角詰め込んだ小麦の袋を商会の者達が総出で全て運び出し、再び詰め込んで余らせ更に今度はハインツの指示で積み直すという笑い話の様な真似をして、その日、ハインツは倉庫番から商会の店当見習いに出世したのだ。
その時は何がなんだか訳がわからなかったが、クヌートはハインツに文字を教えて算術を教え、荷物持ちとして連れ回した。
ハインツが奴隷の身分から解放されたのは、それからほんの一年程後の事である。
当時は天候不順の不作が毎年の様に発生していた為、多くの都市で食料の迷宮依存度が高まっていた事から穀物相場は荒れ気味だったのだが、ハインツが幼い頃の記憶を頼りに、余った麦や雑穀から猟師達の呑む甘い発酵飲料のボザを造って売り出し、これが当たって大儲けしたのである。
この時生まれた酒造ギルドとの伝手もあって、シィウエタウバ商会は一躍大商会の一角にまで成長した。
子供の居なかったクヌートが親戚から養女を貰ってハインツと結婚させて跡継ぎにしたのはそれから三年後。
その後数十年に渡ってハインツとクヌートは、次々と変わった商売に手を出しては成功したり失敗したりを繰り返しつつ、ゲルマニアでも有数の大商会を切り盛りし、ブランザ王国の滅亡とそれに続く大乱の時代も乗り越えた。
ノヴィエヴァーデン共和国の建国には大いに力を尽くし、クヌートと共に共和国の元老の一人に選ばれた。
周辺各国からの有形無形の圧力を払いのけ、傭兵の国、商人の国として大いに発展したノヴィエヴァーデン共和国であったが、僅か二十余年でその命脈は尽きたらしい。
混乱の時代に咲いた徒花。
そう呼ばれる事になるのかと思うと涙が出るほど悔しかったが、ハインツには大恩あるクヌートという父と、愛する妻のカルラが居たし、例え本拠たるエアフの本店を失ったところでシィウエタウバの雇い人を露頭に迷わせる訳にはいかなかった。
必死で手を回して各地に散った雇い人達をハウゼミンデンの郊外に買った屋敷に集めて再起を図った。
密かに手に入れた迷宮珠もあるし、シュマルカルデン同盟諸国の各地にはシィウエタウバ商会の支店が幾つも残っている。
ハウゼミンデンでの営業権もあるのだ。
ノヴィエヴァーデン共和国に持っていた醸造所や工房の大半を失ったとは言え、元老の一人として培った伝手は今でも生きている。
ノイエ・ブランザの商品を手に入れるか、それがダメでも未だ手はある。
醸造株を手に入れて、またボザとボザ入り飲料の販売からやり直せば良い。
そう思っていた。
が、どうしてこうなった……? 事態の急展開に意識が付いて来ない。
自身や雇い人達の市民権を購入するために、都庁なるハウゼミンデンの行政を一手に司るという役人の詰め所に赴いた所、なにやら立派な部屋に通されて暫く待たされのだが、そこに登場したのが、紅い瞳に銀髪混じりの白髪を靡かせた美女だったのだ。
「ハインツ殿、いかがされました?」
目の前で微笑む紅い瞳のホムンクルス、いや、中間種族、中間種の美女こそ、紅眼の悪魔と呼ばれる大魔導師の眷属であった。
名前はエーディット。
ハインツが耳にした噂が正しければ、この美しい悪魔によって、両手両足の指では足りない数の商会が、まるで虫けらの様に捻り潰されているのだ。
「いえ、まさか大魔導師の眷属でいらっしゃるエーディット様に興味をもって頂けるとは思ってもいませんでしたので、少々驚いているのでございます」
そう言って笑うエーディット。
「驚く事はございませんでしょう。ハインツ殿はノヴィエヴァーデン共和国の元老のお一人ではございませんか」
元老の一人ではあったが、その権力基盤となるエアフの街はもう無いのだ。
「いえ、私には既に帰る場所などありませぬゆえ、どうか、元老と呼ぶのはおやめ下さい。今はシィウエタウバのハインツで結構にございます」
「……わかりました。ではシィウエタウバのハインツ殿、ノイエ・ブランザではハインツ殿を心から歓迎いたします。市民権の証であるメダルは本日中にご用意させていただきますのでご安心くださいませ」
「ありがとうございます。エーディット様には心よりの感謝を……」
と、ハインツには実に有り難い話をしてくれるエーディットであったが、それだけに何を言われるのかわからず緊張を隠せない。
ハインツとシィウエタウバの雇い人達は事実上の難民なのだ。
多少の資産があると言っても吹けば飛ぶ様なものでしかないのである。
「お気になさる事はございません。聞けばハインツ殿はハウゼミンデンの酒造ギルド株のご購入を検討されているとか、私もエアフのボザは幾度か頂いた事がございますから、それがハウゼミンデンでも造られる様になるというのであればとても嬉しく思っておりますのよ? ただ、ハインツ殿とそのご家族の他にも随分と多くの方がいらっしゃるとお伺いしております。宜しければその方々についても詳しくお話いただければと思っているのですが?」
警戒されているのだろうか? と考えて即座に否定する。
ハインツが連れて来た者達には警戒されるべきものなど何一つ無い。
大半が商会の書記や雑用の小者、工房の職人達とその家族なのだ。専属の護衛も居たが、エアフを出る時に全員が徴用されてしまって、ハウゼミンデンまでの道行きはヴォルフアレフで新規に傭兵を雇ったくらいなのだ。
「詳しく、と申されましても、職人や書記の他は雑用の小者や召使い達とその家族くらいしかおりません。エーディット様のお伝えすべき何があるかわかりません」
「どうか誤解しないで下さいませ。それは私どもも存じ上げております。私が知りたいのは、ボザの醸造以外にどんな計画があるのか、そういう事でございます。ハウゼミンデンでは新たな事業、商売を始めるにあたって、ギルドへの加盟の他に簡単な届け出をしていただく事になっているのです」
そう言って微笑むと、板状携帯端末を取り出して何やら暫く指先でその表面を撫でた後、ハインツの前に出して見せてくれる。
簡単な、と言った通り、そこには衣料品の販売だの食品の卸売だのと言った内容に加えて、店舗の場所や従業員の数等が纏めて書いてあった。
「コレは最近アルメルブルクで生産されるようになった魔導具で板状携帯端末といいます。御覧ください、これが事業計画書という書類をまとめた記録になります。ハウゼミンデンではこれを各ギルドと都庁で共有しているのです」
そう言ってハインツの目の前で操作してみせ微笑むエーディットであったが、ハインツの目は今見せられた動く絵の魔導具、板状携帯端末という物に釘付けになっている。
「これはハインツ殿に差し上げます」
「は?」
「実はその為に持って来た物なのです」
何を言われたのか一瞬混乱したハインツであったが、どうやらエーディットはなにか取引がしたいらしい。
エーディットが求めているのがハインツの持つ販路なのか技術なのか、それとも元老としての伝手なのかはわからなかったが、これほど高度な魔導具を無料で差し出してくるとなると、一体何を要求するつもりなのかがわからなくなる。
「……一体エーディット様は私どもに何をさせたいとお考えで?」
「難しい事ではございません。今ハウゼミンデンでは『工業団地』という、言うなれば工房街の大規模なものを作っている最中なのです。既に幾つかの工房と商会が入る事に決まっているのですが、まだまだ足りません。ハウゼミンデンでは出来る限り多くの商会と工房に、それもある程度の生産と販売の実績がある所に入って頂きたいと思っているのです」
そう言って再度板状携帯端末を再度操作して、ハウゼミンデンの地図を表示する。
造成中の表示のある場所を指先で叩くとそれが拡大され、なにやら文字の書かれた半透明の小さな枠が浮かび上がる。
「ハインツ殿にお任せしたい工場、大きな工房がこれです。自動貨物車というゴーレムが動かす馬の要らない乗り物の部品、一部を作って頂きたいのです」
まるで夢の様な魔法で年間の収支見通しや必要な従業員数その他を見せられ、思わず唸り声をあげるハインツ。
渡りに船、というより、最初から狙い撃ちされた様なものだったのだろうが、これほどの好条件を見逃す手は無かった。
何がなくても一〇年程で工房とその商売、事業そのものが商会の物となり、業績を上げて余剰金を回せばもっと早く商会の物となるのだ。
「……エーディット様。是非とも参加させて下さい……!」
ハインツの言葉に、紅眼の悪魔が微笑んだ。
「よろしくお願いします」
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