異世界の 夜
「あー……しーあーわーせー」
ただ今、脳味噌はとろけかけております。
なんとお風呂があったのだ!公衆浴場ではあったが。
この時点であたしは中世ヨーロッパを完全撤回することに決めた。夜道も街灯で明るかったしね。
魔法があるおかげで、水は余り貴重ではない。だから料金も高くない。スライムを二体倒せば入れるのだ。
……なんか安いのか、微妙だ。
宿へ戻るなり、部屋の九割を占めるベッドへダイブ。ちゃんと寝巻用のジャージ(未使用の体操服。うっかり持って帰ったのだ)を着ている。
あたしはすっかり息が上がってしまっていた。四階まで階段ダッシュは結構きつい。
築十数年!角部屋!最上階!
そんな「銀の鈴」特別個室、一泊なんとたったの千テル!!
こじんまりした閉鎖空間がお好きな方、必見……。
いや、いいんだよ。わざわざ部屋の角っこに行って「落ち着く~」とか言って本を読んでるような人ですから。ここは清潔で小ぎれいだし。ええ、中学時代の臨海学校の、学校が所有していた宿舎の名を冠する廃屋を経験したものからしたら天国です。ワラジムシは滅べばいいと思う。
もちろん普通の部屋もちゃんとある。というか、ここが特別料金なのだ。こうやって考えるとある意味スイートルームだね。
ポジティブにネガティブなことを考えている自分に悲しくなる。
ちなみにメリダさんは普通の部屋だ。
夕飯を食べて、明日の服を買って、お風呂に入って、宿代を払ったら、残高が二千テルになっていた。ローチクを食べてしまっていたら無一文だった。日用品の物価は大して高くなかったのがせめてもの救い。
寝るにはまだ早い気がしたので、腕輪をいじることにする。深い青をした石は、メリダさんの瞳の色と同じだ。今頃少女漫画を読みふけってるんだろうな。想像すると少し笑えてくる。
そんなことを思いながらデータを〈表示〉する。
佐倉ルイ:弓師
クラスはもちろんアーチャ―なのに、魔法のほうがたくさん使ってるんだよね。クラス変更は意地でもしない。
続いて魔法一覧を表示。ざっと見ていったが、結構どうでもいいのがある。芳香のようなものだ。……どう使えと?
ちなみに芳香はお気に入りである。何よりいいのは、香りが香水くさいものではないことだ。レモンをオーダーすれば、本当に鼻の先にレモンがあるような気分がする。
強さも調節でき、ほのかに香る程度があたしは気に入っている。
ちょっと真剣にラーメンの香りとか作ってみたい。嗜好がおっさんだな。
ほんのちょっと自己嫌悪。
ふと思い立ち、窓から顔を出す。
「ふわああ……」
頭上には、宝石をぶちまけたような星空が広がっていた。
いくら夜道が明るいと言っても、現代日本にはかなわない。だからこそ見ることができる風景だ。向こうにいたときは、冬にやっとオリオン座がわかる程度だった。
大急ぎでケータイを取り出す。最近のケータイのカメラは性能がいい。それでも肉眼で見るよりは劣っている。
「一眼だったらどこまで撮れたかな」
どうせすぐに電池はなくなる。それでもそんなことを考えずにはいられない。
向こうに帰って現像する日なんて、来るわけがないのに。魔王なんて、倒せるわけないのに。
――――帰りたい。
異世界に行くなんて夢は叶わないからもてる夢であって、叶ってしまったらどうなるかなんてのは想像の産物でしかなかった。だから安心して考えていられた。
あたしは昔っから知っていた。平凡が一番難しくて、一番幸せなんだってこと。まあ、昔からあたしの周りの平凡は、かなり異常だったが。妄想は、そんな現実逃避の意味合いもあった。
異世界生活も、それなりに楽しんでいく自信はある。でもそれが続くとなると……。
ああ、だめだ。夜はどうしても弱気になる。こんなのは女神の思うつぼだ。
ぱちりとほっぺたを叩く。
佐倉ルイであることは、楽観的であることが条件なんだから。
嘲笑うような三日月に、弓のようにしなる黄金へ、あたしは挑戦状をたたきつけた。




