傍観と 達観
夕暮れ色の髪は左程長いわけではなく、肩甲骨あたりまで。雰囲気は華やかとは程遠く、整理整頓された綺麗さとでも言うべきか。
バランスばかりが良過ぎて印象に残らない、というのが耳を残して感じた彼女への評価。しかし明らかに肉食獣らしき耳がその印象をぶち壊す。
「レスカさん、レスカさん、あの人なんなんですか。 人なんですか」
獣耳を除く容姿からは想像できないほどの緊張感は、離れていても感じられて、それはまるで魔物と対峙したときのような……あ、なるほど。カイン死ぬわ。
「獣族さんの子孫でしょうね。 生きている内に出会えるなんて思いませんでした」
レスカがさらりと失言する。どうやら気付いていないみたいだ。
指摘はなんとなく、しなかった。
聞こえた名はアイリス、だったか。花の名であったことは覚えているが、脳裏に浮かんでくるのはアヤメばかり。……なんか違う。
だけど、表情と名前が一致していないことは把握した。
「関わっちゃいけない匂いがする」
「ようわかっとるやん」
レスカとか一希とかネルルとか、その類いの危険物な予感。
「あの人、自称カインのお嫁さんやから」
……何を言っているんだ、ラオは。
「カインの恋人はお砂糖だよ?」
「……せやな」
ラオがゆっくりと目を逸らした。
◆◇◆◇◆
「ああ、冗談よ? 殺し合いとかそんな物騒なことするわけないじゃない」
アイリスは笑う。四分の三で止めておくわ、と。
カインが大袈裟にため息をついた。明らかに、アイリスへの当てつけである。
「お前、何でこんな所に来ているんだ」
その目付きまでも恨みがましい。
見る人が見れば単なるげんなりとした表情だと分かるが、客観すれば有り余る不機嫌さが悪意に転換する一歩手前、ぐらいには酷い。
しかしアイリスは残念なことに前者であったようだ。ぴんと立った獣耳にも、怯えの類いは見られない。
「だから言ったでしょう? 報告よ」
悪びれる様子も無い彼女に、カインの顔色が幾分か暗くなった。
「だったらお前、正式に騎士じゃないか。 こんな所で油を売ってないで王都に帰れ」
何処と無く、保護者のような視点からのような問答。
「どうして」
「……いや、その前にまず、それをしまえ。 街中だ」
アイリスの切れ長の目が、不満そうな色を見せる。
「しまえ」
鳥肌の立つような声音での二度目の催促で、やっと彼女は刃物を収めた。
特に反省の面持ちはなく、唇は子供っぽくゆがんでいる。拗ねた顔だ。淑女の面は既に剥がれている。
「モラルとか秩序とか、考えたらどうなんだ」
「だってこうでもしないと、カインは逃げるでしょう」
両者間の不穏な空気を、「お前が言うな」と内心でカインに指摘しながら、眺め続ける。
「"約束"よりも仕事だろう」
「正式な配属はだいぶ先だもの」
反論の意図は"休暇中"、だろうか。カインが怪訝な顔をした。
「お前、成績は上位だったな?」
「ええ」
「……まさかお前、蹴ったのか」
「当たり前でしょう」
「王都勤務を蹴るやつがいるかっ!」
「確かに条件は良かったわね」
こちらではラオが、あちらではカインが同時に頭を抱えて唸る。
お前ら、仲良いな。と思えば、隣でレスカが引きつった笑みを浮かべていた。
「条件がいい、なんてものじゃないですよ……」
……なんとなく理解した。
「あら、そんなに意外だった?」
アイリスが首を傾げるのと同時に耳も、わざとらしく、くにゅっと曲がる。分かってて楽しんでいるのだろう。
「溜息しか出てこないんだが」
「カインの悩みの種になれるのは、光栄かもね」
怨嗟が染み出てきそうな声に、自然な動作で笑いかけた。
「聞きたくない。 聞きたくないが! ……理由を言え」
「言うまでもないと思ったのだけど」
「王都は私の戦場ではない」
肌を焼くような威圧感。
「それだけ、よ?」
拭い取り、覆い隠すような笑顔。
瞬間、陽炎のように彼女は揺らめきカインの横へと回る。
耳に届いた音が鞘を引っ掻く金属音だと気付いたときにはもう、その刃はカインの身体に触れる寸前で止まっていた。
その絵図は配役を変えただけで、ミラさんの行動とほぼ同じ。なのに。
重圧も、勢いも、おそらく実力すら違っていた。何よりも最初から挑発のつもりでいたミラさんと違い、数ミリ前までアイリスは本気だった。
「どういうつもりだ」
カインは微動だにしない。
心なしか、アイリスの瞳が猫のように細く細くなったように感じる。
「ねぇ、カイン。 ……弱くなった?」
「………」
「街中だからって、気を抜いた?」
「………」
「私がカインを切るはずないって、信じてくれてたの?」
「………」
「それとも――」
――避けなかったんじゃなくて避けられなかったの?
「どちらにしても不本意ね」
アイリスは苦い顔をした。
「お前は何か、酷い勘違いをしたままだ」
「いいえ私の知ってるカインは私よりずっとずっと強かったわ。私の超えるべき壁なの」
「何年前の話をしている」
「今」
見据える双眼には並々ならぬ憧憬が映っているのだろう。
大きな耳を傾けることはしない。
「また来年、また来年って、約束を果たすのを遅らせてきたけれど今回ばかりはそういかないの。 あなたが本気になってくれるのは、今年じゃなきゃ嫌なの。 今、あなたに相手にもされないなら、私は永遠に本物になれない」
「あれは約束と言わんだろ。 一方的な取り決めだ」
「同意は得たわ」
「………」
沈黙するカインにアイリスは背を向けた。
すらりと長い脚が軽やかに地を連続して跳ねる。
その方向は、
「へっ?」
間抜けな呟きは紛れもなく自分のもので、気が付けば目の前には冷淡な整い方をした顔があった。
セミロングの橙髪が少し近い。
えっ……。
「ごめんね?」
アイリスがいた。半径二十センチ圏内。というか足の爪先から十センチ。
つんのめるほどに、近いすぎる。
「いっいっ」
いつ来たんですかていうかさっきまでカインの隣でしたよねつーかメートル単位で離れてますよあたしが安心して観察できるぐらいには離れてましたけど――ていうか、いつから見ていたことに気付いた?
「あの、えっと、ルイ? あのー……ラオが消えたんですけどー」
消極的なレスカの言葉に愕然とする。ラオが仲間を置いて逃げたことはない。なかった。既に過去形。
カインが追いつき、あたしと目がかち合う。
覗いてた、ごめん。と言おうとして口が開かないことに気付いた。身体も硬直している。その一因は手首がアイリスの尋常じゃない力によって固められていることなのだけど。……痛い。鬱血しそう。いわゆる骨を砕きにくるような握り方でないのが救いというか、多分わざとやっているというか、警告のようでかえって動けないとか。
そういうのはもう、どうでも良くて。
動かないのだ。
頭の中で警報が鳴り響くというのはこのような状況なのだろう。その圧力は海の底で経験したものよりも、ずっと恐ろしい。
――動いたら、殺される。
先払いの『ごめんね?』に内心で悪態をついた。
眼球だけがおろおろと忙しなく動く。しかし、手に入るのは空っぽの視界で……あっ……レスカまで消え……たっ!?
嘘だろ……ふざけんなっ!!
裏切り者っ!!脳味噌腐っちまえ!!
ラオは……なんかもうどうでもいいや、うん。
「アイリス、何のつもりだ」
カインが初めて名を呼んだ。息が詰まる形相と共に。
アイリスの耳が、ぱたぱたと揺れる。無邪気な動作と相反する、愉悦の顔を見せながら。
「私は本気のカインが見たい。 本気のカインと殺し合いの寸前まで戦いたい。 カインの本気が見たい。 ただ、それだけに全てを賭けるわ」
ちょっと手荒だけど、許してね? と愛らしく困った笑みを作った。
困ってるのは! こっち! こっちだ! こっち向けえええっ!!
「だから、サグラちゃんは預からせてもらうわね」
えっ……?
巫山戯るな、とアイリスを引きとめようとするカインの声が聞こえる。
聞こえるだけだった。
あたしの目線は、口元から覗く尖った犬歯に釘付けになる。
事態を認識したのは、うんざりするほど見慣れた亜麻色のツインテール少女とすれ違った後だった。
網膜に映る、コルスの街の外壁。
ああなるほど、どうやら自分は拉致られたらしい。
◆◇◆◇◆
高所から視認したあの二人に追いつくのは不可能だ。レスカはそう、判断する。
無断で登った塀から飛び降り、未だに上にいるラオの顔を見つめた。
「連れて行かれちゃいました」
「連れて行かれてもうたなぁ……」
ルイはよく行方不明になる、と呆れと憐れみが半々の心境だ。
もっとも、逃げた身で言える台詞ではないが。
当然、レスカもラオも反省する気は毛頭ない。即座に命に関わらない危険ならば晒しても構わないのがルイ、というのが両者の考えだ。
別に彼女の日頃の行いが悪いわけではない。ただ、わけもなく生存率が高そうな気がしただけだ。
強いて言うなら、とろいのが悪い。
唖然としたまま突っ立っているカインの元に戻る。
意表を突かれたとは言え、"らしくない"。アイリスの見解はあながち間違いでもないのかもしれなかった。
そしてその顔は、よく見れば純然たる驚きの表情ではなく、消化し切れない理不尽をぶつけられた時のなんとも言えない色を映していた。
ぽん、と肩に手を置きたいところではあるが、150センチ少々しかない身長では高身のカインを相手にするのは少々つらい。構図的に不恰好である。
格好悪いのは罪だ。死んでもなお、スタイリッシュに生きなければならないと思う。だから、上着が破れそうな程度にぐいっと引っ張るだけにとどめた。
心なしかやつれたようなカインに、レスカはにぱっと笑いかける。
「あの、私、かなーり人外種については詳しいという自負があるんです。 あったんですよ」
偏食的な知識欲の塊が、縋り付く。
「一体どういうことなのか、洗いざらい、吐いてくださいね……?」
右腕でカインを、左手でラオを捉えたままに、レスカは溜息を吐いた。
「あー……俺はなんも知らんってことでいい?」
「お前は道連れだ」
「聖騎士の誇り……」
「無い!」
「えっと、両者の意見の違いとか比較とかしますから――両方とも逃がしませんよ」
声音でレスカの本気を知った二人は口を噤んだ。
偏食というたちだからこそ、ありつけるものは過食する。
勿論、囚われの姫君役は絶対的に私の方が相応しいのに、なんて場違いなのは百も承知の感想は、胸に収めておいた。




