魔女の 話
むかしむかしあるところに、人に育てられた魔族の女がいました。
女は人を愛し、人のために魔族を殺し、人のために戦いました。
そして女は魔物となり、人の中で死にました。
「にいさま、これ……どのような意味なのですか?」
その一節は幼い少女には不可解で、何故だか心に引っかかった。
それは少女が感じた初めての好奇心や探究心に分類されるものだった。だから苦手であり、話すことなど避けていたかった兄に問いを投げかけてしまったのだろう。
数秒もせずに返ってきた返事代わりの兄の表情を見て、少女は厚ぼったい墨色の前髪の奥に隠れた、大きな瞳を竦ませた。
「……まだそこに居たのか」
肉親とは思えないほど冷たい眼差しに肩を震わせ、整えられてなどいない不恰好に伸びた黒髪を、縋るように手繰り寄せる。
「ご、ごめんなさい……」
兄の目は冷ややかなまま変化を見せず、顎で少女の退出を命令する。
だが、この部屋に入ったのは少女の方が先である。異議を唱える言葉が不意に湧き、しかしそれを音に変えることは許されず、少女はその場でたじろいだ。その反応が、兄をことさらに苛立たせたのだろう。
「さっさと出て行け、レスカ!」
まぎれもない苛立ちを含んだ声に、少女――レスカは隠れるように逃げ出した。
あの文章がエルスラの英雄を、帝国の死霊術師を、魔女を表すものだと知ったのは大分先のことで、聞きそびれた文章の真意は今もなお理解出来ている自信はないけれど。
その日からずっと、まるで綺麗な硝子の破片のように。
レスカの中で"魔女"は特別を占めていた。
◆◇◆◇◆
『魔女の話をしましょうか』
レスカがそう言ったのは、コルスの街に帰って来てからそう経たない頃のことだった。
きっかけはあたしが口ずさんでいた歌。少し前にリタが歌っていたものだ。独特で耳に残るメロディは、あっという間に脳内を侵攻した。
まあ、別段嫌いというわけでもない。むしろ好みだ。
どうやら"自分らしい"とはお世辞にも言えない、恋歌のようだが。身分違いのような、悲恋臭がする淡い片想いの歌詞ではあるけど、どこか満ち足りた気分になる。
ある友人の持論に『悲恋こそが最も美しい』というものがあったが――当時は理解できなかった――まあ、確かに悪くない。こちらとしては、両想いで砂糖爆撃を繰り広げる、勿論泥沼など存在しない、焦れったいやつが好みではあるのだけど。
そんなわけで、頭を音符が巡りすぎてちょっと困っている状況から、歌ったら解消されるかなと斜めに進み、逆にさらなる定着を呼び起こしてしまったのが現状だ。
もう諦めた。
そう開き直ったころに、丁度帰ってきたレスカが言う。
「その歌、懐かしいですね」
僅かに目を細めながら呟いた。
「有名なの?」
「はい。 この曲は昔からありますから」
童謡とでも称するものに位置するらしい。
ちなみにリタが泊まりにきたときはひたすら逃げ回っていたため、レスカは聞いていない。
「私にとっては、一番馴染みの深い歌です」
機嫌良さげにレスカが言う。
今更日焼け防止かなんなのか、羽織り始めていた上着を脱ぎながらだ。
左腕の傷痕は、しっかりと残っていた。
レスカはにやにやと、整いながらも不快感を感じる笑みを浮かべる。
「うー……うー……」
「唸ってもだめですよ」
「なんで消さないのさ」
「ほら、傷は勲章とも言いますし?」
「中二病め……」
「国が違えば文化も違う。 この国にそのような概念は存在しません。 よってルイの感性は適用されず、私が痛々しい人にはなりません」
「正論は人を傷付けるのでやめて」
「ご心配無用です。 回復魔法がありますから」
おい、劣化聖女様。精神を癒せ、精神を。
「それに、こうすれば罪悪感に悶えるルイが定期的に見られますし」
「レスカ、ストップ。 それ以上行くな。 目覚めるな。 戻れなくなる」
しれっと抜かすレスカに覚えるのは、盛大な危機感だ。
もう駄目だこの人。
「というのは半分ほど嘘です。 抜糸せずにアネルさんの時魔法を借りて、戻してしまったので。 残るのは必然でしたねー」
「よし、今すぐ抜け!」
正真正銘の阿呆がいた。
◆◇◆◇◆
結局レスカは抜かなかった。
一応死体であるし、特に問題はないらしい。首の方も当たり前だが、糸は残ったままだ。いや、大丈夫なのかそれ。
本人がいいのならいいか。こちらの精神状態など考慮してくれないに違いない。
目の前で肉を抉られるのも十分嫌だ。
ちなみにアネルさんへの口止めはいいのか、ときいたら、「既に対策済みです」と返ってきた。
おそらくリタ女史経由の弱みかなにか……悪寒がしたので、思考を急遽打ち切ろう。
レスカは鼻歌を歌いながら、お茶を用意する。料理は壊滅的だが、お湯を注いで三分待つぐらいはできるらしい。
もちろん鼻歌の内容は、リタから始まった一種の伝染病。しばらくループが続く見込みである。
かたかたと音をたてながら、安物のマグカップをレスカが持ってくる。
何処かの甘党は砂糖をこれでもかとねじ込むが(溶かしきれず下に沈殿している)、レスカはストレート派だ。あいつの味覚はおかしいんじゃないかしら。さっさと糖尿病になればいいと思う。
別段恨みがあるわけではない。食事シーンを見て、歯が溶けそうな気分を感じたぐらいだ。なんか、こっちに帰ってきてから余計に酷くなっている気がする。
ラオに聞くと「時期が時期やからなぁ……」と返ってきた。そういうものですか。
なんだか気分が悪くなったので、ミルクだけにしておこう。今更ながら、普通に生で飲んでしまってる。
生卵はひどかった。卵かけ御飯というのは素材に全てを依存するらしい。
ことん、とマグカップをレスカが置く。その所作はどこか小動物的だ。
「知っていますか? さっきの歌には、続きがあるんですよ」
言われてみれば、あの歌の歌詞は中途半端なところで終わっている気がする。いわば、物語のプロローグだけという感じだ。
「レスカはその続き、知ってるの?」
「はい。 今、一般的に伝わっているのは最初の部分だけですが」
あたしの表情から疑問を読み取ったらしく、レスカがくすりと笑った。
「趣味には全力を注ぐ人種なのです。 聞きますか?」
「結構です」
即答した。
当然レスカは憤慨する。
「いや、レスカが歌上手いイメージないし」
ガキ大将も真っ青な歌声でも、レスカなら納得させられる何かがある。それは主に"日頃の行い"と呼ばれるものだ。
「……あのですね……仮にも、一部には聖女と呼ばれていたんですよ? 歌が下手で務まると思います? 聖女の夢を壊していいと思ってます?」
げんなりとした顔。レスカの反論はもっともだった。
"聖女"を"アイドル"に置き換えてみよう。異常なまでにしっくりくる。
「はいはい。 聖女サマね」
「……最近私への扱いが雑だとは思いませんか?」
「世の中って雑なんだよ」
「なんでもかんでも世の中のせいにして、大人になれると思ってるんですか」
「順調に年を重ねていけたら、大丈夫じゃないかな」
「逆説的に、順調に年を重ねられない私は永遠に少女のままですね」
「うえっ!?」
詰んだ。
等々、色々脱線したものの結局レスカは歌うらしい。
嫌な予感が止まらないので、扉前待機だ。いざとなったら逃げよう。
完全に信用のないあたしの顔を見て、レスカが不敵に笑った。
硝子のような音色が微かに響く。
鈴のようであり、琴のようでもあり、楽器に例えることがそもそもの間違いのようでもある。
端的に述べよう。聞き惚れた。
声量こそ少なく、直接的な衝撃を与えることはないけれど、初めてレスカに"儚い"という印象を思わせた。
穏やかな歌詞と曲調も、拍車をかけたのだろう。
この時、紛れもなくレスカは聖女だった。
頭を空っぽにしてメロディに浸る。
――どうか貴方へ、世界で一番の幸せを。
その歌詞は健気で微笑ましい。
目を閉じれば、そのまま眠ってしまいそうで……
「レスカ、ちょっと止まって」
ぴたりと音が止んだ。
「どうかしました?」
「いや、えっと……歌、途中から変わってない?」
急に曲調が暗くなった。そのせいで前半と対して変わらない歌詞なのにどこか悪寒を感じる。
印象が一変した。
「同じですよ」
「……」
「……どうか貴方へ、世界で一番の栄光を」
メロディのない、そのままの言葉。
明らかになにかがすり替わっている。
淡い恋心どころか、感情すらも読み取れない。
レスカがふっと笑った。
「こういう歌なんです」
「製作者の意図がわからない……」
悲恋は美しい?
そんなわけはなかった。それ以前にこれは悲恋どころか、いつ、どのタイミングで、何があってどうなったのかがわからない。
気が付けば雰囲気が一変していた。
「製作者の意図は、明確なものがありますよ?」
それは何か、と聞けばレスカは「教えません」と人差し指を乾いた唇にあてた。
思わずむっとなる。
「ただ一つ言うとすれば、これは死霊術師……エルスラの魔女の物語です」
そして、場面は冒頭へと巻き戻る。
◆◇◆◇◆
「偏りに偏った私の知識を、とくと味わうがいいのです」
レスカは得意気に、楽しそうに笑う。
「偏っているんだ……」
「ええ、それはもう。 無駄な労力を使って集めましたから」
実に不適切な場面で胸を張る。
本当に偏っているのだろうか。
「レスカってなんでも出来て、なんでも知ってるイメージがあるけど?」
レスカはぱちぱちと、目をしばたいた。
「ルイは、勘違いしてますよね」
「何が?」
治癒魔法は上位だし、近接戦闘だってこなし、一晩で古代語の翻訳も可能。肩書きは死霊術師兼古代魔術師。
神様チートな一希より、よっぽど恐ろしい。いろんな意味で。あたしは勿論選外だ。
「出来ないことの方が、ずっと多いです」
レスカが首を振った。
「神聖魔法の中でも治癒魔法は、一度使うことさえできれば、習得するのにそう苦労しません。 贔屓の具合と、持ち合わせた最低限の魔法の才と、血で決まります。 ……私の身内は、一年もせずに上級を習得するものばかりでした」
「レスカは?」
「十年……半生以上です」
返事は苦笑と共に。
「最低限の魔法の才が、壊滅的ですから」
くつくつと、レスカは笑う。血の利すらも、機能しないと。
「一つの事を成すには、他の多くを、対価に合わない労力を犠牲にしなければ、何一つまともに出来ないのです」
青白い指が白銀の髪を弄ぶ。死霊術師の肩書きへレスカが支払った対価は、寿命。
何をどう言うべきか、わからなかった。
レスカがふいにこちらを見つめて気遣うように、にぱっといつも通りの――実にアンデッドらしくない――明るい笑みを見せた。
「あっ、別に僻んでいるとかじゃないんです。 かなり恵まれた方だと思ってますし、後悔は……アンデッドになるぐらいですからしているのでしょうか……。 あっあっ、そんな顔しないで下さいっ、私が悪いみたいじゃないですかっ」
一体、自分はどんな顔をしていたのだろうか。
「悲劇のヒロインですねっ!」
「……ごめん、あたしの感傷を返して」
「そんな、うう……真面目に引かなくてもいいじゃないですかっ」
レスカはばたばたとひとしきり慌てたあと、すぐにつんと澄ました顔を作った。百面相みたいだ。
「要するに、天才も狂人も世の中にそうそういないから、そう呼ばれるのです」
――エルスラの魔女が、呼ばれたように。
窓からなだれ込む熱の残る風が、銀色をかき上げる。青の瞳は、まるで遠くを見つめているかのようで。
レスカの横顔はどこか、まだ感じられないはずの秋を思わせた。
「だから私は、末恐ろしいほど……凡人なんです」
「いや、それはないから」
「あ、騙されませんでした?」
◆◇◆◇◆
魔女の物語。
"魔女"という言葉は、近頃ではあまり使われることはない。名称に性別が入っているのは、やはり使いづらいのだろうか。レスカも、古典ぐらいでしか目にしたことはなかった。
一時含まれていた蔑称的な意味合いも、今ではほとんどない。ある地域では"英雄"を意味する場面すらも存在する。
しかしその言葉の根幹には、畏怖が込められていた。
死霊術師の物語。
レスカにとって他人事ではなくなった今において、それは特別な意味を持つ。
時は数えるのも億劫なほど離れていても、最も身近な先達だ。
反面教師にならなかった、愚者の象徴。
歌詞は彼女の人生を語った詩人の解釈に過ぎず、"魔女"が本当は何を考えていたのか知る手段はない。
ルイのいない部屋で、レスカは終わりの句を口ずさむ。
花束の代わりに心臓を
墓標に刻むは真紅の文字
悲鳴こそが貴方へ捧げる鎮魂歌
どうか、貴方のいない世界が泣き出しますように……。
更新停止表示予防に、プロローグ投下。




