勇者の 魔女
走った。
何度かずり落ちそうになったネルルを背負いながら。
肺活量といい、思ったよりは体力がついていたみたいだ。
だけど、
「……重い」
いや、世間一般に言ったらネルルは軽すぎるんだ。背負っている側の問題だ、と言い聞かせる。
闇雲に動き続けて、辿り着いたのは何度目かの分岐点。
一瞬迷い、左を選ぶ。
その先は、行き止まりだった。
脱力しそうになりながら、もう一度ネルルを背負い直す。彼女はうわ言のようにぶつぶつと何かを呟いていて、結構怖い。
起きているんじゃ?というか、起きろ。
進路を戻そうとした時、目に液体が入った。
「……ったく!」
目をこする。
指には薄っすらと赤が滲んでいる。
ネルルを奪還する際に頭を打ったとき、額でも切れたのだろうか。目の中に入って来る。
普段ならさっさと治すところだが、もう魔法一発分も打てそうにない。
というかこれ、担当が違うよね?
ヒロインの奪還とか、普通一希がやるところでしょ。
本当はこのタイミングでネルルを連れていくつもりはなかった。
なんとなく、「あ、これいけんじゃね?」と出来心が働いた。結果はこの通り。共倒れルートの香りが濃厚。
どちらにしろ自分だけ逃げたって、敗色ばかりが強い状況なのだけど。
うん、どうせできないなら、欲張ったほうがいいよね!
少々錯乱気味である。
電車を乗り逃しそうだけど、走る価値はあるかないかという、答えの無い心境と似ていた。
例えのスケールが小さい。つまり、器が小さい。
疲労はネガティブの元だ。
「カズ……キ……」
うわ言ネルルが発声する。
寝言が好きな人の名前とは、なんとも羨ましい限りだ。
こっちの寝言は、大抵食べ物の名前だというのに。
……チートにコンビニ貰えばよかった。商品は自動供給、オーナーは支払い免除。
安価のアイスが懐かしい。
いや、冷たければなんでもいい。体が火照って来た。原因は背中のネルルだろう。
もう置いて行ってしまおうか、こいつ。
「やぁ……おいて、行かないで……」
太腿がぞっとした。
まじまじとネルルの顔を見てしまう。目は閉じられたまま。十中八九寝言。
寝言、だよね?
「妙なリンクはやめようよ……」
これだけ鮮明な寝言を言うのなら、起きてくれないだろうか。
恨みがましくネルルを睨んでいると、ぱちり、と瑠璃色の瞳が開いた。肩と心臓が跳ね上がる。
焦点の定まらない、虚ろな瞳。
なんだか見つめてはいけない気がして、目を逸らそうと試みて、吸い込まれる。
首が動かない。
「ネル、ル……あぐっ!?」
不自然な角度で固定してしまっていた首は、スゥッと動かされたネルルの腕によって強引に戻された。
関節が鳴る音。
喉が詰まる。
ぎりぎりと締め付けられるように――否、ネルルは首を締めようとしているのだと気付いた。
「わかってる……。 最初からわたしは足を引っ張ることぐらい……。 わかってた……。 何も出来ない……。 何も力になれない……。 わたしは側にいられない……。 でもまだ……。 見限らないで見捨てないで見損なわないで……。 もう、何も変わらないで……」
ネルルの細い声が、涙と一緒に零れ落ちる。
吐き出す言葉が増える度に腕の力が込められていく。
きっとまだ、目が覚め切っていないのだろう。
あたしはネルルの腕を、ゆっくりと引き剥がし、軽く捻り上げながら向かい合う。
ネルル、ごめん。悪いけどネルルの事情はわからない。理解するつもりも毛頭無い。
だけど、はっきり言えることがある。
「ネルルさ、結構馬鹿だよね」
泣いている子の扱いなんて知らない。慰めるよりも、逆に嘆きを不快だと感じてしまう自分は、最低だと思う。この手の文句に、無性にいらっときてしまう。
きっと一希なら、うまくやれたのだろう。そんなことない、って断言して、チョロインフラグでも確立させて。
あたしの役割じゃない。だからおそらく、放置するのが正解だったんだ。傷口に塩を擦り込みかねないと、自分で理解しているのだから。
でも、言わずにはいられなかった。
ネルルの戯言に、言いようのない、理由も知らない、胃のむかつきを――不純な苛立ちを覚えたから。
「一希はね、厳しいよ。 一見すると頑張っていて、ある程度関わると頑張ってなんかないように見えるけど」
常に人のいいところを探している。それは、尊敬出来る人間を探しているのだと気付いたのはいつのことだろうか。
一希は自分にも他人にも、沢山のハードルを用意する。
「あいつ、誰よりも一途だから」
ハードルを越えられるかは問題ではなくて。
「だから誰よりも、努力しない奴を嫌う」
足を引っ張る――ネルルはそう嘆いたけど、自分だって変わらない。
うちのパーティは佐倉ルイがいなくても機能するのだろう。
……その立場に甘んじるつもりはないし、そうしたいとも思わないけど。
今出来ないことは逆立ちしたって出来なくて、出来ないなりに、いつか出来るようにやるしかない。
わかっては、いるんだ。
こっちだっていつか致命的なミスをするんじゃないか、って考えている。
だけど、ネルルとは違う。
「……あたしみたいに、頑張るフリばかり上手くなった奴と、ネルルは違うから」
きっと胃のむかつきは自己嫌悪で。
この言葉は明確に八つ当たり。
今にも壊れそうな女の子に、掛ける言葉なのかわからない。
「努力できるってだけで、あたしの中では"天才"に入るの」
真っ当に、人に誇れる"努力"なんてしてこなかった『凡人』には、『天才』が眩しくて仕方がない。
ネルルは一希と同じ舞台に立っている。
思ったよりもちゃちかった女神の慈悲が
「……チートとかじゃなくて、自分で進んだ結果、手に入れたものだったらよかったのに」
そしたらどんなに酷い結果でも――後悔はしても、いつか誇れる日が来そうなのに。
無理矢理に笑顔をつくって、ネルルの頬をぺちぺちと叩く。
「ほら、起きて」
ネルルは伽藍堂のような色彩の瞳のまま、でも、と、だって、を繰り返す。
あたしは黙ってそれを見つめ、
――ドスッ。
ネルルの腹に拳がめり込んだ。
伽藍堂の瞳に、光が戻る。
「お帰りネルル」
ネルルは眉を微妙にピクピクさせながら、声を絞り出した。
「起こし方が、乱暴っ……」
いや、だってよく考えたら、意識を取り戻してない状態で何言っても無駄じゃないか。
腹立つ。恥ずかしい説教かましたのに。
「聞こえ、てたっ」
「じゃあさっさと返事しろよ」
「は、半分寝てただけだし……!」
「なるほど、ネルルの半分に首を締められたわけだ」
「えっ……首……?」
都合の悪いことは忘れているお約束。
"ジト目かわいい"も、ツインテール効果の消失と五十パーセントなネルルのせいでかき消えた。
ネルルがぼやく。
「走馬灯みたいの見て、きぶん悪いし、お腹痛いし、ルイだしっ……!!」
「最後の何!? ちょっと!! 走馬灯って死ぬの?! 一回死んじゃえ! 」
後味悪いから、生き返れ!!
いつもより饒舌なネルルが睨む。
負けじとこちらも睨み返す。三白眼ごっこなら負けない。
そのまま数秒、時が止まる。
……睫毛長い……。謎の敗北感に襲われて、気が付いたら笑い出していた。
意味が分からない。けど、なんだか無性におかしくて、ネルルと一緒に笑い続けた。
「「逃げよう」」
◆◇◆
「腑に落ちない……」
ネルルがまたしてもぼやく。
「何? ネガティブお断りなんだけど」
「そうじゃない。 よりにもよって、ルイが助けてくれたってところが納得かない」
「現実なんてそんなもんだ」
「何を知ってる……」
ネルルはげんなりとした顔をしてみせた。
いつもの数倍饒舌で表情豊か。
ネルルの服もまたぼろぼろで、顔もやつれているけれど。ここ数日で一番楽しそうな表情をしていた。
……あれ?何一人ですっきりしちゃった顔してんの?こっちは自己嫌悪ですり減りそうなんだけど。
「ていうか、ネルルさ、恐ろしいほど首締めの効果なかったよ」
白く細い腕に目をやる。
細い。
大事なことだからもう一度言う。
細い。くれ。
「筋肉ある?」
ネルルがぐっと腕を曲げる。
「あ、あるし」
なだらかなそれを見て、少し吹き出した。
「わ、笑わないっ……!」
「や、それはちょっと無理」
欠伸を堪える。
荷物が減って、急激に眠くなってきた。立場の逆転。
歩きながら寝るという暴挙を繰り出しかねない。
三重瞼になってそうだ、と考えながら額を掻く。
駄目だ。気が緩んでる。身体が重い。瞼の周りだけ重力が大きい。お花畑が見える……。
「あ……痛っ」
額を切っていたことを思い出した。折角血が止まったのに。
爪が真っ赤である。時々やっちゃうんだよね、これ。
ネルルがこちらを向いて、ぎょっとした。
「ルイ、血……」
「あ、川が見える……腹黒系眼鏡男子が手を振ってる……」
「ルイっ! 起きて!! 死ぬ! 寝たら死ぬ……!!」
雪山じゃあるまいし、大袈裟な。
「大丈夫だよ。 背骨と腰がびきばき言って、睡眠不足で、貧血気味なだけだから」
「本当に大丈夫だった……」
「……そうですね、普通ですね、このぐらい」
価値観の相違。
「あ、ちなみにあたし、魔力空っぽで殆ど丸腰」
「は……?」
「足腰ガクガクだし、なんか水妖っぽいのを怒らせちゃってかなりやばい」
「…………」
ネルルの肩に、ぽんっと手を置いた。
「頑張って?」
「すぷらった……」
失敬な。
ネルルが顔に手を当てた。
「こんなのに、助けられたって……屈辱……」
気持ちはわかる。
「………………ありがとう、起こしてくれて」
ネルルに変わって前を歩きながら、もう一度何かに死ぬ気で一生懸命になろうかと、そう思った。
◆◇◆
ネルルが先を歩いている間、もう一度持ち物を確認していた。もちろん無い物が出てくるわけでもなく。
ため息をつきながら、レスカに貰った小瓶をもてあそぶ。からからと乾いた音が響いた。
「ねえ、ネルル、アレってなんだと思う?」
「アレ……?」
「あー、あのネルルに化けてたやつ」
ネルルは目を見開いた。
どうやら、ネルルはコピーされていたことを知らないみたいだ。それもそうか、意識がなかったのだから。
それでも、入り込まれたような感覚は覚えているようだ。
「最初は精霊かと思ったんだけどさ、どうもここはダンジョンっぽくないなって思って」
「わたしも、絶対に違うと思う……」
絶対?
何故言い切れるのだろうか。
「精霊はさらさらだけど不完全で、アレはどろどろだけど完成されている感じ。 すごく感覚的な問題だけど……」
「なる、ほど?」
わからない。
「……どっちも不快なのには変わりない」
ネルルが肩を竦めた。
「向こうから話し掛けてくるだけ、アレの方が気味悪い……」
心底嫌そうな顔をして、壁に触れた。
「どうしたの?」
「歩き回るのは非効率的。 面倒くさいし、疲れた。 だから壁を壊せばいいんじゃないかと思った」
なんだそのカインとレスカ的発想は。
どいつもこいつも、壁は壊すものじゃないってわからないのか。
「……ルイは、どう思う?」
「賛成」
即答だった。
人間の原始的な欲求には勝てないのだ。
壁ぐらい取り払ってしまえ。これからの人類に必要なのは開放感だ。
寝ぼけているという事実は、言うまでもない。
「ルイ、髪留めある……?」
ネルルがうっとおしそうに、髪をはらう。
「紐でいいなら」
ネルルは頷き、一つに髪を纏める。
やはりやり辛かったのか、その見た目は少々不恰好だった。結び目が首の付け根まで下がっていた。
ネルルはゆっくりと、慎重に魔法を練り上げる。
集中して詠唱を聞くと、呪文がどこか違うことが分かった。
唱えているのが初級魔法だったからだろう。大して広くないこの場所ではネルルの中級魔法は、二次災害が起きそうだから。
無詠唱がそこまで珍しくもないと知った時は悲しかったな。初級は無詠唱で出来るのに中級以上を覚えていないということは、逆にさぼっているように見えて馬鹿にされていたらしい。
早く教えろ、そんなこと。
一回中級魔法を真面目に覚えようとしたことがあるが――講師はアネルさんだ――リタに「びっくりするほど才能なーい」と言われて終わった。
リタの暴言に無表情のまま、おろおろしていたアネルさんがかわいそうだった。フォローしてもらったが正直……うん、伏せておこう。
「――〈氷針〉」
ネルルが十本ほど、針を壁にぶっさした。
食い込んだ長さはまちまちだ。
なんだか二本ぐらい、短槍みたいなものが刺さっていたが気にしない。
「ここ、一番壁が薄いみたいだね」
一番深く刺さっている針を指差す。
ネルルはこくん、と頷き言った。
「もう一度やってみる」
ネルルが再び詠唱を始める。
その瞬間。
「あ……」
ネルルの胴体から透明な液体が溢れ出し、這うように全身へと広がっていった。
◆◇◆
それは後ろから流れ込んでいるのだと、ネルルは気付いた。
水面に映る自分の顔が、いやらしく見つめかえす。
「ネルルっ!!」
血の気のないルイの顔が、さらに土気色になる。
すっ、と音が消えていく頭で考えた。魔法を使ったから、見つかったのかと。だとしたらすごく嫌だな、と。
ネルルに水系統の魔法を当てても効果はない筈なのに。
痛くはない。
染み込んでいくだけで、外傷というべきものもない。
ただひたすらに気持ちが悪い。
血管を逆流するように、何かが入り込んでいく。
それを傍観することしか出来なかった。精霊とは違えど、異常なまでに親和するそれを拒否することは叶わなかった。委ねてしまいたい、と身体が主張する。
駄目だな、と思って。
ごめんなさい、とこぼして。
そのまま瞼を閉じ――それの意識が入り込んだ。
それはネルルを複写することを諦めて、同化することを選んだ。
それが見たもの、聞いたもの、何かに対する歪んだ愛情も、焼き切れそうな憎悪も。
全てが混ざり合い、瞼の裏の景色までもが混濁する。
片や爆炎が轟き、片や命の気配さえ存在し得ない闇が広がっている。
両眼で見ている景色は違い、圧倒的な情報量にネルルは流される。
『ネルル!』
歪な景色から裂けて現れたその手は、輝かんばかりの笑顔は、紛れもなくカズキのもので。
ネルルの記憶までもがマーブルな世界に加担した。
爆炎が荒れ狂い、暗黒と閃光がせめぎ合い、視界の揺れは暴風の所為か地震かもわからない世界の、時が止まる。
ぽっかりと空いた空間には、二人きりが存在していた。
迷うことなく、その手を取る。
「どうした?」
外の景色も、真実も、全て関係がない。
世界はとろけていったのだから。
なんでもない、と笑って――ネルルの自我は融解した。
最後に見たのは、濁流に引き裂かれたカズキの姿だった。
そのまま微睡みに溺れていく、至福の感覚――。
「え?」
ぐちゃぐちゃの景色が割れた。
双眼に映るのは、青みを帯びた岩壁と貧弱なナイフを片手に睨み付ける黒髪の少女。
そして自分に絡みつく、何か。
ネルルはぎこちなく首を傾げて、穏やかに問い掛けた。
「あなたは何をしたいの……?」
返事はない。
「あなたはわたしと凄く似てる」
それの記憶を全て叩きつけられた、その感想。
「わたしの記憶を見て何を感じた?」
穏やかで、清廉で、冬の寒空のように冷徹な声。
本当は知っている。
それがネルルの記憶の中で、カズキに出会ったときの感慨を。
精霊のような偏愛と、神の逆鱗に触れたかのような憎悪、人ならざるものの、あまりに人間らしい悦びを。
ネルルとそれが等号で結ばれた瞬間、理解した。
「あなたは"わたし"に、カズキを殺させるつもりなの」
疑問符はいらない。
脳内に肯定の返事は返って来ない。
返事の代わりに返って来たのは、支配の意思。
爪先が、膝が、自分のものではなくなっていく、その前に。
ネルルの指先は、ルイのナイフに触れた。
ほんのひと時、ルイと目が合う。ルイは柄を握っていた手を離して、ネルルに託す。
ネルルの指先は、自身の首元へとナイフを向けた。ぷつりと皮が切れ、血が滲む。
支配権は渡さない、その意思表示。
それは怒り狂ったように脈打つ。
「"わたし"はあなたに渡さない。 わたしはあなたみたいにならない」
何百年も記憶の波に溺れ続けて、自分すら見失ったあなたなんかに、カズキを殺させなんかしない。
鈍く光る刃を、首元から後ろへ勢いよく滑らした。
薄青の髪が断ち切られ、はらはらと舞う。
「わたしはあなたと違う。 わたしは変われる。 変えてみせる。
だから、入ってくるな!!!」
凄まじい冷気が立ち上る。それはネルルの意思そのものだった。
纏わり付いていたものは凍りつき、四散する。
ネルルの瞳には、決意の色が浮かんでいた。
◆◇◆
「ルイ、ごめん……。 わたしはやっぱり、あれを倒す」
「まあ、そんなところだろうとは思ったよ」
もう既にそれは再生し、ネルルの形をとり始めていた。
ぎり……と、ネルルが奥歯を噛みしめる。
「わたしの姿で、カズキに会わせるわけにはいかない」
その口調は強く、揺るぎない。
カズキは優しいから、わたしと同じ姿を見れば躊躇する、と。
「だから、ルイは先に逃げ……何、してる?」
あたしは壁に刺さったままの、短槍サイズの〈氷針〉を引っこ抜きながら、向き直った。
「何って、援護?」
ネルルが声を荒らげた。
「なんで? ルイはする必要ない!」
「いやあ、これでも幼馴染っていう、国家権力並の地位ですから」
反論の余地がないほどに関係者だ。
場は和むどころか、ネルルの眉間の皺が深くなっただけだった。
「お願い……わたし、ルイを巻き込みたくない……」
ネルルの言っているのは、魔法のことだろう。
あたしは緩く笑いがら、からからと小瓶を振った。
「どうぞ思いっきりやっちゃって。 三十秒は持ちこたえてみせるから」
ネルルははっとして、何かを諦めたように微笑んだ。
それは、偽ネルルの形成が完了するのと同時だった。
氷の短槍で、竹刀のように自分の肩を叩く。
「さーて、ギッタギタにしてあげる。 ネルルがねっ!!」
「ルイ、かっこ悪い……」
軽蔑の眼差しは軽く流したその途端。
小瓶の中身を噛み砕いたのと同時。
偽ネルルが弾けた。
視界が反転する。
一瞬の空白の後に訪れた衝撃が、頭の中を真っ白にした。
身を捩り、咳き込んだ。
偽者は弾けたのではなく波になったのだと、それによって叩きつけられたのだと気付いた。
本体で攻撃だとか、計算外だ。
膨張し続けるそれは、洞窟内を満たしていく。ネルルを攻撃することも厭わないかのよう。
いい加減、水恐怖症になりそうだ。
全てを呑み込まんとする荒波と轟音。その中で耐えられていられるのは、ネルルのお陰だ。あたしの周りだけ、流れが幾分ましになっている。
しかし状況は、動くこともままならない。
その中で、彼女は短くなった青髪を翻しながら進む。
まるで人魚のように、舞うように泳ぐネルルに、全てを託した。
本当に口だけになりそうだ、と自嘲しながら。
可哀想。
ネルルがそれに抱く気持ちだ。
皮肉でもあり、軽蔑でもある、ネルルの本心。
全身をそれの思考に浸らせて、されど拒絶しながら流れに乗る。
ぐちゃぐちゃの混濁した記憶を叩きつけられたのは悪意などではなくて、それがもう既に気がふれるほど、まともな記憶を維持できないほど壊れてしまったからなのだろう。
遠い昔には理性だってあったはずなのに。
それにあるのは、カズキを――女神を殺したい、という意思だけだった。
ネルルは思う。
こんなにもこんなにも望んでいるのだから、怨みの理由はけして理不尽ではないのだから、その願いは叶えてあげたい、と。そこまでに毒されている。
自分だってそうしただろうから。
同化寸前まで行き着いたネルルには、それの思想が色濃く移っていた。
だけどその願いが叶うことはないのだろう。
その矛先は女神だけに向いてくれないのだから、見て見ぬ振りはしてあげられない。
もう一人の自分に思えたからこそ、全てが許せない。
人生で三度目に出来た友人で、二度目に好きになってしまった人で――初めて、どんな形だろうと側にいたいと思ってしまった人だから。
ネルルは決して、その願いを許さない。
隣に立つためならば、自分を変えてみせると決めた。引き金を引いたのがルイだということに、若干腹立たしく思いながら。
どんなに似ていようと、似せられようと、守りたいものが正反対に位置しているのだから。
許すわけにはいかないのだ。
ぱり……。
線香花火のように、光が踊る。
さようなら、名もなき柱。
たとえあなたが正義だったとしても、本来の"神"の欠片の成れの果てでも。それでもわたしはあなたを――。
「…………」
呪文は要らない。
制御する必要はない。
ただ純粋に、持てる全てを。
魔具ではなく、器でもなく、誰かの娘でもない、ネルル自身。
暴走よりも迷走のほうがよっぽど相応しい、勇者カズキの魔女。
ばちり、と水中を閃きながら放射していく。
「〈雷撃〉ーーーッ!!!」
蒼然とした稲妻が、弾けた。
◆◇◆
息を止めて目を閉じて、じっと待つ。
炸裂した光は瞼越しにも眩しく、突き抜ける。
それでも死にはしない。身体が焼き焦げてしまいそうなほど熱いだけ。
小瓶の中身は、いつかレスカが作成していた毒物の残が――完成品である。完成品だ。
レスカ曰く、作ろうとして作ったらしいので。真偽のほどは確かではない。
その効果は、いかなる魔法も無効化するという反則モノ。作用時間は一分弱、といったところか。
『そろそろルイごと焼き尽くすことも、視野に入れるべきだと思ったので』
というなんとも物騒な理由で生産された。物騒というか、普通に外道。
『大丈夫です! 少なくとも遺骸だけは、確実に綺麗に残りますから!!』
とのお墨付きだ。
ものすごーく、安心出来る。
……まあ、アレは魔法を使ってこなかったってところで、計画は半分破綻したのだけど。
光が消えた。
ちかちかする眼を開く。
水は、足元に薄く広がるだけ。そこにいるのは、ネルルとあたしの二人だけ。あんなにも大量にあった水は消えている。
ネルルの手を取った。彼女は小さく頷く。
指先から放たれた雷が一直線に壁を崩落させる。その先に見えた青は、紛れもなく海の色で。
崩れきる前に駆け出した。
「水圧っ!」
「そんな深くない……っ」
短文の会話。
くらげのような半透明の結界の前に行き着いて、ネルルの表情が一変する。彷徨う視線は、洞窟の方向で定まった。
なんとなく理解する。
「〈火球〉!」
やっと回復した一発分の力を込めた。
火球が洞窟に行き着く前に。
ネルルを結界の外へ押し出す。
数拍の間。
鼓膜を乱暴に殴りつける爆音が轟いた。
水素爆発。
洞窟中に充満した気体が、次々と引き起こす。
あ……これ、やばくない?
爆炎が海中という状況を無視して進んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
ふと、〈暗視〉の掛かったままの目でネルルを見る。
焦りと怒りと……おそらく涙目。小刻みに震える身体は寒さではなく、魔力の枯渇を物語っていた。
気のせいじゃ、ない。
浮上の速度と釣り合わない。
爆風でぐちゃぐちゃになるのと、爆炎で炭になるのとはどちらがマシだろうかと考えて、少し長めの瞬きをした。
…………あれ?
目を微かに開ける。
飛び込んだのは、暗い海底ですら傲慢に輝きかねない、白銀。
「このっ!! バカっ!! 」
左腕から血を滴らせながら、罵倒される。その瞬間、自分達はレスカの魔法に守られたのだと、気が付いた。
◆◇◆
球体の防護壁が、レスカの命令に従って上昇する。
砂浜に着陸して、レスカが再度口を開いた。
「急に水面を覆っていた氷がなくなったと思ったら、どうしてこんなことになってんですかっ!! 一体何処をどうやったらこうなるんですかっ?! 馬鹿ですよね! 馬鹿でしょ!! さあ、馬鹿だと言いなさい!!」
何かを言い返そうとして、身体がぐらついた。
その際、龍のようにうねりながら波が形を変える景色が見えた。
「ま、だ……」
ネルルがふらふらと立ち上がる。今にも倒れそうな彼女は案の定、バランスを崩す。それを抱きとめたのは、一希だった。
「ありがとう。 だから……今はゆっくり休んでくれ」
見慣れたはずなのに、どこか大人になった笑顔でネルルに伝える。
もしかしたらあたしにも言っていたのかもしれないけれど、よくわからない。
「ごめんな、早く行ってやれなくて」
ネルルがぶんぶんと首を振った。一希は困ったように笑う。
翳した灰銀の大剣は、明るんだ空を背景に、異彩な煌めきを見せた。
一希が駆けるのを、ただぼんやりと見つめ――水の上を走るって、完全に人外の領域だろ……――そのままレスカにもたれ掛かる。
「あ、レスカごめん……アレ、使っちゃった」
一瞬、レスカがきょとんとした表情をした。
「はっ? えっ? はああぁ~~っ?!!」
数秒遅れてきた、ですますの欠除した喚きと解毒魔法の呪文をバックに、意識はゆっくりと落ちていったのだった。
その後、この場所で何が起こったのかを、あたしは知らない。
次回 エピローグ




