変わり始める シチュエーション
雫の音に、身体を震わせる。
肉眼で前が見えるのは、岩肌がぼんやりと発光しているからだ。おかげで見たくないものまで見えてしまう……と思いきや、洞窟の中には恐ろしいほどに生物がいなかった。苔の類も見られない。
嵐の前の静けさというやつじゃないか、と頭によぎり、二の腕をさする。中は涼しいを通り越して、寒いの方が正しかった。
小学生の時に、鍾乳洞で迷子になりかけたことを思い出す。
早くネルルを見つけ出して帰りたい……。帰る方法は後で考えよう。
サンダルが足場の悪い地面に悲鳴を上げる頃、きらきらと輝く薄青が目に止まった。
「ネルル!」
彼女が、声に振り返る。
青色のツインテールは、紛れも無くネルルの姿だった。
「はあ……ようやく見つかった……。 心配したんだから、まったく」
ネルルはじいっ、とあたしを見つめたまま、口を開かない。
「ネルル?」
ネルルがきょとん、と首を傾げる。
「違ウ……」
「は?」
「貴方ハ、違ウ」
「え、っと、何、言ってるの、かな?」
なんか、凄くやばい気がする。
「エウクレイ様……」
ネルルが踵を返した。
「ちょっ! ネルル!!」
慌ててネルルの肩を掴もうとして――
ズブリ
――その手がネルルの体内へと沈み込んだ。
◆◇◆
レスカは煮沸した頭を制御出来ないまま、カズキに食ってかかる。
「女神がエルフの神話を肯定? そんなわけないじゃないですか!!」
「ミレニア教徒にはにわかに信じ難い話かもしれないけど、本当」
巫女でもないのに神託が下るなんて、カズキは巫女ですか!巫女なの?!
レスカの混乱具合は、大分末期だった。
「じゃなくてですねっ……!!」
あれは、女神ミレニアの汚点だ。自身が裏切り者であると書かれた書物を、自身が処分することを命じた書物を何故肯定する?
レスカは無理矢理に深呼吸で心を落ち着けようとした。そうしてやっと、ルイは女神に都合の悪いところを伏せて、ネルル経由でカズキに伝えたことを思い出した。
「いえ、わかりました。 取り乱してすみません」
「いやいや、謝らないで」
カズキが、レスカの背後に襲いかかった氷人形を砕く。
「本当は大分前に真偽を聞いたんだけどさ、今の今まで返事がこなかったんだ」
さては、ばっくれようとしたのだろう。ミレニアが裏切り者であるという表記を除いたとしても、十分に都合が悪い。自分と同格の存在がいたことを認めてしまうからだ。
「でも、このタイミングで認めたということは……」
「ああ」
ぎりぎりの妥協の結果。
レスカがシャベルを投擲。と同時に、魔力探知を海の底へ向ける。
「女神が封じた"七柱"の存在の是認と、その目覚めの始まりだ」
◆◇◆
ネルルの肩に食い込んだ腕を、信じられない気持ちで凝視する。
指が動く感覚はある。でも、これは、指先に触れるのは――。
ブリキの人形のように、ぎこちなく首をこちらに動かしたネルルの目が合う。
「ひっ……」
その瑠璃色の瞳は、何を考えているのか分からなかった。
「思イ出シタ思イ出シタ思イ出シタ」
ぱっかりとネルルの口が開き、その輪郭が崩れ出す。
「アノ女ノ臭イ……貴方ハ偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物……!!!」
ネルルじゃない。これは、ネルルなんかじゃない。ネルルのわけがない!
腕を引き抜く。危険信号が、脚へと回る。やることは一つ。
逃げる。
逃げる。
逃げ出したい。
つま先の感覚に痺れが走った。
「――消ス」
もうアレはネルルの形を留めていなかった。
水流が鞭のようにうねりながら、アレの周りを巡っているその様子を、尻目に見ていた。別に余裕とかじゃない。首が固定されて動けないだけだ。見たいわけじゃない。つーか、見るな自分!
水流の数が増えていく。
あれを『鞭』と表現するのは正しくなかったな。あれは……そう、多頭の水蛇『ヒュドラ』のようだ。
ゴゴゴゴ……という音に顔を引きつらせ、ふと考える。
これ、もう無理かもしれない。
結果だけ言おう。逃げおおせた。
入り組んだ洞窟内を、取りあえず曲がり続けた結果だ。
はっ、ざまぁ!! 佐倉さんを倒そうとか六十四年ぐらい早いんだよ!!!……げほっごほっ。噎せた。八十までは生きさせて下さいお願いします。
冷んやりとした岩肌にもたれ掛かり、息を整える。
膝から下が、プルプルしていた。
何あれ怖い。超怖い。
どのタイミングで撒いたのかわからないが、水蛇が当たらなかったのは幸運としかいいようがない。逆コントロール力万歳だ。まあ、最近コントロール力があっても元の威力が低けりゃ意味ないじゃん、とか本末転倒なことを悟り気味なんだけど。ようはあたしが馬鹿だったってことだ。若気の至りです、ええ。
しかしまともに当たったら腕ぐらい持って行かれていたかもしれない。
最近アンデッド関連の討伐ばかり受けていたから、欠けた死体は割と見慣れている。一希が真っ二つにした野盗を見ても、たいした感慨がわかないぐらいだ。
だからって、自分が平気なわけがない。まず、痛いのは怖い。
どうやら自分は、かなり矛盾した思考を持っているようだ。
長生きしたいと言っているのに、その日暮らし。
自称ビビりなのに割合冷静に戦闘をこなす。
生きた人から血が出るのは怖いのに、死体だったらどんなにぐちゃぐちゃでも平気。
人間的にいいのかな、これ。
あたしの中で、レスカはどちらに入っているんだろう。
考えれば考えるほど怖くなっていく。だから、考えることを諦めた。
それにしても、アレは何だったんだ。
人魚?違うな。腕を突っ込んだあの感触は液体だった。水妖とでもいう存在だろうか……喋るものなのかな。ネルルの姿をしていたし。
しかし、〈探索〉に引っかかったのが両方アレだとすると、ここにネルルはいないことになる。凄くピエロみたいだ。
溜息が出る。幸せが逃げるって、あながち間違いではないかもしれない。
どうしよう。ここから出るべきだろうか。だが、道なんて逃げているうちにわからなくなってしまった。元々レスカと大概の方向音痴だ。一般的と言い張ってみるものの、そろそろ認めざるを得ない。
やたらとアレに殺意を向けられてたしなぁ……。何もした覚えはないのだけど。間が悪いってやつか?水妖の心理を理解するほうがおかしいな。
よし、方針決定。アレに出くわさないように彷徨いながら出口を探そう。なかなか無謀で自分らしい作戦だ。あたしは自分をなんだと思っているんだ。
そうして、カニ足のまま移動を開始したのだった。ふざけないとやってられん。
カニ歩きを止める余裕が出来てきた頃。ふと思いたった。
幸運にもウエストから外れていなかったポーチの中から、クロスボウを取り出す。ナイフよりも遠距離武器を持っていた方がいいだろう。どちらにしろアレには効きそうにないが。……思い出したら寒気が。早く逃げ出したい……。閑話休題。
引き金式のこちらの方が、正統派の弓よりも使いやすかった。
何より小型というのは、ポイントが高い。空間拡張機能だなんて大袈裟なことを言っても所詮五割増し程度しか広くならないのだから。凄いかのように聞こえるが、元のポーチが小さいのでどうとも言えない。
大きい物ほど拡張率がしょぼくなるという謎仕様。維持するのが大変だから、なんて真相は知りたくなかった。
かちん、かちん、と矢を装填しないまま引き金を引く。
壊れてないよね?
威力の割にそこそこ高額だったため、破損なんてしたら落ち込む。が、異変は感じられなかった。
流石に不自然じゃないか?まるで、意図的に連れてこられたような……。
不自然、ああ不自然だ。この洞窟には、他に生き物が全く見当たらないなんて。アレが水妖ではなく精霊だとしての、ここが精霊式ダンジョンであるという可能性を思い立っての武装なのに。植物すらも、無いなんて。
思い悩んでいる間に分かれ道。
きょどきょどと辺りを見渡し、道が広く行き止まりになってなさそうな右を選ぶと思いきや逆に左を選んでみる。要するに、迷った。道ではなく、選択を。道の方はもう既に迷っている。笑えない。
呼吸が浅い。サンダルの紐が擦れて、足の小指が痛かった。
脚が棒のようだ、と最初に表現したのは誰なのだろうか。棒の気持ちはわからないが、踵からふくらはぎにかけての範囲は今、血行が異常だと思う。
今は何時だろう。ねじまき式だった腕時計は、十二時過ぎで止まってしまっている。今時ねじまきって……ないわー。
習慣にないものだから、巻くのを忘れてしまうのだ。仮にデジタルだったとしても、水没して使い物にならなくなっていることについては、両方とも変わらないのだろうけど。
まず、時計はどういう仕組みになっているのだろうか。物理なのか?それすらもわからない。
それはそうか。つい先程まで中学生だったんだから。頭の中身の情報は、高校生とは程遠い。
今、気が付いた。自分の最終学歴って、中卒じゃね?日本に戻れない……。
あああっ!!夢のキャンパスライフぅっ!!
肩を落とした。
一人になると現実を見てしまうから、なるべく一人にならないようにしたのに……レスカと同じ場所で暮らしていることもそういう理由だったのに……。
どちらにしろ戻るつもりはないんだけど。
「進むしか、ないんだよね……」
与えられた選択肢は余りにも少なくて。
選べるだけ幸運なのかすらも分からない。
だからまずは、右か左か二択問題から始めることにした。
◆◇◆
はっ、はっ、と荒い息が排出される。
「ざけんなっ……!」
青みのかかった岩を振り上げる。
衝突したその対象はぐにゃんと形を変えただけで、壊れることはない。
「ネルル!!」
胎児のように丸まり、液体の満ちた球体の中にいる青色の少女へと、張り上げた声は岩壁に反響して静かに消えた。
◆◇◆
「………!!」
「…ルル!!」
「ネルル!!」
小さな少女が、ゆっくりと目を開ける。
「ほら、帰るわよ」
少女――ネルルは声の主を見つめ返し、こくりと頷いた。
大好きな声の主が、ふわりと笑う。
「じゃあ、お家まで競争しましょうか」
大好きな大好きな母親の、ネルルと同じ瑠璃色の瞳が細くなった。
「きょうそう、したら、なにかいいことある?」
「ふふ、あるわよ」
「なに?」
「秘密」
「うー……」
ネルルが立ち止まり、不満げに唸る。すたすたと前を行く母親の背中に、異議を唱えようとも伝わらない。
「置いてっちゃおうかしら」
母が振り返り、笑みとともに呟いた。
「……いやぁ!」
ネルルが根負けして、駆け出す。
穏やかな風に吹かれ、焦げ茶色の髪が宙を泳いだ。
群像劇的な何かをやりたかったのですが、ただ単に視点変更がややこしくなってしまっただけでした。技量不足です。申し訳ありません。
そのうち改定すると思います。
三章も残りあと少しとなっております。今しばらくお付き合いください。




