地上と 水中
「るーい、るいー?」
げんなりとして、声の主を迎える。
「騒ぐな、おかん」
珍しく染めていないままの黒髪を肩の上で切り揃えた女性が、年甲斐もなく唇を尖らせた。……何故違和感がない。
「むー……おかーさん、かーなーしーいー! もうママーって可愛いお声で呼んでくれないのかなっ? かなかなっ?」
「……」
うぜえ……。
このおばさ……もとい、お姉さん、又の名を史上最強に可愛い十八歳児(本人談)。十の前に三が付く。
残念なことにコレは母親だ。
ほっとくと拗ねて、蟻を虐めようとするため(下手したら喰っていることもあるため)渋々反応を返す。
「何?」
お母さんが得意げな顔を見せた。
「さあ、御覧なさい!」
そう言って突き出した釣竿の先には、
「クラゲ?」
「そーよ」
「エチゼン?」
「さあ?」
「海に戻して」
「やーよ」
「刺されてしまえ」
「もう刺されたわ!」
「……あたし、知らない。 関係ない」
「やだっ……! るいちゃん反抗期だわっ!!」
「……」
もう放置して、地球を釣ることに専念することにした。
「……弁当にミミガーいれてやんぞ」
「やめて下さいお母様!!」
友達に『それ何?』って聞かれて、『豚の耳』って答えるのは苦行だ。十中八九引かれる。美味しいけど……。
ミミガーならまだマシだが、これで更にスルーすると激化する。豚足を丸々入れやがる。食べにくいったらありゃしない。貴様、それを何処で手に入れた状態だ。案外売っていたりするものである。
「で、そのクラゲはどうするつもりですか、お母様?」
「あ、ちょっともう一回repeatして。『 お母様』って響きがツボに入ったわ」
ああああ、さりげなく発音いいし、ウザい!一希のひらがな英語がマシに思える!
逆らうと後が怖いので、眉間をピクピクさせながらもう一回反復する。
「いや、なんかクラゲ見てたら、クラゲ食べたい症候群がきてね」
「キクラゲで我慢して」
「キノコはキノコ、クラゲはクラゲ♪」
クラゲってそう一般的に食するものじゃないと思う。
「ってわけで、薪を集めてきましたー! わーぱちぱち」
人が真面目に石鯛釣ろうとしているときに、こいつは何やっているんだ。絶対、体内に寄生虫住んでるよ。中年太りと無縁だし。
「しゅぼん」
ライターなのに、マッチの効果音を口でやり、火を付ける。マナーを考えて!
「ななこの三分クッキングー♪」
「……」
もうあたしは突っ込まない。
菜々子母さん、やめて下さい。
「まず、クラゲを用意します」
「うん」
「投げ込みます」
ジュボンッ!
「ぎゃあああっ!!」
即席キャンプファイアーの中でみるみる縮んでいくクラゲに、思わず悲鳴を上げた。
「るい! 百八十数えて!」
「自分でやれえええっ!!!」
――――
「んむ……しょっぱい……美味しくない……」
「ったりめーだ馬鹿!!」
「やだ……るいちゃんツン期来ちゃったっ……!」
「だああああ!!!」
だから海は嫌いなんだっ!!
◆◇◆
目覚めの気分は最悪だった。頭の中で改造車が暴れ狂っているような気がする。
ぼやける視界に水が入っていないことを確認し何とか身体を動かそうとして、激痛に悶えた。筋肉痛と全身打撲のような気配。足が攣る。
「ふへっ……ふひひ……」
頬の筋肉まで引き攣る末期症状。
「やばい、あたしの悪運半端ない」
まだ生きてる。女神補正か。幸運値を悪運の方に傾けるとは、女神様もなかなか趣味がよろしいな。言わず物がな嫌味である。
なんか走馬灯走ったし。おかげでレスカが苦手な理由が分かった。母親に似てるんだ、あいつ。残念美人同士だし。
「―――〈治癒〉」
寝っ転がったまま、全身に緩く掛けた。自分で治癒魔法を使うのは久しぶりだ。と、そこでレスカのことが再度頭によぎる。
怒られるな、これは。ロッドも無くしちゃったし。まあ、人命には変えられんってことで許してくれるだろう。
『お姉ちゃん、知ってるー? 北の国には奴隷制度があるんだよ。お姉ちゃんの値段なんて、すっごく安いんだからねー? リタのお小遣いでも、ローンを組めるよ! 』
……嫌なことを思い出した。女史は肉体バイオレンスを卒業したのか、精神バイオレンスに磨きが掛かってきたと思う。傍迷惑な話だ。リタ女史怖い。ごめんなさい。お金、大事。
そろり、と上体を起こす。軽い打撲や挫傷は消えたようで、残っているのは鮫もどきに引っ掛けられた太腿の傷だけだ。
予想していたよりは深くないが、乾いた血の間から肉が見えて、それなりにグロテスクだ。
一希が真っ二つにした野盗の姿がフラッシュバックして、顔を顰めた。
やだな。人間の身体って、どうしてこうエグいのだろう。
その部分に、重点的に治癒魔法を掛ける。念のため、〈解毒〉も掛けておいた。あの鮫もどきが毒持ちだった……なんてオチは嫌だから。
肋骨やら内臓やらにも異常がなさそうだと確認して、立ち上がろうと左手に力を入れた。
「いだっ」
何?
左手に目を向ける。
…………
……
「―――〈治癒〉」
うん、あたしは何も見ていない。指の関節が増えていた気がするなんてそんなことはない。
みしみしと音を立てながら、詠唱を繰り返すのだった。
治療の方が痛いかもしれない。理不尽。
「よし、と」
満身創痍など無かったことにし、ぽんぽんと膝を払いながら立ち上がる。貧血気味のようなコンディションだが、文句は言えない。
タンクトップにショートパンツという、ラフ極まりない格好はしわくちゃになっていた。ところどころ裂けていたりするが、特に問題はないだろう。サンダルも、足にはまったままだ。ビーチサンダルじゃなくて良かった。
「さて……ここはどこだ」
服の湿り具合からすると、岩に乗り上げてから二時間も立っていないだろうか。
くしゃみが出た。身体が冷えてる。
熱魔法と風魔法を組み合わせてドライヤーを作り、服を乾かしながら、周りの景色を観察する。
第一に、色が判別出来るほど、薄ぼんやりと明るい。
肩を回して、ばきぼきと乙女にあるまじき音を立てる。
第二に、地面は岩だ。身体がぎしぎし言うのも当たり前である。
首をこきこき鳴らしながら、目線を上へ。
「ファンタジー、だよなぁ……」
ドームのように半透明な天井、否、ここだけ海が切り取られたような空間。大きなクラゲが覆いかぶさっていると言われても、納得できそうだ。
ああ、喉が渇いた。
クラゲの傘の下から侵入したような雰囲気のある、水に手を付ける。そのまま指を、鼻先へ。……塩水だ。
「当たり前か」
全く、周りに生物がいないと独り言が多くなっていけない。もしかすると、孤独と静寂に耐えられないのかも。
〈水球〉を唱え、空中に浮いた真水を啜る。
あれ、そういえばあたし、海水を飲み込んでないのだろうか。口は全体的に塩っぽかったが、肺に水が入ったような形跡はない。ついでに、吐いた覚えもない。
女神補正にしても違和感がある。
まあいいか。考えてもわからないことは、考えないのが一番だ。というか血の足りない脳味噌は、睡眠不足と疲労も合いまって、通常時の七割程度しか動かない。気絶は睡眠に入らないのだ。寧ろ余計に疲れた気がする。
もう寝てしまおうか。そう思ったが、岩の上で寝れるほど逞しくなかった。ベッドなんて贅沢言わないから、最低でも土がいい。
「どーやってここから出るかなぁ」
行き着いた道筋も分からなければ、帰る方法も分からない。至極当たり前のことなのだが。
第一、ネルルはどこだ。水魔法の中に水中でも呼吸可能になる魔法があればいいんだけど。全く、非常時になると本題を忘れてばかりで嫌になる。
案外ここにいたりして。
右手には複雑な形をした巨大な岩があり、亀裂が洞窟の入口みたいになっている。怪しさ満点だ。確実に何かいる。
足元に蠢く、白いフナムシのようなものを凝視しながら考えた。
ったく……気持ち悪い。節がうぞぞってなって、不快極まりない。
『初めてのところに行ったら、まず、虫の強さを確認するといい。 危険度の目安になる』
カインの教えを思い出し、白いフナムシを潰してみようかと考えた。
『ただし、本当に危険地帯だった場合は洒落にならん』
……やめておくか。
脚をそっと下ろした。毒持ちだったり、分裂したり、断末魔で仲間を呼ばれたらどうしようも出来ないし。
それにしても、成長したものだ。
ひとりっきりで見知らぬ場所にいるというのに、こんなにも落ち着いているなんて。数ヶ月前まで、レスカと二人でもパニックに陥っていたというのに。
何この安定感。逆に危険。おそらくこの平静は、勉強無しでテストへ挑む時と同じものだろう。ダメじゃないか。こんなの平静じゃない。悟りだ。開き直りだ。諦めだ。
と、自覚した瞬間にパニック症状。
急激に頭がくらくらして、冷汗が……って、ただの貧血症状だった。余裕だな、自分。余裕なのか?これ。
「お夜食食べたい……」
鉄分が足りない。レバーだ。レバ刺しだ。ユッケ食べたい。解毒魔法万歳だけど、生肉を食べる習慣はこの国にはないので、どちらにしろお預けだ。
帰ったら、みんなで焼肉したいなー……。あ、これ死亡フラグじゃない?約束を取り付けたわけじゃないからセーフだと思おう。
あたしはぼんやりと洞窟の方を見る。
「やっぱ、入るしかないのかな……」
他に取れる手段は、海の中に飛び込むことだけだ。深さが未知数なので、水圧でぐちゃっとなるかもしれない。息が続く保証もない。第一鮫もどきが軽く――いや、かなりトラウマだ。もう十年ぐらい海なんて行かなくていい。十年経ったら行きそうなところに、自分らしさがあると思う。
うう、でも入りたくない。洞窟なんてRPGの定番だが、現実ではなんの魅力も持っていない。カインやラオなど頼れる人が居るなら別だが、"一人で"など死亡フラグそのものだ。
そろそろと入口に近づく。
いいことを思いついた。ここで〈探索〉を使えばいいんだ。残り魔力はたいして無いが、薄く広げて最低限の情報が得られればそれでいい。洞窟以外のルートだって見つかるかもしれない。
治癒にエネルギーを割き過ぎたため、使える魔法は後残り三発ぐらいか。〈探索〉は一瞬しか使わない方がいいな。
気を抜くと余計な情報まで拾うため、集中して呪文を唱えた。
「―――〈探索〉」
え?
頭が漠然と捉えたものに、震えが走る。
「……何、これ」
◆◇◆
レスカは氷の上に、油をぶちまけた。馬鹿の一つ覚えと言われようと構わない。
「―――〈紅蓮の灯火〉」
はたまた適当なネーミングで(使いまわしの即席魔法はレスカの美学に反するのだ)、爪先ほどの炎を出す。傷口が広がったが、今度のレスカは生半可な覚悟ではない。しかし、このレベルが壊れないぎりぎりだ。普段の大掛かりなものを使えば、発動の前に立派なゾンビと化すだろう。
炎を油の敷いた氷の上に乗せる。が、炎が燃え移ることはなかった。
「やっぱり駄目でしたか……」
"精油の壺"なら、なんとかなっただろうか。
レスカの魔法は、発動時間というものが決まっている。理論上はなんでも出来る魔法だが、出現したものを留めることは出来ないのだ。そしてレスカの出した炎は、厳密には炎と似た性質を持つナニカでしかなかった。
「プランBに移行です」
シャベルを手に取る。
氷が溶かせないのなら、溶かさなければいい。
べしょり、とシャベルで、隣に来た氷人形を叩き潰した。最早人型ではなく四つ脚の動物のような形で、人形というのは正しくないのだが。
なるほど、武器としてもシャベルは優秀かもしれない。ロッドが戻って来たら、次はシャベルにするのもいい。尖端を尖らせれば短槍の出来上がりだ。
「うー……早く帰って来て下さい」
ざっくざっくと砂を掘り始める。氷の張っていない地下から潜り、水中を通れば全て問題無しだ。レスカは呼吸を必要としないのだから、それを活かさない理由はない。カナヅチすらも関係がないのだ。
しかし、名案と思われたそれも上手くは行かなかった。
砂を掘る、水が溢れる、凍る、の繰り返し。不毛なイタチごっこ。めげずに掘り続け、ラオに〈暗視〉を掛け直してもらいに行き、その間にまた凍る。
応援が来たというのに、状況は好転していない。寧ろ氷人形の質が上がっているため、苦戦状態。カズキたちが持ち場を離れるわけにはいかなくなっている。苛々をぶつける先はシャベルを使って、だ。
神聖魔法のスペシャリストたるマリエッタがいるこの場では、レスカなど無能に等しかった。無能だと突き付けられることがまた、レスカの苛立ちを増長させる。だからと言って、やはり今のレスカには穴を掘ることしか出来ないのだった。啖呵を切って、大見得を張って、所詮結果はこれである。
レスカには時間の感覚がない。生きていないのだから、体内時計など機能している筈もなく、疲労を目安にすることも不可能だ。だが、かなりの時間がたったことは何となく分かる。
ちらりと左腕に目を向け、布が変色していることに気付く。色が判別出来ないとはいえ、濃淡ぐらいは見えるものだ。
―――腐りますかね、これ。
なんだか口に出すことが憚られ、口内に留めた。
溜息を一つ、カズキの元へ向かった。今、知り合いの中で氷魔法を使えるのは彼だけだ。
道中はシャベルを振り回しながら進む。使いやすいのか使いづらいのか。レスカが初めて扱った武器は槍だったため、そう問題はないのだけど。自身に槍の扱いを教えた人物のことを思い起こし、うっすらと唇を噛みしめる。顔の傷は勘弁だから。
鎌に慣れすぎるのも困りものだ。
「カズキ!」
「なに?!」
「初級で十分です。 傷口を凍らせて下さい」
「は? 治癒魔法じゃなくて?」
「種族的な事情があるのです。 一応これでも人外なので」
「ああ、本当にいるんだな」
ちょろい。ルイに、『アンデッドだって一希にばれそうになったら"種族事情"で通せ』と言われていたが、こうも簡単だと思わなかった。これが異世界人というやつか。
「分かった、今掛け――」
途端、カズキが硬直した。
「え、どうしたんですかっ?! 」
なんてことだ。空中で、目が据わっている。ピクリとも動かない。
近寄って来た氷人形に、シャベルを振り下ろす。
「このっ……!! バカズキって呼びますよっ!!」
なんで肝心の人間が、フリーズしてるのか!
怒りを募らせながら、撃退すること数分。
「ああ、くそ――遅えよ……」
カズキが動いた。片手を剣から離し、額を拭う。
「何なんですかもう!!」
レスカはそのまま、気持ちをぶつけた。説明してもらわないと気が済まない。チートの代償とか言い出したらシャベルで脳漿をかち割ろう。
「たった今――」
返って来たのは、真面目な声色。苛立ちを隠さない瞳。
「――女神様が、エルフの神話を肯定した」
レスカがシャベルを取り落とした。
◆◇◆
「何これ……」
〈探索〉の結果に愕然とする。
脳内に流れ込む、途轍もなく大きな何かの情報。エネルギーの塊のような存在感。それはぼんやりと靄がかかったように、精度の低い魔法では上手く見えない。
もっと細かく、もっとはっきり、もっともっと―――
意識を、全神経をそれに集中しようとして、瞬間、
「ネル、ル?」
青髪の少女の姿が、意識の隅に引っかかる。
どちらに広げるか躊躇して、ブチンッ、と回路が途切れた。
「あー、魔力切れちゃった……」
しかし、ネルルがいるというのなら行くしか道は無くなった。
得体の知れない何かが確実にいたけれど。
「行く、か」
そろりそろりと摺り足のまま、微妙に発光する洞窟の中で踏み入れたのだった。
エルフの神話→『ささやかな 決意』参照




