モンダーヴィオ城 ローマ編 5部 九度目の目覚め、あるいは「滴る黒い絵の具」
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モンダーヴィオ城 ローマ編
5部 九度目の目覚め、あるいは「滴る黒い絵の具」
馬車の軋みと、胃の腑を揺らす泥濘の感覚で、俺は再び世界へと引き戻された。 。
何十回、いや何百回、この同じ『一ヶ月の旅路』の終着点を繰り返しただろうか。 。 俺が手に持つスケッチ帳には、もはや鉛筆の炭が幾重にも塗り重ねられ、触れるだけで指先が黒く汚れるほどだった。
そこには、ミイラ化したハインリヒ男爵の皮膚の質感、バルトロの喉に詰め込まれた精密な時計の歯車の噛み合わせ、そして鏡の中に隔離されたフェザーの「歪んだ首」のパースペクティブが、狂気的な細密画として記録されていた。
「おじさん、またこの先の森の様子がおかしいよ。 木々の影が、太陽と反対の方向に伸びているんだ」
ルカが自身の指先から小さな青い結晶を灯そうとするが、その光は弱々しく明滅してすぐに消えてしまう。
「ウミャア……」
ルカの膝の上で、長旅にすっかり飽きた真っ白なシャム猫のウララが、抗議するように長く尾を揺らした。
何もかもが同じ台詞、同じ旋律。
だが、この『繰り返されるカンバス』を描き直そうとする俺の意志だけが、唯一の異分子だった。
「ルカ、ウララ。 完璧な絵画とは、一瞬の調和ではない。 何度も何度も筆を重ね、失敗した下絵を塗り潰した果てに、ようやく立ち上がる一つの『歪な真実』だ。 俺たちの旅は、その真実を削り出すための彫刻刀さ」
俺――レオナルド・ダ・ヴィンチは、愛用のスケッチ帳を静かに閉じ、万能スキル【画家】を脳内で起動した。
視界からすべての色彩が抜け落ち、世界は明暗の階調だけで構成される。 今回のモンダーヴィオ領の空気は、これまでになく「粘り気」を帯びていた。 空間の至る所から、目に見えない黒い油性絵の具のような魔力が滴り、地面の泥を黒く汚している。
「旦那! ちょっと前を見てくれ! こいつはただの霧じゃねえ!」
御者台のボリスが、恐怖を押し殺した声で叫ぶ。 霧の奥から現れたのは、半ば崩壊した古い石造りの道標だった。 だが、今回はその道標の頂点に、奇妙なものが括り付けられていた。
それは、黒いミスリルの糸で喉を硬く縫い合わされた、一羽の『死んだ大ガラス』だった。 カラスの腹は鋭利な刃物で切り裂かれ、その内臓の代わりに、精密な「真鍮の歯車」がぎっしりと詰め込まれていた。
「おじさん、これ……生きてるみたいに、中からカチカチ音が聞こえるよ」
「ああ。 これは仕立て屋マリアの仕業か、それとも別の何者かの『警告』か。 死骸の時間を無理やり固定して、永遠に腐敗しないように縫い合わされている」
俺は【画家】の視界で、そのカラスの死骸の乾燥度合いを分析した。 (羽毛の油分は一ヶ月前のもの。 だが、埋め込まれた歯車の摩耗具合は、数年分の駆動を経ている。
時間の『非対称性』が、ここでも完全に露呈しているな) 俺たちはその不気味な歓迎の絵の具を網膜に焼き付け、再び馬車を走らせた。
2:不穏な再会、あるいは「十人の容疑者」
モンダーヴィオ城の食堂の空気は、鉛のように重く、死の香りに満ちていた。
領主である真祖ドラキュラ公爵、執事アルベルト、警備隊長ガルム、薬術師セシリア、植物族のクロエ、評議員ハインリヒ男爵、司書バルトロ、仕立て屋マリア、有翼のコリン、そして関所守フェザー。
十人の登場人物が、まるで呪われた劇の役者のように、いつもと同じ席に就いていた。
「ダ・ヴィンチ殿とやら。 君の噂はかねがね聞いているが……」
ハインリヒ男爵が、いつもの台詞を口にしようとした。 だが、俺は彼の言葉を待たず、静かに立ち上がり、彼の背後に回った。
「ハインリヒ男爵。 あなたのその贅沢なベルベットの外套、背中の部分だけが、妙に湿っているようだが?」
「何のことだ、無礼な。 私はただの、汗をかきやすい体質なのだ」
「いいや。 【画家】、展開」
俺の視界は、白黒の静寂に沈む。 ハインリヒの背中の衣服に付着した「影のトーン」を解析すると、それは汗ではなく、極めて高濃度な『石膏の粉末』が混ざった液体だった。
「ハインリヒ男爵。 あなたは先ほど、地下の遺構には近づいていないとおっしゃった。 だが、その背中の汚れは、城の最下層にある『先代公爵の石棺』の蓋に彫られた、死者の顔の凹凸と完全に一致する。 あなたは、石棺の裏に隠された『時間のゼンマイ』を直接触りに行ったな?」
ハインリヒは顔面を激しく歪め、恐怖のあまり銀のナイフを床に落とした。
「な、何を言うか! 私はただ……!」
「いいえ、探偵殿。 男爵様をそこへ案内したのは、私ではありませんわ」
冷ややかに微笑みながら、セシリアが自らの指先を弄んだ。 彼女の爪には、やはりあの「絵の具の燃え残り(煤)」が付着していた。
「私はただ、男爵様の心臓の調子が悪いとおっしゃるので、地下の冷たい石室で『時間の防腐治療』を施して差し上げただけです」
「セシリア殿。 君の言う防腐治療とは、対象の心臓を物理的に取り出し、代わりに『時間制御の機械』を埋め込むことか?」
俺がそう問い詰めると、食堂の気温が、一気に数度下がったような錯覚に陥った。
「ガルム隊長、君はどうだ?」
俺は次に、不自然に手を震わせているガルムを睨みつけた。 「俺がどうしたって言うんだ! 俺は閣下の警備を……!」
「君のブーツの底、先ほど関所の道標の根元にあった『黒い水溜まり』と同じ泥が、べっとりと付着しているぞ。 しかも、君が持っているその『真鍮の歯車』、これはバルトロの書庫から盗み出された魔導書『時を紡ぐ者』の装丁に使われていた、伝説の鍵そのものだ」
ガルムは牙を剥き、テーブルを激しく叩いた。 「これは、その、道で拾ったんだ! 俺は何も盗んじゃいねえ!」
「嘘をつくな、人狼の野蛮人め。 それは、私が昨夜、書庫で紛失したと騒いでいたものだ」
司書のバルトロが、小さな眼鏡の奥の眼を細めてガルムを睨みつけた。 (セシリアの不可解な治療、ガルムの泥と鍵の所持、ハインリヒの石棺への侵入。 三人の容疑者が、互いに異なる動機で、この城の『時間の崩壊』を利用し、あるいは加速させている。
そして、そのすべての背景で、仕立て屋マリアのミスリルの糸が、住人たちの影を一本ずつ絡め取っていた) 俺は脳内のアトリエで、この複雑な陰影をさらに深く、細密にデッサンし始めた。
3:第八の怪異・「引き裂かれた」喉の時計
その夜、更なる惨劇は、古文書室の最奥で起きた。 「バルトロ! どこにいるの!」
コリンの叫び声が、不気味に響き渡る。
俺たちが書庫に駆け込むと、そこには、自身の机の上で仰向けになり、両手両足を大の字に広げて息絶えている司書バルトロの姿があった。
しかし、その死に様は、これまでのループのどれよりも猟奇的だった。 バルトロの喉は、鋭利な「針」のようなもので内側から激しく引き裂かれており、そこから、無数の真鍮の歯車が、まるであふれ出た血のように床一面に転がり落ちていた。
「喉から……時計の部品が……!」
ルカが驚愕のあまり、俺のコートを強く掴んで震えた。
「ウニャーオ!」
ウララは、バルトロの死体の下に残された「巨大な影」に向かって、鋭く威嚇を続けていた。 その影はバルトロ自身のものではなかった。 それは、喪服を着た仕立て屋マリアの、あの『二つの影』のうちの一つ、子供の形状をした影だった。
「【画家】、展開」
白黒の世界の中で、バルトロの傷口をスキャンする。
喉の引き裂かれた断面には、物理的な刃物の跡ではなく、急激な時間の進展によって『金属が内側から膨張し、肉体を突き破った』ような、異常な金属疲労のトーンが残されていた。
「マリア殿。 君はなぜ、彼の喉に仕込んだゼンマイを、無理やり逆回転させて暴走させた?」
俺が物陰に佇む彼女を振り返ると、マリアは首をカチリと横に傾げた。
「私は、彼を『歴史のゼンマイ』から解放して差し上げただけ。 バルトロ様は、あまりに多くの古い知識を呑み込みすぎた。 だから、私のミスリルの糸で、彼の時間を少しだけ巻き戻して差し上げたのよ。 ……衣服を仕立て直すようにね」
「マリア、貴様……!」
ガルムが爪を鋭く研ぎ澄まして跳躍した。 だが、マリアはその一撃を、自身の影を反転させることで、煙のように受け流した。
「人狼の戦士よ。 あなたのその爪も、すでに私の『時間凍結の糸』で、一本ずつ縫い合わされているのが分からないかしら?」
ガルムがハッとして自身の右手を見つめた。 彼の鋭い爪の根元から、極細の銀の糸が皮膚の下を通って、彼の心臓へと繋がっているのが透けて見えた。 「な、何だこれは! いつの間に……!」
「この城の時間は、誰か一人の犯人によって狂わされているのではない。 セシリアの毒、あなたの裏切り、男爵の強欲、すべてが混ざり合い、この『時の怪物』を育て上げたのさ」
マリアはそう囁くと、床の影と同化するようにして、音もなく姿を消した。
(アルベルトや公爵の計画に辿り着く前に、この三人の容疑者が仕掛けた『時間の罠』を、一つずつ確実に解き明かさねばならない。 でなければ、俺たちは永久にこの地下書庫の暗闇から抜け出せないぞ)
俺は、床に散らばった真鍮の歯車の一つを拾い上げ、その表面に刻まれた『三日月の紋章』をじっと見つめた。
4:第九の怪異・「首無しの関所」と、反転する鏡
翌朝、城全体の時間の歪みは、現実世界をも侵食し始めていた。 城門の外、かつて俺たちが突破したはずの『関所』が、物理的に城の回廊のすぐ目の前にまで「転移」してきていたのだ。
「旦那! これは一体どうなってやがる! 城の外へ出ようとしたら、目の前に関所の壁が現れやがった!」
ボリスが引きつった声で叫ぶ。 その関所の壁の前には、頭部を完全に失ったハルピュイアの騎士、フェザーが、直立したまま鎧の槍を構えて立っていた。
「フェザー! しっかりしろ! お前の首はどこへ行った!」
ガルムが叫ぶ。 「死んではいないな。 【画家】、展開」
白黒の世界の中で、フェザーの身体を透かす。 彼女の首の切り口は、血は一滴も流れておらず、完全に平らな『鏡面』となっていた。
そして、その鏡面の中に、彼女の生きた頭部が、不気味に目を閉じ、苦しげに喘いでいるのが見えた。
「首だけが、鏡の中の空間に隔離されている。 そして、彼女の身体は、鏡の『外』にある。 この不気味な遠近法トリックを行えるのは、城内のすべての姿見を管理している者……」
俺の視線が、回廊の壁に並ぶ巨大な姿見へと向けられた。 その鏡の中に、執事アルベルトの姿が、不気味に微笑みながら映り込んでいた。 だが、現実の廊下には、アルベルトの姿はどこにもない。
「アルベルト殿。 鏡の中から、俺たちを観察するのは随分と悪趣味だな」
「フフ……さすがはダ・ヴィンチ殿。 ですが、私が彼女の首を奪ったという証拠は、どこにもございませんよ。 私はただ、閣下の言いつけに従い、城の清掃をしていただけに過ぎません」
鏡の中のアルベルトが、慇懃無礼に一礼する。
「証拠なら、フェザー殿の胸当てに残された『真鍮のボタン』にある。 それは君の執事服の第二ボタンと同じ金属波形だ。 君は彼女の首を鏡の中に引きずり込む際、激しい抵抗に遭い、それを引きちぎられた」
俺がそう指摘した瞬間、回廊のすべての鏡が、一斉に不気味な音を立てて振動を始めた。 パキ、パキと音を立てて、城中のすべての鏡に亀裂が入り、そこから、ドロドロとした「黒い影の腕」が無数に現実世界へと這い出してきた。
「な、なんだこれは! 影の化け物どもめ!」
ガルムが爪を立てて戦うが、その右手はマリアの糸によって不自然に拘束され、まともに動かすことができない。 「おじさん、足元が……! また、床が溶け始めているよ!」
……………ルカが叫ぶ。
「ウニャーッ!」
ウララが、俺の肩を強く爪で引っ掻き、限界が近いことを知らせた。
「アルベルト、セシリア、マリア……お前たちの描く『歪んだ絵』の完成は、俺が絶対に許さん!」
俺は、激しく揺れる床の上で、懐から炭の鉛筆を取り出し、スケッチ帳に、フェザーの鏡像、ハインリヒの縫い合わされた胸、セシリアの粘土粉、そしてアルベルトの引きちぎられたボタンのトーンを、力強く描き留めた。
次の瞬間、世界は凄まじい逆流の光の中に包まれ、俺たちの意識は、再び『十度目の朝』へと巻き戻されていく。
因果の糸はさらに細く、複雑に絡み合い、俺たちの旅は、終わりのないゴシックの迷宮の、さらなる深層へと引きずり込まれていくのだった。
俺は必ず、この描きかけの惨劇を、完璧なデッサンで塗り潰してみせる。
みなさま、どんな風に感じてもらったのでしょうか?
少しでも面白いかもと思って頂けましたら幸いです。
励みになりますので、☆☆☆☆☆をチェックしてもらえると嬉しく存じます。
これからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
パラレルワールドで魔法と多種族の住む異世界でスキル無しで探偵します。
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よろしくお願いします。




