【短編】“応援する妹”なんて、もう無理だった。 ~「お兄ちゃんを誰にも取られたくない」――でも、その一言が言えなかった~
「あれは……お兄ちゃんと、柚葉ちゃん……」
帰り道。
楽しそうに並んで歩く二人を、あたしは電柱の陰からぼんやり見つめていた。
肩が触れそうなくらい近いのに、不思議とそれが当たり前みたいで。
歩幅も、笑うタイミングも。
長い時間を一緒に過ごしてきた二人だけの空気が、そこにはあった。
その並びは、悔しいくらいお似合いだった。
「……いいなぁ」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど小さい。
胸の奥が、ちくりと痛む。
二人のこと、ずっと応援してきたはずなのに。
お兄ちゃんの隣にいるのは――
本当は、ずっとあたしがよかった。
手を繋ぎたいとか。
恋人になりたいとか。
そんな贅沢じゃなくていい。
ただ、今みたいに。
ずっと一番近くで笑っていてほしかった。
でも。
そんなこと、妹が願っちゃだめだって。
ちゃんと分かってる。
分かってる……はずなのに。
◇
ソファでうとうとしていたら、ふわりと肩に何かが掛かった。
「……ん」
薄く目を開けると、お兄ちゃんがあたしに毛布を掛けていた。
「あ、ごめ……寝てた?」
「風邪引くぞ」
「へへ……ありがと」
お兄ちゃんはそれだけ言って、キッチンへ戻っていく。
その後ろ姿を見ながら、あたしは毛布をぎゅっと握った。
――お兄ちゃんって、昔からこうだ。
あたしが寝落ちすると絶対毛布を掛けてくれるし、コンビニに行けば、何も言わなくてもあたしの好きな甘い飲み物を買ってくる。
傘を忘れた日は迎えに来るし、怖い夢を見た夜は、眠るまで隣にいてくれた。
きっと、お兄ちゃんにとっては“妹だから”なんだと思う。
家族だから。
放っておけないだけ。
だけど――
あたしは、その優しさを向けられるたびに期待してしまう。
もしかして、少しくらい特別なんじゃないかって。
そんなわけ、ないのに。
「そういえば――お兄ちゃん、今日は柚葉ちゃんと一緒だったの?」
夕飯前、リビングへ戻ってきたお兄ちゃんに、できるだけ自然を装って声を掛ける。
「……見てたなら、声かけろよ。別にデートじゃないし」
「そうなの? 周りはみんな、お似合いだって言ってるのに」
「周りとか関係ないだろ」
少しぶっきらぼうな返事。
なのに、その言い方がちょっとだけ嬉しかった。
そんな自分に気づいて、胸がきゅっと苦しくなる。
期待したらだめなのに。
期待した瞬間、もっと欲しくなるから――
誤魔化すみたいに、あたしは笑った。
「でも、お兄ちゃんって柚葉ちゃんのこと好きでしょ? 小学校から大学まで、ずっと一緒なんだし」
「……腐れ縁ではあるな」
「柚葉ちゃんも、お兄ちゃんのこと好きだと思うよ?」
「――だから?」
低い声に、肩が小さく震えた。
本当は、もうやめたかった。
これ以上、自分で自分を傷つけたくなかった。
でも、ここで止まったら。
本当に、自分の気持ちを認めてしまいそうで。
「だから、その……付き合えばいいのに――」
一瞬、部屋の空気が静まる。
お兄ちゃんは何も言わなかった。
その沈黙が苦しくて、あたしは慌てて笑う。
「ほ、ほら! 前から言ってるでしょ? 推しの二人が恋人になったら、あたし幸せだなーって」
「……お前、それ本気で言ってたのか?」
「え……?」
向けられた視線に、息が止まりそうになる。
いつもの優しい目じゃない。
まるで、何かを確かめるみたいな目だった。
心の奥まで見透かされそうで、怖い。
「……俺、少し疲れたから。夕飯まで部屋いるわ」
「あ……うん」
閉まったドアを見つめながら、あたしは胸元をぎゅっと押さえた。
違う。
本当は、こんなこと言いたかったんじゃない。
お兄ちゃんが誰かのものになるなんて嫌だった。
隣にいられなくなるのが怖かった。
お兄ちゃんが結婚して。
いつか別の誰かに「おかえり」って言われる未来を想像するだけで、胸が苦しくなるくらいには。
でも。
そんなこと、言えるわけなくて。
だからあたしは――
“応援してる妹”のふりを続ける。
大好きな幼馴染の柚葉ちゃんまで巻き込みながら。
「……ほんと、ずるいよね。あたし」
◇
「澪凪ちゃん、最近わたしのこと“さん付け”してるよね」
「え、そ、そうかな……?」
「わたし、嫌われてる?」
「ち、違うよ!? そんなことない!」
慌てて否定すると、柚葉ちゃんは困ったように笑った。
昔は、自然に“柚葉ちゃん”って呼べていたのに。
いつの間にか、あたしは柚葉ちゃんと距離を作ってしまっていた――
「澪凪ちゃんって、お兄ちゃんのこと大好きだよね」
「……うん」
否定、できなかった。
「取られたくないんでしょ?」
「あっ――」
心臓を掴まれたみたいだった。
隠していたはずなのに……
「ふふ、兄妹そろって分かりやすいんだから」
「……兄妹で、こんなの気持ち悪いよね」
言った瞬間、喉の奥がぎゅっと苦しくなる。
でも柚葉ちゃんは、優しく首を横に振った。
「わたしね、奏真のこと好きだよ」
「……うん、知ってる」
「でもね。それと同じくらい、澪凪ちゃんのことも大好き」
「……え?」
「だから、わたしは二人を応援してる。たとえ、簡単じゃない道でもね」
「柚葉ちゃん……」
――勝てるわけない。
柚葉ちゃんは優しくて、可愛くて。
ちゃんと、お兄ちゃんの隣に立てる人で。
それなのに。
こんなあたしにまで、手を伸ばしてくれる。
お兄ちゃんは、きっと柚葉ちゃんと一緒になった方が幸せだ。
そう思うべきなのに。
そう思わなきゃいけないのに――
◇
十年前――
「れいな、大丈夫か……?」
人気のない高台に吹く夜風は冷たく、街明かりだけが静かに瞬いていた。
その片隅で、れいなはひとり膝を抱えていた。
「……お兄ちゃん?」
涙で濡れた瞳が、ゆっくりとこちらを見上げる。
「どうして……ここが……」
「ここは、母さんとの想い出の場所だからな」
まだ家族みんなで笑えていた頃。
母さんがよく連れてきてくれた、この丘。
――れいなはきっとここへ来る。
そんな気がした。
「そっか……」
れいなが泣きながら微笑む。
「ママとの大切な場所ってことは……お兄ちゃんにとっても、大事な場所なんだよね……」
「ああ」
細い肩が、小さく震えていた。
強がっていても、本当はずっと怖かったんだろう。
誰より寂しがり屋で、甘えたがりなくせに。
れいなはいつだって、平気なふりばかりする。
だから――放っておけなかった。
俺はそっと、れいなの肩を抱き寄せる。
「れいな」
「……っ」
触れた瞬間、その身体がかすかに強張った。
まるで今まで、ずっとひとりで耐えていたみたいに。
「俺は死なない」
その言葉に、れいなの肩がびくりと震える。
「お前を置いて、いなくなったりしない。何があっても……ずっと傍にいる」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
怖かったのは、きっと俺も同じだった。
大切なものが消えていくことが。
ひとり取り残されることが。
この温もりを失うことが――怖かった。
れいなは俯いたまま、ぎゅっと俺の服を掴む。
まるで、離れた瞬間に壊れてしまうみたいに。
「……お兄ちゃん」
震える声が、夜に溶けていく。
「あたしも……ずっと、お兄ちゃんの傍にいる……」
ぽろり、と。
れいなの頬を伝った涙が、俺の胸に落ちた。
その小さな熱が、どうしようもなく愛しかった。
守りたいと、心の底から思った。
夜風が、静かに二人の間を吹き抜ける。
――あの時、約束したじゃないか。
澪凪……
◇
「お前、最近、俺を避けてるだろ……」
「さ、避けてないし。お兄ちゃん、自意識過剰なんじゃない?」
「じゃあ、俺の目、ちゃんと見ろよ」
「べ、別に、それくらい――」
恐る恐る、ほんの一瞬だけ視線を合わせる。
その瞬間。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
近い。
だめ。
そんな真っ直ぐ見られたら、好きだって全部バレる。
「……やっぱ無理。お兄ちゃんと見つめ合うとか、恥ずかしすぎるって――」
心臓がうるさい。
顔まで熱くなっていくのが、自分でもわかった。
こんなの、絶対に普通じゃいられない。
これ以上一緒にいたら、“妹”の顔なんて出来なくなる――
耐えきれなくなって、あたしは逃げるように自分の部屋へ向かおうとした。
けれど。
とっさに、お兄ちゃんが腕を掴む。
「離して……」
「嫌だ」
低くて、真っ直ぐな声。
昔から、その声には弱かった。
本気で引き止められると、どうしても逆らえない。
掴まれた手首が熱い。
そこから鼓動まで伝わってきそうで、頭が真っ白になる。
振り払いたいのに。
本当は、離されたくないって思ってる自分がいる。
そのことが、何より苦しかった。
「お兄ちゃんは……あたしと離れた方がいいんだよ……」
「お前が勝手に決めるな」
強い口調に、肩がびくりと震える。
泣きたくなんかなかった。
なのに、勝手に涙が滲んできた。
「だ、だって……あたし達、喧嘩してばっかだし……っ。お兄ちゃんにとって、迷惑でしかないんでしょ……?」
本当は。
本当は違うって言ってほしかった。
面倒でも。
うるさくても。
それでも傍にいたいって。
そんな言葉を、期待してしまう自分が嫌だった。
「あたしだって、お兄ちゃんなんか……嫌い、なんだから……」
最後はもう、全然強く言えなかったが――
お兄ちゃんは力なく手を離した。
震える唇が、自分の本音を勝手に暴いていく。
――お兄ちゃんを傷つけた。
だけど、それでいい。
あたしなんかのせいで、お兄ちゃんが苦しみ続ける方が、もっと嫌だから。
◇
「あれ? 柚葉ちゃんとの待ち合わせだったはずだよね……?」
呼び出された公園には、なぜかお兄ちゃんもいた。
あの日から、お兄ちゃんとはまともに話せていない。
目を合わせるだけで苦しくなるから、ずっと避けていた。
なのに。
どうして、こんな場所で。
嫌な予感がして、胸がざわつく。
すると、柚葉ちゃんは、お兄ちゃんを真っ直ぐ見つめて言った。
「奏真のことが、ずっと好きでした。わたしの恋人になってくれませんか?」
頭の中が真っ白になった。
心臓が、嫌なくらい大きく跳ねる。
聞きたくない。
聞きたく、ないのに。
耳を塞ぐ資格なんて、あたしにはない――
「柚葉……。ずっと傍にいてくれたお前が、そう言ってくれるのは、本当に嬉しい……。でも、俺は――」
「うん、わかってる」
柚葉ちゃんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「ほら、言ったでしょ? 澪凪ちゃん」
そう言って、あたしの背中をそっと押す。
「澪凪? お前、なんでここに――」
「お兄ちゃん、どうして……」
「幼馴染からの助言。二人はちゃんと話し合った方がいいと思うよ」
「柚葉ちゃん……」
「ふふ。やっと“柚葉ちゃん”って呼んでくれたね」
泣きそうなのに、柚葉ちゃんは笑っていた。
その優しさが、胸に刺さる。
「それじゃ、頑張ってね。澪凪ちゃん――」
去っていく背中に、あたしは深く頭を下げた。
きっと。
あたしなんかより、ずっと苦しいはずなのに。
「柚葉にやられたな……」
「……うん」
沈黙が落ちる。
でも、不思議ともう逃げたいとは思わなかった。
柚葉ちゃんが、逃げ道ごと背中を押してくれたから。
「――なんでそんなに、柚葉と俺をくっつけようとしてたんだ?」
「柚葉ちゃんだったら、ギリ許せるかなって……」
「それって、俺が恋人を作るのが嫌だったって意味だよな?」
「……っ」
図星だった。
胸の奥を、そのまま掴まれたみたいに苦しくなる。
「どうして――」
もう、誤魔化せなかった。
柚葉ちゃんが、ここまでしてくれたから。
ここで逃げたら、最低だと思った。
だから、震える息を吐いて。
ちゃんと、お兄ちゃんを見る。
「そんなの、お兄ちゃんのことが好きだからに決まってるでしょ……」
言った瞬間、全部終わったと思った。
兄妹なのに。
気持ち悪いって思われるかもしれない。
嫌われるかもしれない。
もし拒絶されたら。
もう昔みたいには、戻れない。
怖くて、息が止まりそうになる。
「澪凪……」
だけど。
お兄ちゃんは困ったように笑って。
泣きそうなくらい優しい声で、こう言った。
「俺もだよ」
「……え?」
「俺も、お前のことが好きだ」
その瞬間。
張り詰めていたものが、一気に壊れた。
涙が止まらない。
視界が滲んで、お兄ちゃんの顔が上手く見えない。
「兄妹だから、必死に諦めようとしてたの……」
「ああ……」
「でも、柚葉ちゃんには、全部見抜かれてたみたい」
「ずっと一緒だったもんな……」
「……そうだね」
だから、あたしも知っていた。
柚葉ちゃんが、お兄ちゃんを本気で好きだったこと。
それなのに、背中を押してくれたことが、苦しくて、ありがたかった。
◇
数ヶ月後――
あたしたちは、前よりずっと自然に笑い合えるようになっていた。
法的には兄妹のまま。
だけど、想いだけは、もう隠さない。
お兄ちゃんが一歩近づく。
それだけで、呼吸が止まりそうになった。
近い……
制服越しに伝わる体温も、洗いたてのシャツの匂いも――
昔から知ってるはずなのに。
意識した瞬間、急に“男の人”なんだってわかってしまう。
そのたびに、胸が落ち着かなくなる。
「なんで逃げるんだよ」
耳のすぐ近くで声が落ちる。
低い声が鼓膜を震わせるだけで、背筋がぞくっとした。
「だ、って……そんな近くに来られたら――」
「来られたら?」
わざと距離を詰められる。
もう、まともに顔なんて見られない。
「ま、まともに考えられなくなるから……」
「……かわいい」
「か、かわいい?!」
一瞬、本気で息が止まるかと思った。
熱が一気に顔へ集まっていく。
だめ。
そんなふうに甘やかされたら、余計に好きになってしまう。
「澪凪」
「……なに?」
名前を呼ばれる。
それだけで胸が跳ねる自分が悔しい。
「もう“応援”とかするなよ」
「……うん」
今なら、素直に頷ける。
お兄ちゃんが誰かのものになる未来なんて、もう考えたくなかった。
そう言って、お兄ちゃんはそっと額にキスを落とした。
触れられた瞬間。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
嬉しくて。
幸せで。
苦しかった時間まで全部報われた気がして。
少しだけ、泣きたくなるくらいに。
それでも今度は、ちゃんと笑えた。
――兄妹だから、諦めるしかないと思ってた。
でも。
好きになった心だけは、どうしても嘘にできなかった。
だからあたしは今日も、この人を好きでいる。




