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『事故で夢を失った男、パターだけで日本一を目指す ― 沈黙のカップ ―』  作者: こうた
第一章 止まったグリーン

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第2話 もう終わった人間

翌朝。


桐谷恒一は、 また雨の音で目を覚ました。


昨日より弱い。


窓を叩く音は細く、 春先特有の湿った空気だけが部屋に残っていた。


時計は午前五時十四分。


桐谷は天井を見つめる。


そして、 昨夜のことを思い出した。


バー『人生の交差点』。


古びた店。


妙に静かなマスター。


人生に疲れた顔をした客たち。


そして。


> 「人生に穴空いた人間ほど、あれにハマる」




あの老人の言葉。


桐谷は小さく鼻を鳴らした。


「……馬鹿らしい」


呟く。


だが、 完全には否定し切れなかった。


それが少し気に入らない。


ゆっくり身体を起こす。


右脚が痛む。


事故以来、 朝一番の痛みが一番強い。


神経が目覚める瞬間、 壊れた場所だけが遅れて悲鳴を上げる。


杖をついて立ち上がる。


昔なら、 こんなことで息を吐くこともなかった。


老い。


後遺症。


その両方が、 毎朝身体へ乗ってくる。


リビングへ向かう。


広い。


静か。


生活音がない。


桐谷はキッチンでコーヒーを淹れながら、 無意識に窓の外を見た。


近所の老人が犬を散歩している。


小学生が傘を差して歩いている。


誰も、 自分を見ていない。


当たり前だ。


だが時々、 世界から切り離されたような感覚になる。


コーヒーを持ってソファへ座る。


テーブルには、 読みかけの新聞。


その隣には、 古いゴルフ雑誌が積まれていた。


事故後、 捨てられなかったもの。


表紙には、 若いプロゴルファーたち。


飛距離。


筋力。


最新スイング。


全部、 もう自分とは関係ない世界だ。


桐谷は雑誌を閉じる。


胸の奥が、 また少し重くなる。


そのとき。


スマホが震えた。


娘からだった。


> 「お父さん元気?」 「今度孫連れて行くね」




短いメッセージ。


桐谷は少しだけ目を細める。


孫は可愛い。


来れば嬉しい。


だが。


帰ったあと、 家が余計静かになる。


それが怖かった。


返信を書きかけ、 止まる。


結局、


> 「ああ」




だけ送った。


数秒後。


> 「相変わらず短っ(笑)」




と返ってくる。


桐谷は、 少しだけ口元を緩めた。


本当に少しだけ。



---


昼過ぎ。


雨は止んでいた。


だが空は曇っている。


桐谷は庭へ出た。


雑草が増えている。


妻が生きていた頃は、 綺麗だった庭だ。


花があった。


季節ごとに色が変わった。


今は手入れをする気力がない。


ふと、 倉庫の扉が目に入る。


桐谷はしばらく見つめたあと、 ゆっくり近づいた。


錆びた鍵を開ける。


扉を開いた瞬間、 古い空気が流れ出る。


そこには、 ゴルフ道具が並んでいた。


キャディバッグ。


シューズ。


トロフィー。


替えグリップ。


使い込まれたクラブ。


事故から五年間、 ほとんど触れていない。


桐谷はゆっくり、 一本のパターを手に取った。


銀色のヘッド。


長年使い続けた愛用品。


グリップの擦れ具合が、 自分の手に馴染んでいる。


思わず、 構える。


身体が覚えていた。


だが次の瞬間。


右脚に痛みが走る。


バランスが崩れる。


パターが床へ落ちる。


カラン。


乾いた音。


桐谷は動かなかった。


数秒。


ただ、 落ちたパターを見ていた。


そして。


急に腹の底から苛立ちが込み上げる。


「……くそがっ!」


壁を殴る。


鈍い痛み。


だが止まらない。


「なんでや……!」


息が荒くなる。


事故以来、 何度も感じた感情。


悔しい。


情けない。


何もできない。


昔の身体へ戻れない。


ゴルフができない。


人生が止まったまま。


桐谷はその場へ座り込む。


肩で息をする。


倉庫の中は静かだった。


しばらくして。


自分が泣きそうになっていることに気付く。


桐谷は目を閉じた。


七十にもなって。


みっともない。


そう思った。



---


夜。


またバー『人生の交差点』へ向かっていた。


理由は自分でも分からない。


酒が飲みたいだけかもしれない。


暇潰しかもしれない。


だが気付けば、 昨日と同じ階段を降りていた。


ベルが鳴る。


マスターが顔を上げる。


> 「いらっしゃい」




昨日と同じ声。


桐谷は同じ席へ座った。


「ウイスキー」


> 「昨日と同じで?」




「ああ」


店内には数人。


昨日の酔っ払い男もいた。


こちらを見るなり笑う。


「おっ、兄さん来たやん!」


桐谷は軽く手を上げるだけ。


男は嬉しそうに席を立つ。


「柴田です! 元タクシー運転手!」


勝手に自己紹介してくる。


五十代後半くらい。


顔は赤い。


声が大きい。


だが妙に憎めない。


「兄さん元ゴルファーなんやろ?」


「……まあな」


「やっぱオーラあるわ!」


柴田は勝手に盛り上がる。


「今度ほんまパター大会来てや!」


桐谷はグラスを傾ける。


「興味ない」


「またまた〜!」


「遊びやろ」


その瞬間。


店の奥から声が飛ぶ。


> 「その考え、だいたい最初だけや」




昨日の老人だった。


細い身体。


杖。


鋭い目。


老人は静かに笑う。


> 「あんた、“負けた顔”しとるからな」




桐谷の眉が動く。


「……何?」


老人はグラスを置く。


> 「人生で一回派手に負けた人間は分かる」




静かな声だった。


> 「わしもそうや」




店が少し静かになる。


柴田も口を閉じる。


老人は続ける。


> 「あんた、何失った?」




桐谷は答えない。


だが老人は気にしない。


> 「家族か?」 「仕事か?」 「身体か?」 「夢か?」




その言葉が、 胸へ刺さる。


桐谷は低く言う。


「……全部や」


数秒、 店が静かになった。


老人はゆっくり頷く。


> 「なら向いとる」




「何がや」


> 「パターゴルフや」




柴田が笑う。


「出た出た哲学!」


老人は無視する。


> 「長い距離は誤魔化せる」 「飛距離も勢いもあるからな」




そして、 老人は指を二本立てる。


> 「でも短い距離は違う」 「人間の弱さが全部出る」




桐谷は黙って聞いていた。


> 「怖さ」 「迷い」 「後悔」 「老い」




老人は静かに言う。


> 「全部、ボールに乗る」




店内にはジャズだけが流れている。


桐谷はウイスキーを飲む。


熱かった。


昨日より、 少しだけ。



---


帰り際。


柴田が紙を押し付けてきた。


「はい!」


桐谷は見る。


小さな大会チラシだった。


> 第12回 関西パターゴルフ交流大会




会場: 河川敷パタークラブ。


参加費: 2000円。


初心者歓迎。


桐谷は眉をひそめる。


「いらん」


「まあ持っといて!」


柴田は笑う。


「暇やろ?」


その一言に、 桐谷は何も返せなかった。



---


帰宅。


静かな家。


靴を脱ぐ。


リビングへ入る。


また、 静けさ。


だが今夜は、 少しだけ違った。


テーブルへ、 大会チラシを置く。


桐谷はソファへ座り、 それを眺める。


パターゴルフ。


遊び。


老人の趣味。


そのはずだ。


なのに。


頭の奥では、 妙な熱が消えない。


桐谷は目を閉じる。


そして、 事故以来ずっと感じていなかった感情を、 少しだけ思い出していた。


悔しさ。


勝ちたい気持ち。


何かを取り戻したい感覚。


桐谷はゆっくり息を吐く。


窓の外では、 雨雲が少しずつ流れていた。


そしてテーブルの上には、 小さな大会チラシが、 静かに置かれたままだった。

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