第2話 もう終わった人間
翌朝。
桐谷恒一は、 また雨の音で目を覚ました。
昨日より弱い。
窓を叩く音は細く、 春先特有の湿った空気だけが部屋に残っていた。
時計は午前五時十四分。
桐谷は天井を見つめる。
そして、 昨夜のことを思い出した。
バー『人生の交差点』。
古びた店。
妙に静かなマスター。
人生に疲れた顔をした客たち。
そして。
> 「人生に穴空いた人間ほど、あれにハマる」
あの老人の言葉。
桐谷は小さく鼻を鳴らした。
「……馬鹿らしい」
呟く。
だが、 完全には否定し切れなかった。
それが少し気に入らない。
ゆっくり身体を起こす。
右脚が痛む。
事故以来、 朝一番の痛みが一番強い。
神経が目覚める瞬間、 壊れた場所だけが遅れて悲鳴を上げる。
杖をついて立ち上がる。
昔なら、 こんなことで息を吐くこともなかった。
老い。
後遺症。
その両方が、 毎朝身体へ乗ってくる。
リビングへ向かう。
広い。
静か。
生活音がない。
桐谷はキッチンでコーヒーを淹れながら、 無意識に窓の外を見た。
近所の老人が犬を散歩している。
小学生が傘を差して歩いている。
誰も、 自分を見ていない。
当たり前だ。
だが時々、 世界から切り離されたような感覚になる。
コーヒーを持ってソファへ座る。
テーブルには、 読みかけの新聞。
その隣には、 古いゴルフ雑誌が積まれていた。
事故後、 捨てられなかったもの。
表紙には、 若いプロゴルファーたち。
飛距離。
筋力。
最新スイング。
全部、 もう自分とは関係ない世界だ。
桐谷は雑誌を閉じる。
胸の奥が、 また少し重くなる。
そのとき。
スマホが震えた。
娘からだった。
> 「お父さん元気?」 「今度孫連れて行くね」
短いメッセージ。
桐谷は少しだけ目を細める。
孫は可愛い。
来れば嬉しい。
だが。
帰ったあと、 家が余計静かになる。
それが怖かった。
返信を書きかけ、 止まる。
結局、
> 「ああ」
だけ送った。
数秒後。
> 「相変わらず短っ(笑)」
と返ってくる。
桐谷は、 少しだけ口元を緩めた。
本当に少しだけ。
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昼過ぎ。
雨は止んでいた。
だが空は曇っている。
桐谷は庭へ出た。
雑草が増えている。
妻が生きていた頃は、 綺麗だった庭だ。
花があった。
季節ごとに色が変わった。
今は手入れをする気力がない。
ふと、 倉庫の扉が目に入る。
桐谷はしばらく見つめたあと、 ゆっくり近づいた。
錆びた鍵を開ける。
扉を開いた瞬間、 古い空気が流れ出る。
そこには、 ゴルフ道具が並んでいた。
キャディバッグ。
シューズ。
トロフィー。
替えグリップ。
使い込まれたクラブ。
事故から五年間、 ほとんど触れていない。
桐谷はゆっくり、 一本のパターを手に取った。
銀色のヘッド。
長年使い続けた愛用品。
グリップの擦れ具合が、 自分の手に馴染んでいる。
思わず、 構える。
身体が覚えていた。
だが次の瞬間。
右脚に痛みが走る。
バランスが崩れる。
パターが床へ落ちる。
カラン。
乾いた音。
桐谷は動かなかった。
数秒。
ただ、 落ちたパターを見ていた。
そして。
急に腹の底から苛立ちが込み上げる。
「……くそがっ!」
壁を殴る。
鈍い痛み。
だが止まらない。
「なんでや……!」
息が荒くなる。
事故以来、 何度も感じた感情。
悔しい。
情けない。
何もできない。
昔の身体へ戻れない。
ゴルフができない。
人生が止まったまま。
桐谷はその場へ座り込む。
肩で息をする。
倉庫の中は静かだった。
しばらくして。
自分が泣きそうになっていることに気付く。
桐谷は目を閉じた。
七十にもなって。
みっともない。
そう思った。
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夜。
またバー『人生の交差点』へ向かっていた。
理由は自分でも分からない。
酒が飲みたいだけかもしれない。
暇潰しかもしれない。
だが気付けば、 昨日と同じ階段を降りていた。
ベルが鳴る。
マスターが顔を上げる。
> 「いらっしゃい」
昨日と同じ声。
桐谷は同じ席へ座った。
「ウイスキー」
> 「昨日と同じで?」
「ああ」
店内には数人。
昨日の酔っ払い男もいた。
こちらを見るなり笑う。
「おっ、兄さん来たやん!」
桐谷は軽く手を上げるだけ。
男は嬉しそうに席を立つ。
「柴田です! 元タクシー運転手!」
勝手に自己紹介してくる。
五十代後半くらい。
顔は赤い。
声が大きい。
だが妙に憎めない。
「兄さん元ゴルファーなんやろ?」
「……まあな」
「やっぱオーラあるわ!」
柴田は勝手に盛り上がる。
「今度ほんまパター大会来てや!」
桐谷はグラスを傾ける。
「興味ない」
「またまた〜!」
「遊びやろ」
その瞬間。
店の奥から声が飛ぶ。
> 「その考え、だいたい最初だけや」
昨日の老人だった。
細い身体。
杖。
鋭い目。
老人は静かに笑う。
> 「あんた、“負けた顔”しとるからな」
桐谷の眉が動く。
「……何?」
老人はグラスを置く。
> 「人生で一回派手に負けた人間は分かる」
静かな声だった。
> 「わしもそうや」
店が少し静かになる。
柴田も口を閉じる。
老人は続ける。
> 「あんた、何失った?」
桐谷は答えない。
だが老人は気にしない。
> 「家族か?」 「仕事か?」 「身体か?」 「夢か?」
その言葉が、 胸へ刺さる。
桐谷は低く言う。
「……全部や」
数秒、 店が静かになった。
老人はゆっくり頷く。
> 「なら向いとる」
「何がや」
> 「パターゴルフや」
柴田が笑う。
「出た出た哲学!」
老人は無視する。
> 「長い距離は誤魔化せる」 「飛距離も勢いもあるからな」
そして、 老人は指を二本立てる。
> 「でも短い距離は違う」 「人間の弱さが全部出る」
桐谷は黙って聞いていた。
> 「怖さ」 「迷い」 「後悔」 「老い」
老人は静かに言う。
> 「全部、ボールに乗る」
店内にはジャズだけが流れている。
桐谷はウイスキーを飲む。
熱かった。
昨日より、 少しだけ。
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帰り際。
柴田が紙を押し付けてきた。
「はい!」
桐谷は見る。
小さな大会チラシだった。
> 第12回 関西パターゴルフ交流大会
会場: 河川敷パタークラブ。
参加費: 2000円。
初心者歓迎。
桐谷は眉をひそめる。
「いらん」
「まあ持っといて!」
柴田は笑う。
「暇やろ?」
その一言に、 桐谷は何も返せなかった。
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帰宅。
静かな家。
靴を脱ぐ。
リビングへ入る。
また、 静けさ。
だが今夜は、 少しだけ違った。
テーブルへ、 大会チラシを置く。
桐谷はソファへ座り、 それを眺める。
パターゴルフ。
遊び。
老人の趣味。
そのはずだ。
なのに。
頭の奥では、 妙な熱が消えない。
桐谷は目を閉じる。
そして、 事故以来ずっと感じていなかった感情を、 少しだけ思い出していた。
悔しさ。
勝ちたい気持ち。
何かを取り戻したい感覚。
桐谷はゆっくり息を吐く。
窓の外では、 雨雲が少しずつ流れていた。
そしてテーブルの上には、 小さな大会チラシが、 静かに置かれたままだった。




