ねぇ、もし私がいじめられたらどうする?
「ねぇ、お母さん、もしも、私が学校でいじめにあったらどうする?」
聞いたきっかけは、学校の道徳の授業、とかたぶんそんなのだったと思う。
授業の内容も、どうして母親にこんな質問を投げかけることになったのかも、正直あまり覚えてはいないけれど。
ただ、母の答えは、大人になった今も、鮮明に覚えている。
「とにかく逃げて、すぐにお母さんに電話してきて。どこに居ても、必ず迎えに行くから」
どんな言葉を求めて聞いたのかもよく覚えていないけれど、この一言は私にとって予想外だった。
「え?仕事は?」
母は日中仕事をしている。
勤務先は知人が経営する小さな会社で、私の学校行事なんかを優先できるようにはお願いしていたという経緯はある。
しかし、だからといって、そんな理由で仕事より私を優先できるものなのか、子どもながらに私は疑問を抱いた。
「みおちゃんの方が大事。仕事なんか放り出して迎えに行くに決まってるでしょ」
母は、さも当たり前のように言った。
「じゃ、じゃあさ。いじめられて、私が不登校になったら、どうする?」
「え?別に、どうもしないけど」
「学校行け、とか言わないの?」
「行きたくないなら、行かなくていいじゃん」
どうにか学校に行かせようとされるんじゃないか、そんな想像をしていた私は拍子抜けだった。
「でもさ、それだと、勉強できなくなっちゃうかもよ」
「それくらい、お母さんは気にしないけど。あー、でもみおちゃんは嫌?だったら、その時考えよっか」
学校に行かないことも、勉強ができなくなることも、母はさして気にしなかった。
「学校なんて無理して行かなくていいし、学校なんか行かなくたって、勉強する方法ならいくらでもあるわよ」
そう言って母が笑うので、私もだんだんそんなものか、と思えるようになった。
「え?なに?もしかしてみおちゃん、学校行きたくないの?いじめられてる?」
「ううん。違うよ。あくまで、もしも、だってば」
そう、この時は本当にもしもの話だった。
ただ母に、どうする、と聞きたかっただけだった。
それから、半年後のことだった。
それは、当時も、今振り返ってみても、周囲からどう見えたかわからないけれど、私はいじめだった、とは思っていない。
ちょっとした、いざこざだった、と私は思っている。
やっぱり、経緯はあまり覚えていないけれど、ある男子と喧嘩になってしまった。
私は正論ばかりを振りかざして融通がきかないタイプだったから、それがその男の子の癪に障ったのだろう。
きっかけは、そんな些細な放課後の口論からだった。
その男の子は、担任の先生でさえ手がつけられない乱暴な男の子で、昔から有名だった。
だから、女子たちはみんな、常に怒らせないように気をつけていた。
その日も、仲のいい女子たちが、それ以上は危ないから止めた方がいい、と止めてくれていた気がする。
でも、私はたぶん、そういうのも気に入らなかったんだと思う。
正論で、彼を言い負かしてしまったことが、彼に火をつけてしまったようだった。
翌日、学校へ行くと、上履きに落書きがしてあった。
不思議と、悲しいという気持ちはなかった。
きっとやったのは彼だと瞬時に悟り、最初に沸き上がったのは彼への怒りだった。
それから、次に、この上履きは元に戻せるのかを心配した。
(洗って落ちるかな……新しいの買わなきゃいけなかったら、どうしよう……)
余計な出費を増やしてしまうかもしれない、私の頭の中はそのことでいっぱいで、落書きされた上履きを履くことへの抵抗感すらなかった。
「ちょっと、リョーイチ!人の上履きに、落書きとかしないでよ!!」
私はやっぱり、周囲が止めるのも聞かず、彼を怒鳴った。
すると、次に目に入ったのは、私の悪口がめいっぱい書かれた黒板だった。
「黒板にくだらない落書きして!あんたがやったんでしょ!早く消しなさい!!」
こう言った私の怒鳴り声は、彼の怒りを誘ったようだ。
きっと私が泣くだろう、とにやにやしながら私を待っていたらしい彼の両目は一気につり上がった。
「は?ふざけんなよ、てめぇ」
そう低く唸った彼の行動は、どんどんとエスカレートした。
まず、席につき、座ろうとした私は、盛大に尻もちをついた。
気づけば彼が後ろにいて、私が座るはずだった椅子を後ろに引いてしまっていたから。
「何すんのよっ!!」
負けてたまるか、そう思ったけれどあまりの痛みに目に涙が滲んだ。
「おまえが悪いんだからな」
私は間違っていない。
だって、正しいことしか言っていないはずだ。
そう思ったけれど、周囲にそれを味方してくれる子は誰もいなかった。
急に、仲のいい友達が、敵になったかのように見えた。
「おい、おまえらも手伝えよ。こいつに、わからせてやる」
一方で、彼には味方がいた。
恐怖から無理矢理従わされているクラスメイトたちだ。
私は、あっという間に男の子数人に囲まれた。
慌てて女子の方を振り返ったけれど、誰一人助けてはくれないし、声すらかけてくれない。
皆一斉に視線を逸らし、見て見ぬふりをした。
「ほら、やれ」
彼のその一言が合図だった。
私は尻もちをついた衝撃で立ち上がれないまま、数人の男の子に蹴られた。
痛みと、悔しさから、私は泣き叫んだ。
けれども、やっぱり、誰も助けてはくれなかった。
どれくらい時間が経ったかわからない。
数分だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。
学校のチャイムが鳴り響いて、先生が教室に入ってくる音がした。
(ああ、これで助かる)
きっと、先生が助けてくれる。
彼を、叱ってくれる。
そう思ったけれど、現実はそう甘くはなかった。
「せんせー、あいつ、席にもつかず、ずーっと煩く泣いてるの、邪魔ですよね」
そう言ったのは、彼だった。
おそらく、チャイムとともに、みんな席についたのだろう。
未だに私だけ床の上に座り込んだまま、立ち上がれていない。
けれど、きっと、先生が助けてくれる。
私は、何も間違っていない。
だから、先生は私の味方をしてくれる。
私はそう信じていた。
けれど、現実は違っていた。
「みおさん、席についてください」
私は、耳を疑った。
先生は私の元に駆け寄ることもなければ、私から事情を聞くこともしてはくれなかった。
「そこで泣いていても解決はしませんよ。ホームルームです、席につきなさい」
先生はただ、そう言うだけだった。
私は、ますます涙が溢れて動けなくなった。
どれだけ泣いても、もう、誰も助けてはくれない。
「ほら、先生も煩い、迷惑だってさー」
そんな彼の言葉だけが、妙に耳に残った。
運がよかったのか、それとも悪かったのか。
その日の一時間目は移動教室だった。
「移動しないなら、欠席扱いにしますよ」
先生はそう私に言い残し、クラスメイトたちと移動教室に向かった。
私は静かな教室に、たった一人だけぽつりと残された。
そんな時に頭に浮かんだのが、母の一言だった。
『とにかく逃げて、すぐにお母さんに電話してきて。どこに居ても、必ず迎えに行くから』
お母さんなら、助けてくれるかもしれない、そんな考えが浮かんで、私は学校を飛び出した。
(どうしよう……)
母に電話をする、というのが思いのほか難易度が高かった。
小学生だった私は、携帯電話なんてものを持ってはいなかった。
学校には公衆電話があったけれど、学校を飛び出すと公衆電話なんてなかなか見当たらない。
その上、もしあったとしても、何も持たずに飛び出してきた私の手元には、公衆電話を使うための小銭もなかった。
(少し遠いけど、このまま家に……だめだ、家の鍵もランドセルの中だ……)
もう一度、あの教室にも戻りたくはなくて、私は途方にくれていた、そんな時だった。
「どうしたの?」
きっと、こんな時間に街うろうろする小学生は、とても目立っていたのだろう。
私にそう声をかけてくれたのは、若い女性の警察官だった。
その一言を、私はずっと待ち望んでいたのだと思う。
ようやく引っ込んだと思った涙が、また溢れ出した。
「これ……」
その警察官のお姉さんは、私が何も言わなくとも、男子が蹴ったことによってついた上履きの跡に気づいてくれた。
「ごめん、写真、撮らせてもらうね」
そう言うと、お姉さんは私の服の写真を何枚も撮った。
「ちょっと、お姉さんと一緒に、来てもらえるかな?」
「電話、貸してくれるなら……」
警察官なら、もしかしたら電話を貸してくれるかもしれない。
そしたら、お母さんに電話ができる、お母さんに、迎えに来てもらえる。
この時、私の頭の中には、これしかなかった。
「電話、どうするの?」
「お母さんに電話するの。迎えに来てもらうの」
「いいよ。お姉さんと一緒に来て、お話聞かせてくれたら、お母さんに電話させてあげる」
お姉さんの言葉に、私はこくんと頷いた。
そして、私はお姉さんに連れられて、近くの警察署へ行った。
警察署へ行ったのは、はじめてで、同じ制服を着た人がたくさんいるのを見て、ついきょろきょろとあちこち見てしまう。
そんな中、私はある一室に案内されて、お姉さんと、もう一人の女性警察官に学校で起きたことの話を聞いてもらった。
途中、思い返しては、また泣いてしまった。
何度も何度も言葉に詰まったけれど、二人の警察官のお姉さんたちは大丈夫だよ、と声をかけながら私の話を聞いてくれた。
「学校の先生が来てるの。心配してるみたいだから、先生ともお話をしてくれる?」
私の話が終わると、お姉さんがそう言った。
思い浮かぶのは、朝の担任の先生の言葉。
私は瞬時に、会いたくない、と思った。
「来てるのは、確か、男の先生と女の先生。青木先生と、安井先生、だったかな」
きっと、私の知らない間に、学校に連絡が行ったのだろう。
今思えば、そうでなければ、今頃いつの間にか居なくなった私を探して、学校は大騒ぎだったかもしれない。
当時の私は、学校が私を探してくれるとさえ、思えなかったけれど。
「青木先生なら、いいよ」
青木先生が、男の、学年主任の先生で、安井先生が、女の、担任の先生だった。
「あー、わかる。こういう時、女の先生より、男の先生が話しやすかったりするよねぇ」
決して、そういうわけではなかったけれど、お姉さんたちが楽しそうに笑ってそう言うから、つい一緒になって頷いてしまった。
いつの間にか、お姉さんたちと話すが楽しくなっていて、涙はすっかり引っ込んでいた。
「あいつ、いつかやらかす気がしてたんだよな……」
お姉さんたちと同じく、私から一通り話を聞いた青木先生がぽつりと呟いた。
「話してくれて、ありがとな」
そんな先生の一言に、私はすごく救われた気がした。
「あいつには、安井先生も手をやいてるんだ。女性の先生より男の方がいいかと思って、先生からも厳しく叱ってるんだけど、あいつホント言うこときかないよな」
先生も、彼の乱暴さはずっと危惧していたらしい。
他のクラスの担任であっても、目についた時には厳しく叱っていたようだが、彼にはまるで響いていなかったようである。
「安井先生も、悪気があったわけじゃないんだよ。おまえ、いつも男子と喧嘩してるだろ?今回もまた、怒らせるようなこと言って喧嘩しただけだろうって、思っただけなんだ」
そう言われて、私ははじめて私にも悪いところはあったのかもしれない、と思った。
よくよく思い返せば、自分が全て正しいのだから、と何かとトラブルの種を作っているような気がしたのだ。
男子と言い合いになることもあれば、女子と言い合いになることもあった。
正しいことは大事だけれど、正しければ何を言っても許されるわけでもないかもしれない。
怒らせない言い方もあるだろうし、時には譲歩も必要なのかもしれない。
この時、私の中で、少しだけ考え方が変わったような気がした。
だからといって、彼が悪くないとか、正しいだなんて、思ったりはしないけれど。
それから少しして、結局私は電話をしていないどころか、電話を借りられてすらいないのに、母が迎えに来てくれたという知らせを聞いた。
これもやっぱり、私の知らない間に連絡が行ったのだろう。
「お母さんに会う前に、お姉さんと二つ約束をしてくれる?」
「うん、なぁに?」
「まず、一つ目。先生たちはね、みおちゃんが居なくなってすごく心配してたんだよ。だから心配かけてごめんなさいって、謝ること」
「……うん」
まだ、少し素直になれない気持ちもあった。
それでも、やっぱり、私も悪かったんだと改めて思う気持ちもあって、私はお姉さんの言葉に頷いた。
「もう一つは?」
「うん、もう一つはね。お母さん、忙しいのにすぐに駆け付けてくれたんだよ。だから、来てくれてありがとうって伝えること」
「で、でも、お母さんは約束してたし、今さらわざわざありがとうって言うの、なんか……」
「わかるよ。改まってお礼言うの、なんか照れるし言い辛いよね。でも、今日はちゃんと言わないと駄目だよ。約束できる?」
そう言うと、お姉さんは小指を差し出してきた。
私は戸惑って、なかなか自分の小指を差し出せない。
「じゃあ、お母さんにはこのまま帰ってもらおうかなー?」
「だ、だめっ!!」
私は慌てて小指を絡め、そのまま指切りげんまんをした。
部屋から出ると、廊下に青木先生、安井先生、それから母がいた。
安井先生の目には、うっすらと涙が見えて、ああ、お姉さんの言う通り、心配させたんだ、と思った。
「先生、心配かけてごめんなさい」
青木先生、安井先生、私は二人の方を向いてそう言った。
青木先生はただにこっと笑うだけだったけど、安井先生は左右に首を振った。
「ううん、無事でよかった。先生もごめんなさい」
その一言で、今まで安井先生に対してあった、いろんなもやもやが消えた気がした。
続いて、私は母の方を見た。
母はいつもと変わらず、何事もなかったかのように笑っている。
(お母さんにありがとうって言うの、後でもいいよね)
先生たち、警察官のお姉さんたちがいるこの場で言うのは、とても恥ずかしくて、私はそのまま母と帰ろうとした。
けれど、お姉さんはそれを許してはくれなかった。
「あれ?お母さんには、なんて言うんだった」
お姉さんはしゃがみ込んで、私の耳元で、私にしか聞こえないよう小さな声でそう言った。
ここで、言わないと返してもらえないらしい。
「お母さん、迎えに来てくれて、ありがとう」
私はものすごく勇気を振り絞って言った。
けれど、母はやっぱりいつも通りだった。
別に、言わなくてもよかったんじゃないか、そんな考えが浮かんだ時だった。
「当然でしょ。約束したんだから。覚えててくれて、ありがとうね」
それが、あの時の言葉だというのはすぐにわかった。
(お母さんも、覚えてたんだ……)
何気なく聞いた、もしもの話。
あれから半年も経ったのに、母は忘れていなかった。
「わ、私が電話したわけじゃ……」
「お母さんに電話しようと、してくれてたんでしょ?」
きっとお姉さんたちが、話したんだろう。
お母さんは、全部知っていた。
私は思わずお母さんに抱き着いた。
「お母さん、ありがとう」
二度目のありがとうに、勇気は必要なかった。
気づいたら、声になって飛び出していたから。
その後、家には彼が母親と一緒に菓子折りを持って謝りに来た。
私が元通りになるか心配した上履きは、彼のお母さんが新しいのを買ってくれた。
不謹慎かもしれないけれど、新品になってちょっと得をした気分だった。
その後、彼も私と同様に警察署へ行ったそうだ。
決して逮捕される、というわけではないのだけれど、警察署に呼ばれることに恐怖を抱いた彼のお母さんから、行かなくて済むように口添えして欲しいと私の母に依頼があった。
そもそも、私や私の家族が警察署に呼び出して欲しいとお願いしたわけでもなかったので、母はまず安井先生に電話で相談した。
けれど、電話はすぐに青木先生に代わってしまったそうだ。
「悪いことをすると、警察に呼び出されて怖い思いをする。今の彼には、とても必要な経験です」
青木先生はそう言って、取り合ってはくれなかったそうだ。
母はその後、お世話になった警察官のお姉さんにも電話をしてみたけれど、結果は同様だったようである。
小学校に入学して以来、すぐに暴力を振るったり、なにかと乱暴なのがずっと問題になっていたようで、今回は写真という言い逃れできない証拠もあることから、いい機会だということになったようである。
「学校、行きたくないなら、行かなくていいのよ?」
私は、母のそんな一言で、一日だけ学校を休んだ。
けれど、翌日からはいつも通り学校に通えるようになった。
なぜなら、休んだ日友達からたくさん電話や手紙を貰ったから。
たくさん心配してくれる手紙や、助けられなくてごめんと謝る電話。
私はもう大丈夫だよって伝えるために、次の日には笑顔で学校に行ったのだ。
「みおちゃんのおかげで、リョーイチくん、おとなしくなったよね」
私のおかげ、じゃなくてたぶん、お姉さんたちと、それから、青木先生、安井先生のおかげだろう。
多少乱暴なところは変わらないけれど、今までを思えば、彼は随分おとなしくなったと思う。
また、私自身も、変わったと思う。
正論だから、と一方的にきつく言って、相手を言い負かすのを止めた。
相手の意見を聞いてみる努力をするようになった。
その結果、男子との喧嘩やトラブルは、格段に減ったと思っている。
私はやっぱり、これはいじめだったと思っていないし、喧嘩の延長線上のトラブルだったと思っている。
その後も、いじめを受けるという経験も幸いないままに、無事大人になることができた。
けれど、どんなことがあっても、必ず母が迎えに来てくれる、というのがずっと私の心の支えだったのは間違いない。
初の短編小説、読んでくださりありがとうございました。
いじめの話をSNS等でよく見かけるようになり、思いついた話です。
実は母親の言葉だけ実話を少し元にしておりますが、それ以外の内容は完全なフィクションです。実際の人物とは一切関係ありません。




