第9話 固定されたひと
地下駐車場は、昼でも暗かった。
換気扇の音が、一定の間隔で反響している。
倉橋は、柱の影に立っていた。
犬は、足元で伏せている。
吠えない。
前にも出ない。
それで、十分だった。
少し離れた場所に、男が立っている。
年齢は分からない。
服装は、ありふれたものだ。
男の足元には、影が落ちていない。
照明は確かに点いているのに、
輪郭だけが、空間から浮いている。
男の手には、車のキーが握られていた。
握ったまま、
それ以上、何かをしようとはしていない。
車のライトが通り過ぎる。
光は、男の体をすり抜けた。
運転席の人間は、減速しない。
存在を認識していない。
男は、動かない。
止まっているわけでもない。
腕時計に視線を落とし、
一度、顔を上げる。
だが、時間を確かめる動作は、
それ以上、続かなかった。
違和感はある。
だが、それが膨らむ前に、止まっている。
世界の中で、
参照されていない。
倉橋は、距離を詰めなかった。
腕の内側で、帰還紋が反応する。
送り先は、示されない。
帰る世界が、存在しない。
異物ではない。
だが、この世界の住民としても、確定していない。
倉橋は、端末を操作した。
――固定処理、可能。
倉橋は、一歩だけ前に出た。
男は、こちらを見た。
視線は合っている。
だが、焦点が合っていない。
「……ここは」
声は出た。
だが、反響しなかった。
答える必要はない。
倉橋は、腕を上げる。
帰還紋が、起動する。
向きは合っている。
光は、ほとんど出ない。
熱も、強くはない。
ただ、空間が、
わずかに締まった。
男の輪郭が、揺れを止める。
足元に、影が落ちた。
次の瞬間、
男の声が、遅れて反響した。
「……あ?」
自分の声に、
男が初めて戸惑った。
車のライトが、男の体に反射する。
運転席の人間が、ブレーキを踏む。
「……なんだ?」
小さな声が、確かに聞こえた。
男は、周囲を見回す。
さっきよりも、速く。
眉が寄り、
呼吸が、わずかに乱れる。
ここで初めて、
感情が追いついた。
倉橋は、腕を下ろした。
帰還紋は、静かだった。
残留もない。
犬が、立ち上がる。
ゆっくりと歩き出す。
それで、処理は終わっていた。
地下駐車場を出ると、
外はひどく明るかった。
倉橋は、目を細める。
世界は、正確だった。
壊れているのは、
常に「つなぎ目」だけだ。
倉橋は、犬の後を歩いた。
後日、報告書が上がる。
固定処理完了。
対象は当該世界に属する存在として安定。
それ以上の記述はない。
男がその後、
どのような生活に戻ったかは分からない。
分かる必要もない。




