第7話 見送られたひと
交差点の信号が変わる直前だった。
倉橋は、横断歩道の手前で立ち止まっていた。
犬は足元で座り、リードは張っていない。
遠くで、ブレーキの音が鳴った。
衝突音は、思っていたよりも小さかった。
人が倒れる音もしなかった。
ただ、空気が一瞬だけ、ずれた。
倉橋は、前に出なかった。
犬も、動かなかった。
倒れた人間の体は、地面に触れる前に消えていた。
血も、破片も、残らない。
そこにあったのは、円だった。
薄く、淡く、輪郭だけを残した魔法陣。
アスファルトの上に、正確すぎる線で描かれている。
倉橋は、一歩だけ距離を取った。
帰還紋が、反応する。
強くはない。
だが、確かに既知の感触だった。
送還したことのある世界。
何度も処理した座標。
――だが、これは違う。
魔法陣の中心には、何もない。
呼ばれる側は、もうここにいない。
代わりに、空間だけが開いている。
倉橋は、腕を下ろしたまま、見ていた。
犬が、座った姿勢のまま、尾を一度だけ動かす。
吠えない。
前に出ない。
それで、判断は終わっていた。
魔法陣が、ゆっくりと収束していく。
まるで、最初から“用意されていた出口”のように。
周囲の人間は、何も気づかない。
ブレーキ音に驚いた顔。
事故が起きなかったことに、胸をなで下ろす表情。
誰も、消えたことに気づかない。
倉橋は、携帯端末を取り出した。
記録を残すためではない。
確認のためだ。
――送還対象:該当せず。
表示された文言は、それだけだった。
倉橋は、画面を閉じた。
魔法陣は、完全に消えていた。
アスファルトには、何の痕跡も残らない。
世界は、最初からそうだったかのように動き続けている。
「……」
倉橋は、横断歩道を渡った。
犬も、自然に歩き出す。
信号が青に変わる。
人の流れが、二人を包む。
――止める案件ではない。
それだけのことだった。
事故死。
間違い。
帳尻合わせ。
世界同士で、処理は終わっている。
倉橋が介入する理由は、どこにもなかった。
帰還紋は、静かだった。
発動もしない。
痛みもない。
ただ、知っている世界の名残を、
一瞬だけなぞった感触が残る。
倉橋は、歩きながら、犬の背中を見た。
犬は、前を向いている。
振り返らない。
それが、この案件の答えだった。




