第6話 書き換えられたひと
室内練習場は、ひどく静かだった。
使用予定のない時間帯で、照明は半分だけ落とされている。
倉橋は、壁際に立ったまま中を見ていた。
防音マットの敷かれた床の中央で、ひとりの青年が剣を振っている。
模擬剣だ。
刃はないが、動きは鋭い。
剣が空を切る音だけが、一定の間隔で反響していた。
犬は、倉橋の足元で座っていた。
吠えない。
前に出もしない。
それで十分だった。
青年の動きには、無駄がなかった。
踏み込み、振り下ろし、引き戻し。
どの動作も、最初から“そうあるべき形”をなぞっている。
指導者はいない。
声をかける者もいない。
それなのに、完成されていた。
「調子は、どうですか」
声をかけると、青年は剣を止めた。
「あ、はい……問題ないと思います」
息は上がっていない。
汗も、ほとんど浮かんでいなかった。
「いつから、これを」
「三ヶ月くらい前です」
「経験は」
青年は首を振る。
「剣道とか、フェンシングとか、
そういうのは、やったことなくて」
嘘ではない。
そのことは、倉橋には分かる。
「最初から、動けましたか」
青年は少し考えたあと、視線を落とした。
「……うまく言えないんですけど」
剣の柄を見つめる。
「考える前に、体が先に動く感じで」
それが、戸惑いであることも伝わってきた。
倉橋の腕の内側で、帰還紋がかすかに反応する。
発動はしない。
ただ、既知のものに触れた感触だけがある。
「眠っているときに、
似たような動きをする夢は見ますか」
「夢……」
青年は眉をひそめた。
「たまに、あります。
でも、起きると細かいところは思い出せなくて」
「覚えていないことの方が、多いはずです」
倉橋は、それ以上踏み込まなかった。
青年は、小さく息を吐いた。
「……このままで、大丈夫なんでしょうか」
問いは曖昧だった。
だが、生活への不安としては十分だった。
「異常は見当たりません」
それが、倉橋の判断だった。
送還対象ではない。
混線でもない。
処理を必要とする歪みはない。
青年は、しばらく黙っていた。
それから、理由を理解したわけでもないまま、
小さく頷いた。
倉橋は踵を返す。
「続けてください」
「……はい」
青年は深く頭を下げたが、
それ以上、何も言わなかった。
練習場を出ると、空気がわずかに変わった。
犬が立ち上がり、先に歩き出す。
倉橋は、腕を見た。
帰還紋は、静かだった。
光らない。
痛みもない。
ただ、確かに反応はあった。
――この世界には、
説明されないまま、溶け込んだものがある。
処理の対象ではない。
そう判断しただけだ。
倉橋は、犬の後を追って歩き出した。




