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幼女の巣立ち(3)

「いってらっしゃい、リーゼ。体には気を付けるのよ」


「はい。お勉強、一生懸命がんばってきます。お母様もお元気で」


 わたしを抱きしめながら、ほろほろと涙をこぼすお母様。

 もらい泣きしそうになるのをぐっと堪えながら、わたしは涙に濡れるお母様の頬にキスをした。


 今日は、王都へ向けた出発の日。

 お母様ともしばしのお別れだ。こんな絶世の美女に合法的に抱きついてほっぺにちゅっちゅできなくなるのはちょっと寂しいけど、わたしができなくなる分は、きっとお父様が補ってくれる。

 わたしがいなくなれば、二人のお熱い夜も増えるだろうから、わたしの初等部在学中に弟が生まれるのを期待している。

 わたし、領地経営なんてしたくないから。


「そろそろ出発しよう、リーゼ。それじゃあ、メグ、行ってくるよ」


「ええ、あなた。リーゼをお願いね」


 お母様にキスをしたお父様は、わたしを抱き上げて馬車に乗り込んだ。

 それに続いてメイとシーツ爺が乗り込んでくる。

 今回の王都への旅にはお父様が同行してくれることになっていた。メイはわたしの専属メイドとして、シーツ爺はお父様の執事としての随行なのだろう。


「ではお嬢様。改めまして今回の旅の行程を説明させていただきます」


 出発してすぐにシーツ爺が手帳を取り出した。

 メイは、空間魔法で取り出したティーセットでお茶の準備を始めている。

 機械的に制御しているのか、魔法的に制御しているのかはわからないけれど、この馬車は移動をしていることを忘れてしまうほど、全く揺れない。

 これなら、のんびり外の景色を眺めながらお茶を楽しむこともできるだろう。


 さて、シーツ爺の話では、今回の旅程は十日ほど。

 わたしたちだけではなく、護衛の騎士隊も随行していて大所帯となっているため、通常よりも時間がかかるようだった。

 夜は基本的に宿場町で宿を手配しているみたいだけど、行軍速度によっては野営もあり得るらしい。

 わたしは、前世も含めて壁と屋根がある場所以外で寝たことはないので、野営はちょっと楽しみだったりする。


 とまあ、そんなふうに考えていた時期がわたしにもありました。

 お屋敷のある街の外に出たのはこれが初めてだったこともあり、実際に、見慣れない景色なんかを楽しんでもいた。

 でも、旅も三日を過ぎたころから、だんだんとそれも苦痛になってきた。


 何よりも苦痛なのは、自由にトイレにいけないことだ。

 外で用を足すというのは、乙女の尊厳的にかなりしんどいので、トイレは宿場町に着くまで我慢しないといけない。

 お前が乙女を語るなっていう心無い声も聞こえてくる気もするけど、一応わたしも生物学的にはメスなんじゃい!


 そして苦痛と言えばもう一つ。それは退屈だ。

 いつまでも代わり映えしない景色に、時間の流れは緩慢になり、それがわたしの精神を蝕んでいく。

 退屈が人を殺すというけど、たぶんそれは本当よ。


 ああ、何か事件でも起きないかしら。

 退屈に任せて、心の中で口走ったその言葉がたぶんフラグになったんだと思う。


 旅もいよいよ終盤に入った七日目。

 王都とリシュテンガルド辺境伯領とを結ぶ街道で一番の難所と言われるツクフ大森林でそれは起こった。


 さっきまで響いていた鳥の鳴き声が止んで、森が急に静寂に包まれた。

 護衛の騎士団の緊張が俄かに高まる。


「囲まれていますね。レッドウルフです」


 瞑目していたシーツ爺が片目を開けて言った。

 レッドウルフ――わたしの愛読書であるモンスタスキー著魔物図鑑の情報によれば、人の身の丈よりも大きい、大型の肉食魔獣だ。


「数はどれぐらいかわかるかい?」


「七……いえ、八でございます」


お父様の問いに、シーツ爺が答える。

 二人とも、何でもないことのように落ち着いているものだから、そのせいで、わたしまでそう思い込んでしまった。

 そしてそれがいけなかった。


 興味本位で馬車の窓からちらりと外を見た瞬間、わたしは凍りついた。

 馬よりも大きな狼が何匹もわたしたちを取り囲んでいて、その中の一匹と目が合う。


 恐怖――浮かぶ感情はそれだけだった。


 例えば、夜道で刃物を持った男に出くわしたような恐怖。

 例えば、北海道の山中でヒグマに遭遇したような恐怖。

 そんなありとあらゆる恐怖を一緒くたにして、じっくりことこと煮詰めたような濃厚な恐怖だった。


 ああ、わたしはここで死ぬんだわ……

 一度目の死は恐くはなかった。痛くもなかった。突然雷に打たれて、あとからちょっと驚いただけ。もしかしたらそれは、死に方としては幸せな部類だったのかもしれない。

 でも、今度は違う。痛くて、苦しくて、辛い死が待っている。恐い……


「大丈夫。心配ないよ」


 無自覚に震えだしていたわたしを、お父様がぎゅっと抱きしめてくれた。

 お父様の体温と優しい笑顔がわたしの恐怖を幾分和らげてくれる。でも、それでもまだ震えは止まらない。


「騎士隊に任せてもいいけど、リーゼが恐がっている。できるだけ早く終わらせてくれるかい?」


「仰せのままに」


 お父様の指示に応えたシーツ爺が、ステッキを片手に立ち上がった。


「ダメ! ダメだよ、シーツ爺! 死んじゃうよ!」


「大丈夫でございますよ。お嬢様が十を数える前に終わらせてまいります」


 わたしはシーツ爺に縋りついて必死で止めようとしているのに、シーツ爺はわたしにウインクをすると、いつもと変わらない様子でするりと馬車を降りて行ってしまった。


「お、お、お、お父様……!」


「大丈夫。シーツを信じてあげなさい」


「で、でも……」


 お父様とのそんな短いやり取りを終える前に、馬車の外からついさっき降りていったばかりのシーツ爺から声がかかった。


「メイ。後片付けをお願いします。お嬢様の目に触れることのないように」


「かしこまりました」


 シーツ爺から呼ばれたメイが立ち上がるが、今度もわたしは必死で止める。


「ダメだって! 危ないよ!」


「ああ、お嬢様はなんとお優しいのでしょう! ですが、大丈夫です。レッドウルフはもうおりません」


 そう言い残して、メイは馬車を降りて行った。

 と思ったら、すぐにシーツ爺と連れ立って、メイが馬車に戻って来た。


「ただいま戻りました」


「お疲れ様。どうだった?」


「申し訳ございません、旦那様。先ほど私は誤ったご報告を差し上げてしまいました」


「と言うと?」


「レッドウルフなど、最初からおりませんでした」


 シーツ爺がそう言うと、お父様はとても可笑しそうに笑った。

 わけがわからず、わたしは恐る恐る窓の外を覗き見る。


 さっきまでそこにいたはずのレッドウルフが見当たらない。

 それどころか、暴れた跡や争った跡すらない。

 シーツ爺の言うとおり、まるで最初からレッドウルフなどいなかったかのように、森の静寂だけがそこにあった。


「ね、ねえ、シーツ爺って何者なの?」


 再び動き出した馬車の中で、わたしはシーツ爺に尋ねた。


「ただの執事でございますよ」


 だけど、シーツ爺は本当のことを教えてはくれない。

 わたしの愛読書であるモンスタスキー著の魔物図鑑によれば、レッドウルフのレア度は星二つ。危険度は星四つ。つまり、身近でよく見る危険な魔物というわけだ。

 それが八匹もいたのに、あんな一瞬ですべてを退治してしまうなんて、どう考えてもただの執事だなんてあり得ない。


「ねえ、お父様……?」


 シーツ爺が答えてくれないのだったらと、わたしはお父様の顔を覗き込んだ。


「まあ、リーゼには伝えておかないといけないかもしれないね」


 苦笑いを浮かべたお父様が、わたしの頭を撫でながら言う。


「かつて剣聖と呼ばれた男――それがシーツだよ」


「遠い昔の話でございます」


「仮に名声がそうだとしても、剣の腕は衰えていない。いや、それどころか凄みが増してさえいる。そうだろ?」


「リシュテンガルド家を生涯お守りする。それが私の立てた誓いですので」


「と言うわけだ。わかったかい?」


 剣聖――それは国王から与えられる当代に一人のみの称号。

 今代の剣聖は行方知れずとされていたのに、それがまさかシーツ爺だったなんて。


「ちなみに、私は平民出身のただの生娘です」


 聞いてもいないのにメイが勝手に自分の情報を開示した。

 知ってたし、何度も言うようだけど、生娘かどうかなんて情報はいらないんだって。

 でも、魔法がまったく使えないところから、しかもこの若さで、空間魔法をここまで使いこなすようになったメイも、貴重な人材であることには違いない。変態だけど。


 実力者の揃った騎士隊に加えて、剣聖執事のシーツ爺と変態メイドのメイ。

 もしかしたらこの旅は、出発したそのときから勝ち確だったのかもしれない。

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