幼女の巣立ち(1)
「はあ……」
社交界デビューから約十ヶ月。
わたしはペンを片手に、開け放った自室の窓から外を眺めて溜め息をついた。
この国の貴族の子どもの多くは、七歳を迎える年になると、王都にある王立学院初等部に入学する。
初等部は三年間。そこでは読み書きや算術、社会科や理科など、基礎的な学問を学ぶことになる。元の世界で言うところの小学校みたいなものだ。唯一違うのは、科目として魔法学があることぐらいだ。
初等部を終えると、そこから先は、それぞれの立場や能力に応じて中等部へと進学する。
領地経営を学ぶための帝王学部、魔法を専門的に学ぶ魔法学部の二つが花形で、他には理学部、文学部、経済学部、政治学部、神学部などなど、多くの学部があるらしい。
ここリシュテンガルド辺境伯領にも、もちろん学校はあり、そこでも必要なことは学ぶことができる。
わたしとしては、地元の学校に実家から通うというのが一番楽でよかったのだが、辺境伯家という立場上、やはり王都の学院に入った方がいいだろうという判断で、あとひと月もすれば、お父様とお母様の元を離れ、王都に向かうことになっている。
そういうわけで、この半年ほどは、入学してから困らないようにと、読み書きと算術の基礎を学んでいるわけだが――
「やはりお嬢様にはこの程度の内容は退屈でしょうか?」
「うん。ごめんね」
家庭教師のドライが困り顔で言うので、わたしは苦笑いを返した。
魔法があるこの世界では、科学とは魔法学のことであり、魔法学が大きく発展している一方で、自然科学や数学への理解が進んでいない。
わたしが今学んでいるのは、二次関数。算術の基礎の範疇を大きく超えて、王立学院でも中等部で学ぶ内容だ。
そうは言っても所詮は二次関数。現代日本であれば高校一年生が学ぶ程度のものだ。
見た目は子ども、頭脳は大人、その上リケジョで、さらには喪女のわたしからすれば、児戯にも等しい。幼女だけに。
「それにしても、困りましたね。シーラン語の読み書きはおろか、帝国語も完璧。数学に関しては、おそらく私よりもはるかな高みにいらっしゃる。果たして、私がここにいる意味はあるのでしょうか……」
「そんなことないよ。ドライの授業は楽しいよ。ドライの教え方がいいから、わたしもちゃんとできるようになったんだし」
「ああ! お嬢様!」
落ち込んでいたドライをフォローすると、彼女はわたしの足に縋って滂沱の涙を流した。
「申し訳ございません。お嬢様の家庭教師を仰せつかっておきながら、こんな役立たずで申し訳ございません!」
せっかくの美人顔が涙と鼻水で台無しになっている。
「罵ってください。お前は世界一の役立たずだと罵ってくださいませ。そして、罵りながら、私の顔を踏んでください」
「だ、大丈夫だよ。ドライは役立たずなんかじゃないよ……」
実際に、この世界の教育水準からすればドライは間違いなく優秀だ。ドMなところを除けば、ね。
わたしはドライの顔をぐいぐいと押しのけながら、周囲を警戒する。
最近は、授業の後半になる度に、ドライはこうして泣き崩れている。そしてこうなると、決まってヤツが姿を現す。
おはようからおやすみまで、そして、おやすみからおはようまで、わたしのことを見守っているという『ヤツ』が。
「家庭教師風情がお嬢様に踏まれようなど、百年早いですよ」
どこからか姿を現したメイが、ドライの背後をとり、彼女の首元にティースプーンを突き付けた。
しかし、そんなこと程度ではドライも動じない。
「メイドごときに言われたくはありませんわ」
冷ややかな目を首筋のティースプーンに向けたドライがそれに手を触れると、銀製のスプーンがどろりと溶けだした。
ドライの炎熱魔法だ。
「くっ!」
スプーンを手放したメイが、後ろに飛び退いて距離をとる。
「愛しのお嬢様に踏まれる――領軍魔法師団の団長であれば、その資格は充分にあると思うのですけど?」
お嬢様付き家庭教師は世を忍ぶ仮の姿、というかお父様に言い付けられただけ。
その真の姿は、リシュテンガルド辺境伯領軍魔法師団の団長だ。
まあ、だからと言って、ドライに私に踏まれる資格などない。
「家庭教師の任を見事勤め上げた暁には、お嬢様に顔を踏まれてもよい――閣下からはそうお許しをいただいているのです」
うそ!? お父様、なんてことを言ってくれてるのよ!
わたし、人の顔を踏むとか絶対イヤなんだからね!
「まさか家庭教師の正体が魔法師団長とは恐れ入りました。しかし、先ほどから見ていましたが、家庭教師としてはあまりお役に立ってはおられないのではありませんか?」
覗き見! 趣味わる!
でもメイの言うとおりだ。もっと言ってやれー!
さっきまで一応ドライのフォローをしていたわたしも方針転換。
いくら相手が望んでいるからって、人の顔を踏んじゃったりしたら、心まで醜くなっちゃう。
「くっ! 一介のメイドのくせに、分を弁えていないようね」
「一介のメイドではございません。この屋敷で唯一のお嬢様付き専属メイド。私は、お嬢様のお召し替えをお手伝いできる唯一の者なのです。お嬢様に顔を踏んでいただける権利は、私にこそ相応しい」
メイ、お前もか……
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