聖女の再誕(1)
「ど、ど、ど、どうしよう……」
わたしは動揺のあまり、手にしていた短刀を取り落とした。
禁術『軍団召喚』の発動を止める方法は二つある。
術者が詠唱中であれば、詠唱を止める。しかし、口を塞いだところで意味はない。詠唱は必ずしも口に出して唱える必要はないからだ。詠唱を止めるためには、術者本人の意思で中断するか、それが叶わなければ、術者の意識を奪う必要がある。
しかし、詠唱が完了してしまっている場合はより厄介だ。禁術は発動待機状態になり、魔法陣の展開に必要なだけの魔力が術者から供給されれば、即座に発動へと移る。
この場合は、術者からの魔力供給を断つ必要がある。つまり、術者を殺す必要があるのだ。
わたしは平和な日本で育ってきた。殺したいほど憎い奴もいた気はするけど、殺そうと思ったことは一度もない。それが健全で、それが当たり前だった。
でも、わたしは人を殺す覚悟でここに来た。戦争が始まって、戦争を止めようと決意したとき、わたしは自分が死ぬ覚悟をするのと同時に、人を殺す覚悟をしたのだ。
その覚悟に嘘はなかった。今、このときまでは――
小さな天幕の御簾の内側に潜り込んだとき、わたしが耳にしたのは、詠唱文の最後の一節だった。
間に合わなかった。詠唱を中断させるのが理想的だったけど、それはもう叶わない。
でも、諦めるにはまだ早い。最後の、そして最悪の手段だけど、術者を殺せば発動を止めることができる。
しかし、改めて覚悟を決めて、懐から取り出した短刀を握ったわたしが目にしたのは――子どもだった。
わたしと同じか少し小さいぐらいの男の子。
その子は光の宿っていない目で虚空を見つめ、その目からはぽろぽろと涙を落としていた。
一目見てわかった。その子は操れている。魔法によるものか、薬によるものか、あるいは時間をかけたマインドコントロールによるものなのかはわからない。でも、この禁術の発動はこの子の意思によるものじゃない。
支配された意識の中で流す涙がその証拠。そして、それ以上に明らかな証拠がもう一つ――その子の首筋には、供物陣が刻まれていた。
「どうしよう……」
わたしの手から短刀がするりとこぼれ落ちた。
禁術が発動すればこの子はきっと死ぬ。だったらその前に殺してしまえばいい。そんなことはわかっている。
それでも、わたしには殺せない。わたしには子どもは絶対に殺せない。
「リーゼ!」
そこへ飛び込んで来たのはレオン。
よかった、無事だったんだ……
「禁術は!?」
「ダメ……もうすぐ発動しちゃう……」
短刀を取りこぼし、へたり込んだわたしを見て、レオンはすべてを察したみたいだった。
レオンは、握っていた剣をその子に向けた。
「リーゼ、よくがんばったな。後は俺がやる。目を瞑っていろ」
わたしにはできない汚れ仕事をレオンがやってくれると言う。
やっぱりレオンは優しい。でも――
「ダメ! 待って!」
立ち上がったわたしは、両手を広げてレオンとその子の間に割って入った。
レオンに手を汚させるわけにはいかない。やるならわたしがやらなくちゃいけない。わたしの方が年上なんだから。
でも、ただ操られているだけの子どもを殺すなんて、わたしにはどうしてもできない。
たとえ多くの人の命を救うためだとしても、この子を殺してしまえば、わたしはもう二度と笑って過ごすことはできなくなってしまう。
たとえ戦争がそういうものだとしても、わたしは絶対に納得できない。
「三十秒だけ待って!」
考えろ。考えるんだ。
これはわたしのわがままだ。それにみんなを巻き込むわけにはいかない。
だから考えるんだ。まだ絶対に解決方法は残されているはずだ。
もしわたしがこの世界に転生したことに意味があるとして、神がわたしを遣わしたのだとしたら、それはきっと今このときのためなんだから。
多くの仮説を検証している時間はない。だからたった一つの仮説だけを考える。
それは、帝国がお母様を攫った理由からスタートする。
帝国は禁術『軍団召喚』発動のための生贄としてお母様を攫った。お母様の持つ神の力を利用することが目的だ。
お母様とここにいるこの子を含めたすべての帝国兵、その魔力と命と引き換えに、帝国軍全軍を召喚するのが、帝国側の最終目標。
でも、帝国側が準備したプランはたったそれだけだろうか? お母様の誘拐の成否だけに、帝国側が全てを賭けるなんてことがあるだろうか?
たとえば、お父様と対峙していた帝国将軍を名乗る男。ギフトを持つお父様と互角以上に渡り合う時点で、彼もギフト持ちであることは間違いがない。そして、そんな彼の首筋には供物陣が刻まれていた。
たぶん彼は、お母様の誘拐が失敗したとき、あるいは、攫ったはずのお母様を奪い返されたときの保険なんだ。
いや、違う。
あの男が保険というよりも、むしろお母様の方が保険なのかもしれない。
あの男が持つだろう神の力を使えば、帝国軍全軍の召喚は成る。でもその代わりに、帝国は稀有な存在であり、貴重な戦力でもあるあの男を失うことになる。
そうならないためのお母様だ。
禁術『軍団召喚』の発動陣の上に立つ生贄たちは、弱い者から順に死んでいく。普通の人たちはまず助からない。一人、二人と倒れていく中で、最後に残るのはあの男とお母様だ。
お母様こそが、あの男を生き残らせるための保険だったんだ。
だったら、わたしにもまだやれることがあるのかもしれない。
十倍にも百倍にも引き延ばされたかのようにゆっくりと流れる時間の中で、わたしは最後の考えをまとめた。
たぶん、このときわたしは笑っていたと思う。
わたしだからこそできること、わたしにしかできないこと。自分の存在意義を見つけたのだから。
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