幼女と戦争(5)
わたしたちを乗せたオンカが風のように山を下る。さすがは森の王者、障害物だらけの悪路だろうと、そのスピードは空を飛ぶ鳥よりも速い。
「うおぉぉお!」
わたしの腰にしがみ付いたレオンが叫ぶ。
なんだかちょっと可愛いけど、今は静かにしておいてもらわないと困る。
「レオン、口閉じてないと、舌噛んじゃうよ!」
目指すのは森を抜けた先、チックシー大平原に陣を構えるお父様のところだ。
事態は一刻を争う。接敵は避けたい。
わたしの焦りを感じ取ったのか、オンカがまた一段とスピードを上げた。
そして、いよいよ森を抜けようかというところで、わたしの腰に回した腕にぐっと力を込めて、レオンが言った。
「リーゼ、覚悟はいいか?」
覚悟? 覚悟ならもうしてきた。そのつもりだった。
「ここから先は戦場だ」
その言葉と同時に、視界が開けた。
砂埃、熱風、爆発、轟音、剣戟――
雄叫び、悲鳴、哄笑――
血の臭い――
要塞から見下ろしていたときとはまるで違うリアルな『戦場』がわたしに飛び込んできた。
それを直視するのを拒むように、無意識のうちに涙が滲み、視界がぼやける。
恐い、苦しい、悔しい。戦争なんて最悪だ。
戦争のニュースが流れてくれば、チャンネルをお笑い番組に切り替える。そうすれば戦争なんてないものだと思うことができていた。かつてのわたしは、そうやって戦争から逃げていた。
でも、逃げていたら終わらないんだ。今のわたしにとって、戦争はリアルなのだから。
「ありがと、レオン」
レオンがいてくれてよかった。一人じゃないって思えるから、立ち向かえるよ。
「オンカ! まっすぐ、最短距離を最速で! 早くこの戦争を終わらせよう!」
●
リーゼロッテたちが目指すその先、前線に構えた本陣の天幕の中で、エリアスは苛立っていた。
帝国が突然攻めてきたことに、最愛の妻が攫われたことに、それを阻止できなかった自分に。
だからこそこうして自ら戦場に飛び込んできたのだが、状況がよくなることはなかった。
局所では激戦を仕掛けながらも、相手は全体的に手を抜いている。敵兵も数は多いが質は低い。この程度の相手であれば、リシュテンガルド軍をもってすれば、制圧することは容易いだろう。
しかし、マーガレットが人質に取られている以上、そうするわけにもいかず、状況は完全に膠着していた。
それは帝国軍による時間稼ぎのようにも感じられて、エリアスは底知れぬ不安とともに、また苛立ちを覚えるのだった。
だから、彼の最愛の娘が天幕に飛び込んで来たとき、つい怒鳴り声を上げてしまったのだ。
もちろんそれは、彼女への愛ゆえでもあったのだが。
「リーゼ! どうしてこんなところに来たんだ!」
父の怒声を聞いたリーゼロッテは体を強張らせて硬直した。
リーゼロッテにとって、父の勘気に触れたのは、彼女が覚えている限りこれが初めてのことだ。
伝えるべきことがあって戦場にまで赴いた彼女が何も言えなくなったとしても、それは無理からぬことだった。
しかし、そんなリーゼロッテを庇うように間に割って入ったのは、やはりレオンハルトだった。
レオンハルトはリーゼロッテの手を握ると、真摯な瞳をエリアスへと向けた。
「焦り、苛立つお気持ちは、私にもよくわかりますよ、リシュテンガルド辺境伯」
レオンハルトがエリアスを敢えて『リシュテンガルド辺境伯』と呼んだのは、恋人の父としてではなく、王国に仕えるいち貴族として接するため。自らの王族としての立場を強調することで、エリアスと対等以上の立場として話をするためであった。
王族の身分を殊更にひけらかし、それで相手よりも優位に立つことを嫌うレオンハルトではあったが、それでも彼がそうしたのは、リーゼを守るためであり、エリアスに自らの言葉を届けるためでもあった。
「大切な人を攫われ、それなのに何もできずにいる無力な自分。その惨めさも辛さも、私にはよくわかる」
今、エリアスが抱いている感情は、リーゼロッテが誘拐されたときのレオンハルトの思いそのものだった。
「しかし、だからと言って、リーゼに当たるのは違うでしょう!」
気持ちはわかる。わかるが、それはダメだ。
そんな情けない姿を、兵に、自分に、そして、誰よりもリーゼロッテに見せてほしくない。
そんな思いを込めてレオンハルトは声を張った。
「リーゼもだ」
レオンハルトは、今度は手を繋いだままのリーゼへと目を向けた。
「ちょっと父上に怒られたからって、縮こまってちゃダメだ。リーゼはやるべきことがあってここに来たんだろう?」
レオンハルトの言葉に小さく頷いて、俯いていたリーゼロッテが顔上げた。
するとそこには、レオンハルトに跪くエリアスの姿があった。
「申し訳ございませんでした。殿下の諫言、このエリアス、ありがたく頂戴いたしました」
エリアスが真心から跪いたのは、彼の生涯においてこれで三度目。
初めてそうしたときの相手は現王。二度目はノーシス王太子。そして、三度目がレオンハルト王子だ。
血は争えないものだ、とエリアスは思う。目の前の、いずれ娘婿になるかもしれないその少年は、この歳にしてすでに王道の真ん中は堂々と歩いている。
エリアスはそのことに、頼もしさ同時に、畏敬の念を抱いたのだった。
「顔を上げてください。今は急ぎお伝えしなければならないことがあるのです」
そう言ったレオンハルトがリーゼロッテに話の水を向けた。
それに頷いて応えたリーゼロッテが、今度こそ父をしっかりと見据えた。
「お父様、お母様のことなんだけど――」
「すまない、リーゼ。僕がついていながら……」
「ううん。お父様を責めてるわけじゃないの。お父様が悪いわけじゃないもの。それに、メイとドライに救出に向かってもらうことにしたから」
「そ、そうか!」
リーゼの言葉を聞いたエリアスは、リーゼロッテたちがここに来てから初めて笑顔を見せた。いや、戦争が始まって以来、初めての笑顔だと言ってもいい。それだけの朗報だったのだ。
メイとドライ。西方辺境領が誇る二人の空間魔法使いが揃えば、マーガレットの救出は必ずや達成されるだろう。エリアスには当初からその確信があった。しかし、どれだけ望んでもメイはここにいなかったのだ。
それを、戦場に飛び込んで来た愛娘が連れてきてくれた。
そのことが、エリアスの目に再び光を宿らせた。
「でも、時間がないの。帝国軍は兵隊たちとお母様の命を使って禁術『軍団召喚』を使うつもりよ。召喚するのはたぶん、帝国軍の主力部隊……もしかしたら、全軍」
「なるほど」
それだけの情報で帝国側の謀略の全容を理解したエリアスは獰猛な笑みを浮かべた。
「じゃあ、僕はその禁術の阻止をすればいいというわけだね?」
マーガレットという人質によってエリアスに打ち込まれた楔。
しかしエリアスは、その楔から今にも解き放たれようとしていた。そうなれば、彼を止められるものは誰もいない。
帝国の企みが明らかとなり、王国の最高戦力が自由を得ようとしている今、戦争の趨勢は大きくシーラン王国側に傾いた。
そのはずだった――
「なんだ、バレちまったのか。でも、邪魔はさせねえよ?」
そんな男の声がして、リーゼロッテたちは天幕の入り口へと目を向けた。
エリアスとレオンハルトはすでに抜剣している。
「何者だ?」
三人を代表して、エリアスが誰何した。
無精髭にボサボサの髪をしているものの、身に纏う甲冑は一兵卒のものとは明らかに違う。
それに、この天幕の外には、近衛騎士たちがいたはずだ。それなのにこの男は無傷でこの場に立っている。いや、そもそも、この男が声をかけてくるまで、エリアスですら接近に気付くことができなかった。それこそがこの男の異常性を物語っている。
「俺? 俺のこと知らねえの? って、まあ、しょうがねえか。俺、あんま外に出ねえしな」
男が面倒臭そうに頭をぼりぼり掻きながら答える。
「俺は、フレイミア帝国東方征伐軍将軍、マルコ=マキャベルっちゅうモンだ。よろしくな――っと!」
言うが早いか、次の瞬間にはマルコの大剣がリーゼロッテの脳天を目掛けて迫っていた。
「殺す」
しかしその凶刃は、割って入ったエリアスの剣に防がれた。
剣圧で天幕が吹き飛ぶ中、エリアスが眼光鋭くマルコを睨みつける。
「やっぱりアンタがエリアスか」
にたりと笑ったマルコが、エリアスから距離を取った。
エリアスの間合いにいながら、そこからあっさりと抜け出せる。それだけでも、この男の技量の高さが伺える。
「俺に下された軍命は、エリアス=リシュテンガルド辺境伯の足止めなんだ。一発で引けてよかったぜ。ちまちま探し出すのもめんどくせえからな」
剣を握り直し、やる気のなさそうな構えを取りながらマルコが続ける。
「しかしよお、俺は気に入らねえんだよ。なんで俺がアンタの足止めなんかやらなきゃいけねえんだ? 心底めんどくせえ」
そうは言いつつもマルコは笑顔だ。
おもちゃを与えられた子どものような笑顔。そんな顔をしたまま、マルコがふらりと剣を振った。
「くッ……」
直線的で隙だらけのようにも見えるその動き、しかし、エリアスは横薙ぎにされたその剣を受け止めることしかできなかった。
「斬ればいいだけだ! 殺せばそれで終いだ! 足止めなんてめんどくせえこと、やってられねえんだよ!」
ただ痛ぶって殺すだけのおもちゃ。マルコにとってのそれがエリアスだ。
マルコは、ようやく遊べるとばかりに呵呵と笑った。
両軍総大将同士の決闘。その火蓋が切って落とされた。
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