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幼女と親友(3)

「動かないで……」


 その声はひどく怯えていた。


「どうしたの?」


 不思議に思ったわたしが顔を上げるが、ナーシャはわたしのことを見てはいなかった。その視線はわたしを飛び越えて、もっと先へと向けられている。

 それにつられたわたしが、ナーシャの視線の先を追う。


「うわ――」


 思わず声を上げそうになったわたしの口を、ナーシャの両手が塞いだ。


「大きな声を出しちゃダメ……」


 口を塞がれたままこくこくと頷くわたし。温泉に入っているというのに、冷たい汗が頬を伝った。

 わたしたちの視線の先、露天風呂から目と鼻の先の森の中。そこに立つ一本の木の上から、爛々と輝く双眸がわたしたちのことを見下ろしていた。


「ジャ、ジャグワ……」


 わたしの愛読書であるモンスタスキー著『魔物図鑑』によれば、目の前に現れた魔物はジャグワ。

 ジャガーによく似た魔物だが、その体長は五メートルを超える。大きさが段違いだ。

 森林生態系の頂点に立つその魔物は、目撃例自体が極めて少ない。おそらくそれは、目撃者の多くが無事でいられないからだ。

 そのため、そのレア度は星四つ。危険度に至っては最高レベルの星五つだ。

 そんな魔物がわたしたちを獲物と見定めていた。


 ここはノト侯爵家の管理地。侯爵令嬢であるナーシャが訪れる前には入念な魔物狩りが行われたはずだ。

 それを掻い潜って生き残り、今ここに現れたという事実は、それが相当強力な個体だということを物語っていた。


「助けを呼ぼう」


 脱衣場の外には護衛の人たちが待機しているはずだ。

 いや、それよりもメイだ。メイを呼べば、すぐにこの状況から脱出できる。

 しかし、ナーシャはわたしの提案に首を振った。


「ダメよ。私たちは今、裸なのよ」


「で、でも……」


 人に自分の肌を晒したくないというナーシャの気持ちは理解できる。わたしだって一応女だから。

 でも、ナーシャの美しい柔肌も、まだ見ぬ将来の伴侶に立てるべき操も、乙女としてのプライドも、ぜんぶ命あっての物種なのだ。


「ダメ。お願い……」


 でもそれは、あくまでもわたしの考えだ。

 今にも泣きだしそうな声なのに、それでもナーシャは人を呼ぶことだけは頑なに許さなかった。

 わたしはナーシャの気持ちを軽く見過ぎていたのかもしれない。

 命をかけてでも守りたいもの。死ぬことよりも辛いこと。それは人によって様々だ。

 そんなナーシャの気持ちを無視して助けを呼ぶことなんてできない。


 でも、だからと言って、このままでいいわけじゃない。

 わたしはナーシャを助けたいし、わたしだってもう一度死ぬのはごめんだ。


「わたしが囮になるからナーシャは逃げて。急いで着替えて助けを呼ぶの」


「そ、そんなのダメよ!」


「ダメダメばっかりじゃ二人とも死んじゃうでしょ?」


 そう言ったわたしはナーシャへと笑顔を向けた。


「大丈夫。わたしはすぐにメイを呼ぶから、何も危ないことなんてないよ」


 ちょっと抵抗はあるけど、メイにだったら裸を見られても平気。普段から色々と辱めを受けていますからね。

 まあ、わたしの裸を見たメイがちゃんと機能するかどうかには一抹の不安があるけど……


 湯船を出たわたしは、森の方へと向けて一歩足を踏み出した。

 そんなわたしをジャグワが目で追う。


「今だよ。行って」


 わたしが先に行動に移ってしまえば、ナーシャはもう従うしかない。

 こくこくと頷いたナーシャは、脱衣場に向けて一目散に駆け出した。


「ダメ! ゆっくり!」


 しかし、時すでに遅し。

 背中を見せたナーシャに狙いを定めたジャグワが、ぐっと体を縮めたかと思うと、次の瞬間にはわたしの横を通り過ぎようとしていた。


 速い! 速すぎる!

 今メイを呼んだところで間に合わない。


 悲鳴を上げたナーシャの血飛沫が舞う――

 そんな光景が頭をよぎった。


「ダメ!」


 悲鳴にも似た懇願の叫びを上げるわたし。

 そのとき、一瞬だけ魔物と目が合った気がした。


 お願い!


 ナーシャに飛び掛かった魔物が、今にも彼女の背中に牙を突き立てようとする。


 お願いだから!


 願えば叶うほど世の中は甘くない。でも、わたしの願いは確かに伝わった。

 ナーシャを避けるように、ジャグワがひらりと身を翻したのだ。


 ナーシャは恐怖の余り腰を抜かしてしまい、そんな彼女を庇うように、わたしは両手を広げてナーシャとジャグワの間に割り込んだ。

 ジャグワの双眸はわたしたち二人を捉えたままだったが、その瞳からは攻撃の色は消えていて、再び飛び掛かってくる気配は感じられなかった。

 むしろ尻尾をふりふりと揺らし、なんだかご機嫌なようにすら見える。


「もしかして……わたしのお願い、きいてくれたの?」


「ダ、ダメよ!」


 ナーシャが、ジャグワに近づこうとするわたしの手を引いた。

 その顔は蒼白で、恐怖がありありと浮かんでいる。

 わたしはそんなナーシャに笑顔を向けた。


「大丈夫だよ。安心して」


 この子はもう大丈夫。わたしにはその確信があった。


「いい子だね。ありがとう」


 そう言いながら手を伸ばすと、ジャグワはそれを受け入れるように目を細めた。


「ほらね?」


 額を撫でてやると、ジャグワが気持ちよさそうに喉を鳴らす。こうなるともう完全に猫だ。


「ね、大丈夫でしょ?」


「え、ええ……でも、どうして?」


「わたしもまだよくわかってないんだけど、たぶんこれもわたしの力なの」


 神の贈り物(ギフト)である『魅了(チャーム)

 その力はおそらく、人だけにではなく、魔物が相手でも通じるのだろう。

 いや、もしかしたら、強い自我を持つ人間相手よりも、魔物相手の方がより強く働くのかもしれない。

 その証拠に、今、わたしは、目の前にいるこの子と、何か強いつながりのようなものを感じている。


「リーゼには驚かされてばかりですわね……」


「実は一番驚いているのはわたしだったりするんだけどね……」


 引き攣った笑いを浮かべるナーシャに、わたしは苦笑いを返すことしかできなかった。

 わたしが授かった力は、わたしの心を悩ませるものではあるけれど、こうしてわたしとわたしの大切なものを守ってくれる力でもある。

 今は素直に、そのことに感謝しておこうと思う。


 さて、今回はさすがに焦ったけど、どうにかこれで一件落着。でも、その前に――


「ねえ、ナーシャ。この子に何か食べさせてあげられないかな?」


 魅了(チャーム)の力で繋がってしまったせいか、この子が伝えたいことが何となくわかる。

 この子はお腹を空かせているのだ。

 おそらくは、わたしたちがここを訪れる前に行われた、わたしたちの安全確保のための大規模な魔物狩りがその原因だ。それによってジャグワたちの獲物がいなくなってしまったのだ。

 つまり、お腹を空かせたジャグワに狙われたのは自業自得というわけだ。


 本当は、魔物はもちろん、野生動物に餌付けをするのはよくないんだけど、わたしの力で虜にしてしまったのだから今さらだ。

 つながりを通してこの子の苦しさがわかってしまうから、余計になんとかしてあげたいとも思ってしまう。


「もちろん、よろしいですわよ」


 さすがはナーシャ。状況理解も早ければ、立ち直りも早い。

 さっきまで恐怖の対象だったはずのジャグワの顎を撫でながら、ナーシャが笑顔を見せた。


 せっかくだからと、石鹸でジャグワをごしごしと洗って、すっかり綺麗になったわたしたちは仲良くお風呂を上がることにした。



 美容の大敵、夜更かしをして、二人で他愛のない話で一晩中盛り上がった翌日。

 寝ぼけ眼で宿を出たわたしを待っていたのは、昨日ご飯を食べさせたあとに森に返したはずのジャグワだった。

 昨日の子だけではない。その子よりも一回り小さな個体を三頭連れていた。


「どうしたの?」


 そう声をかけると、昨日の子がわたしの脚にすり寄ってくる。

 とは言っても、幼女とジャグワでは大きさが違い過ぎて、どう見ても襲われているようにしか見えない。


「一緒に来たいんじゃありませんの?」


 上品に欠伸をしながらナーシャが言うと、ジャグワは嬉しそうに鳴いた。

 お腹に響く重低音。なかなかの迫力だ。


「じゃあ、あの子たちは?」


 ジャグワはわたしの言葉を受けて、再び三頭の小さなジャグワの元へと向かうと、一頭一頭と額をこすり合わせた。

 そして三頭のジャグワたちは、一声だけ鳴いたあと、森の中へと溶け込んでいく。

 それは、別れの挨拶だった。


「そっか。あの子たちがここを守ってくれるんだね」


 あの三頭はこの子の子どもたちだ。

 この子は、わたしについてくる代わりに子どもたちに縄張りを譲り、それを引き継いだ子どもたちがこの辺り一帯を守ってくれるらしい。


「と言うわけだから、ナーシャ。魔物狩りはもういらないかもしれないよ?」


「そのようですわね。思いがけず我が領に頼もしい味方ができましたわ」


 愉快そうに笑ったあと、ナーシャは「それにしても」と、欠伸の絶えない口元を隠していた扇子をぱちんと閉じた。


「本当にその子を王都まで連れて行きますの?」


「うーん……」


 王都にもテイムされた魔物は多い。使役用に飼われているものもいるし、貴族の間では、鳴き声が美しい鳥の魔物が人気だったりもする。

 それでも、これほど大型の魔物は見たことがない。

 いきなり森の王者が現れたりしたら、きっと王都は大混乱だ。


「じゃあ、私の実家でお預かりしましょうか?」


 ナーシャの言葉を聞いたジャグワが驚愕の表情を浮かべた。心なしか、その目が潤んでいるようにも見える。

 まさか連れて行ってもらえないとは思っていなかったのだろう。


「ううん。やっぱり連れてくよ」


 子どもたちと別れて、住み慣れた森を離れてまでついて来たいと言ってくれているのに、置いていくのはさすがにあんまりだ。

 それにわたし自身がこの子と一緒にいたいと思ってしまったのだ。


「でしたら、名前を付けてあげませんとね」


「名前? そっか。そうだね」


 名前かあ……わたし、名前付けるの苦手なんだよね……

 研究発表会用に作ったポンポン船の命名のときも、なんだかみんなの反応は微妙だったし……

 とは言え、これからずっとその名前で呼ぶことになるわけだから、きちんと考えて名付けてあげなきゃいけない。


「じゃあ、『ジャグ子』で!」

「却下ですわ」


 一瞬の間も置かず、すぐさまナーシャに却下されてしまった。

 わたしに懐いているはずのジャグ子も牙を剥いて唸っている。

 この子は雌だし、ジャグワっていう魔物だからぴったりだと思ったんだけどな……


 でも『ジャグ子』がダメだとすると、どうしたものか。これ以上いい名前は思いつかないんだけど。

 うーん、ジャグワか……ジャガーの魔物、ジャガーの学名はパンセラ・オンカ――よし!


「オンカ! あなたは今日から『オンカ』だよ!」


「あら? 意外と悪くないですわね」


「意外って何よ!」


 わたしが口を尖らせると、ナーシャが声を上げて笑い、オンカも大きな口を開けて嬉しそうに鳴いた。

 ナーシャのお墨付きも出たし、オンカも喜んでくれている。よかった、よかった。

 これからよろしくね、オンカ!

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