幼女と母(1)
「うわあ、なんだかすごく懐かしく感じるなあ!」
馬車の窓から顔を出して、わたしは感嘆の声を上げた。
目の前に広がるのは八か月ぶりの領都の街並み。
みんなよりもひと月早く冬休みに入ったわたしは、懐かしの西方辺境領に帰ってきていた。
本当はみんなと一緒に終業式を迎えたかったけれど、残念ながらそれは叶わなかった。
そもそも王都に帰ってきてからというもの、毎日が本当に大変だった。
泣きじゃくる叔母様や腹を切って詫びようとするシーツを宥めるのは一苦労だったし、連日のように続いた事情聴取もしんどかった。教皇猊下がわざわざ謝罪に訪れた日には、仮病で寝込んでいようかと思ったほどだ。
でも、何より大変だったのは、街の雰囲気だ。どこへ行っても、聖女、聖女のお祭り騒ぎ。
教皇猊下にお願いして、リーゼロッテ=リシュテンガルドは聖女ではないと、教会から正式に発表してもらったけど、それもほとんど意味をなさなかった。
そういうわけで、表向きは休養を要するという理由で、緊急避難的に実家に帰ることになったのだ。
「いっそ聖女であることを認めてしまわれてはいかがでしょうか? 聖女なお嬢様――ものすごく捗ると思うのです」
しばらくはずいぶんしおらしかったメイもすっかり元どおりだ。いい加減、何が捗るのか教えてほしい。
「爺もそれがよろしいかと。お嬢様が聖女様であるなど、これ以上捗ることはありますまい」
どうやらシーツ爺も熱心な聖女教信者のようだ。で、だから何が捗るの?
一方のお父様は完全なリアリスト。二人の言葉に盛大に溜め息をついてから言った。
「聖女なんかに認定されたら、今回のようなトラブルが後を絶たないんだ。そんなことは容認できないよ。リーゼはいつまでも僕の可愛い娘。それで十分で、それが全てだ」
わたしを抱きしめたお父様がほっぺをすりすりしてくる。
そうだった。この人はリアリストうんぬんというよりもただの親バカだった。でも、すき。
旅の終わりが見えてきて、気分も高揚していたわたしたちが、そんなふうに和気藹々と過ごしていると、沿道にはいつの間にか人だかりができていた。
どうやら、王都から遠いここ西方辺境領にもわたしの噂は届いていたようだ。
せっかく出迎えてくれているのに申し訳ないけど、聖女騒ぎにはいい加減うんざりしていたから、少しだけ気持ちが重くなる。
「おかえりなさい!」
しかし、沿道から口々に聞こえてくるのは、そんな声だった。白い花びらを巻いてくれている人たちもいて、聖女の誕生に色めき立っているというよりも、お祝いムードのような感じだ。
「リーゼ、皆に顔を見せてやりなさい。領民は皆、君のことを心配していたんだ」
そうか。みんな、聖女じゃなくて、『わたし』が帰って来たことを喜んでくれているのか。
なんだか嬉しいな。
わたしが馬車の窓から顔を出すと、沿道から「わあ」と歓声が上がる。
そして手を振ってくれている人たちに笑顔で手を振り返すと、歓声はさらに大きくなり、そうかと思えば、次から次へと失神者が続出した。
これはアレだ。『可愛い色の覇気』ってやつだ。可愛くて、ごめんね?
季節はすっかり冬なのに、なんだかここはぽかぽかと暖かい。
屋敷まで続く出迎えの人々の列を眺めて、わたしはちょっとだけ泣いた。
●
「リーゼ!」
馬車を降りるとすぐに、ふんわりとした柔らかさに包まれた。
「ただいま、お母様!」
「お帰りなさい、リーゼ。心配したのよ……」
わたしを抱きしめたお母様の瞳からは、キラキラと宝石のような涙がこぼれている。
それを見たわたしの涙腺も一気に崩壊する。何だかんだ言っても、やっぱりこのあたりは子どもメンタルだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい、お母様……」
「ううん。リーゼが悪いわけじゃないわ。よく頑張ったわね、リーゼ。私はあなたを誇りに思うわ」
涙を流したまま、お母様はとびっきり可愛い笑顔で笑った。
やめて、お母様! ドキドキしちゃう!
「ねえ、リーゼ。お腹すいたでしょ?」
わたしの手を引いて屋敷に戻りながら、お母様が少し照れたように言う。
「今日の夕食は私が作るから、楽しみに待っててね? シーツとメイも一緒に。ね?」
「え……」
さっきまで暖かかった雰囲気が一瞬にして凍りついた。
「ぼ、僕は途中で食事をしてきたから、夕食は結構だよ……」
「お、奥様。使用人である私などが食事をご一緒するなど、恐れ多いことでございます……」
青褪めたお父様が適当な嘘をついている。
わたしと一緒によく食事をするシーツ爺も、やけに使用人という立場を強調して、頑なに固辞しようとしている。
メイは、まるで最初からいなかったかのように、いつの間にか姿を消していた。
そう。お母様はメシマズなのだ。
家庭における七つの大罪の一つ、メシマズ。それは、家族の精神と肉体を蝕む。
ちなみに七つの大罪の残りの六つは、浮気、借金、薄給、無駄遣い、朝寝坊、既読スルーだ。
「あら? 嬉しくないの?」
「う、嬉しい……よ?」
どのみち、わたしに逃げ道などないのだ。諦念を浮かべたまま、わたしは無理矢理にほほ笑んだ。
そうして迎えたディナータイム。
わたしは、誘拐されたときよりも恐怖を感じていた。
お父様もシーツ爺も死んだ魚のような目をして座っている。
メイは、亜空間の掃除をしなくちゃいけないなどと言って、結局姿を現さなかった。今度こそ絶対にクビにしてやる。
「さあ、たっぷり召し上がれ」
お母様が手ずから運んできた料理が、目の前に並べられる。
ハンバーググラタン、ヴィシソワーズ、冬野菜のサラダ。見た目は――普通だ。
でも見た目に惑わされてはいけない。
まだわたしが自我を完全に取り戻す前のある日、わたしはお母様の料理を食べて、泡を吹いて倒れた。そのときは、治癒術師まで駆けつける大騒動になったらしい。
それ以来、お母様は料理をしていなかったはずなのに、どうして今になって……
並べられた料理からは、なぜかいい匂いがする。
でも香りに騙されてはいけない。メシマズの料理って、なぜだか知らないけど、見た目と香りだけはよかったりするものだから。
フォークとナイフを握ったわたしは、ごくりと生唾を飲んだ。
たぶん、今日わたしは死ぬんだわ。
でも、他ならぬお母様の手にかかって死ぬのなら、それは本望。
お父様、お母様、短い間だったけど、お世話になりました!
意を決したわたしは、一口大に切ったハンバーグを思い切って口に運んだ。
その様子をお父様とシーツは固唾を飲んで見守っている――って、ひどい! わたしを毒見薬にするなんて!
「あれ?」
「どう、リーゼ?」
「おいしい……美味しいよ、お母様! なんで!?」
わたしの若干失礼な驚きに、お母様は満面の笑みを浮かべた。
「当然でしょ。お母様の料理の半分は優しさでできてるんだから」
ふむふむ、なるほど。頭痛薬と同じ。つまり何かの薬を使ったというわけですな。
でも、薬漬けでも何でもいい。お母様の料理が旨い。それだけで勝つる!
ぱくぱくと料理を頬張るわたしを見て、お父様とシーツ爺も恐る恐る手を伸ばした。そして、目を見開いて驚愕し、次に滂沱の涙を流す。
たぶん、命の危機を脱したことを喜んでいるのだろう。よかったね、二人とも。でも、二人とはしばらく口をきいてあげないんだからね。
「ふふ」
頬杖をついてわたしたちの様子を眺めていたお母様は嬉しそうに笑顔を浮かべていた。その顔はとても優しい。
きっとお母様はずっと料理の練習を続けていたのだろう。本来、料理なんかしなくてもいい立場のはずなのに、わたしたちに手料理を振舞いたくて、隠れて努力をしてきたのだろう。
「お母様?」
「なあに、リーゼ?」
「ありがと。とっても美味しいよ」
帰って来た娘を出迎えてくれた母の手料理。
それはお母様の言ったとおり、優しさでできていた。
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