幼女の危機(2)
⚫︎『聖女の涙』当日、午後七時――
「最悪の状況ね……」
使用人たちからもたらされた情報を整理し、ヴァイオレットはため息をついた。
その顔は青ざめている。
王都の民、そのほとんどが罹患した感染症。王国史上最悪の疫病となるかと思われたその熱病を解決したのはやはりリーゼだった。
中央教会で起こった奇跡は、それを目撃した人々によって瞬く間に伝えられ、感染症の脅威が去ってからまだ間もないというのに、聖女再誕の噂はすでに王都全域に広まろうとしていた。
リーゼの神の贈り物のことが広く知れ渡ってしまうのは歓迎すべきことではないが、次期辺境伯であるリーゼが、ここで名を広く知らしめ、民を救ったという実績を積むことは決して悪いことではない。差し引きでもプラスになるとヴァイオレットは考えている。
しかし、今問題なのはそこではない。その後のリーゼの足取りが全く掴めないことこそが問題なのだ。
「ヨーゼン=ドラッメリア枢機卿および聖堂騎士十二座全員の消息も不明とのことでした……」
使用人の報告にヴァイオレットは眉間に人差し指を当てて瞑目する。それは考え事をする際のヴァイオレットの癖だ。
ヨーゼン=ドラッメリア枢機卿。聖女教中央教会で教皇に次ぐ権力を持つとされる男。そして、聖堂騎士十二座。教皇直属の騎士団である聖堂騎士団の十二傑。その一人ひとりが、王立騎士団の大隊に匹敵すると言われるほどの実力者だ。
その全員が同時に姿を消すということが、何を表すのか――もはやその答えは明白だった。
倒れたリーゼを保護し、護衛に付いているなどと考えるのは楽観的に過ぎる。
仮にそうであるならば、教会からの報告があって然るべきだが、現時点で連絡一つないどころか、教会のトップである教皇ですら彼らの所在を知らないのはおかしい。
結局、辿り着く結論は一つしかない。
リーゼは誘拐されたのだ。ヨーゼン=ドラッメリア枢機卿によって――
「王都にはいないのよね?」
「はい……王都の隅から隅まで調べましたが、お嬢様を示す反応はありませんでした……」
メイはそう言って唇を噛む。
「お嬢様に付けたマーキングは、例え空間魔法阻害の結界内であったとしても、必ず検知できるように術式を組んでおります。ですから――」
メイのリーゼに対する愛情は本物だ。そして、空間魔法に限って言えば、彼女は紛れもなく天才だ。
そんなメイが王都にいないと言っているのだから、それは間違いのないことなのだろう。
「これは王国に対するテロよ。そして、私たちリシュテンガルドへの挑戦でもある」
ヴァイオレットは執務机に両手を強く打ち付けてから立ち上がった。
「今から王城へ向かいます。シーツ、メイ、ついて来なさい」
●『聖女の涙』当日、午後八時過ぎ――
「相分かった」
ヴァイオレット=リシュテンガルドからの報告を受けた王太子ノーシス=シーランは至って冷静に頷いた。
普段は感情豊かな彼ではあるが、国の有事に感情を見せるほど愚かではない。そのはずだった――
「王立騎士団第一団から第四団まで、そして王都警備隊全隊をもって、リーゼロッテ=リシュテンガルドの捜索に当たる。総指揮は私が執る」
ノーシスは声高らかにそう宣言した。
王直属である近衛騎士団を除くこの国の全ての戦力。戦時ですら動員されることのない最高の戦力を当て、その指揮を王太子自らが執る。
そのことが、王太子のかつてないほどの怒り如実にを表しており、周囲の者は皆、一様に固唾を飲んだ。
「騎士団の現場指揮は、ラインハルト、お前に任せる」
ノーシスが指名したのは、この夏成人を迎えたばかりの彼の長子、そしてレオンハルトの兄であるラインハルト=シーランだ。
しかし、一人、そのことを承服できない者がいた。
「お待ちください、父上!」
そう声を張り上げたのはレオンハルトだ。
「現場の指揮は俺に――」
「駄目だ」
しかしノーシスは、レオンハルトに皆まで言わせることなく、その言葉を遮った。
「レオン、お前はここで待機だ」
「どうしてですか!? リーゼは俺の恋人です。俺が助けに行かなくてどうすると言うのですか!」
「だからこそだ。今回の件はお前には任せられん」
レオンハルトはまだ未成年だ。しかし、それを差し引いたとしても、王立騎士団全団を率いるだけの能力はすでに持っているだろう。それほどまでにレオンハルトは優秀なのだ。
ノーシスとてそのことはわかっている。しかし、恋人を攫われ、冷静さを欠く今の彼に責任ある任務を任せることはできない。それが総指揮官としての、そして、父としての判断だった。
「し、しかし――」
「時間が惜しい。下がりなさい」
なおも言い募ろうとするレオンハルトだったが、そう言われてしまえば従うしかない。
事態は一刻を争う。それは間違いのないことなのだから。
「さて、エリアスへの連絡だが……」
ノーシスがちらりと目を遣ると、ヴァイオレットが頷いた。
「私が行います。王城の都市間通信機をお貸しいただければと」
「それはもちろんだ。して、貴殿はどう思う? エリアスは……」
「おそらく、いえ、間違いなく、兄は怒りに我を忘れ、荒れ狂うことでしょう……」
ノーシスの問いに答えたヴァイオレットの声は暗い。
そして二人は溜め息をつく。
外患内憂とはまさにこのことだろう。
かつて西方辺境領を襲った魔物の氾濫。未曾有の危機から領都を救った若き英雄の姿を多くの者が今でもはっきりと覚えている。
愛する者を守るため、怒りに身を任せ、我を忘れ、敵を殲滅するまで戦い続けた戦神。それは敬愛の対象であると同時に、畏怖の対象でもあった。
エリアス=リシュテンガルドを危険視する貴族が多い理由もそこにある。
最愛の娘が誘拐された――そのことを知ったエリアスが、果たしてどれだけの怒りを見せるのか。それは誰にでも容易に想像がつくことであり、また、誰にも想像がつかないことでもあった。
「剣聖シーツ」
「は!」
ノーシスに名を呼ばれたシーツは一歩前へ踏み出すと、片膝をついて最上級の臣下の礼をとった。
「剣聖シーツに任務を与える」
シーツはリシュテンガルド家の使用人だ。本来、王家の者であろうと、彼に命令を下す権利はない。
しかし、『剣聖』となれば話は別だ。国家の有事の際は、国の指揮下に入り、その命を忠実に遂行する義務がある。
そして今このとき、シーラン王国は、感染症の猛威を超える、過去に類を見ないほどの危機に晒されていると言えた。
「エリアス一人であれば、二日とかからずに王都にたどり着くだろう。剣聖シーツは、王都西城門外で待機し、エリアスを出迎えよ。彼の怒りを鎮めてくれ」
「は。この命に替えましても」
命に替えてでも――それは覚悟を表す言葉ではない。怒りに我を忘れたエリアスを止めるには、言葉どおりの意味で、その代償として命を差し出さなければならない。それでも足りるかどうかはわからない。
しかし、シーツには少しの逡巡もない。
もし、エリアスが王国に刃を向けるようなことがあれば、主人とリシュテンガルド家の立場は危ういものになるだろう。そうなれば、リーゼが帰ってきたとき、彼女に深い悲しみを抱かせてしまうことになる。
すべてはリーゼのために――それこそが、エリアスに惚れ込み、リシュテンガルド家に尽くしてきた男の行動原理であった。
「すまないな……」
国のために死んでくれ――そう命じたノーシスは、苦渋の表情でそう言ってから、立ち上がった。
「これは王国史上最大の危機である。皆、心してかかってくれ」
こうして国を挙げてのリーゼ捜索作戦が開始されることになったのだった。
そして、王国全体が作戦行動に移る中、密かに動き出すものが一人。
「リシュテンガルド家の侍女、メイ殿とお見受けする」
暗がりの中でメイに声をかけたのは、レオンハルトだった。
「メイ殿に折り入って頼みがあるのだ」
跪くメイの耳元に顔を寄せ、レオンハルトが何かを囁くと、メイは顔を輝かせて頷いた。
誰よりもリーゼを案じながら、役割を与えられなかった二人。
そんな彼らもまた、リーゼを救い出すために動き出そうとしていた。
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