幼女の危機(1)
⚫︎『聖女の涙』翌日、正午過ぎ――
微睡の中から意識を引っ張り上げると、見知らぬ部屋の天井が目に入った。
「ここは……?」
「お目覚めになりましたか?」
ベッドの横から声がかかり、わたしはそちらへ視線を向ける。
ベッドサイドの椅子に腰掛け、安堵の表情を浮かべていたのは、聖女教中央教会の枢機卿であるヨーゼンだった。
「ヨーゼン様……あの、ここは……?」
「教会所有の療養地です。リーゼロッテ様が力を使い果たしたご様子で、倒れてしまわれましたので、やむを得ずこちらに運ばせていただきました」
そうだった。わたしはみんなの病気を治すために力を使って、そして倒れてしまったんだった。
ん? みんなの病気? そうか、そうだった!
「あの! 感染症は? みんなはどうなりましたか?」
急に慌て出したわたしの様子が可笑しかったのか、ヨーゼンはくすりと笑った。
「ご安心ください。王都の民は皆、完治したと報告を受けていますよ」
「そ、そうですか……」」
よかった……上手くいったんだ。本当によかった。
涙ぐむわたしに、ヨーゼンはグラスに入れた水を差し出しながら、気遣わしげな視線を向けた。
「体調はいかがですか? 丸一日も目を覚まされなかったので心配していたのですよ?」
「丸一日!?」
それはまずい。誰にも言わず、書き置きすらせずに家を出たから、みんな心配しているかもしれない――っていうか、みんな元気になったんだったら、絶対に大騒ぎをしているはずだ。
慌ててベッドから立ちあがろうとするが、危うくベッドから転げ落ちそうになる。立ち眩みだ。
ヨーゼンがそんなわたしを支えてくれた。
「気が急くお気持ちはわかりますが、リーゼロッテ様はまだ体調が万全ではございません。まずは何かお腹に入れた方がよいでしょう。軽い食事を用意させましょう」
そう言いながら、ヨーゼンはサイドテーブルの上にあったベルを鳴らした。
「替えのお召し物です。ご支度が終わられましたら、そこのメイドにお申し付けください。食堂までご案内いたしますので」
では後ほど、と笑顔を残し、ヨーゼンは部屋から出ていった。
恭しい態度に、厚い待遇。
確かに親切にされているはずなのに、なぜだか説明し難い違和感のようなものを感じながら、わたしはその背中を見送った。
⚫︎『聖女の涙』からまもなく――
聖女の雨が降り注いだその直後、リーゼの声に呼ばれた気がしてヴァイオレットは目を覚ました。
気を失う直前まで自身を苛んでいた発熱も頭痛もすっかりなくなっている。
「ずいぶん心配をかけてしまったわね。他の者は大丈夫かしら……」
ベッドから立ちあがったヴァイオレットは、足元のふらつきを自覚して、ベッドに腰を掛ける。病は治ったものの、ずいぶんと体力を削られているようだった。
ちょうどそこへ、部屋の外からノックの音が響く。
「ああ、よかった! あなたも元気になったのね」
「ヴァイオレット様も無事ご回復され、何よりでございます」
ガウンを羽織ってからシーツを迎え入れると、彼は恭しく頭を下げた。
「他の者も皆、回復しております」
「そう、それはよかったわ。でも、不思議ね……」
ヴァイオレットは椅子に腰を下ろすと、シーツが差し出した水を口に含む。
「目を覚ます直前、とても暖かくて優しい光に包まれたような気がしたの。その中でリーゼの声が聞こえたわ」
「実は私もでございます。他の者も同様のことを言っておりました。もしや、お嬢様が何かされたのでしょうか……?」
「そうだ! リーゼは? リーゼはどこ?」
ヴァイオレットは気を失う直前に見たリーゼの泣き顔を思い出す。
リーゼには本当に心配をかけてしまった。そのことにヴァイオレットの胸はひどく痛む。早くリーゼを抱きしめて安心させてあげたい。
「まだ学院からお帰りになっておりません」
「そんなはずはないわ」
確かにリーゼはここにいた。熱に浮かされていたとは言え、幻などではないはずだ。
「そうだ、王宮にいるのかもしれないわ」
朧げな記憶を手繰り寄せると、あのとき、王宮へと避難するように言ったことが思い出された。リーゼはきっとそこにいるはずだ。
「では、迎えの者を出しましょう」
シーツがそう答えたとき、大きな音を立てて部屋の扉が開き、メイがひどく慌てた様子で飛び込んできた。
「どうしたのですか? ヴァイオレット様の部屋にノックもせずに失礼ですよ」
「それどころではないのです!」
すでに熱病から回復しているはずのメイの顔は、蒼白だった。
「お嬢様の行方がわからなくなってしまいました!」
「なんですって!?」
「申し訳ございません! これは私の失態。命を、この命を持って償います!」
「メイ!」
動揺して取り乱すメイをシーツが一喝する。
「責任云々は後です。まずは状況を説明しなさい」
メイはいつでもリーゼの元に転移できるように、リーゼをマーキングすることで常にその所在を把握している。端的に言えば、見守りGPSのようなものだ。
しかし、いくらメイが優秀な空間魔法使いだとしても、当然その能力には限界がある。その限界は半径三キロメートル。そこを超えると、メイはリーゼの位置を補足できなくなってしまう。
「私がいけないのです。熱病などに負け、気を失ったばかりに……」
涙ながらに語るメイの肩をヴァイオレットが優しく抱き寄せる。
「いいえ、メイ。これはすべて私の責任よ」
大切な姪っ子。兄の愛娘。それを預かったのは自分なのだ。全ての責任は自分にある。感染症などを言い訳にすることはできない。
「シーツ。使用人たちを全員集めてちょうだい」
ヴァイオレットの指示の下、集められた使用人は料理番まで含めて七名。皆つい先刻まで病に倒れていた者たちだ。
不思議な光の力によって、感染症自体は完治しているものの、それでも失った体力までは戻っておらず、いまだ満身創痍だと言ってもいい。
しかし、そんなことを気にする者は一人もいない。皆、リーゼを案じているのだ。
そんな使用人たちの前に立ったヴァイオレットは普段にはない厳しい表情を見せた。
「ただ出かけているだけならそれでいい。迷子になっているのだとしても、それも大した問題ではないわ。でもリーゼは次期辺境伯。それにあれだけの美貌も持っているわ。だから私たちは、最悪の事態を想定して動きます」
ヴァイオレットの言う最悪の事態――それは誘拐だ。
他国に比べて治安がいいとは言え、この国でも貴族の子女を狙った誘拐は稀にだが起こる。それに加え、リシュテンガルド家をよく思わない貴族も少なくない。
誘拐というのは現実的なリスクだった。
「シーツは王都警備隊に捜索願いを。その後、王宮に向かいノーシス殿下にこのことをお伝えして」
「かしこまりました」
「メイを除く他の者たちは情報収集を。貴族街だけでなく、交易街、スラムも含めて、広く聞き込みをなさい」
次々と指示を出したヴァイオレットは、最後にメイへと視線を向けた。
「メイ。あなたはとにかく王都中を飛び回りなさい。あなたの探知範囲にリーゼを捉えるの。大変な仕事だけど、できるわね?」
「はい。命に替えましても」
メイの言葉に頷くと、ヴァイオレットはもう一度全員を見渡した。
「成果の有無にかかわらず、午後七時に全員戻ること。それまでにリーゼが見つからなければ、リーゼは誘拐されたものとして、王都警備隊および王宮に通報するとともに、お兄様に連絡をします」
その言葉に全員がごくりと生唾を飲んだ。
エリアスがこのことを知れば、ここにいる全員の首が飛ぶだろう。それも物理的な意味で。
しかし、それくらいで済むのであればまだいい。事と次第によっては、王都が灰燼に帰すかもしれない。
比喩でも何でもなく、エリアスが我を忘れれば、それぐらいのことは簡単に起こり得る。
彼らはリーゼのためにも、王都のためにも、必ずリーゼを見つけ出さなければならない。
「散開!」
ヴァイオレットの号令とともに、王都の運命を背負った彼らは屋敷を飛び出した。
それを見届けたヴァイオレットはひとり呟きを漏らす。
「リーゼ、どうか無事でいて……」
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