聖女の片鱗(1)
叔母様の白磁のような額に浮かぶ汗を濡れたタオルで拭きとって、わたしは自分の額をぴたりとくっつける。
ひどい熱だ。
「だめよ、リーゼ。あなたにも風邪がうつっちゃうわ……」
「わたし、今日学校休んで叔母様の看病するよ」
「それはだめ。風邪は治癒術師に来てもらえばすぐに治るんだから、リーゼはちゃんと学校に行きなさい。ね? 良い子だから」
熱にうなされながらも、きっぱりとした口調でそう言われてしまえば、大人しく従うしかない。
実際に叔母様の言うとおり、風邪は治癒術師による治癒魔法であっという間に治ってしまう。風邪だけではない。病気や怪我も治癒魔法にかかれば瞬く間に完治してしまう。
これは元いた世界との大きな違いで、優秀過ぎる治癒魔法があるおかげで、あるいは『せいで』と言ってもいいかもしれないけど、この世界では医学が発展していない。医者もいなければ病院もない。
病気や怪我の治療は、教会とそこに所属する治癒術師の領分なのだ。
問題があるとすれば、治癒術師の絶対数が少なくて、往診に来てもらうのにずいぶん待たされて難儀するということだ。
「シーツ爺、叔母様をお願いね?」
「かしこまりました、お嬢様」
そう言って笑顔を見せたシーツ爺だったが、その笑顔がどこかぎごちない。なんだか顔も少し赤い気がする。
背伸びをしてシーツ爺の額に手をやると、こちらもすごい熱だ。
「大丈夫でございますよ、爺は鍛えておりますからね」
わたしが何かを言い出す前に、シーツ爺は笑顔を作ってわたしを安心させようとしてくる。
「ヴァイオレット様の後で爺も治療してもらいますので、お嬢様は安心してご登校ください」
「……わかった。シーツ爺もちゃんと治療してもらってね?」
心配だけど、わたしがいてもできることは何もない。せいぜい濡れタオルの交換や水を飲ませてあげることぐらい。
むしろわたしがいることで余計な心配をかけてしまう。
「ありがとうございます、お嬢様。それでは、いってらっしゃいませ」
シーツ爺に見送られ、後ろ髪を引かれる思いで屋敷を出たわたしは、いつものように一見一人で街路を行く。
街は静かだ。いや、静かというよりも暗い。いつもの朝の活気が感じられないのだ。
そんなどこかどんよりとした雰囲気の中、五分ほど歩き、いつもナーシャと待ち合わせをしている交差点へとたどり着く。
「おはよう、マティオさん」
「おはようございます。リーゼロッテ様」
ナーシャの護衛と挨拶を交わし、わたしはすぐに違和感に気付く。
ナーシャの姿がそこになかった。
「もしかしてナーシャも風邪?」
「ええ、申し訳ございません。お嬢様は昨日より体調が芳しくなく、本日欠席をされることになりましたので、そのことをお伝えすべくお待ちしておりました」
「そっか……」
なんとなく嫌な予感がした。
フラグでも何でもなく、本当に良くないことが起こっているような、そんな予感。
「ナーシャに、お大事にって伝えておいて」
わたしはそれだけ言い残すと、学校へと向けて駆け出した。
学院の正門が近づいてきても、いつもより生徒の数が少ない気がして、嫌な予感はどんどん加速していく。
そしてその予感は、教室にたどり着いたときに確信へと変わった。
いつもわたしよりも先に来ているはずの、フレッドやフローラの姿がない。
イヴァンもデイヴもアンネも来ていない。
「ねえ、イレーネ。みんなどうしちゃったのかな?」
「さあ、わからないわ。ただイヴァン様は風邪で欠席されるとご連絡をいただいたわ」
そう言うイレーネの顔もなんだか赤い。
「リーゼは元気なのね。私はなんだか朝から体が重いのよ。私も風邪をひいたのかしら」
教室を見渡すと、現時点で登校している生徒は半数に満たない。登校している生徒たちもイレーネのようにいつもの元気が感じられない。
感染爆発――その言葉が頭をよぎった。
そしてそれは、いつもより早く教室に入ってきたセドリック先生によって裏付けられることになった。
「諸君、今日からしばらく臨時休校だ。王都全体で質の悪い風邪が流行っている。授業の再開は追って連絡するから、今日は早く家に帰れ」
いつもは快活な彼の声はひどく皺枯れていた。
間違いない。これは感染爆発だ。
原因はわからない。でも、この感じだときっとウイルス性だろう。
昨日までみんな元気にしていたことを考えると、感染から発症までの期間が極めて短いか、相当期間の潜伏期間があるかのどちらかだ。発症のタイミングが同時期であることを考えると、前者の可能性が高い。
それに症状。叔母様やシーツ爺はかなりの高熱だった。もし他の人たちも同じような症状だとすると、病原性もかなり高いということになる。
わたしはカタカタと手が震えだすのを自覚した。
頭では冷静に分析しているつもりでも、幼い体に引っ張られた心が恐怖を訴えてきている。
元の世界の二十世紀初頭に、世界的に大流行したスペイン風邪が頭をよぎる。
当時の世界人口の三分の一が感染し、一億人の人が亡くなったとも言われている。
もし、これがそれと同じような悪性伝染病だったら……
恐い――
その感情が全身を駆け巡り、手だけではなく全身がガクガクブルブルと震えだす。
恐い、恐い、恐い――けども!
バチン!
わたしは両手で自らの頬を打って気合を入れた。可愛いお顔が腫れあがったらいけないから手加減気味に。
ここで恐怖に飲まれてしまったら、今生の負けが確定してしまう。
恐怖に打ち勝って、もう一度今生の勝ちを確定させなければならない。
何もできないから恐いのだ。だったら、わたしにできることをやるしかない。
「またね、イレーネ。お大事に!」
わたしはイレーネに別れの挨拶、ううん、再会の約束を告げて、教室を飛び出した。
●
家に帰る前に向かった先は学院図書館。
知識はいつもわたしを助けてくれる大切なパートナーだ。ここでいくつか調べものをしていきたい。
書架から取り出した数冊の分厚い本を机の上に広げて読み漁る。
まず知るべきは、この世界における感染症の歴史。いつ、どのような感染症が起こって、どのように解決したのか。そこには必ずヒントが隠されているはずだ。
どうやらこの世界には、ウイルスや細菌などを含めた『病原体』という概念はないようだ。風邪をはじめとした感染症はすべて『呪素』によって引き起こされるとされている。
ただ、『呪い』という思念的な、あるいは魔法的なものによって引き起こされると考えているわけでもないようだ。
呪素は実体として存在する物質であり、その呪素の広がりを物理的に遮断することが感染防止の基本だと考えられている。
ウイルスや細菌の存在が証明されていないだけで、この辺りの考え方は現代医学に近い。
そしてその『呪素』が原因とされる感染症は、だいたい十数年おきぐらいのスパンで定期的にこの国を襲っている。
たいていの場合は治癒魔法で解決したようだが、中には、かなりの規模で感染が拡大したものもあって、そのときは、トリアージ、つまり、病状から見て助かる見込みのある者から優先して治療を行うことで、多数の死者を出しながらもなんとか乗り切った事例もあるようだった。
「ん?」
その事例の説明の中に気になる一文を見つけて、わたしは読み進める目を止めた。
『人為的な感染拡大の疑いがあるが、被疑者死亡のため真相の解明には至らず』
バイオテロの可能性があるといういことか……
気になったわたしは、五十年以上前のその事例にしっかりと目を通す。
するとすぐに、爆発的な感染拡大の様子や患者の症状など、今回の事例との類似点をいくつか発見することができた。
今後の経過次第だけど、もしかしたら今回もバイオテロの可能性があるかもしれない。
わたしは本を閉じて、ため息とともに天井を見上げた。
もしこれがテロだとするなら、当然ながら首謀者がいるはず。誰が、何のためにこんなことをやっているのかはわからないけど、居場所については思い当たるところがある。
首謀者は絶対に安全な場所にいるはずだ。
そして、今この国で絶対的に安全な場所と言えば――
「あまり考えたくないけど……」
それは、お抱えの治癒術師がいる王宮か、教会のどちらかだ。
首謀者を捕えることができれば、もしかしたら、解決方法を知っているかもしれない。
実際はこれがテロかどうかはわからない。首謀者がいるのかどうかもわからない。首謀者がいたとして、解決方法を知っているかもわからない。
だけど、できることがほとんどない現状では、仮想テロの首謀者を追うことが解決への一番の近道かもしれない。
「でも、わたしはただ可愛いだけの幼女なんだよなぁ……」
幼女一人にできることなんてたかが知れている。王都警備隊が協力してくれたらいいんだけど。
叔母様のフィアンセになったアルベルト隊長に相談してみようかとも思うけど、彼も病に臥せっているかもしれないし……
わたしは再び溜め息をつきながら、見上げていた天井から本へと視線を戻す。
その本の表紙には、倒れ伏す病人に手を翳す慈愛に満ちた聖女の姿が描かれていた。
戦争と飢饉、そして疫病により荒れ果てた大地に降り立ち、病を治し、大地に恵みを与え、戦争を終わらせた。それが聖女の伝説だ。
「聖女はどうやって病を治したんだろう……?」
神話上の人物とされる聖女。でも、真偽のほどは別として、王家の始祖となった実在の人物とも考えられている。
もし聖女が実在したのなら、彼女はどうやって疫病を終わらせたのか。
桁外れの力を持った治癒魔法で? ううん、そうじゃないはずだ。だって、レオンは言っていた。聖女は神の贈り物を持っていたって。
ギフト持ちは魔法を使えないはずなのに――
「そうか!」
わたしは拳を握って立ち上がった。
もしかしたらわたしにもできることがあるかもしれない。
幼女にできないんだったら、聖女がやればいいんだ。
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