「惚れっぽい」と言われる婚約者に無限に何度も惚れたと言われるラブコメディー
「――元から惚れていたけれど……さらに惚れた!」
昨日も聞いたお定まりの文句は、今日はアデラがヘアオイルを変えたことに気づいて発せられた。「その香りも君にとてもよく似合う」――そんな言葉に続いて。
ちなみに昨日はハンカチーフの刺繍のセンスを褒められた。それはアデラが手ずから針を刺したものだった。
アデラの婚約者であるザカライアは、アデラの変化によく気づく。
ヘアオイル、刺繍、髪留めに化粧……おおよそアデラが身に着けるものすべての変化に彼は気づける。
その部分だけを切り取って見れば、ザカライアは婚約者としては――多少記憶力がよすぎると思われるだろうが――よく気のつく男性という評価になるだろう。
しかしザカライアの特異な点は、婚約者であるアデラのささいな変化に気がつく言葉を発したあとに、必ず「惚れた」と言ってくるところであった。
「惚れた」――ザカライアの口から幾度その言葉が発せられただろう。
アデラがおおよそ身に着けるものすべてを記憶しているのではないかと思えるようなザカライアに対し、アデラは彼が何度アデラに対して「惚れた」と言ったのかを覚えていない。
たしかなのは、もう数えきれないほどにザカライアはアデラに「惚れた」と言っていることだけ。
ひとしきりアデラに美辞麗句を贈ったザカライアは、次の講義が行われる教室に向かって去って行った。
アデラの隣にいた友人で、幼馴染のリズは少し笑って気安くアデラの肩を叩く。
「今日もきたわね。連続何日?」
「覚えてないわ」
「彼、アデラに『惚れた』って言わないと死んじゃうのよ――きっと」
いたずらっぽく笑うリズに、アデラは少しだけ恥ずかしい気持ちになった。
アデラに何度も――何度も「惚れた」と告げるザカライアの姿を、当初物珍しく見ていた学友たちも、今では一瞥するだけで取り立てて視線を送ってくる、ということもない。
ザカライアがアデラに「惚れた」と告げるのは、もはや日常の風景となっていた。
それを考えると心臓のあたりがムズムズするような恥ずかしさを感じるアデラであったが、ザカライアに「やめてくれ」と直訴したことはない。
ザカライアの……独特な愛情表現に恥ずかしい思いをさせられることしばしばなアデラであったが、別に嫌だというわけではないのだ。
ただ、ひと目をはばかることなく「惚れた」と言ってくるザカライアの言動に、少し恥ずかしさが勝ってしまうだけで。
アデラはわかっている。自分には可愛げというものがない。
まるで鉄の仮面をつけたかのように無表情で、冷たい釣り目に重苦しい黒髪をひとつにまとめたアデラは、「可愛い」というよりも「クール」という言葉のほうが似合う少女だ。
「クール」という言葉だって、純粋な誉め言葉ではなく、半分くらいは揶揄が込められていることも、アデラはわかっている。
そんなアデラは異性はおろか、同性にも敬遠されがちだ。
例外は幼馴染のリズと――それから婚約者のザカライアくらいである。
アデラは、ザカライアのことを決して嫌っているわけではないものの、変なひとだとは思っている。
何度も何度も、たいていはアデラが意図していないささいな言動から「惚れた」と言うのだから、アデラがこの婚約者のことを「変」だと思うのはまあまあ当然の流れではあった。
これが、アデラがザカライアの気を引くためにやったことを、上手くすくい取って言われたのであればまた印象も違うのだろうが、アデラは愛嬌の振りまきかたなどわからない少女だ。
ザカライアはアデラの意図しない言動をなにやらうやうやしく受け取って、そこになにやら惹かれるものがあり、「惚れた」と言ってきている――というのがアデラの側の認識であった。
ザカライアは、まったく本気で「惚れた」と言ってきていることをアデラが認識するのには少し時間がかかった。
アデラは当初、ザカライアは形式的に機械的に、紳士の礼儀として美辞麗句を口にして、それから「惚れた」と大げさな態度を取っているのだと思っていた。
しかしそれが一週間、二週間……一ヶ月と続くと、ザカライアは本気なのだとアデラはようやく理解した。
ザカライアはアデラに惚れていて、それから何度も本気で「惚れた」と言っているのだと。
それを理解したとき、アデラはなんだか叫び出したいような気持ちに駆られた。
アデラがザカライアが本気で「惚れた」と言っているという事実を理解するのに、およそ一ヶ月もかかったのには理由がある。
アデラが恋愛遊戯のひとつもしたことがないような、お堅い令嬢だからというのも、原因のひとつではあろう。
しかし最大の原因はザカライアにあった。……とアデラは思う。
ザカライアは、学園では有名な生徒だった。単に並外れた成績を持っているだけでは、ここまで有名にはならない。
ザカライアはその品行で有名だった。
彼が「惚れっぽい」ことを知らない生徒はいなかった。
学園内で女生徒に「ひと目惚れ」しては、熱烈に口説いて玉砕する……ザカライアのその姿は、ある種学園の名物と化していた。
アデラももちろん、そんなザカライアのお決まりの光景を知っていた。
けれどもアデラは、ザカライアのそんな求愛を受け入れて婚約者という間柄になったのではない。
アデラとザカライアの婚約は、両家の意向によるもの。
自由恋愛の気風が高まる中で、アデラとザカライアの婚約は両者ともに在学中ということもあって、やや物珍しく見られた。
まだ――親世代以前からは特に――身分の釣り合いを求められる空気はあったが、自由恋愛を忌むような風潮はなくなってきている。
アデラの幼馴染のリズだって恋人がいて、このまま卒業すれば結婚することは間違いない。そういう女子生徒は学園内に少なくない。
アデラとザカライアの縁談は、特に強制されたわけではない。
ただアデラが無愛想でこの先も恋人を作れそうにないこと。
ザカライアが「惚れっぽい」わりに一度も恋人を作れていないこと。
そんな、自由恋愛の旗のもとでは永遠に伴侶を作れなさそうなふたりを、「ならくっつけてしまえばいい」とばかりの、親世代のお節介――あるいは子の行く末をを思う親心の、産物。
アデラはそんな事情を、気持ちをよくわかっていた。だから縁談を一も二もなく突っぱねるようなことはしなかった。
だが、学園でも「惚れっぽい」ことで有名なザカライアを婚約者とすることに、アデラがひるまなかったわけではない。
縁談の席でザカライアは、アデラに「ひと目惚れ」した。
けれども「惚れっぽい」ことで有名なザカライアだ。
たとえアデラに「惚れた」としても、きっと舌の根の乾かぬうちに他の令嬢に「惚れた」と口説きに行くに違いない――。
アデラが縁談を受け入れたのは、職業婦人を志していたからだ。
残念ながら、未婚の女性に対する信頼感というものは今の社会にはほとんど存在しない。
アデラは単に「既婚女性」というラベルを手に入れたいがために、ザカライアとの婚約を了承したのだ。
しかし、アデラの予想に反して、ザカライアは縁談の場でアデラに「惚れた」と言ってから、彼女以外に同じ言葉をかけていない。
それどころか何度も何度も、ほとんど無限にも思えるほど、ザカライアはアデラに「惚れた」と言ってくるのである。
ザカライアの愛に懐疑的だったアデラも、こう何度も「惚れた」と言われてしまうと、奇妙な気分になってくる。
ザカライアのことは、決して嫌いではない。
しかしその感情の中に、ザカライアに対する愛情があるのかどうか、アデラは確信が持てなかった。
もちろん、アデラのささいな変化に気づいて、褒めそやしてくれるザカライアに対して、やや戸惑いはあれども悪感情はない。
けれどもザカライア自身に好意を抱いているのかどうかまでは、アデラにはわからなかった。
――単に自分の崇拝者であれば、だれだっていいのではないか?
ささいな変化に気づいてくれて、褒めてくれて、好意を言葉にしてくれて……。
決して、嫌いではない。
しかし、好きなのかと問われれば、アデラは途端に答えに窮してしまう。
ゆえにアデラは、ザカライアとの距離感を測りかねていた。
自分でも、口説き甲斐のない態度を取っているという自覚はあった。
ザカライアと同じだけの情熱を返せもしなければ、抱けてもいない。
こんな調子では、いつかザカライアのほうが愛想を尽かすのではないか。
アデラの中にはそうなってしまえばいいという破滅的な、やけっぱちの気持ちと、そうならないで欲しいと願う、身勝手なふたつの気持ちがあった。
「ああ……なんて素敵なお嬢さん! 貴女とお会いできた幸運……どう表現すればいいか!」
ザカライアのもとへとやってきたアデラを見て、なにやら彼はひどく感銘を受けた様子だった。
しかし肝心のアデラは呆気に取られるばかり。
目をしばたたかせて、広いベッドで上半身だけを起こしたザカライアを見つめるほかない。
いつもとまったく同じ調子のザカライアであったが、その頭部には白い包帯が巻かれている。
ザカライアが屋敷に滞在していた親戚の子供をかばって、エントランスの大階段の上から下まで落っこちた――。
アデラはそう聞いて、ザカライアの屋敷まで使用人を伴い見舞いにやってきたのだ。
そんなアデラを自室のベッドの上で出迎えたザカライアは、いつもとまったく同じ調子に見えた。
「――今、貴女に惚れました! これはまったく本気です!」
しかし恋に目を輝かせるザカライアの瞳の中にいるアデラの顔は、あからさまに戸惑っていたことだろう。
なぜなら、アデラは事前にザカライアが一時的な記憶障害に陥っていることを知らされていたからだ。
もっと簡単に言えば、記憶喪失。
頭部をしたたかに打ちつけたことが原因で、ザカライアは自分のことも家族のことも、周囲の人間のことも忘れてしまったのだ。
もちろん、婚約者であるアデラのこととて例外ではない。
その知らせはアデラの心に小さからざる波風を起こした。
――とにかく、命があってよかった。
アデラはそうざわめく己の心に言い聞かせて、ザカライアの見舞いに訪れた。
ザカライアは「惚れっぽい」ことで有名だった。
記憶を失う前のザカライアは、なぜか何度も何度もアデラに「惚れた」と言っていた、奇特な人間だった。
しかし今のザカライアは、報せ通りであれば自分のことすらわからない有様だと言う。
だからアデラは、そんな風に記憶喪失に陥ってしまったザカライアが、突然現れた婚約者にどんな反応を示すのか――怖かった。
けれど――
「貴女のワタリガラスのような美しい黒髪……理知的な焦げ茶色の瞳……すべてが僕を惑わせる――」
……ザカライアはまったくザカライアだった。
アデラはしばらくザカライアの口説き文句を聞き流しながら、次第に彼が記憶喪失になったという報せそのものを疑い始めた。
しかしザカライアはアデラと初対面のように振る舞っている。
そして口説いている。
「……ああ、ご無事でなによりです……」
アデラは同席していたザカライアの家の執事や、アデラが連れてきた使用人の手前、どうにか形式的な見舞いの言葉を喉から絞り出した。
「私が婚約者だということも忘れてしまわれた様子――」
「――ああ、まったく不幸な出来事です! こんなにも素敵なお嬢さんのことを覚えていないなんて……それは僕にとって最大の不幸と言えるでしょう。けれども、ええ、すぐに思い出しますとも!」
「え、ええ……そうおっしゃっていただけるのは光栄ですけれども、決してご無理はなさらず……」
「ああっ、なんてお優しいお嬢さん! なぜ僕は貴女と婚約している事実を忘れてしまったんだろう……!」
ザカライアは階段の上から下まで落ちたが、したたかに頭を打った以外には奇跡的に軽傷であった。
とは言えどもその「頭を打った」ことが最大の問題であることには違いがなかった。
医師は「恐らく記憶障害は一時的なもので、時間が経てば記憶は戻って行くだろう」との見立てだが、いったいどれほどの時間をかければザカライアの記憶が元に戻るかは、医師にすらわからないことである。
ザカライアはしばらく学園を休んだが、そのあいだに彼の記憶喪失の話は、燎原の火のごとくまたたく間に学内に広がった。
記憶喪失になったザカライアは、生徒たちの注目の的になった……が。
「――元から惚れていたけれど……さらに惚れた!」
ザカライアお定まりの文句を聞いた生徒たちは、みな思った。
――彼は本当に記憶喪失になったのか?
みな思ったので、中にはわざわざザカライアの婚約者であるアデラに直接聞きにくる者もいた。
「まったく、ご立派な野次馬根性ですこと。紳士淑女が聞いて呆れるわ」
アデラは淡々と事実だけを告げ、その代わりとでも言うようにアデラの幼馴染のリズは憤慨していた。
だがアデラは野次馬根性たくましく、事実を問いただしにきた生徒たちに腹を立てることはなかった。
なぜなら、ザカライアが記憶喪失であることに疑念を抱いているのはアデラも同じだからだ。
しかし、学園をも巻き込んでザカライアがアデラを担ぐ理由もない。それは、アデラもよくよく理解していた。
だがそれでも思ってしまうのだ。
ザカライアは本当に記憶喪失になったのか……アデラのことをすっかり忘れてしまったのか。
けれども、アデラの穏やかならざる心中などまったくザカライアにはわからないらしい。
当たり前である。胸中にある思いなど、言葉として口にしなければ、他人にとってはないこととほとんど同じなのだから。
「――ああ貴女の黒髪に映える髪飾りの、真珠のひとしずくのきらめき。さながら貴女のためだけにあつらえられた神の奇跡……」
ザカライアは周囲の好奇の目などなんのその。
毎日アデラのささいな変化に気づき、褒めたたえ、そして「惚れた」と言う。
それはザカライアが記憶喪失になる前と、まったく変わり映えがなく、次第に生徒たちは以前と同じようにザカライアには興味を示さなくなっていった。
「ねえリズ、ザカライア様は本当に記憶喪失になってしまったんだと思う?」
「ええ? 難しいことを聞くわね。婚約者であるアデラにわからないことが、わたしにわかるわけないじゃない。それにわたしはお医者様じゃないし、ザカライア様でもないから、なおさらわからないわよ」
アデラは思い余って幼馴染であるリズに問うたが、返ってきたのは至極もっともな答えであった。
アデラは「そうよね」と言った。それはアデラ自身に言い聞かせるような言葉でもあった。
……けれどもひょんなことから、アデラはザカライアの記憶喪失を確信することになった。
「――貴女に薔薇を」
アデラは、屋敷の庭に設置された白い柱のガゼボでザカライアを待っていた。
そこに時間通りに現れたザカライアは、立派に咲き誇る薔薇の花束を手にしていた。
ザカライアは、花盛りの娘であるアデラよりも、よほどロマンチストであった。
こうして大仰に花束を差し出すことは、特段珍しいことではなかった。
そう、以前にもこんなことはあった。
「赤い薔薇よりも白い薔薇よりも、この優しいピンクの薔薇が貴女に一番似合うと思って――」
……ザカライアは記憶を失う前も後も、アデラに何度も「惚れた」と言ってくる。
しかし、それ以外では決して同じ手を二度使ってくることはなかった。
だからいつだってアデラはザカライアから毎回違う花束を、そして別の賛辞の言葉を受け取ることになっていた。
アデラは覚えていた。
情熱的な赤い薔薇でもなく。
貞淑清楚だが、ともすればどこか冷たくも感じられる白い薔薇でもなく。
柔らかで優しい色合いのピンクの薔薇……。
かつてザカライアは、そんなピンクの薔薇がアデラには一番似合うと差し出してくれた。
……つまり、今目の前にいるザカライアは、事故以前のアデラのことをまるっと忘れてしまっている。
いや、たしかにアデラはそう知らされた。報せを受け取って、ザカライアの見舞いに訪れた。
けれどもザカライアは、まるきり以前と同じように見えたから、アデラは彼の記憶喪失を半ば疑っていたのだ。
だが今ここでその疑念は、はっきりと否定されてしまった。
ザカライアは、アデラのことを覚えていない。
今ここにいるザカライアは、アデラのへたくそな笑顔を褒めてくれた彼ではない。
アデラは赤子のときから手のかからない、いい子だと言われてきた。
大人しい、いい子……。その評価にアデラだって誇らしい気持ちになった。
けれどもその評価が、次第にアデラを鉄の仮面をつけたかのような、笑わない少女にした。
気がつけば、上手く笑えなくなっていた。
だれが悪いというわけではない。
一番悪いのは、勝手に他人からの評価に縛られている自分……。アデラはもちろんわかっていた。
でも鏡に映る、笑ってみた自分の顔はひどく不細工に見えて、アデラは他人の前で笑顔を見せないようにしていた。
ザカライアの前で笑顔を見せてしまったのは、彼の言動があまりに奇妙だったからだ。
失礼だと怒られても、仕方がないような状況だった。
それでも奇妙な笑いが心の底から込み上げてきて、アデラの口元は奇怪に歪んだ。
アデラはザカライアに誤解を与えてしまったと思って、とっさにうつむいた。
けれどもザカライアは言った。
「――元から惚れていたけれど……さらに惚れた! 貴女の無垢な笑顔を受けることの、その至上の喜び……僕は一生忘れられないだろう!」
アデラは呆気に取られた。
隣に座っていたアデラの父親も、娘の失笑を諫めることを一時的に忘れてしまった。
そこは縁談での席だったので、ザカライアの父親はあわててどうにか息子の奇怪な言動をフォローしようと汗をかいていた。
けれどもアデラはそれがきっかけで、ザカライアとの縁談を受け入れようという気になったのだ。
だけど、今アデラの目の前にいるザカライアは、アデラの笑顔を知らない。
アデラはその事実をたしかめて――なんだか猛烈に悲しくなった。
鼻の先と目頭が熱くなって、ぼんやりと視界が歪んでいく。
目の前にいるザカライアの姿が、周囲の景色に侵食され、潰されて見えなくなっていく。
ぽたり。
アデラのまなじりから涙が落ちた。
「アデラ嬢?!」
ザカライアが珍しく狼狽する声が、うつむいてしまったアデラのつむじに当たるようだった。
アデラは、ザカライアに言わなければならないと思った。
――貴方を、愛している。
どこか、アデラはザカライアにそう言うことを避けていた。
それを口にしてしまえば、ザカライアが喜ぶだろうことはわかっていた。
けれども同時に、そうすればザカライアとの婚約が後戻りできないだろうということも、わかっていた。
アデラはそれに臆して、ザカライアへの愛の言葉を口にすることを避けていた。
しかしザカライアは、これまでアデラに告げてきた愛の言葉をすべて忘れてしまった。
「私、私……貴方のことを愛している……」
ザカライアが呆気に取られる様子が、空気を伝ってくるようだった。
当然だろう。突然泣き出して、突然うつむいて、突然――愛を口にして。
まったく支離滅裂で、これまでのザカライアの言動の数々をアデラが笑うことはできないだろう。
「ごめんなさい。でも、ここで言わなきゃって思って。私――貴方をどうしようもなく愛してることに、気づいた」
アデラはもどかしく感じた。
ザカライアへの気持ちは心の底から、次から次へとあふれ出てくるのに、それを十全に、上手く伝えられる言葉を知らない――。
ザカライアはあんなにも豊かな語彙と表現力を持って、アデラに賛辞を送り、愛を言葉にしていたというのに。
「好き。愛している」
アデラといったら、このふたつの言葉を繰り返す以外の、求愛の方法を知らない。
アデラはもどかしさを噛み締めるように、下唇をやわく歯噛みする。
「アデラ嬢――本当に、僕のことを゛……?!」
――ぬかるみを踏みしめる音がした。
同時に、ガゼボの柱に硬い物が当たる音がして、ガゼボ全体が軽く揺れる。
それからうつむいていたアデラが顔を上げる前に、その視界にザカライアの後頭部が転がり込んできた。
「――お、お医者様を! ザカライア様が倒れて……!」
……前日までの大雨でできたぬかるみで足を滑らせたザカライアは、運悪くガゼボの柱に頭を強くぶつけて、気絶したのだった。
そして次に目を覚ましたとき、なんとも不思議なことにザカライアはすべての記憶を取り戻していた。
それから、もちろん自分が記憶喪失だったあいだの出来事も覚えていた。
アデラにとっては都合が悪く――いや、都合よく? ザカライアは記憶喪失だったあいだの出来事も、しっかりと覚えていたので、そのあとのことは大変だった。
「婚約者の状態であと一年待たないといけないなんて耐えられない! 今すぐ結婚しよう!」
アデラとザカライアは、もともと両者が学園を卒業したら結婚するという取り決めで婚約していた。
しかしアデラの愛の言葉を聞いたザカライアは大喜び……というか大興奮。
今すぐ結婚しよう、同居しようと大騒ぎして、ザカライアは父親に叱られ、落ち着きのない言動を大いに嘆かれた。
「ザカライア様、私、今回の一件で己の不徳を実感いたしました。ですから、結婚はあと一年、お待ちください」
なにか言いたげに身を乗り出したザカライアを、アデラは制して続ける。
「――私、もっともっとザカライア様への愛の言葉を学び、身につけたいのです。ですから結婚はあと一年、お待ちいただけないかと……」
ザカライアは納得がいかない様子だったが、ほかでもないアデラの頼みだったので、渋々承諾した。
そんなアデラとザカライアの関係性を見て、父親たちはこの未来の夫婦が案外と上手くやっていけるのではないかと思ったのであった――。