第88話 示唆と遁走
水ではない謎の液体で作られた水たまり。
ミルナさんがそれを見るや否や、苦しみだしーー倒れた。
その突然さに、俺はその様子を見てることしかできなかった。
「ミルナさん? ミルナさん!?」
呼んでも、肩を揺さぶっても返事がない。
意識がない。
この水たまりから悪いガスでも出てたのか?
いや、だとすると俺に異常がないのはおかしい。
それとも魔法か何かが仕組まれてたのか?
……いや、考えるのは後だ。
想定外のことが起こった以上、何が起こっても不思議ではない。
このまま放っておくと、彼女もゾンビになってしまうかもしれない。
それは避けなければ。
させてたまるか。
ひとまず、意識がない彼女の体を担ぐ。
驚くほど華奢な体は、想像以上に軽かった。
これなら、小走りぐらいはできそうだ。
周りに聳え立つ壁に沿って出口を探す。
入ってきた方面とは違う出口になってしまうが、今はできるだけここから離れることだけを考えよう。
墓地から出れば、なにかしら騎士団が待機してるはずだ。
ミルナさんの状態はわからない。
息はある。
苦しそうに呼吸はしている。
ただ意識を失っているだけなのか、それともーー
だが、さっきの少女の母親は何の前触れもなくゾンビになった。
となると、ミルナさんの症状はゾンビ化とは違いそうだ。
だとすると、何をされたんだ?
考えながら走っていると、ようやく出口が見えた。
地面を這いずっているゾンビの腕を避けながら、時には蹴って無理やり道を切り開きながら、なんとかそこへ飛び込む。
1つ塀を超えただけで、地獄絵図だった光景が平和やものへと変化した。
静かなで綺麗な街並みだ。
それを確認した後に、一度振り返る。
すると、腕1本の力だけでどうにか俺のことを追いかけようとしているゾンビたちが目に入った。
確かに、あんなにもゾンビがいるのならデカい魔法を使うのも納得できる。
……とりあえず、騎士団長がいたところへ向かおう。
そうすれば、この症状が何なのかわかるかもしれない。
時は一刻を争う。
だからこそ、出口を潜ると周りの確認も碌にせずに北方向へと走り出した。
「ちょ、待って待って! 生存者を見つけたなら僕に報告してください!」
すると、後ろから呼び止められた。
振り返ると、全身を白銀の鎧に包んだ騎士の1人がいる。
だが、あくまでもその役目は出入り口の監視のようで、ミルナさんを何とかしてくれるようには思えない。
時は一刻を争うのに。
しかし、ここで変に逃げたりしても余計にめんどくさいことになるのは目に見えている。
ならしょうがない。
「生存者じゃなくて、一緒に探索してた騎士のミルナさんが意識を失いました!」
そう言いながら抱えていたミルナさんを見せる。
彼女の役職がなんなのかはわからないが、それなりの立場なら顔を見せればわかるだろう。
「意識を失ったってーーまさか、ラーレスク様!? 容態は? お怪我はありませんか!?」
抱えた彼女を見るなり、この騎士の反応が驚くほど変わった。
「怪我はないですが、突然意識がなくなって……」
「原因は?」
「それが、わからないんです。ただ、墓地に何かの液体が溜まっていて、ミルナさんはそれを見た瞬間に倒れました」
「わかりました。でしたら治療班のところへ向かってください。この付近では正面入り口ーー」
そこで、互いの会話は中断された。
それどころではなくなったからだ。
俺もこの人も、同じところを凝視している。
俺と、この人の間の空間に1つの影が生まれていた。
数秒前までは無かった。
なんの予兆もなく突然生まれたものだ。
当たり前だが、太陽がこんなにも早く動きを変えるわけがない。
新しく光源が生まれたわけでもない。
そしてこの方向ーー
「屋根の上か!」
墓地の周りは塀で囲まれており、塀の周りには道がある。
そしてその道の向かいに、ようやく家が建ち並んでいる。
この影の大きさ、太陽との角度。
間違えなく、その家の上に影を作りだした何かが現れたことになる。
それしかない。
だが、肝心の屋根の上を見ても何もなかった。
順に家を目で辿っていくが、やはり異変と呼べるものは何もない。
「来てます!」
騎士の叫びが耳に入り、ようやく目線が移る。
この人が見ているのは、俺……の背後。
影を作ってから、俺が振り向くまでの間にここまで移動したのか!?
この騎士の人は……ダメだ。戦いが得意なようには見えない。
この状況においても、戦闘の意識よりも先に驚きが優っている。
腰に付いている剣を抜こうともしていない。
かと言う俺も、ミルナさんを抱えているせいで戦うことはできない。
気づけば、それを瞬時に判断して体を動かしていた。
振り向くのが遅いのなら、いち早く逃げるしかない。
なにせ、俺が死んだら、ミルナさんまでーー
「なんだ、やるじゃん」
その声が聞こえても、俺は止まらない。
「あーあ、せっかく驚かしてやろうと思ったのに」
止まってはーー
ってあれ?
この声聞いたことあるぞ?
ようやく思い当たり、足を止めた。
「よ、少年。いい反射神経持ってるな」
俺のことを少年と呼ぶ人は1人しかいない。
「……ユカさん、こんな時に嫌がらせはやめてください。本当に心臓止まります」
「ごめんごめん、ちょっとからかってみただけだって」
悪気しか感じられない彼女は、後頭部を掻きながら軽く謝ってきた。
いや、俺は別にいいんだけど、大丈夫じゃなさそうな人がこの場に1人いる。
その1人は、顔から怒りが漏れ出していた。
「えっと、お知り合いですか?」
「まぁ一応」
「少し言わなければならないことがあるのですが、よろしいですか?」
「ご自由にどうぞ」
「そんなことより少年! いや、騎士様! ちょっと手伝ってほしい。今すぐに」
騎士が言おうとしていることがわかったのか、ユカはすかさず話題を切り替える。
そして墓地から離れる道に指を指した。
「首謀者の可能性がある2人組がこの先で逃走してる。私の仲間の1人が追ってるから、この道で待ち構えて3方向から挟み討ちたい」
「そんな重要な時に、あなたは何をふざけたことをやっていたのですか! さてはこれも誤魔化すための嘘ですね!」
ユカの口から出た驚くべきことに、騎士が反論した。
彼の言うことはごもっともだし、なんなら俺もそう思う。
「だから謝ったじゃんか」
「謝ればいいと言う問題ではーー」
「時間がない。頼む」
「ーーっ!」
普段ふざけているユカが、強めに言い放った。
その言葉に、騎士も何かを感じたようだ。
「ま、話戻すけど騎士様に手伝ってほしいんだ。少年に頼もうと思って探してみたけど、手が塞がってるしな」
ユカの言う通り、俺は今木を失ったミルナさんを抱えている。
一刻も早く治療班のところへ行かなければならない。
ということでこの場で手伝えるのはこの騎士だけだが、彼は返事をしなかった。
額からダラダラと汗を流し、足は震えている。
呼吸も乱れ、目も俺たちから背いたままだ。
顔に浮かんでいるのは、恐怖だ。
よく知っている。
ここ最近で、1番お世話になった感情だ。
この騎士は、俺と同じなのだ。
「ぼ、僕ではなくお二人で行ってきてください。知ってる仲の方が、作戦も進行しやすいでしょう! ラーレスク様は僕が責任を持って届けます。必ず救いますので、ご心配なく!」
そい言いながら、騎士は俺の腕から無理やりミルナさんを奪った。
「だそうだ。少年、頼めるか?」
ユカは、次に俺へと尋ねる。
それは、騎士である彼が役に立たないと悟ったからかなのか。
目の前にいる彼は逃げたのだ。
戦うことから。
恐怖から。
「俺のできる範囲でなら」
「流石は少年! この先を真っ直ぐ走った突き当たりで追い詰める予定だから、そこまで全力ダッシュだ。そしたらおそらくそこで戦闘になるから援助
「え、この距離を?」
「そんじゃよろ!」
「ちょ、え? 待っ……」
最低限の説明を終えると、ユカは家の外壁の引っ掛かりを器用に使ってすごい速さで屋根に登って行ってしまった。
えっと、この距離を走って……えぇ、まじか。
にしても、この説明の大雑把さ。性格こそ違うがレイナに似てる。
ゲイルも大変そうだな。
そう思ってから、1度騎士の方を見る。
彼の足は今でも震えていて、でもミルナさんのことは丁寧に抱えている。
目には涙を浮かべていて、しかしそこにある感情は恐怖よりも悔しさの方が正解に思える。
確かに、思うことはある。
俺の理想にあった騎士とは違うし、その行動は実際の騎士とも似つかないように思えた。
それでも、俺は彼を責めることはできない。
恐怖から逃げるのはわかる。
俺だって逃げてきた。
彼の行動は騎士としては間違いでも、人間としては正解だ。
怖い。
逃げたい。
けど、知っている。
ここから逃げても、いいことはない。
逃げた先では全てが終わっていて、
もう取り返しがつかない。
残るものは後悔で、常に罪悪感が心を蝕んで、そしていつまでも苦しむ。
それを、俺は知っている。
だから、行くしかないのだ。
仲間に頼られたなら、やるしかない。
失いたくないものを作ってしまった以上、やらねばならない。
だからこそーー
「ミルナさんをお願いします。さよなら」
逃げていた自分をこの騎士に重ね、言い放った。
弱い自分を消すために。
何もできなかった俺と決別するために。
そして、彼の返事を聞かないまま走り出した。
けれど、返事が返ってくることはなかった。




