第55話 接近と作戦
ようやく貰えた水で、口を濯ぐ。
口の中に溜まっていた気持ち悪い感触が、少しずつ流れて消えていった。
水を口に含んでは、吐き出す作業を繰り返しーー
「せっかくの貴重な水が」
「いや、これはしょうがないって。悪かったな、少年」
相変わらず男の方は、俺への当たりが強い。
けど、確かにこの男の言っていることも事実であり、洞窟の中で水というのは貴重な物だ。
一応、所々に水が溜まった空間があるらしいが、何の当てもない状態でそれを探すとなればほとんど自殺行為だ。
勿論、俺もポーチの中に買っておいた水筒を入れていたのだが……ポーチは何処かに落としたらしく、今は彼らの水を使うしかない。
……対して気になるのは、やはり女の方だ。
男の表情は、見ていて明らかすぎるほどわかりやすい。しかし、彼女の方は何故か常に楽しそうにしている。
俺への待遇も、そこまで悪くはしていない。
恨んでいるのか? 怒っているのか? 気にしていないのか?
それとも、これも罠の1つなのだろうか……?
わからない。
何を考えているのか、どんな感情を抱いているのか。
それに、もう1つ気になるのはーーこの国では見かけない黒髪に、手に握られる刀。
どちらも、日本を思わせてくる。
ーー日本という国を知っていますか?
聞くのは、その言葉を声に出すのは簡単なはずなのに、この状況がそうさせてくれない。
変に喋っただけでも、どうなるかわかったものじゃない。
少なくとも、悪い方にしか働かないだろう。
いつか、それを聞ける機会は……来るのか?
俺はーーいや、俺だけじゃない。
後方で何かを話し合っている彼らが、無事に帰れるかすらわからないんだ。
……レイナなら、やりかねない。
他人を捨てることができるなら、他人を切り裂くこともきっとできるはずだ。
もう、あの濁った瞳の裏で、何を考えていたかなんてわからない。
知りたかった彼女の本心も、知らないままだ。
けど、知る必要なんてすでに無くなった。
「立て。あと、水筒は地面に置いて数歩下がれ」
そんな俺に、命令のような強い言葉が飛ばされた。
いや、実際命令だ。
拒否権なんて存在してない。
言われた通り、持っていた水筒をそっと地面に置き、手を軽く上げて数歩後ろに下がった。
口の中の終わっていた感触はすでに無くなり、その代わりに近くの地面には汚い胃液の水溜りができていた。
すると、即座に男が水筒を回収して俺の後ろへと回る。
相変わらず、俺の視界に映るものは洞窟の先に広がる暗闇だけになった。
「よし、ならさっきと同じように進め。スピードはもうちょっと上げーー」
「ちょっと待って、ゲイル」
「……なんだ?」
「従属で少年を動けないようにはできるか?」
「まぁ、少しなら」
「じゃあやってくれ。それからこっち来て」
後ろから聞こえた短い会話が終わると、急に全身が締め付けられた。
両手首、両足首、そして首が何かで繋がれて、締め付けられるような感覚だ。
動かそうとしても、うまく動かせない。
だが、実際にそうなっている場所を見ても、縄みたいなものは見られない。
ただ、まるで透明な縄でもあるかのように、肉に何かが食い込んでいた。
つまり、俺1人じゃ動けないというわけだ。
しかも、荷物どころか、武器すら持っていない。
そんな状態で、逃げ出そうとすればーー
とにかく、悩んでいるこの間ですら、選択肢など存在するしない。
どこか抜けているような感情的な男と、感情も考えていることもよくわからない女。
片方が見落とすような弱点を、もう1人が補っている。
常に抜け目がなく、全く隙ができない。
本当に、羨ましいぐらいに……
だから、そんな2人の前で逃げ出すなど、それこそ不可能というものだろう。
だから、俺にできることはーー
後ろの方から、僅かに声が漏れている。
紛れもなく、あの2人の声だ。
目を閉じ、耳を傾けて、慎重にその言葉を拾っていく。
「ここからは、いつ敵に見つかるかーー」
「コイツを会わせていいのか? 何をするか…………」
「それを見極めればいい」
「わかるのか?」
「ああ。嫌になるぐらい見てきたからな。もしそうだったらーー殺すしかない」
そこまで距離が離れていないからか、それともこの空間が静かすぎるからか、ところどころ聞き取りづらかったものの話していることはわかった。
そして、最後に力強く言われた言葉。
ーー殺すしかない
それを言ったのは、女の方だった。
躊躇いもしないで人にナイフを刺し、なのに笑いながら俺の状況を良くしてくれている。
狙いは何だ?
全く意味が、彼女という人間が理解できない。
もしかして、この会話もわざと聞こえるように喋ってるのか?
1度疑い始めると、全てが怪しく感じてしまう。
何もかもが違い、正しいものなんて無いように思えてしまう。
だから、うっすらと耳に入ってくる言葉達を無視することにした。
どのみち、捕まったままだったら命はないーーそう考えた方がいいだろう。
たとえそうではなかったとしても、いい未来なんて待ってるわけがない。
やはり、一刻も早くここから逃げないと……
その考えに至ると同時に、無視できない疑問が脳裏をよぎった。
ーーどうやって?
そもそも、この隷属魔法とやらがある限り、逃げるのは無理だ。
しかも、武器どころかライトすら持ってない。
それで、この暗闇……いつ敵が出てきてもおかしくない洞窟を進むのは無理がある。
だからそれができるタイミングはーー地上に戻った時か、レイナと合流した時の2つだけだ。
「待たせたな。出発するぞ、少年」
「急ぐからとっとと歩きな」
俺の考えがまとまる前に2人はしっかりとこれからの作戦がたてられたらしい。
放たれた言葉に従い、戦闘を先ほどよりも早めのペースで進んでいく。
今回は、さっきの落ちる感じの移動手段は使わないんだーーと少し思ったが、おそらく魔力的な限界があるんだろう。
怪しまれないように注意しながら、再び思考を繰り返す。
今の時点で、俺だけで助かるのは大分無理がある。
かと言って、ミルナさんあたりが城から助けに来るというのは現実的ではない。
レイナもーーどうせ、助けてくれたりなんかしない。
それに、あの時切り捨てた相手を、わざわざ助けるはずない。
彼女は、そういう人間だ。
そんな奴の助けなんか、必要ない。
ーー思考を巡らせても、やはり頼れるものは何もない。
やはり、俺だけでどうにかするほかなさそうだ。
どうにかって……
自分で考えておいて、かなり無謀だ。
もっと簡単な言葉で言ってしまうと、無理だ。
状況は詰み、とっくにゲームは負けている。
それが現状で、現実だ。
どう考えても、方法なんてない。
あとは、彼らが無事に返してくれることを祈るだけ。
前々からわかっていたはずの結論が、しかし気づかないようにしていた結論が、ここにきて前に立ち塞がる。
避けようがなく、向き合わなければいけない距離まで迫っていた。
……向き合ったところで、もうどうにもならないのに。
だから、きっとこれは諦めろということなんだ……
向き合うべきなのはこの現状ではなく、俺の死だ。
死を、受け入れる覚悟をしないといけない。
もう、そんなところまで進んでしまっているのかーー。
前を向いていた顔が地面を向き、視界も足元しか移さなくなる。
どうせ、正面を向いたところで先は暗闇だ。
何の意味もない。
目から、光が失われているのがわかる。
瞳が乾いているようで、瞬きしてもその感覚が治ってくれない。
「勝手にペースを落とすな。止まればお前は犬の餌だ」
そんな後ろの声に、素直に従った。
歩くペースというのは、意外と自分じゃわからないものだ。
……というか、この世界にも犬っているのか。
死ぬ前に、見てみたいな。
まさか、あのオオカミのことだろうか?
できるだけ余計なことを考えないため、どうでもいいところに思考を割く。
そうしなければ、悲しいのか、怖いのか、虚しいのか、それすらもわからないまま涙が出そうだった。
立ち止まって、うずくまって、声を出して泣きそうだった。
それができないように、必死に頭の中をどうでもいいことで埋めていく。
何も考えないように。
「にしても、もう1人の方はよっぽど逃げ足が速いな。若干寄り道したとはいえ、アレでもまだ間に合わないとは….…」
「けど、私たちのピースはもう揃ってる。後は、確かめるだけだよ」
こうやって歩く時間ももう僅かとなると、どこか寂しくなってくる。
生ているということは、いつか死ぬということなのに、それを実感するのは初めてな気がする。
それほどまでに、日本は平和だった。
帰りたい。
戻りたい。
平和な世界へ。
理想の世界へ。
「止まりな」
その声はどちらが発したものだっただろうか?
それほどまでに突然のことだった。
振り返る余裕すらないまま、正面をじっと見つめる。
ーーなんだ?
何かいるのか?
レイナ……なのか?
先の見通せない暗闇の中を凝視する。
だが、やはり壁と闇以外に見えるものはない。
「何かいるな」
「ああ」
「ゲイル、この先は?」
「遺跡のはずだ。それも、かなり広い」
「っていうことは、大物が潜んでるってこともあり得るか」
「敵はここを通ったのか!?」
「でも、事実ここ以外に通れる場所はない。気配を消す魔法が使えるのかもしれないな。……ゲイル、遺跡までは?」
「100メートルもない」
「向かってくる気配は……ないな」
「けど、どちらにせよここは通らないといけないってか?」
「残念だけどそうなる。ーー少年、命令だ。さっきと変わらないペースで進んでくれ」
後ろから、不穏な会話が聞こえた。
俺からすると、前にあるのは暗闇だけだがーーベテランからすると何かが見えるらしい。
だが、会話を聞く限り、姿がわからないのは全員一緒のようだ。
そんな状況で、先頭をを進むのはだれか?
決まっている。
1番死んでもいい人物だ。
「安心しな、少年。今のうちは死なせはしないよ」
後ろからそんな頼もしい女の声が聞こえてきたが……今はそれすらも、嘘だと思えて仕方が無かった。




