0日目:懲りない悪党の話-1
「うん、今日はいい釣り日和だ」
男はにこにこ笑ってそう言って、釣りざおをのんびりと支え直した。
「君もそう思うだろ? そんな奇行に走ってないで釣りでもすればいいんだよ。釣りはいいぞ。人生のだいたいの悩みは、釣りで解決する」
「……皮肉で言ってるのかテメエ。だいたい、この状況で釣りもなにもあったもんかよ」
声をかけられた俺――ライナー・クラックフィールドは、ぜえぜえと荒れた息を整えながらそう言って、頭をぶるぶるぶる、と猫みたいに揺すって水を振り落とした。
まあ、焼け石に水……いや、水が問題なのだが。とにかくずぶ濡れなので、多少ぶるぶるしたところでどうにもならない。
大雨が降っていればそういうこともあるだろうが、この小憎たらしい男が言うように今日は快晴。
(まあいいや。晴れてる以上、そのうち服も乾くだろ)
それより大きな問題は、いま俺の視線の向こうにいるそいつだった。
いや、話しかけてきた男ではなく。
ワニだった。
体長が人間の背丈より大きなワニが、実に不服そうに口を半開きにして、俺をにらみつけている。
なんでそこにワニがいるかって? 俺が聞きたい。が、いま俺にさしたる傷がないのは、そいつを下にして地面に着地したからである。
……話を少し戻すと、つまり俺はこの水道を、もっと上流の地下水道から、ワニと格闘しながら流れてきたのだ。
そしてここで、ワニの謎跳躍によってもろともに水中から地面に放り出され、なんとかワニが下になるように踏んづけて着地し、距離を取っていまに至る。
周囲の釣り人はみんな怖がって逃げ出したのだが、なぜか一人だけ、釣りスタイルを一切放棄しないまま陽気に俺に話しかけてきた男がここに。
たぶん水しぶきとかすごかったと思うし、騒ぎで魚とか全部逃げてると思うんだが、釣り男はのんきな風体で釣りざおを抱えたままだ。
つまるところ、
「奇行に走ったことは認めないでもないけど、奇人は誰かっつう話なら俺じゃなくておまえだよな、これ」
「いやあ、はっはっは」
男は一切気にした風もなく笑い、そうこうするうちにワニはずるずると、水路に戻っていった。どうやら地上でまで格闘戦をする気はないようだ。
「今度からあの地下水路は逃走経路に選ばないようにしよう……」
あんな怪獣が居座っているんじゃ命がいくつあっても足りない。ていうか、誰だあれ放流した馬鹿は。
おかげで今日の戦利品は全部川に流された。泣きたい。
「おや、逃げてきたのかい、君は」
「まあな」
「なにかやましいことでもあったのかね。いかんぞ。釣りでもして落ち着きたまえよ。釣りはいいぞ」
「その釣り推しがなにから来てるのかはよくわからんけど、俺は落ち着いてるし余計なお世話だ」
「落ち着いて逃げようとしてこの騒動かい。ずいぶんと将来は大物になりそうだね」
「おうよ」
俺はキレッキレの決めポーズを決めて、
「俺はライナー・クラックフィールド。将来は世紀の大悪党と呼ばれる男さ!」
びしっ、と考えておいた決め台詞を言った。
……ぼたぼたと身体中から水を垂らしながらで、まったく決まってない風体なのは、この際見なかったことにしとく。
男はそれに対してふわぁーあ、と気の抜けたあくびをして、言った。
「悪党に憧れてるのかい?」
「悪党じゃねえ。大悪党だ」
「規模の問題なのかね」
「小悪党になるつもりはないんでね。狙うならビッグなところよ」
「だがなんで悪党なんだい? 生きづらいだろう、それ」
間延びしているようで、妙に鋭いような、不思議な声で男は言った。
俺はその言葉に、少し考えて、
「ビッグになるなら、正義より悪党の方がかっこよくねえ?」
「まあ、それはそうだろうねえ」
「じゃあそれで十分だろ」
「いや、でもそれは要するに、しんどさの差なんじゃないかね。
大正義には味方がたくさんいるが、大悪党には普通、味方がいない。それでも生き様を貫くなら、そこに美しさが生まれる。けどまあ……」
言いながら男は、ぱしゃっ、と竿を跳ね上げた。
その先の糸には、びっくりするくらい小さな川魚が一匹、ひっかかっている。
「釣れた釣れた。よしよし、これでオケラは逃れたぞ。よーし」
「いままで釣れてなかったのかよ。ていうか、それ以前にこの川の状態でよく釣れたな。
……じゃねえ! 意味深なところで話を中断すんなよ! 気になるだろ!」
「あっはっは。そうだねえ。
……あれ、なんの話してたっけ?」
「俺が世紀の大悪党になるって話だ」
「あー。がんばってね」
「消化不良すぎる!」
「まあ待っててくれよ。僕はいま、人生初の釣りを存分に楽しんでいるところだ。えっと、針をはずしてバケツに入れて……」
「しかもあれだけ釣りを推しといて人生初かよ!」
こいつ自由すぎる。悪党よりやべーんじゃねえのか。
俺がわなないていると、
「さて、ライナー・クラックフィールドくんだったね」
「ライでいいぞ」
「ライ、君にちょっとしたお題を出そう。まあ、なぞなぞのようなものだと思ってくれたまえ」
「なんだよ。いまそういう気分じゃねえんだけど。今日の晩飯のアテもないし」
「魚でいいならごちそうするよ?」
「あのしょぼい川魚はいらない」
「あ、そう」
ぜんぜん気にしてないように男は言って、それからこう続けた。
「君の目の前に一人の女の子がいる。彼女は病気を患っているが、その病気は伝染性で、彼女自身は丈夫だから死なないが放っておくと百万人が病気で死ぬ。
病気の拡散を防ぐ手段は彼女を殺すことしかない。しかしこのことを知っているのは君一人で、ちょうど君の手にはナイフがある。どうするかね?」