シロツメクサ
お題
・風呂
・爪
・月
背中に爪痕を見つけた。三日月みたいな形をして赤くなっていた。私のものではない、大きくて広い、筋張っていて硬い背中。「誰の?」訊いてみるとああ、あいつのだなと彼は簡単に言う。結婚してるのは知っていた。でも奥さんの写真は見たことがなかったし、それは実感として私を捉えなかった。私はただ魅力的だと思っていた仕事の上司、年上の男性に誘われて、舞い上がっていた。遊ばれているのは知っていたしそれでいいとも思っていた。一貫して勉強ばかりでお堅かった私にとってはじめての火遊びはとても楽しくて可笑しかった。
彼はその爪のあとに対して気を払っていない。いつもどおりに手慣れた調子で私の包みを取り払い、中身を撫でる。しゅるりと、ただの布切れが床に落ちる。唇をあわせながらバスルームのドアを開ける。大きな手がボディソープを擦り合わせて泡立てる。私の身体に触れる。いつもと同じ手の感触に、でも私はいつもほど夢中になれない。背中の爪痕の意味なんて女ならわかる。“見たよね? 気づいてるよ”という顔も知らない人からのメッセージ。
浮気の慰謝料の相場は少なくて五十万、多くて三百万だという。
私は誘われた側だ。けれどすでに何度も会っていてこの関係を楽しんできた。被害者だ、と言い張るのは無理があるだろう。警告に留めてきたあたり、おそらくいまの関係を清算するなら許してやると言われている。私を撫でるこの手に最大三百万の価値はあるんだろうか。ない、と言いたい。言い切りたい。
でもいまさら一人はさみしくて私は私を撫でる誰かの手を必要としている。
こんなにも不誠実で、心を乱す。
大きくて筋張ったこの硬い手のひらと背中を。
お題見た瞬間にこういうシーンしか浮かばなかった。