海が見える家
「お元気ですか。お久しぶりです。私は今、南の島の海岸線を前にして、この手紙を書いています。
はるか水平線のかなたに溶けていく真っ赤な太陽。鏡のように凪いだ海はもうすぐ夜を迎えようとしています。やがて海面は濃いブルーに染まり、空は無数の星で埋めつくされるでしょう。
今日もこんな光景を目の当たりにできると思うだけでも、心中は幸福感でいっぱいです。もし寒くなかったら今晩、誰もいない砂浜を月明かりを頼りに少し散歩してみようかなとも思っています。
ここに来て、もう半年になります。すべてを投げ打って着の身着のまま流れ着いたようなところです。どこを目指すわけでもなく、大海原を漂うひとつの椰子の実のような私が流れ着いたところです。
それでもまあ何とか生きていけるものなんですね。半ば死んでも構わないとまで思っての旅立ちだったのに。
あのときはあなたに何も言わずに出て行ってしまい、ごめんなさい。あなたはきっと怒っているかもしれませんね。それも仕方ありません。どう見たって悪いのは私ですから。だまっていなくなるなんて自分でも最低な人間だと感じています。
けど、しょうがなかったのも事実です。あとで説明しようと思いますが、とにかく私にはこうするしかありませんでした。自分が記憶するところから一刻も早く消えてしまいたかったのです。
あの後にあなたはもしかしたら電話やメールをしてくれたかもしれません。
でもごめんなさい、出られなかったし、返せませんでした。ただ決してあなたを憎んでそうしているわけじゃないってことは信じてください。
携帯電話は東京の空港で捨てました。
さて、話を南の島に戻します。
東京から飛行機や船を乗り継いで数日かけてたどりついたのは、日本人の誰もいないような小さな島でした。
島の中心街に建つホテルで2日ほど過ごしている間にーーそれにしてもこの2日間は本当に暑かったのですーーどこか家でも借りてしばらく暮らしてみることを本気で考えました。だってこのままずっとホテルに泊まっていられるほどお金があるわけではないし、とはいえ日本に帰るつもりなんてまっぴらありませんし。
ただ、この時点ではこの島が自分に適したところなのかはっきりとはわかりませんでしたーー悪くはなさそうな感触があるくらいでした。
幸いなことに、島にひとつしかない不動産屋で古い民家の賃貸物件を見つけることができました。東南の海岸に面した築50年は超えているであろう、小さな木造の平屋建てです。不動産屋さんが言うには、不便なところも朽ちたところもたくさん目につく家ですが、まあよしとします。なんてったって家賃が格安なんですから。
それに私が驚いたのは、その家を訪れたときの、奥の寝室の窓から見えた海の景色です。果てしなく長くて真っ白な砂浜とその先にあるコバルトブルーの大海原。この景色を見たときの感動は今でも忘れられません。なんてったって生まれて初めて、生きている自分に感謝したぐらいですから。これが私の求めていたものだったんだって直感でわかりました。
それに、私が家に着いたとき、門のわきで待っていてくれた大家さんがとても気さくで親切なおばあちゃんだったことも、私がここに住むことを決断する大きな後押しとなりました。彼女とはすぐに打ち解けましたし、いまでも仲良くさせていただいています。
若いころアメリカで暮らした経験があると話していた大家さんが、それなりに英語を話せたというのも、ラッキーでした。ふらりと来た国なので、地元の言葉なんてちんぷんかんぷんでしたから。
となると、この島に住むと決めたからに必要なのはまず語学。これまでは何とか英語のわかる人とのやりくりで済ませてきましたが、やっぱりここで暮らしていくからにはここの言葉がわからないと。だって、町のあちこちにある看板や飲食店のメニューなんて、現地の言葉しか載っていないものがほとんどですから。私にとってそれらはただの記号にしか見えません。
それに英語を話せる人もごくわずか。大半の人は現地の言語しか話せません。ましてや日本語なんて誰もわからないでしょう。
そうとなったら猛特訓開始。そこでも大家さんはとっても頼りになる人で、言葉を学びたいと話すと、いくらでも協力してくれました。一緒に買い物や食事に連れていってもらったとき、大家さんは私の先生役として、まめに言葉を教えてくれます。街中にあるありとあらゆる建造物やもの、お店に並んだ商品に対して「あれはなんていうの」と尋ねると、現地での呼び名で返してもらうというようなことを続けていました。それに現地語を英訳した自家製参考書なるものを私に授けてくれたのです。自習もこれでバッチリです。
もう至れり尽くせりで、とてもありがたく思っています。
さて、この家に住み始めてひと月ぐらい経ってからでしょうか。仕事をしたいと思っているけど、この辺でなにか働けるところはないかと、私は大家さんにたずねてみました。いつまでも貯金を切り崩していくわけにはいきませんし、特訓の甲斐あって、地元の人ともちょっとした会話程度なら現地語で話せるようになってきましたし。
大家さんには何か心当たりでもあったのでしょう。さっそく彼女の知り合いで、町で小さな旅行代理店を一人で営んでいる人を紹介してくれました。あとで聞いた話では、その代理店では最近になって、外国からのお客さんも訪ねてくるようになったようです。ただオーナーの英語力ではおぼつかなく、ちょっとしたレジャーや施設の案内でも言葉が噛み合わないためになかなか通じ合えず、話がまとまったころにはお互いくたくたになってしまう。そこで、外国人と英語で話せる人を探していたとのことでした。
現地語特訓中の私は、オーナーとはカタコトの言葉で話すわけですが、その辺はある程度我慢してもらっています。彼にとっても、英語の話せる私を折衝に使ったほうが、外国のお客さんをいちいちわずらわせないので都合がいいからです。
今は週に4日ぐらいのこの仕事のお給料と貯金でなんとか食いつないでいます。
もちろん、日本にいた頃よりもお給料はグンと減ってしまいました。けれどもそんなのへっちゃらです。ここはもう私の楽園ですから。
これが今の私です。つらつらと退屈な文章を書いてしまってごめんなさい。
東京は冬の足音が聞こえてくる頃でしょうか。それにしても、私にとっての東京は、ある意味とても冷たい町でした。夏も冬も春も秋も震えが止まらないほど冷えきった町だったのです。灼熱の夏の太陽光線のもとでも、精神的なものでしょう、震えが止まらなくなってしまうことは多々ありました。ほんとうにあなたがいてくれたからこそ、なんとか凍え死なずにいれたようなものです。だからあなたにはとても感謝しています。
けど、ここに来てわかりました。ここが私の場所だったんだなあって。
そもそも人って生まれたときからひとりひとり違う限界を抱えていると思います。性別も親も容姿も、それに生まれてくる時代すら好きに選べません。
それなのに「自分で自分の人生を切り開け」「自分の人生に責任を持て」って諭されるのはおかしくないですか。
そういう人たちってたいてい、生まれてきたときの条件そのものが普通の人よりもずっと上なんです。ただ自分はそのことに気づいていないから、下の人に向かっていかにも自分は努力で駆け上がってきたなんて偉そうなことを言って、優越感に浸るのです。ただこっちから見れば、あなたたちはもともと恵まれているんじゃないかって言えるのです。
残念ながら私は違いました。生まれたときの条件は普通の人よりも下です。
なので、せめて自分の居場所と人間関係ぐらいは好きに選びたいってずっと思っていました。ところが、私の生まれ育った新潟や金沢は違う、働き始めてから住んでいた東京も違う。違うと感じたのは場所も人間関係もです。
挙げ句の果てに思ったのは、もしかしたら私の場所ってそもそも日本じゃないのかもしれない、それなら今までの場所も人もぜんぶリセットしよう、そうしてたどり着いたのがここだったんです。
明日は仕事がお休みで大家さんと砂浜でピクニックをする予定です。2人の小さなお孫さんもつれてくるっていうので楽しみにしています。私もたくさん料理を作って持っていくつもりです。
東京はだんだんと寒くなっていくかと思いますが、お身体には十分気をつけてください。また、あなたにお会いできる日がくるよう祈っています。そのときは私から連絡します。会えるまで長くかかるかもしれませんが、もし可能ならば待っていてください。
もちろん、あなたをそれまで縛っておくようなことはしません。あなたにもあなたの自由があるはずです。それにすべて悪いのは私ですから。
それでは、また。」
◆
ぼくはこの手紙を何度も読み返し、これまで彼女の傷を癒やすことができなかったどころか、傷に気づくことすらままならなかった自分を恥じた。
そして、これからも彼女を待ち続ける決心をした。いつまでもいつまでも待ち続けてやろうと決めた。もし彼女が日本に帰りたくないと言うのなら、自ら彼女の住む島に移住しても構わないと誓った。
けれど、待つ時間はそう長くかからなかった。かといって彼女に会えたわけではない。それにもう会える日は来ないという絶望しか、ぼくには残らなかった。
彼女の手紙が届いてからひと月ほど経って、ぼくの手元に届いたのは、彼女の訃報を知らせる一通のエアメールだった。
彼女が手紙の中で懇意にしていた大家さんから送られてきたものだ。
大家さんの話によると、彼女の死因は入水自殺らしい。彼女は大好きだった南の島の海へ消えていったのだ。
手紙には、翌日私の孫たちとピクニックに行くことが決まっており、彼女はそれを楽しみにしていた、と綴られている。
つまり、彼女は、ぼくへの手紙を投函したあと、手紙にあるように、満天の星を仰ぎつつ静かな夜の海へと入っていき、戻ってこなかったのだ。
当初は事故や事件も疑われたらしい。とはいえ、彼女の手紙にもあるように、その夜の海はいつにもまして穏やかで彼女をさらうような波が来たとは考えにくい。また、彼女の身体には事件につながるような外傷は何もなかったという。
ただ、大家さん曰く、何が彼女を自殺にまで追い込んだのかまるで見当がつかない。彼女の家から遺書らしきものはいっさいでてこなかったそうだ。
そして大家さんがぼくのことを知ったのは、彼女が亡くなる2日前だそうだ。日本に1人だけ、信じている人がいると、彼女はぼくのことを話し、日本にある僕の住所まで教えたと言う。後になってみれば、これまで日本の話をすることを拒み続けていた彼女がこのときこんな話をするのは不思議だったとある。
葬儀を終え、遺灰を預かっているから、彼女の親か兄弟、親戚にこのことを伝えてほしいともあった。
だが、ぼくには彼女が生まれたのが新潟で、中学の時に金沢に移ったという、漠然とした情報しかわからない。親や兄弟のことなど彼女からはまったく聞いたことはなかった。
ただ、彼女が以前住んでいた東京のアパートの管理会社や職場に行けば、実家や親戚を突き止める手掛かりになる、なんらかの情報が残っているかもしれない。
そして最後に、「彼女がいなくなってとても悲しい」と綴られていた。
手紙の中では前向きに生きていこうとしていた彼女が、自ら死を選んだ理由はなんだったのだろう。
結局、彼女の心の傷は彼女にとっての楽園ですら、癒すことができなかったのか。
それとも、ひそかにくすぶっていた昔の傷が何かの拍子に彼女を痛めてつけてしまったのか。
いや、違うかもしれない。彼女が幸福の先に選んだのが死だったのかもしれない。死は必ずしも不幸とは限らず、彼女の死がそれだ。幸せでありながらもこれから先、いつどこで新たな傷が彼女を襲ってくるかわからない。楽園にすら裏切られてしまっては、もう彼女に逃げ場はなく、悲しみの中でガタガタと崩れていくしかない。それならば幸せなうちに幸せな死を選んだ方がいいと思ったのかもしれない。そう考えるのがせめてもの救いだった。
そしてぼくはトランクに衣服をまとめ、旅立ちの準備をはじめた。彼女の亡骸を引き取る旅に。