爪先に夜
最初に落ちたときは、まだ夕方だった。
いつも利用する駅のホームは、林立するビルの谷底にある。一日中太陽に晒されたコンクリートの壁や柱は高温を発し、たまに吹く風が熱をゆるく攪拌するだけで涼しくはなかった。漂う灼熱に陽炎が揺れる。
今日は妙に混雑が激しい。何かあったのかと列車の案内を眺めれば、赤い文字の遅延情報が横切った。人身事故があったのだ。正直「またか」とうんざりしつつ、私はバッグから取り出したペットボトルの水を一口飲んで歩き出した。
ちょうど帰宅ラッシュの時間帯。ごった返す人間の体温と汗のにおいから、少しでも逃れたかった。階段付近を離れれば、多少は人の数も減るだろう。並んでいた列を外れ、ホームの最後尾へと向かった。屋根が作る僅かな日陰に隠れて移動する。
思った通り。最後尾車両の乗車位置は人もまばらで、列に並ぶのは私だけだった。その代わり日光を遮蔽してくれるものもなく、赤い斜陽が直接、後頭部に照りつける。束ねても暑い長い髪をたくし上げ、ハンドタオルで首の汗を拭うと、白いブラウスの襟はじっとり湿っていた。
やがて構内に軽快な音楽と、「間もなく列車が参ります」のアナウンスが流れる。
やっと電車に乗れる。電車の中ならクーラーが効いている。
ホッと気が緩んだ私の耳元で、何か聞こえた。
「----?」
誰かに呼びかけられた気がしたのだけれど、人のざわめきと駅の雑音が邪魔をして、よく聞き取れなかった。
そこで、ぷっつりと記憶が途切れている。目の前が真っ暗になってしまった。
どうやら私は、ホームから線路へ転落したらしい。次に気がつくと病院へ救急搬送される途中だった。救急隊員の人に、転落の事実と経緯を知らされる。電車が駅に到着していなかったのが、不幸中の幸いだった。
「軽い熱中症ですね」
病院で対応してくれた若い男性のドクターは、点滴を打っている私にそう言った。
意識を失ったものの、熱中症としての症状はそれほど重くないとの診断が下る。目立った外傷も無かった。いくつかの検査と問診が続き、言われた通りあちらこちらと移動する。最終的に、私が倒れた直接の原因としては、熱中症の他に貧血が疑われた。でも意識を失い、転落もしている。安静にして少し様子を見ましょうと言われ、後は看護師に託された。
連日の猛暑で、病院に搬送される患者が急増しているという。私も受け入れ先が中々見つからず、運び込まれたここは、職場からも家からも一時間以上かかる古い総合病院だった。看護師のそんな話しを、横になってぼんやり聞いていた。病院のベッドは満床。点滴している私が寝かされていた場所も、廊下にある背もたれの無い黒いソファーだった。
しばらくすると、スマホに連絡が入る。姉が仕事帰りに、車で迎えに行くと言ってくれた。しかし到着まで、どうしても一時間はかかる。
「今ちょうど、個室が空いたそうですから。そちらで休みましょう」
点滴が終わり容体が落ち着いた頃、ベテラン風の看護師が取り計らってくれた。他の患者は通らないとはいえ、病院関係者が行き来する位置のソファーは、落ち着かなかった。
「ありがとうございます」と答えた私は、毛布を膝にかけ、バッグを抱えて重い体を持ち上げる。瞼は今にも閉じそうで、思うにならない身体はふらついた。
「手伝いましょうか?」
と、背後から女性の声がかけられた。
「あ、いえ、大丈夫です」
反射的に答えて左肩越しに振り向くと、誰もいない。
聞き間違いか。それか、私に向けて言った言葉ではなかったのだ。そうとわかると、早とちりの間抜けさに恥ずかしくなってくる。勘違いを誤魔化すように、慌てて靴を履いた。
でもそこで、小さな違和感を覚える。
寝ていたソファーは、廊下の壁際に設置されていた。近くには病室も、診察室のドアも無い。今の声は、すぐ近くで聞こえた。どこかで聞いた声のようにも思える。
『おかしいな……?』
ソファーで考えている間に、先ほどの看護師が車椅子を運んできてくれた。
任せるまま車椅子に乗せられ、運び込まれた個室。そこは広すぎるほどの部屋だった。ドアのすぐ横には全自動のトイレも設置されている。バッグを置き、靴を脱ぎ私がベッドで横になる。親切な看護師は「ご家族がいらっしゃったら、ご案内しますね」と言い残し、ベッドを囲む薄いピンク色のカーテンを閉めて出て行った。
ドアが閉まると、人の気配と物音も遠くなる。だるさと頭痛に任せ、白いシーツに全身を埋めた。もうすっかり日は暮れて、照明の消された部屋は紫色に薄暗い。病院特有の薬品のにおいと、寒いくらいに冷房の効いた清浄な空気。半ば朦朧としつつ、貧血や熱中症の他に、最近の仕事疲れや積み重なった寝不足もあったのかなと、うとうと考えていた。私が転落したせいで、また電車が遅延して大勢の人達に迷惑をかけてしまったのだろうと、申し訳なく思ったりもした。
そうして、十分も経過した頃だろうか。
背後でカーテンの開く、シャッという音がして覚醒した。ベッドを囲っているカーテンが開いたのだ。
『……あれ? 誰か来た?』
姉が迎えに来るには早過ぎる。
看護師さんが何か用事があるのか、あるいは様子を見に来たのかと思った。しかし相手は、その場で無言で佇んでいる。終わらない沈黙に、不穏な緊張があった。
「手伝いましょうか?」
唐突に、そこにいる人が話しかけてきた。知り合いの声ではない。甲高くて可愛らしい、やや舌足らずの女性の声だった。
手伝う? 何を?
驚いて、私は「え」と咄嗟に上半身だけ飛び起きる。だが振り向いて見たピンク色のカーテンは、動いた形跡が無かった。
たしかにカーテンが開く音はした。それなのに、天井から床まで届く布の仕切りは、何事もなかった様子で閉まっている。改めて考えてみれば、個室のドアを開ける音もしなかった。この部屋には自分しかいない。いないはずなのに。
――手伝いましょうか?
先ほど廊下のソファーでも、同じことを言われた。思い出した途端、ぞわりと寒気が皮膚を走って布団を引っ張り上げる。まるで、ここなら大丈夫だと信じ込もうとしている子供みたいだった。
『何? 何なの?』
治まりかけていた頭痛が再びこめかみを刺し、手のひらの冷や汗を握りしめる。
ふと、頬にぬるい風が触れた。布団の端をめくって顔を出す。部屋中央のベッドまで水の匂いが漂ってきて、今度は薄ピンクのカーテンが音も無く動いた。生温かい風が吹き込み、道路を走る車の音が微かに耳へ届く。部屋の窓が開いているのだとわかった。
「閉まってたよね……?」
わざと独り言を呟いて、私はベッドを降りた。
病院のスリッパを履き、片手でカーテンを右へ寄せて外を覗く。やはり窓は開いていた。病院の窓は、転落防止のため十センチ以上は開かないようになっている。その窓が、何故か全開になっていた。エアコンで冷やされた部屋の空気が、みんな外へ流れ出している。大粒の雨が、窓を打っていた。久しぶりの夕立だった。
窓を閉めないと。
考えるというほど考えるでもなく、そちらへ足を忍ばせ近付いた。部屋は五階で、意外なくらい綺麗に街の夜景が一望できる。何気なく、窓ガラスに焦点を合わせた。
「ひ!」
目を瞠り息をのむ。伸ばしかけていた手が竦み、声も失った。
闇を背景に、半透明の女が映り込んでいる。上半身は血まみれで、長い髪が顔や首に絡まって貼りつき、白いブラウスの襟も肩も胸も真っ赤に染まっていた。女は頭の割れた無残な姿で、こちらを見つめてくる。
私はこの女に、見覚えがあった。着ている白いブラウスも。
「私……?」
酷くひしゃげた頭や口から血を垂れ流している女は、窓ガラスに映る自分だった。
吹き込む風に煽られ、逆巻く混乱に膝が震える。薄暗い中で目を凝らし、自分の両手を見ては何度も握って開いた。寝乱れた髪を撫でる。首や頭にも触れてみた。どこにも血や傷は無い。私は熱中症と貧血で倒れただけだ。意識を失い、ホームから転落したけれど、運よく怪我もしなかった。
それなのに、どうしてこんな酷い姿の私が、目の前の窓ガラスに映っているのだろう?
「何なの? 何が……」
悪夢? 夢を見ている?
呆然と、小声で呟いた時だった。
突然、部屋に設置されたトイレの灯りがパッと点く。
バリアフリーのトイレは、全自動だった。人が近付くと自動で点灯する。私が立っている窓辺では、壁の位置的にトイレの中までは見えなかった。見えるのは、トイレの照明がつくる明るい暖色の長方形と、その光の真ん中で床に伸びた人の影。
誰かいる。
清潔な白い床に映る、黒い人影が存在を主張している。目が釘付けになり、窓を背にして身動ぎも出来なくなった。苦しいほどに動悸が激しくなっていく。眩しい光の中で滲む影は、左に右にと不安定に揺れて、少しずつ前へと動いていた。
さっきこの部屋のカーテンを開け、話しかけてきた声。廊下のソファーでも話しかけてきた、知らない声。違う。あの声は、それより前にも聞いていた。
そうだ。駅のホームで。
「手伝いましょうか?」
耳元で、やや舌足らずの若い女の声が囁いた。
同時に後ろ側へ、暴力的な力で引っ張られる。勢いで、窓の桟に腰を強打した。二本の腕が、左右から私の首へ絡みつく。しがみつき締め上げてくる腕はゴムの氷嚢と似た感触で、冷たく重い。死人のような手と指が、こちらの口と鼻を塞ぐ。恐怖と痛みに声も潰された。裸足の足が床を離れ、空を掻く。仰け反った背骨が順番に窓の縁を伝い、「落ちる」という直感と、吐き気と悪寒が押し寄せる。
生温かい大粒の雨に顔面を叩かれ、無意識で大きく目を見開いていた。
逆上がりする世界。宙返りした暗い視界。その私の鼻先を、右半分潰れた女の顔が通り過ぎた。病院五階の窓の外へ私を引き摺り出したのは、血に染まる花柄ワンピースを着た女だった。
いつも使っていたあの駅で、先日人身事故があった。若い女性の飛び込み自殺だったと、ニュースで見かけた。
この女だったのかと、一瞬考えたかもしれない。気付けば首に巻きついていた冷たい腕は消え、私一人が雨夜の只中へ解放されていた。濡れた土とアスファルトと、濁った水のにおいが強くなる。
自由落下の浮遊感に包まれ、残像みたいな景色の破片が脳裏でチカチカ点滅した。
真夏に染まる赤い夕方。灼熱の陽炎を詰め込んだ駅のホーム。「列車が参ります」のアナウンス。雑踏と雑音。それらに混じり耳元で聞こえた誰かの声。
――手伝いましょうか?
そして私は突き飛ばされ、線路に転落したのだ。
最後の悲鳴は追い付かないまま、落ちていく爪先の向こうに夜が見えた。