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産み逃げ8  作者: あまちひさし
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給付の条件

 医療費未収の回収は、当の本人である患者ばかりを相手にするものではありません。戦う相手が保険者、つまり健保組合や市区町村であることも少なくないのです。

 どういうことかと言うと、健保や国保には『給付の制限』という考え方があり、


①患者本人の故意、または著しい不行跡による負傷や疾病

②第三者が責任を負うべき受傷

③保険料未納


などの場合に給付が制限されます。つまり病院にかかっても自己負担額を除く7割の医療費が健康保険から支払われなくなり、全額が患者負担となるのです。

 ③は文字通りの意味ですが、①は過度の泥酔、喧嘩、自殺など、②は傷害事件や交通事故などがそれに当たります。

 健保や国保は加入者の保険料で賄われていますので、本人の過失が大きい場合や責任をとるべき第三者がはっきりしている場合の医療費にまで善良な大部分の加入者による保険料を充てるべきではない、という理屈はもっともなことだと思います。ただ、それを言うなら不摂生や不養生が原因で体を壊した人だって、本人の責任に帰するところ大だと思いますが。

 ともあれ、原則通りに給付制限されると医療機関は堪ったものではありません。言い換えれば、自己または他者の責任で受傷する患者がそれだけ多いということです。救急指定病院であれば、なおのことです。

 もちろん保険者も杓子定規な対応では加入者へのサービスの質が問われますし、医療機関との共存関係も成り立ちません。また、医療費未払いの債務者を徒に増やし、病院にかかりにくくさせては社会不安の元にもなりかねません。

 そこで加入者に所定の届を出させ、事情を勘案した上で最終的には給付を認めてくれるのが普通なのですが、そこは健保組合や自治体、または単に担当者個人の判断や裁量が大きく反映されるところでもあり、同じような受傷原因でも給付を認めてもらえる場合と認めてもらえない場合とに分かれることが間々あります。一律の線引きが難しいのは理解できますが、こちらは自傷・他傷の多くの患者の相談を受け、そのたびに別々の保険者との橋渡しをしてきた経験から、見極めの標準値を体得しています。だから、その水準に届かない判断をした保険者には臆さずに異を唱えます。

 と言うと少々手前味噌に過ぎるようです。要は給付を認めるよう捻じ込むのです。患者への督促ばかりを繰り返す芸のない仕事をしていても医療費未収は減りません。いわば大口の債務者である保険者からの入金を引き出さなくては、未収総額の劇的な圧縮は叶わないのです。

 大学受験を控えた高校3年生の池原彩香さん、17歳は実に相手にとって不足のない、つまり保険者との交渉に苦慮した一例でした。

 登校時間が近づいても起きて来ない彩香さんの様子を見に、母親が勉強部屋のドアを開けたとき、彩香さんは朝日を透かしたカーテンを開けようとして窓辺に佇んでいるように見えたそうです。

「なんだ、起きていたの?早くしないと学校に遅れるわよ」

 悲劇の幕開けは、ありふれた日常の問いかけでした。

 返事がありません。難しい年頃の女の子です。返事を面倒くさがることもあるでしょう。気にせず母親は語り続けました。

「そろそろまた弦を張り替えた方が良いんじゃない?リビングで聞いていたけど、昨日の晩は音に艶がなかった気がしたわ」

 そう言って、勉強机の脇に立てかけたバイオリンケースに目を落とし、さらに続けました。

「遅刻するといけないから、もうパンと卵を焼いておくわよ。お弁当はテーブルに置いてありますからね。早くいらっしゃい」

 後日、私が支払い相談を受けた際にも感じたことですが、母親はおっとりとして少し鈍い人なのです。娘のまったくの無反応をようやくおかしいと思い、彩香さんの肩に手をかけたとき、指先が強く張り詰めた糸のような何かを弾き、鈍い音を響かせました。

「痛っ…」

 見る間に血の滲んだ指先から娘の後ろ姿に目を移すと、彩香さんはバイオリンの弦を首に喰い込ませて、カーテンレールに体を預けていたとのことです。

 母親の全身の神経がピチカートのように弾かれました。

 と、いうのは私の想像による脚色です。失礼しました。

 なかなか起きて来ない息子や娘を不審に思って、部屋で我が子の死に遭遇する。自殺現場の発見としてはよくあるパターンだそうですが、よくあると言っても当事者になるのは誰にとっても初めての体験です。彩香さんの母親がどれほど動転したことか、想像に余りあります。

 心肺停止状態で搬送された彩香さんは、救命センターでの蘇生処置と強心剤の投与により心肺機能は戻りました。でも酸欠状態が続いた脳の機能は回復しません。奇跡でも起きない限り、意識が戻ることはないそうです。

 患者の母親、池原由紀子さんが支払い相談のために窓口を訪れたのは救急搬送から2日後のことでした。未収対応の場数は踏んでも、突然の自殺という形で高校生の娘を失おうとしている母親と対面するのは初めてのことでした。どんな愁嘆場になるかと身構えて挨拶すると、由紀子さんは弱々しい様子ながら笑顔を見せて淡々と話し始めました。

「昨日、入院手続きに来たときに受付の方から『国保の使用許可をもらってきて下さい』と言われたので、今日の午前中に千住区役所に行って来たのですが『自殺では国保は使えない』と言って断られてしまいました」

 区役所としてはまずは原則通りの対応をしたようです。この段階ではしかたのないことでしょう。ここからが私の腕の見せ所となります。

「国保が使えないと医療費が何百万円にもなると聞きましたので、どうしていいのか分からなくて…。いろいろ教えていただけると助かります。何しろ急にこんなことになるなんて思ってもみませんでしたから…」

 それは無理もないことでしょう。由紀子さんはあくまで穏やかな口調でした。事実は分かっていても、それが我が身に起きたことだと実感できないのかも知れません。自分の身の処し方も含め、本当にどうして良いのか分からないのでしょう。

 ですが、死を待つだけでも医療費はどんどん膨らんでいきます。医療費に限って言えば、一番始末に負えないパターンです。

 前述のように自殺は未遂も含め、医療費は保険の給付対象になりませんが、給付が認められる一つの目安として、精神科受診歴の有無があります。つまり精神を病んでいたという客観的な事実があれば、突発的に正常な判断を失って自傷行為に及んだとしても、それは本人の責任能力を超えたことであり、『著しい不行跡』には当たらない、という解釈です。

 私は辛うじて均衡を保っているのであろう、由紀子さんの心の積み木を崩さないよう慎重に尋ねました。

「不躾なことをお聞きしますが、どうぞご容赦下さい。お嬢さんは精神科の先生に診てもらったことはありますか?」

 思いがけない質問だったようですが、由紀子さんは取り乱すことなく答えました。

「いえ、私が知る限りではないはずです」

「そうですか。実は精神科にかかったことがあれば、健康保険の使用が認められるのでお尋ねした次第です」

 ああ、と納得した様子でした。千住区役所では説明を受けなかったようです。もっとも、聞いていても頭に入っていなかったのかも知れませんが。

「精神科で診ていただいたことはありませんが、実は娘は体臭のことで悩んでいました」

「体臭?」

「ええ、ワキガがするとしきりに言っていました。私はそばにいても鼻を近づけても特に臭いは感じなかったのですが、本人は相当気にしていたようです。

 娘は音大のバイオリン科を目指していたんです。バイオリンを弾くにはどうしても腋を広げますから、練習にも集中できなかったようです。上達も遅れて、それも悩みの種だったと思います」

「そのことではどこかの医療機関に相談されましたか?」

「皮膚科の先生には診ていただいたことがあります。ですが、…腋臭症と言うんですか…、そういう診断にはならなくて、結局治療らしいものは受けませんでした」

 腋臭症は他者が明確に不快に感じるほどであれば健康保険での治療も認められますが、皮膚科の専門医がそう診断しなかったのであれば本人の思い込みだった可能性もあります。一時的な汗臭さを誰かに何気なく指摘されただけだったのかも知れません。

 でもこれは国保使用の交渉材料として使えそうです。体臭についての過度の自意識は一種の精神症状と考えられます。精神科そのものの受診歴ではなくても、受験を控えた思春期の女の子であることを考え合わせれば、いわば状況証拠としての効果が期待できます。

「誠に失礼ですが、世帯の収入はどのぐらいおありですか?」

「はあ、主人の会社の業績が落ちて給料が半分近く減らされましたものですから、私がパートに出て何とか生活できている状態がもう何年も続いています」

「バイオリンは小さいときから続けていらしたのですか?」

 ピアノなら珍しくありませんが、弦楽器を習っていると聞くと経済的に裕福な家庭のようなイメージを持ちます。そこを質す問いでしたが由紀子さんはその意図を理解したようでした。

「彩香がまだ小学校の低学年の頃、本人が習いたがっていたので近所の音楽教室に通わせたのが始まりです。あの頃はまだそのぐらいの余裕はあったのですが、それでもほんのお稽古ごと程度です。熱心なご家庭のように高名な先生に付けることなんて、とてもできません。団地住まいでは近所迷惑にもなりますから長時間の練習もできませんでしたけど、そんな環境でも音大を目指すだけの力をつけたのですから、彩香はがんばったのでしょうね。『音大を出て、オーケストラに入る』って目標を持っていました。普通、中学生や高校生の子ならソリストを夢見るものでしょうが、そこは現実的でしたね。自分の器も家の事情も理解していたのかも知れません。本当によくがんばっていたんですけどね…。体臭のことを言い出すまでは…」

 何がきっかけで体臭を気にするようになったのでしょう。誰かの心ないひとことが原因であったとしたら、あまりにも罪深いことです。およそ無神経な言動ほど、周りを傷つけるものはありません。

「念のためお伺いしますが、国保使用がどうしても認められなかった場合、自費でのお支払いは可能ですか?」

 これも言われた側からすれば無神経に聞こえたかも知れませんが、由紀子さんは特に気にする風でもなく、こう答えました。

「彩香の進学費用として貯めていたお金が200万円近くありますので、そこまでなら何とか…」

 ずいぶんと無防備に答えたものです。それだけあるなら自費医療費でも支払えると言っているようなものです。娘の夢を叶えるための資金が葬儀費用にさえならず、期待する結果を伴わないことが確実な入院費に消えても良いのでしょうか。

「こんなに悩んでいたと、どうして気づいてやれなかったんでしょうねぇ…」

 由紀子さんは他人事というより架空のできごとのように、そうことばを継ぎました。現実の把握に手こずっている様子がかえって由紀子さんの後悔や傷心の深さを物語っているようでした。

 快復の望みがないことは頭では分かっていても、心の準備もなくそれを受け入れられるものではありません。一縷の望みに縋って精神的に生殺しの目に合いながら、お金の心配もしなくてはならないのです。親にとって、これほど残酷なことがあるでしょうか。

 もはや進学費用だったお金になど意味を感じないのかも知れませんが、それをこの哀れな親に自費医療費へ転用させては未収金回収職人の名折れです。せめて葬儀費用だけでも確保させて上げるため、国保の適用をかけて千住区役所と一戦交えます。

 さて作戦会議です。もちろん一人で、です。

 本来なら保険者への陳情は当事者である両親にさせるのが筋です。体臭や受験のことで悩んでいたこと、精神的にも未熟な若年者の突発的行為であること、などを悄然と伝えて担当者の同情を引き、経済的負担に耐えられないこと、支払いができないと医療機関に迷惑をかけること、など複合的な事情を訴えるよう細かに『指導』して、最終的には給付認定の担当者に折れてもらうのです。

 でもそれを任せるには由紀子さんは甚だ頼りない気がしました。200万円近く持っているなどと口にされては、通るものも通らなくなります。

 このため私がじかに交渉することにしました。由紀子さんが一度相談に行って断られたという、千住区役所の感触を確かめる目的もありました。

「お世話になっております。城北区の京北大学病院です。国保の給付担当の方をお願いします」

 区役所の交換手にそう言うと、保留音ののちに担当部署につながりました。

「はい、給付係です」

「京北大学病院の水野と申します。いつも大変お世話になっております。自傷患者の給付の件でご相談があって電話させていただきました」

「では担当の者に代わります」

 そう言って代わった担当者は林という、声の感じから50歳ぐらいと思われる男性でした。電話口で名乗っただけで、融通の利かなそうな堅物と分かる人物でした。

「池原さんですか、ああ、今日見えた方ですね。私が窓口で対応しました。自殺には国保は使えないことを説明して、お引き取りいただきました」

「おっしゃる通り、自殺は原則として適用外であることは承知しておりますが、お母様のお話をお聞きして、ご再考願うために電話させていただいた次第です」

「この娘さんは精神科の受診もありませんでしたので、適用はお断りしました。ご存知とは思いますが、精神科受診歴がない限り国保使用は認められませんので」

「ええ、それは承知しています。ただ、お聞きになったかと思いますが彩香さんは腋臭症で悩んでいたそうです。受験を控えた高校生のお嬢さんとしては精神的に大きな悩みだったと思います」

「腋臭症?その話は初耳です。ただ、私も池原さんがお帰りになったあと過去のレセプトを調べましたが、精神科はもとより睡眠薬の処方などもありませんでした」

 そこまで確認したのか。頭が固いだけでなく武装もなかなか手強い相手です。少し力点をずらして攻めてみました。

「保険料の未納はあるのですか?」

「保険料ですか?本来は個人情報ですが、その懸念はないとお答えしておきます」

「親御さんは経済的にも決して豊かではないご様子でした。そんな中できちんと保険料を納めていたのであれば、何とか考慮していただけないものでしょうか」

「同じように保険料を払っている区民との公平性も保たなくてはなりませんので」

「私も多くの健保組合や自治体の方にこのようなご相談をする機会がありますが、実際には多くの保険者さんが適用を認めて下さっています」

「自傷行為での国保適用はあくまで精神科受診が条件です。これは法律の定めるところであって、自治体や担当者の裁量で変えられるものではありません」

 初回の電話でこれ以上の押し問答を続けても得るものはなさそうでした。再交渉の余地を残すため、関係決裂になるのを避けて、ここは退いておくことにしました。

 ただ、林氏の主張には一つ引っかかる点がありました。林氏は、自傷行為での国保適用は精神科受診が条件、と金科玉条のように繰り返していましたが、それを『法律の定めるところ』と説明したのは、もしかするとこちらにとって拾い物の失言だったのかも知れません。

 国民健康保険法やその施行規則にはそのような記述はありません。となると東京都の運用ルールにあるのでしょうか。法律や条例が施行されるときは、現場での執行者である市区町村の職員に対して、想定される具体的な事例での判断の目安があらかじめ示されます。自治体の役所で実際に窓口応対する職員は、その基準に則って業務を行います。そうしなければ住民のサービスを誤るばかりか、みずから法律違反を犯す恐れさえあるからです。

 取り付く島もなかった林氏の武装の綻びを見つけた気がしました。自傷行為の国保適用には精神科受診歴が不可欠の条件なのか、区役所の上級官庁である東京都にそのことを尋ねて、判断を聞こうと思い立ちました。

 都庁の保険局に電話して、国保指導課の大村氏に有体に事情を話して見解を求めたところ、大村氏は以下のように回答しました。

「実際の判断は各市区町村の裁量に委ねられていますが、精神科の受診歴がある場合は給付を認めるのが通例です。ただし、それは受診歴がなければ認めないという意味ではありません」

「千住区役所のご担当の方は法律にそう定められているという言い方をされましたが」

「それは誤りです。給付制限を過去の精神科受診歴の有無で判断せよ、とはどこにも書かれていません。受診歴がないことを以って一律不支給とするのは適切とは思えません。個別の事情も考慮して判断すべきと考えます」

 頭の下がるような、ありがたいおことばでした。この頼もしい御仁にもう一肌脱いでもらおうと厚かましくお願いしました。

「誠に心苦しいお願いですが、そのことを千住区役所のご担当の方にお伝え願うわけには参りませんでしょうか?」

「構いませんよ、了解しました。ただ、あくまで見解を説明するに留まります。具体的な事案についての指示はできないことをご了承下さい」

 前進の糸口が見えてきました。大村氏が実際にどのように千住区役所に伝えてくれるのかは分かりません。配属部署が上級官庁だからと言って同じ東京都の職員同士ですから、お互いの顔を潰さない程度の事務連絡になるのかも知れません。過度の期待は禁物ですが、千住区の、あるいは林氏個人の強硬一辺倒の姿勢を少しは切り崩せそうな予感がしました。

 大村氏から千住区に何らかの指導があり、それにしたがって千住区が対応を検討するまでに数日は見なくてはならないでしょう。ちょうどこの日は金曜日でした。今日できることはここまで、と思ったとき、由紀子さんが再度窓口を訪ねて来ました。

「何度も申し訳ありません。一つ思い出したことがあって戻って来ました」

「何でしょうか?」

「皮膚科では腋臭症と診断されませんでしたが、別の医院でボツリヌス菌の注射を一度受けていました。自費でした。領収書を探せば出てくると思いますが、何かの足しになりますか?」

 発汗を抑えるのにボツリヌス菌の注射をすることは聞いたことがありました。美容形成外科などが自費で行うことが多いようです。精神科そのものではありませんが、彩香さんが腋臭症で悩んでいた事実を固める材料にはなりそうです。

「それは使えると思います。ぜひ探しておいて下さい」

 そう答えると由紀子さんは嬉しそうな笑みを浮かべました。まるで彩香さんへの償いができたかのようでした。

「彩香が自分で探してきたクリニックでした。気休めになるならと思って、私も付き添って行きました。注射一本で一万円近く取られました。医療費って高いものですね」

 そうですよ。だから何としても国保を使えるように画策しているんです。

 とも言えず、そのまま由紀子さんの話を聞いていました。

「私ももう少し一緒に考えてやれば良かったと思って…。ベッドの横で手を握って、ごめんねって言っても、今はもう何の返事もしてくれません。後悔しても、しきれませんね…」

 どれほどの後悔に苦しめられているのか想像もつきませんが、由紀子さんはやはり自分のことと受け止めていないような、上の空の表情でした。考える力を失ってしまったのか、考えることを拒んでいるのか、それは分かりません。

 問わず語りに身の上話を続ける由紀子さんをさすがに追い返すわけにもいかず、席を立ってくれるまで結局30分ほどお付き合いすることになりました。

 週明けの火曜日、そろそろ良い頃合いと見て、千住区役所に電話して、林氏を呼び出してもらいました。よくも都に陳情してくれたな、と敵意に満ちた反応をされることも覚悟して、

「先日ご相談した池原彩香さんの件ですが、」

と切り出すと林氏は、

「ああ、池原さんのことですね。当区の給付係長から、改めて事情を確かめて適切な判断をするようにと指示されました」

と苦々しい口調ながらも話を聞く姿勢を見せました。

 おっ、軟化している。大村氏は思ったより効果的な説得をしてくれたようです。

「ご配慮、誠に恐れ入ります。事情は先日お話しした通りですが、新たに自費で腋臭症の治療を受けた際の領収書をお出しすることができそうです」

「なるほど、少なくとも腋臭症で悩んでいた事実は裏付けられるわけですね。ただし、それだけでは精神科受診に相当すると評価するに足らないと思います」

「改めてご教示いただきたいのですが、精神科受診に相当するとご判断いただくためには、どのようなものをご提示すればよろしいでしょうか?」

 ここは低姿勢に相手を立てます。せっかく少し開けてくれた扉を再び閉めさせるわけにはいきません。

「そうですね、池原さんのお嬢さんが腋臭症で悩んでおられたこと、お若い方ですからそれが精神的に影響していたこと、それはお話を聞く限り嘘ではないのだと思われます。ただし、それらを否定する材料がないという意味に過ぎません。

 後日、他の担当者が見ても、あるいは監査のようなものがあったとしても、『これは国保適用が妥当であった』と納得できるような客観的な事実を複数集めていただきたいと思います。一つでは根拠として弱くても、いくつかの判断材料が揃えば給付対象と認めることも可能です」

 なるほど、保険者としても不都合な前例を作りたくないのはもっともなことです。精神科受診歴のない加入者に国保使用を認めた、その判断を是とする根拠を揃えておきたいと思うのは、組織にとっても担当者個人にとってもゆるがせにできない重大事でしょう。譲歩の姿勢を示してくれた以上、その立場は尊重しなければなりません。

「重ねてお教えいただきたいのですが、どういったものをお出しすれば、千住区役所さんとして国保適用の判断をして下さりやすいでしょうか?」

「う~ん、たとえば池原さんは学校を長期で休んでいたという事実はありませんか?」

「なるほど、承知しました。さっそくお母様に確認してみます」

 行くべき道が照らされました。由紀子さんはおそらく毎日患者に付き添っているはずです。呼び出せばすぐに窓口に来てくれるでしょう。

 救命センターに問い合わせたところ、案の定、両親とも来ていて医師から病状説明を受けている、とのことでした。終わってからで構わないから私を訪ねるように、と伝言しました。

 ですが、このとき両親は重い重い事実を医師から聞かされていたのでした。一時間後に窓口に現れた由紀子さんは情緒をどこかに置き忘れて来たような、おぼろな笑顔を湛えて、こう言いました。

「心臓が止まるのを先送りしているだけで、医学的には脳死だと説明していただきました。臓器提供のことも説明していただいたのですが提供した方が良いのでしょうか?」

「えっ?」

 それを事務員に聞くか?

 呆気に取られて、ことばを失いました。

「脳が死んでいるのですから痛みも感じないのでしょうけど、もしも万が一痛かったらかわいそうなので、お断りしようと思っています…」

 判断力を失っているわけではないと知り、安心しました。娘がもう確実に戻って来ないことさえ、どこまで受け止めているのか分からない由紀子さんに、臓器提供という、尊いとは言え大きな覚悟の要る決断は重荷過ぎます。

「先送りでも構わないから、できるだけのことをして下さいとお願いしてきました」

 今日も一日生きていてくれたと安心し、明日もまだ生きていてほしいと願う気持ちは想像に難くありません。でも延命すればするほど医療費は嵩みます。国保が使えなければ大変な金額になります。

 こんなときに無慈悲かとも思いましたが、これが私の立場で由紀子さんにしてあげられる、いえ私でなければ誰もしてあげられない力添えです。尻込みする気持ちに鞭打って切り出しました。

「千住区役所からは前向きな感触を得ています。彩香さんは体臭のことで学校を休んだことはありますか?あるいは誰か、お母様以外の方に相談していた、ということはありませんか?」

 急に話題が切り替わり、由紀子さんは焦点合わせに困ったような目で私を見ましたが、不快そうな様子もなく素直に答えました。

「学校には毎日ちゃんと通っていました。登校していないという連絡が来たこともなかったので、行っていたのだと思います」

「お友達に相談していた、ということはないでしょうか。仲の良いお友達に聞いてみていただくことはできませんか?」

「友達ですか…」

 由紀子さんは困惑した表情を見せました。

「実は学校には盲腸で入院したということにしてあるんです。本当のことを言った方が良いでしょうか?」

 そういうことか。確かに自殺を図ったとは言いづらかったことでしょう。由紀子さんが上手に隠し事をし続けられるとは思えませんが、最後の瞬間までの短い時間を娘のためだけに捧げるには、学校関係者とのやり取りなど余分な煩い事でしかないかも知れません。

 それでも由紀子さんは健気にこう言ってくれました。

「いずれは本当のことが分かってしまうでしょうからね…。担任の先生に相談してみます」

「ご心労とは思いますが、聞いてみていただけると助かります」

「分かりました。あ、でも今日は友引だから悪いので、聞いてみるのは明日にします」

 何かがずれている印象は否めませんでしたが、このような形で子を亡くそうとしている親の痛ましい心境には結局、思いの致しようがないということなのでしょう。

 友引が過ぎ、一日を置いて由紀子さんは私を訪ねて来ました。

「昨日、学校の保健室の先生が家に電話をくれました。心配して彩香の携帯に何度か電話をくれたらしいのですが、応答がなかったから自宅にかけ直したと言っていました」

 頷いて先を促しました。

「容態を訊かれたので、安静にしていますと答えたのですが、その先生は差し迫った口調で『彩香さんは意識があるのですか』とか『どのぐらいで退院できる見込みなのですか』とか尋ねるものですから、隠し切れなくなって本当のことを言ってしまいました。先生は絶句していましたが、予感していた様子でもありました」

「それで、その保健室の先生は何と?」

「私も初めて知ったのですが、彩香はその先生に体臭のことを相談していたのだそうです。彩香の携帯には確かにその先生からの着信がいくつも残っていました。メールも届いていたので、秘密を暴くようでかわいそうな気がしましたけど見てみたら、こんなメールが見つかりました」

 そう言って、かわいらしいデコレーションを施したスマートフォンのディスプレイを私に向けました。可憐な少女の胸の内を覗き見るようでいささか疚しい気もしましたが、受け取って画面のスクロールを繰り返すと、以下のような往還が見つかりました。

「先生、私やっぱり耐えられない。クラスの誰かがいつ『変な臭いがする』って言い出さないか、びくびくしてる。いつもペンギンみたいにしてる」

「気にし過ぎですよ。そんなに腋を締めていたら、誰だってかえって汗をかいて臭いがするに決まっています」

「バスの中でもお客さんがみんな私を見て距離を取るんです。怖くてバスに乗れない。今朝は5時に起きて、二時間近く歩いて登校した。私もう学校にも行けない」

「それは彩香さんが意識しすぎて、自分が他のお客さんから遠ざかっているだけじゃないの?何度も言ったけど、あなただけ特別な臭いがすることはありません。冷静になってね」

「帰り道でふっと風が吹いたら、外人みたいなきつい臭いがして、目が眩みそうになった。帰ってから下着を何回も洗濯したけど臭いが取れない」……。

 それは明らかに神経症を思わせる訴えでした。その過敏さは痛みが伝わるほど哀れなものでした。

 ふと見上げると由紀子さんは黙って目尻を拭っていました。一週間ぶりに届いた娘の声が、止めていた心の時計を一気に現在へと時刻合わせしてしまったのでしょうか。

 由紀子さんは絶望が事実であることを理解した様子でした。手を握ればまだ血の通っている娘が、実はもはや手の届かない存在であることを受け入れたのでしょう。そして、こう言いました。

「このメールを読んで、主人とも話し合いました。延命治療はやめてもらうことにしました」

 仕事柄、遺族との会話には慣れている私も、このときは何も言えなくなりました。なぜなら由紀子さんは遺族ではありません。みずから遺族になろうとしているのです。愛娘の生命にみずから幕を引く決意をした人にかけることばを私は知りません。

 しばらくは呆然としていましたが、ほどなく自分がすべきことを思い出しました。

「お母様、私からこの保健室の先生に連絡を取らせていただいてもよろしいでしょうか?」

「水野さんから?何をお話しになるのですか?」

「彩香さんが悩んでいらしたことをこの先生に一筆書いて証言してもらいたいのです。医師の診断書とまではいかなくても、学校保健の専従者が記したものであれば、それなりの説得力があると思います」

「はあ…、先生に御迷惑でなければ構いませんが…」

「それと、お嫌でなければ、このメールのやり取りもプリントアウトさせて下さい。保健室の先生の文書に添えて千住区役所に提出します」

「それも先生が了承されるのであれば、私どもは構いません。お任せします」

 由紀子さんを窓口から見送ると、私は事務室から彩香さんの学校に電話をかけ、この保健室の先生を呼び出すと、事の次第を順序立てて説明し、文書の記載を依頼しました。最初は訝っていたこの若い女性の先生も、最後は快く承諾してくれました。

 次は医師です。保健室の先生の書類という発想から一歩踏み込んで、医師の所見も添えることを思い立ったのです。

 チーム医療を行っている複数の医師のうち、一番ベテランの吉田医師を救命センターに訪ねて事情を説明しました。吉田医師は、

「ああ、それで少しでも家族の負担が減るなら、書けるものは書きますよ。あれだけの治療をして収入にならないのでは、我々もやってられないしね」

と言って、以下のような要望書を書いてくれました。

「家族の説明や保健教諭の陳述書から、患者は抑うつ状態にあったものと思われます。縊首に及んだときは正常な判断能力を失っていたと思われるため、療養の給付は妥当と考えます。こうしたことから、国保の適用をよろしくお願いいたします」

 診断書を書き慣れた、医師らしい簡潔な文書でした。

「ボツリヌス菌注射の領収書、保健室の先生の陳述書とプリントアウトしたメールのやり取り、それに担当医の要望書を郵送いたします。国保適用をぜひご再考下さい」

 千住区役所の林氏にあらかじめ電話で伝えたのち、それらの書類を速達で送りました。結果を知らせてくれるのに数日待つ必要があるでしょう。

 その間にもう一つの結果は出ました。彩香さんの死亡です。電子カルテには以下のように記されていました。


吉田医師「人工呼吸器を外します。よろしいですね」

父親「よろしくお願いします」

抜管

母親「さようなら」

午後9時14分 心拍40台

午後9時22分 心停止、両親立会いのもと死亡確認


 無機質な記載の行間にどれほどの苦悩が溢れていたか、知る由もありません。

 翌日の夕方、千住区役所の林氏から早くも、国保使用を認める、という電話がありました。歩兵金成り、です。

「寛大なご配慮、誠にありがとうございます」

「正直申し上げて、ここまでなさった医療機関は初めてです。ある意味で感服いたしました。私どもも良い勉強になりました」

「恐れ入ります。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」

 42万9,280円。これが国保を使った患者請求額です。この金額なら、支払いをしても葬儀費用が残るでしょう。国保適用になった以上、支払い後には高額療養費も支給されるはずです。

 約一週間後、由紀子さんが夫と連れ立って、医療費の支払いに来ました。由紀子さんに呼び出されて、私が挨拶に立つと、

「この度は大変お世話になりました。私どものためにいろいろとお骨折り下さり、本当にありがとうございます」

と、夫婦で私に深々と頭を下げて、そう言いました。

「ご迷惑とは思いながらも、話を聞いていただきたくて、いつも窓口に長居してしまいました。お忙しい中でつまらない話に付き合っていただき、本当にありがたい思いでした。話をするだけでもずいぶんと気持ちを吐き出せたものですから、つい甘えさせていただきました。その上、金銭面でも助けていただき、感謝のことばもありません」

 そして夫婦でもう一度、柳の枝のように腰を折りました。

 感謝などされることをしたわけではありません。未収にさせないための職業意識が根底にあってのことです。確かに同情に軸足を移してはいましたが、それでもバランスを崩すようなことはありませんでした。

 私にできたのは話を聞いてあげること、そしてせめて経済的な負担を減らしてあげること、それだけでした。

 それでもこんなに頭を下げる気持ちにさせる。何が救いになるか分からないものです。苦難にある人にとって、ほんの少しでも気持ちに寄り添ってくれる人がいるということは、それほど大きいものなのでしょう。

 初めて会った彩香さんの父親は由紀子さんと似た、真面目でおとなしそうな男性でした。二人とも、どんなに救いのない10日間を過ごしてきたことでしょう。誰をも責めることなく、お互いの傷を思いやりで癒してほしいと思いました。


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