きみとのやくそく
目を覚ますと、空が見えていた。
白い入道雲が遠くで俺を見下ろしていた。
そんな静かな空に、俺は大きく息を吐いた。
目の前の光景を見て、ああ、こんな日だったよなあと俺はあの日のことを思い出していた。
大好きだった、でも全然素直になれなくて、いっつも喧嘩ばっかりしていて、色気もクソも無かったし、高校生にもなって小学生みたいな付き合い方だったよなあ俺らと俺は口の端で笑ってしまう。
何だか少し前のことのはずなのに、随分と懐かしく思えた。
それは確かこんな記憶だった。
「バッカじゃないの!?」
放課後のざわざわした教室内で、机を叩く音と共に強く特徴的なソプラノの声が響く。
馴染んだ顔が俺の前に現れて俺は反射的に口を開いた。
「何でお前にそんなこと言われないといけないんだよ!」
夏空の下、狭い教室内で飽きもせずに俺達は言い争いを続けていた。
クラスの連中からは、ああ、また夫婦喧嘩ね、ほどほどにしときなよと言われる二人だけのコミュニケーションだったけれど、俺達は必死だった。
癖のあるミドルヘアを猫のように逆立てながら、あいつは牙を剝く。
「私以外言う人がいないからでしょうが! 感謝の言葉も無いわけ!」
はいはい、御馳走様と言う声がどこからか聴こえたが、俺は無視して目を細めた。
「別にお前に言われる筋合い無くね?」
うわー、出たよジゴロ発言という呟きを引き裂くようにあいつはくわっと目を見開く。
「ざっけんじゃないわよ! ちょっと来なさい! もー頭来た!」
がたんと胸元のネクタイを引っ張られて、俺はあいつに引きずられる格好で席を立つ。
おー、嫁は強いねー、ありゃ完全に尻に敷かれるねとまた無責任な発言が飛び交う。
「おい、ちょっと……」
お気をつけて、骨は拾うわという言葉が教室から去る前に聞き取れた最後の言葉だった。
俺とあいつは小さい頃から家が近所で、親同士も仲が良い、所謂幼馴染の関係だった。
何の因果か、高校も一緒で、クラスも一緒で、部活も一緒だった。
言っておくが、俺は狙ったわけじゃない。でも、いつも俺達は一緒に居た。一般的に思春期って呼ばれる時期がきても俺達の関係はあんまり変わらなかった。まあ、あいつが外見はともかく、男っぽいってこともあったし、俺があんまりあいつをついこの間まで異性として意識していなかったのもあるのかも知れない。
考えてみると、姉とか妹とか家族みたいな、ものすごく近い距離の存在だったのだ、あいつは。
変わってしまったのはあいつの何気ない一言だった。
「幼稚園の保母さんになりたいんだよね、私」
進路説明会のあった帰り道、あーだこーだと飽きもせず雑談をしていた結びにあいつは唐突にそう締めた。
「はあ? お前が?」
内心、その言葉は俺にとってものすごく衝撃的だった。俺の方を見ないまま、あいつは少し微笑んで続けた。
「いや、だってさ、何かやっぱり憧れるよ。子どもと親の両方の悩みを真剣に聴いてくれてさ、優しく手当してくれたりとかお昼寝の時間にちっとも寝ない子を本当に寝かしつけてくれたりとか大変なこともいっぱいあるのにいっつも笑顔でさ」
その言葉は照れもあったけど、確かな強さもあった。本気でそう思っているのだと俺は感じ取った。何だか少し不安と寂しさを覚えて、俺は口を動かした。
「お前なあ、保母さんって綺麗で仕事出来る女の人がやるんだぞ?」
あいつの顔が見ないままに俺は軽い口調でそう返してしまった。
「……綺麗でも仕事できないかも知れないけど、私だって女だよ?」
ハッとして、俺はすぐに隣を見る。あいつの大きな瞳が少し潤んでいて、何の抵抗もなく、吸い寄せられた。
世界の心音が聞こえてしまったような気がした。
そして、言ってしまってから俺はその先しばらく、このことをものすごく後悔して消えたくなった。
だって、そうだろう。
こんな失礼で、気の利かない台詞中々ない。
「で、あんたどうするわけ? マジでそろそろ決めないと私に怒られるだけで済まなくなるよ? 先生もおじさんもおばさんも心配してるんだし」
教室から出た俺達は、屋上に着いて、解放された俺はフェンスにもたれ掛かりながら長い溜息を吐いた。
「来週には決めるよ」
「嘘だね。あんた本当に嘘吐くとき人の顔見ないよね」
「別にそんなんじゃねーし」
「じゃあ、ちゃんと私の顔見て言って。ほら」
あいつの顔がずいと俺に迫ってくる。頭一つ分の身長差のせいで、あいつの真っ直ぐな目が俺の下から迫ってくる。太陽の光を反射して、きらきらと光る瞳は俺の顔を射抜いてくる。
「いや、だから……」
耐えきれなくなって俺は目線を明後日の方向にずらす。
「ほら、嘘だ。まーた嘘吐いた」
ちらりと盗み見た視界の端であいつの目はいつまでも俺から離されることはなかった。
じりじりと熱い日差しのせいで、俺もあいつも肌が湿っていて、お互いの体温が感じられてその度に俺の身体から不自然に速い音が響く。
ほんの何年か前までは手を繋いで帰っていた癖に、今は触れ合わない距離ですら俺の心臓を早める要因になるのが少しおかしかった。
「ねえ、私には本当のことを言ってよ。どんなこと言っても笑わないからさ」
「分かった。話すからちょっと落ち着けよ」
「ん」
ふわりと彼女の髪が揺れて、身体が離れた。甘い匂いが夏の風に混じって俺に届く。
「ほら、ちゃんと話して」
「俺、ホントによく分からないんだって。将来とか、何になりたいとか、そういうの」
俺は正直に今の心境をぽつりぽつりと零していく。あいつの表情はその何でもない一つ一つを取りこぼさないように真剣だった。ゆっくりと俺の言葉の意味を汲み取ろうとして、頷いて、やがて大きく頷いて手を組んだ。
「んー、でもあんた、昔、幼稚園のバスの運転手になりたいとか言ってたじゃない?」
人差し指を小さな下唇に当てながら、あいつは斜めを向く。
「お前なあ、何年前の話だよ? てか、よく覚えてたな」
忘れてないのを悟られないように俺は軽い口調で返す。
「ほら、幼稚園でさ、ぼくはしょうらいばすのうんてんしゅになるーって。何か他にも言ってた気もするけど……」
唇を尖らせた声真似は残念ながら全く似ていなかったけれど、可愛かった。俺は少し慌ててそれ以上を思い出されないように口を挟んだ。
「いや、それで全部だって!」
「そうだっけ?」
「……そうだよ」
思い出せないなら、そのままにしておいてくれと俺は心中で祈った。それくらい照れ臭かったのだ、俺にとっては。
「なら、それでいいじゃん。なりなよ。バスの運転手」
「お前なあ、そんな簡単に……」
「素敵なお仕事だし、あんたによく似合ってると思うな、私」
優しい笑顔と共に渡された言葉は温く俺の心に沁みた。
「……考えとく」
表情が柔らかくなってしまうのを隠す様に俺は表情筋に力を入れた。
「ん、よく考えて。でも、どんな将来でもさ、誰が笑ってもさ、私は応援するからね」
「馬鹿……」
「あ、ちょっと」
唐突に俺は首を横に曲げ、あいつの肩口にもたれ掛かる。柔らかい感触が側頭部から伝わった。
「お前が悪い」
他人の体温や匂いが自分にとってこんなにも安心するものだと少し前まで俺は知らなかった。
「何でそうなるわけ? ……甘えん坊め」
「うっさい」
「ん、よしよし。へへへ、いつか子供が出来たらこんな感じなのかね?」
本当に子供をあやす様にあいつは俺の頭を撫でた。幸せそうな声音が俺の勘違いでないと思いたかった。
「俺は子供じゃねーぞ」
「はいはい、知ってますよー」
誰にも見せられない二人だけの時間だった。
「くそー」
甘えの頂点ってのはこういうことなんだろうなと思いながらも、その心地良さを俺は手放したくなくて、しばらく身体を離すことが出来なかった。
「さ、帰ろ。甘えん坊のバスの運転手見習いさん」
「うるせー。違うって」
身体を離して、俺達は並んで歩いた。屋上からの階段を降りながら、俺達はまた他愛もない会話を繰り返す。
「楽しみだなあ、あんたがバスの運転とか」
「お前は乗せてやんない」
「何よ、もう。本当に素直じゃない! 折角可愛い彼女が慰めてんのに!」
「自分で言うなよ!」
「ふん! あんたが悪いんだからね!」
「今のはお前が悪い!」
「いーっだ!」
白い歯を見せて、あいつは表情をころころと変えて俺の前を走っていく。
俺達の日常はいつもこんな感じだった。
少し前の話を思い出す。告白は俺からしようと思ったのに、将来の夢の話を聞いてからほどなくして、あいつはあっけらかんと俺に想いを告げてしまった。
梅雨の真ん中。大雨注意報が朝から出ていて、大粒の雫が隙間なく落ちる日の放課後だった。
俺達は懲りもせずにつまらないことで喧嘩していて、あいつはもういいと言って屋上に走って行ってしまった後を俺は追いかけた。
遮蔽物の無い屋上で俺達は一気にずぶ濡れになった。
「おい、こっち来いって。風邪ひくぞ」
髪に当たる粒が痛い。視界も悪い。あいつのシルエットが水気で少しぼんやりとする。
「もう構わないでよ! いっつも喧嘩ばかり! こんなことしたくないのに!」
「あー、もう俺が悪かったって。とりあえずその件は置いといて、とりあえずここから出よう。本当に風邪ひいたらどうするんだよ?」
「……ほっといてよ。どうでもいい」
話があまりにも進まないのとあいつの言い分に少し腹が立った俺は声を荒げた。
「どうでもいいわけねーだろうがよ!」
ぐいとあいつの手首を握った。強めに引っ張ったわけでは無かったはずなのに簡単にあいつの身体が動く。びくりと俺は咄嗟に力を緩めて、可能な限り優しく、握り直す。
「何で、あんた、こんな時は優しいのよ……」
その感触が伝わったのか、あいつは静かな声で呟いた。雨音の中でぎりぎりその声は俺に届いた。
「知るか! とにかく……」
「気づいてないだろうけど、私あんたのこと好き。ずっと。勿論異性としてだからね」
唐突でやはり静かな消えそうな声だったなのに、俺の耳にその声は届いた。
「……それは」
俺はぎりっと声を上げそうになって歯を食いしばった。その甲斐あって、何で今なんだよという声が喉奥で押しとどまってくれた。
「……最悪、何でこんなとこでこんな風に言っちゃったんだろう」
堪らなくなって、俺はあいつの細い身体を引き寄せて覆い被さる様に抱き締めた。
自分に比べて一回り以上に小さい身体が俺に収まった。
「馬鹿、最高って言い換えろ」
耳元で俺は熱い息と共にそれだけを吐き出した。
雨がお湯に変わったのではないかと思うくらいに温かった。
「な、ちょ、ちょっと……」
あいつの身体も熱かった。
「ここでこんな風に言っちゃったのが正しいよ。……嬉しい。俺も大好きだ」
はっきりと言えたので、俺は少し安心した。回した腕に力が籠る。離したくない気持ちが抑えられずに反射的に俺はあいつに密着していた。
「あは、暖かい」
髪を伝った雫が心地よかった。あいつの体温と感触と心臓の音が俺を包み込んでいく。
「うん、柔らかいや」
「女子だもん、知らなかったでしょ?」
あいつの声が身体に響く。
「お前なあ……」
「ねえ、もう一回言って?」
「あー、その、何だ……」
「うんうん」
やばい、色んなことが抑えきれなくなってきた。
「……恥ずかしくなってきたからまた今度な」
我ながら情けない声で何とかそれだけ絞り出す。途端にあいつが腕の中で暴れ始めた。ずぶ濡れの身体がぴちゃぴちゃと音を立てた。
「ちょっと! 信じらんない! 何でここで日和るかな?」
「うるせーよ。お前こそ、ちょっとは恥じらえ!」
濡れた白いブラウスはこれでもかと言う様にあいつの体のラインを強調していた。
「あんたこそ、こんな時にどこ見て……。ああ、もう!」
今更ながら、胸元を手で隠しながら、あいつは歯を食いしばって、目を釣り上げた。
「ああ、ほら、とにかく、こっから出るぞ」
「う、うん」
ゆっくりと体を離す。もっと触れていたいと思う欲求が尾を引いていたが、とにかくこのままではどうにかなってしまいそうだった。
しかし、屋上のドアノブを握って、俺はそれとは違った意味で冷や汗を流した。
「なあ、ちょっと、緊急事態だ」
「何よ?」
「……開かない」
ドアノブが回らなかった。その冷たい感覚が伝わって、額を流れる汗も温度を下げた。
「え!? ホントだ。鍵壊れた?」
ガチャガチャとあいつも小さな手で、ドアノブから音を立てた。
「おいおい、冗談きついって」
「ちょっと、おーい、誰か―!」
雨音で俺とあいつの声は搔き消された。お互いの顔が合って、俺達は口の端を歪ませた。何と言うか、笑うしかなかった。
「……雨、止んできたね」
少しして、雨は勢いを弱め、小雨になりつつあった。
「うん、何か温度も上がってきたからあんまり寒くないな」
ゲリラ豪雨みたいな降り方だったから、落ち着いてしまえば、後は夏場の温度が戻って、温い空気が俺達を包みつつあった。
「むしろ、暑いくらい」
とりあえず、俺達は屋上の入口の椅子二つ分も無い広さの屋根の下で、並んで体操座りをして過ごしていた。
「二人分のスペースじゃ無いしな」
そう言って、俺は左の肩口にかかった雨を手で拭った。
「へへへ」
「何だよ?」
「あんたも男の子してるよねー」
「知らなかったのか?」
「知ってるよ。だから好きなんだし」
「お前なあ、よく」
くの音が空気を通る前に俺の口が塞がれていた。
音もなく、柔らかい感触が押し当てられていた。鼻が鼻に当たって何とも言えない熱さが生まれ、目を瞑ったあいつの顔が目の前にあった。
顔にこれでもかと言うくらいに血が集まって熱かった。
あいつの顔が離れて、唇からちゅっという二人にしか聞こえない小さな音が聞こえた。
くの発音を出した形のまま口が半開きになった。全てのことが一瞬だった。一瞬だったのに、世界の時間が狂い、異常に伸びたように感じた。それは何とも柔らかな感覚だった。
「へへへ、甲斐性なしめ。そんなんだと私に奪われるばっかりだぞー?」
「お前、覚悟しろよ……」
「わ、ちょっと。きゃは、ちょ、だめ、そこ弱いんだって。あ、もう……」
俺達はじゃれ合って、遊んだ。触れる肌の感触が、その度に発せられるあいつの反応が、ブラウスの真っ白さが、その全てが愛おしく、何度経験しても飽きないものだった。
「……この野獣め。ちょっとは落ち着いた?」
上気した頬を真っ赤に染めながら、あいつは笑った。乱れた髪と濡れた瞳と透けたブラウスから覗く肌が堪らなかった。
「落ち着かない」
「大丈夫だよ、この美女は逃げませんからね」
「誰が美女だ?」
「びしょびしょになった美女?」
「自分で言うな」
「へへへ……、へっくしょん」
「ほら、とりあえず、こっち来い」
肩を引き寄せて、身体を引っ付かせる。あいつの髪が俺の鼻先に当たった。
「ん……。って! 嗅ぐな、馬鹿! ヘンタイ!」
「何もしてねえよ! ちょっとは口閉じてらんないのか、お前は?」
もぞもぞと腕の中であいつは身じろぎした。その度に濃厚な甘い匂いが俺の鼻を刺激した。
「むーりー。興奮しすぎてわけ分かんないもん。私、告っちゃったんだよね? あんたに」
熱っぽい息を吐きながら、頬を染める表情が見慣れたはずの顔なのに、あんまりにも可愛くて仕方なかった。
「うん。聞いたし、俺も返事したな」
「へへへ、何かそれ夢で何回も見た話だからさ、夢心地なんだよね、今」
「そうかよ。ほら」
「んむ」
唇に唇を重ねる行為。
その温く柔らかい感触をもっと味わっていたくて、自分の想いや相手の想いをもっと分かって欲しくて分かりたくて、俺達は長く二人の時間を刻んでいった。
やがて、限界が来て、呼吸のために口を離す。
「現実だから。俺も好きなんだって。いい加減認めてくれ」
「あー、はい。認めますともさ。……ね、もっかい」
今度はあちらからの口づけ。飽きもせずに俺達は何度も何度もずぶ濡れのままキスをして、キスをしていた。
そして、俺達は今日に至る。
高校を卒業してそろそろ半年が経とうかという真夏のある日だった。
俺は高校卒業後、アルバイトをしながら、運転免許を一ヵ月前に取り、目下就職活動中だった。
のんびりし過ぎじゃないのとあいつにも自分の母親にも笑われた。
でも、毎日は充実していた。目標に向けて進む日々はとても有意義に思えたし、楽しかった。
あいつは隣町にある保育の専門学校に通っていた。
毎日勉強や実習で忙しそうだったけど、元々家が近所だったから、予定が合う日は毎日会った。時間が短い時もあれば、連休ずっと一緒に居た時間もあって、俺の人生の中で最も濃い日々だった。どこまでもその日々は続いていくものだと信じていたし、優しく甘い時間はその通りずっと続いていた。
でも、唐突に今それが終わった。
衝撃とあいつの悲鳴が思い出された。
我に返って、俺は首を起こし、辺りを見渡した。
あいつは、どうなったのかすぐに確かめなければならなかった。
幸いなことに、探し人はすぐに見つかった。
歩いて十歩分くらいのところ、短い草の生えた場所にあいつは顔をこちらに向けて、倒れていた。
ここから見る限り大きな外傷は無い。
放り出されたあいつはただ気絶しているだけのようだった。
ほうっと俺は大きく息を吐いて、真後ろの壊れたバスを見る。
乗客が殆どいなかったせいもあって、周囲に俺達以外の人影はなかった。
放り出されたのはラッキーだったんだろうなと俺は思った。
体を起こそうと力を入れた瞬間、ごぼっと口から血が零れた。
血と他の何かが失われる感覚に、俺は少し困惑し、恐怖した。
おそらく内臓のどこかがやられているのだとぼんやりと思った。
さっきから腹の感触がどこかおかしいのは多分そのせいだと察した。
痛いって認識できないのって怖いなと他人事のように考えた。
何とか、身体を起こそうとするが、下半身に力が上手く入らなかった。
でも、こうしてはいられない。
腕の力を使って、這って、彼女の顔に何とか手の届くところまで向かった。
ぼさぼさの髪にそっと手で触れると、それだけで安心してしまう。
くーくーと柔らかく呑気な呼吸が伸ばした手に触れて、俺は涙を堪えられなかった。
ぼろぼろと涙が頬を伝い、熱かった。
ああ、生きている。こいつは生きていてくれてる。
こんな状況でも俺はこいつが生きている奇跡に感謝した。
視界が滲む。涙のせいだけではない。どうしてだか分かってしまう。多分俺はもうすぐこいつの顔を見れなくなってしまうのだ。
思い出した一つ一つの記憶の断片が消えることなく、俺の指先に最後の力を与えてくれる。
なあ、お前さ、ちゃんと保母さんになれよ。ちゃんと夢を叶えてさ、夢を繋いでさ、それでまた夢を見てくれよ。
後方で大きな音がした。
かちかちと歯が音を立てた。
怖かった。嫌だった。逃げたかった。どうして俺がこんな目にと強く思った。涙が零れる。死にたくない。生きていたい。こいつともっとこの世界で色んなことをしたい。
でも、脅威は去ってくれない。
何かは分からなかった。でも、それが脅威であることは分かっていた。だから、俺は何の迷いもなく、彼女に覆い被さった。せめてこいつだけでもそんな脅威と無縁でいて欲しかったから。
すっぽりと彼女はいつものように俺の身体に収まる。
柔らかく、もう慣れ親しんだ愛おしい感触なのに、ずっとそのままでいたいと思えるのが少し不思議で嬉しかった。そんな場合じゃないのに、酷く安心して、このまま目を閉じたくなった。
夏草と混じる彼女の匂いが薄く鼻に届く。
頼むよ、お願いだから。
何を願うかも分からず、俺は必死で何かに縋る様に目を瞑って祈った。
再びの爆音。熱く強大な力が俺の身体を傷つけたが、そんなこともうどうでも良かった。
自分の将来を犠牲にしても守り繋げたいものがあることが今の俺には最上の幸福だと思えた。
なあ、お前さ、知ってたか? 俺、お前のことあの時から……。
三度の爆音で、俺の意識が薙ぎ払われたのは一瞬だった。
約束を果たしたい。どんな形ででも、いつか必ず。
最後に願ったのはそんなちっぽけで独りよがりな望みだった。
木漏れ日の眩しい初夏の日だった。
私は公園に幼い息子を連れて散歩に出ていた。
公園のフェンスを挟んだ道路を大きいバスが音を立てて走ると、息子は目をきらきらさせて声を上げた。
幼稚園に入ったばかりの息子は最近はバスがお気に入りで、本当に血は争えないと苦笑してしまう。
あの日、私達はバス事故に巻き込まれた。
目を覚ました私に突き付けられた現実はあまりに過酷過ぎて、事故後しばらく私は口もきけなかった。
奇跡的に死者はあの人以外に出なかった。
事故の規模の割に奇跡的なことだと新聞やニュースでは報じていた。
違う、と私は今でも思う。
私にとってあの人の命は他の人が何人死んでも代えられないものだった。
不幸なことにあの人以外は死ななかったと言い換えるべきだと何度も思った。
それくらいにあの人は私のとって大事な人だった。
あの人はバスの爆発から気絶していた私を守り、私に覆い被さって死んだらしかった。爆発による熱風と車体の破片によって彼の身体は激しく損壊していたのに、私の身体には傷一つ無かったという。余りにもあの人は私をきつく抱きしめていて、救急隊の人が泣きながらその身を引き剥がしたのだという。
「ねー、ぱぱのおはなしして。ぱぱってなにしてたひと?」
私の足に寄ってきた息子の声を聞き、私は優しくその頭を撫でながら微笑んだ。
「パパはね、バスの運転手になる予定の人だったのよ」
「えー、なら、ぼくのようちえんのばすも?」
「本当ならパパが動かしてたかもね」
そう、彼はもう少しで夢を叶えるところだったのだ。でも、あの日、私を守るためにその夢を失くしてしまった。
「ざんねんー。ぱぱのばすのりたかったー」
言い換えよう、私と息子を守るためだった。もっとも、あの時、それは私自身も知らない事実だったのだけど。
「そうね、ママもそうして欲しかったなあ」
そうなったら、きっと私の今の職場の同僚になっていたかもしれないなと私は微笑する。
「ままものせてほしかったの?」
「うん、一度でいいから乗ってみたかったなあ」
それは叶わなかったけれど、とても素敵で幸福なもしもの未来の想像だった。
「んー、ならさ、ぼくのばすにのってよ」
「え?」
ふと、亡くなったあの人の想像に耽っていた私の意識が息子に集中した。くるくると動く目がいつか見たあの人にそっくりで、その目は幼いながらに真剣そのものだった。それは、いつか私が見惚れた目でもあった。
「ぼくがおとなになったら、ぼくがばすのうんてんしゅになるからさ。そしたら、ままをのせてあげるよ」
「……まあ、この子ったら」
ぽろぽろと涙が溢れて落ちてしまう。
そして、私は少女の頃には忘れていたあの約束をはっきりと思い出した。思い出して堪え切れずに息子を抱き締めて嗚咽した。
「まま、どこかいたいの?」
「ううん、パパのこと思い出したの。聞いてくれる?」
「うん、いいよ!」
涙を拭って、私は息子にあの人との約束の話をした。
幼い日の記憶の断片を。
それは、そう。確かこんな会話だった。
“ねえ、しょーらいなんになりたい?”
“ぼくはね、いつか、きみをばすにのせるうんてんしゅさんになりたい!”
“わー! すごい! じゃあ、じゃあ、やくそくだよ。やぶっちゃだめだからね! ぜったいだよ。いつか、ちゃんとのせてくれないといけないんだからね!”
“うん、やくそくだよ。じかんがかかっても、ちゃんと、ぼく、なにがあってもまもるからね!”