閉じた世界のダブルバインド
「あんた友達いないんでしょう。私の暇つぶしに付き合いなさい」
ある日の放課後、俺を呼び止めたクラスメイトは、いきなりそんなふうに囁いた。
「言いふらすような友達もいないし、女慣れしてない童貞だし、扱いやすくてちょうどいいのよ」
失礼千万な言い様だが、その日はバイトもなかったし、家に帰ってひとりでだらだらしているよりは多少は有意義な時間にならないこともないだろうと、俺はほんの軽い気持ちで彼女を誘いに乗った。
「勘違いしないでね。あんたのことなんて本当に何とも思ってないから。ただの暇つぶしよ。根暗ぼっちでその程度の顔なら誰でもよかったんだから」
つくづく失礼な女だった。会話したのだってその日が初めてだし、クラスメイトではあるが、名前もはっきりとは覚えていない。長い髪の毛、大きな瞳。高い身長にすらっとした手足。彼女の周りには、常に何人かついていた気がする。
「あんたひとり暮らしなのね。ついてるわ。ほんと都合のいい男」
暇つぶしに何をするのかと思えば、彼女は俺の部屋についてきて、何を断るでもなく、堂々と室内を物色し、つまらなさそうに、表情ひとつ変えずにこう呟いた。
「まあなんでもいっか。ほら、脱ぎなさい」
あれ以来、俺と彼女は非常に爛れた関係を続けている。
初めて会話を交わした日にいきなり部屋まで押しかけてきて、すぐに身体の関係をもった。お互いに初めての経験だったにもかかわらず、特に何のドラマもなく、事を済ませた彼女はさっさと帰ってしまった。
「高校生だもの。興味があっただけ。誰でもよかった。友達のいないどうでもいい男ならちょうどいいでしょ。あんたもラッキーじゃない」
事故みたいなものだと思って忘れようとしていたのに、二日後にまた俺の部屋へ押しかけてきた彼女は、そう言って再び俺の前で服を脱いだ。
二日から五日に一度、彼女が俺の部屋にやってきて、望まれるままセックスをしてすぐに別れる。理由を聞いても、「興味があった」だの「なんとなく」だの、本当にどうでもいい答えしか返ってこない。意味が分からないが、そんな生活が二ヶ月も過ぎると、だんだん慣れてくる。慣れてくると、お互いに暗黙のルールみたいなものが出来上がってきていた。
「ねぇ、今日の放課後って空いてない?みんなでカラオケ行くんだけど」
「ごめんね。今日は予定があるの」
騒々しい教室のどこかから、そんな会話が聞こえる。今日は俺のバイトが休みの日だ。その会話の主には目を向けないようにして、教室の掲示板に吊るしてあるカレンダーを見る。昨日と一昨日はバイトがあったから、前回は三日前だ。
「残念。また暇なときに遊んでね」
「うん。ごめんね」
どうせ今日の予定なんて俺の部屋に来るだけなのに。暇なんだから友達と遊びに行けばいい。とは思いつつ、目線は絶対に向けないし、話しかけない。気にしている素振りすら絶対に見せない。
それが、ふたつある俺たちのルールのうち、ひとつめ。
学校では、お互い完全に不干渉であること。ただのクラスメイト。クラスが同じというだけで、会話もしたことがないただのクラスメイトである。どちらが言い出したわけでもないが、お互いに学校では存在すらしないものとして生活している。そうでなければ、俺たちが一緒にいるのは不自然だからだ。
成績優秀でみんなの人気者である彼女と、教室の隅で誰とも絡まずだらだらと過ごしては、放課後になるとすぐに帰る俺。誰がどう見ても、住んでいる世界が違いすぎる。俺としては、むしろ楽でいい。
放課後、いつものようにさっさと学校を出て、イヤホンから流れてくる音楽をぼんやりと聞いたままアパートまでの道を歩く。いつも通りに駅前のスーパーに寄って今日の夕飯の買い出しを済ませたところだが、時刻はまだ十六時を過ぎたばかりだ。彼女が俺の部屋に来るのはだいたい十八時ごろだから、まだ時間に余裕がある。余裕があったからといって、何をするわけでもないが。
「……おっそい」
ほとんど惰性のような音楽が頭のなかでぐるぐるまわっているのを何となく聞き流しながらアパートにたどり着くと、部屋の前にはすでに彼女がいた。玄関扉に背中を預けて、つまらなさそうに俺を睨んでいる。
「今日は私が来るって分かってたでしょ。なんでまっすぐ帰らないのよ」
彼女が来るのは分かっていたが、俺が帰るのはいつもこの時間である。おかしいのは彼女の方だ。いつもより二時間も早く来て文句を言われても、俺にはどうしようもない。
「お前がいつもより早いじゃん」
すると、彼女はつまらなさそうな顔をさらに不機嫌に曇らせて玄関扉を軽くノックした。
「早く開けなさい。誰かに見られたらどうすんのよ」
「……じゃあここで待ってんじゃねぇよ」
「なによ、文句あるの」
「べつに」
初めて会話をしたあの日、彼女は勘違いをするなと言った。今になって思えば、あんなことを言って釘を刺されなくても、勘違いなんてしなかったはずだ。いつもいつも偉そうに。
玄関扉を開けて、招いてもいないのに勝手に入った彼女を追って俺も部屋に入る。そうしたら、すぐにいつものやつが始まった。
最初こそ感慨のようなものもあったが、こう何度も繰り返していると、何の感情も湧かなくなってくる。ただ彼女の暇つぶしに付き合って、さっさと帰った彼女を見送ることもなく、ひとりでだらだらと過ごして眠るだけ。何もない。目を合わせることすら、最近はほとんどない。
「慣れてきたわね。ちょっと前まで童貞だったクセに」
「……さっさと終わらせて帰れ」
俺たちのルール。ふたつめは、キスだけは絶対にしないこと。本気で好きになった相手じゃないとキスはしたくない、なんて彼女が言い出したから。それ以上のことをしているのに、キスは嫌らしい。ただ、俺も彼女とキスはしたくないから、このルールを守るのはすごく簡単だ。
彼女の暇つぶしに付き合った後でも、今日はまだ十八時にもなっていない。始まるのが早かったからだ。
「はやく帰れよ」
今日はどういうわけか、暇つぶしが済んでからも彼女が帰ろうとしない。
「……ちょっと冷たいんじゃない」
「俺の優しさだろ。遅くなる前に帰らないと危ないから」
「なにそれ。いまどきそんなの流行らないわよ」
何が悲しくてこんなに態度の悪い女とふたりきりで長時間過ごさなければならないのか。思わずため息をつくと、彼女もまたうんざりした顔でため息をついた。
「少しくらい暇つぶしに付き合いなさいよ。時間が余ってるの」
今日の分は、もう終わっている。彼女の時間が余っているのは知らないしどうでもいい。
「さんざん付き合ってやったろ」
早く来たから、前倒しで早く終わっただけだ。勝手に早く来たのも、終わってから時間が余るのも、全て自分の責任だろう。そういう意味を込めて言い返すと、彼女はまた不機嫌そうにため息をついて首を振った。
「あんたヤることしか考えてないわけ。もっと他に娯楽はないの」
彼女と一緒にいると非常に多いが、かなりイラっとくる。彼女が勝手にやってきて終わったら勝手に帰っているだけだ。全て自分の責任なのに、どうしてわざわざ挑発するような口をきくのか理解できない。わざとやっているとかでないのなら、彼女は本当に人格に問題がある。このままここで喧嘩を売られ続けていると、イライラしすぎてどうにかなってしまいそうだ。
それなのに、彼女はなぜか少しも帰る素振りを見せず、勝手にテレビの電源を入れてリモコンを操作しはじめた。
「ここにいられると邪魔なんだ。さっさとどっか行ってくれよ」
抗議する俺の声を無視して、彼女はパチパチとテレビの画面を切り替える。一瞬だけ音声が流れてはすぐにまた違うチャンネルに変えられていくテレビの画面もまた、俺のイライラに拍車をかけた。
「おい。勝手に触んな」
テレビのチャンネルをパチパチやるのに飽きたらしい彼女が、テレビを乗せている低い台の足元に置いてあるゲーム機のコントローラを手に取った。それから顔の前に持ち上げて、角度を変えてぐるぐると観察しはじめる。
しばらくコントローラを眺めていた彼女は、やがて不思議そうな顔をして俺を見た。
「これ、コードとかついてないの」
「は?」
何を言われているか分かっていない俺からの返答を待たずに、彼女がコントローラの中央部にある丸いボタンに触れる。
すると、テレビの隣に立ててあるゲーム機から「ピッ」という音が鳴り、彼女は驚いたように肩を震わせてコントローラを取り落とした。
「……なにこれ。なにしたの」
低いモーター音を小さく響かせながら白いランプを点灯させたゲーム機を睨みつけて、彼女が呟く。
「勝手に電源入ったけど」
「お前が電源入れたんだろ」
何か納得できていないような顔で俺を見た彼女が、再びコントローラを手に取る。それから、またじろじろと角度を変えながら観察しはじめた。
「……ここのボタンを押すと電源が入るってことなの」
まさか、彼女は自分が手にしているコントローラがテレビ横のゲーム機のものだということが分かっていないのだろうか。
「なんだお前、知らないんだな」
彼女みたいな優等生は、ゲーム機に馴染みがないらしい。
「最近のゲームはみんなこうだ。コントローラで電源入れられるのなんて普通のことだぞ」
「でもコードとかついてない」
「無線なんだから当然だろ。充電切れなきゃケーブルなんて繋がねぇよ。ケータイと一緒だ」
彼女にとってゲーム機のイメージはいつの時代で止まっているんだろう。無線コントローラが普通になったのなんて、俺たちが小学生の頃からだ。
「あんたと違ってゲームなんてやんないから、知らなかったわ。べつに困らないし」
俺が何を言ったわけでもないのに、彼女がわざわざ弁明をする。顔を見ると、耳が少し赤い。しかし、これは恥ずかしいというよりも、知らなかったゲーム機の機能に驚いて少し興奮しているだけのようだ。その証拠に、彼女はリモコンを操作してテレビの入力を切り替えると、ゲーム機のメニュー画面を忙しなくがちゃがちゃと操作している。
「……どれかやってみるか」
あまりにも一心不乱に操作しているので、ついゲームを勧めてみる。新たな文明の利器に触れた老人に接するような親切心からだ。それと、少しリアクションを見てみたいところもある。
「ソフトはどこに置いてあるの」
最近のゲームに疎い彼女をひとつ驚かせてやろうと、コントローラを握ったままの彼女に指示を出す。
「そこのメニューに出てるやつ、全部できる」
「なに言ってんの」
やはりだ。彼女は、ゲームをダウンロード出来ることを知らないらしい。
「ダウンロード版買う方が多いからな。嵩張らないし、パッケージ買うより楽でいいぞ」
「……へぇ」
俺の話を聞きながら、彼女がダウンロード済みのタイトルを次々に物色していく。何が何なのか分かっていないみたいで、結局は一番先頭に表示されているやつを起動した。
「便利になったのね」
タイトルの起動画面が表示されると、彼女はちらりと俺に目を向けて呟いた。
この部屋で誰かの笑顔を見たのは、これが初めてだった。
結局、彼女はあれから脇目も振らずゲームに挑んでから、いつも帰るのと同じくらいの時間に帰っていった。
「このままじゃ終わらせないわよ。またそのうちリベンジさせてもらうから」
最初のステージすら満足にクリアできなかったのがよほど屈辱だったのか。彼女は負けず嫌いらしい。そんなに意外ではない。
彼女が帰ってから、俺はようやく訪れたひとりの時間をわずかに満喫して、さっさと食事をとってすぐ布団に入った。
暗い部屋で横になっていると、なんだか必要以上に疲れを実感する気がする。特に今日は、彼女がいつもより面倒だった。変な時間に現れたり、俺のイライラを煽ったり。
ぼんやりと見える天井を見つめたまま、ため息をつく。
今日もあいつはウザかったな、なんて思うと、どうしてこんなことを続けしまっているのか、不思議で仕方なくなってくる。ただの暇つぶしに付き合うとはいえ、理由も目的もなく、ただ態度の悪い女に振り回されるのは、とても面倒だ。
寝返りを打って、目を閉じる。面倒なことは考えないようにしよう。そうやって先送りにしていけば、そのうち彼女も飽きてどこかへと消えるだろう。あれが面倒、これが嫌だなんてばかり考えていると、胸のあたりに何かがわだかまって、眠れなくなってしまう。
明日は休日だが、やらなければならないこともある。早く寝ないといけない。
学校もバイトもない休日。月に一回か二回くらいある、完全にフリーの日だ。今日は、彼女にも俺の部屋へ来ないように伝えてある。本当ならひたすらだらだらと過ごして、気が向いたら勉強でもしているところだろうが、そういうわけにもいかない。
俺は地元駅前のファミリーレストランで、ひとりの男性と向かい合って座っていた。
「元気そうでよかったよ」
そう言いながら、品のいいスーツにネクタイを締めた四十代の彼は、背筋を伸ばしたまま俺に微笑んだ。
「学校も変わりはないかい」
「はい、おかげさまで」
だいたい月に一回くらい、俺はこうやって彼と会う。両親の知り合いで、俺の父に大きな恩があるらしいが、詳しくは知らない。両親が死んで身寄りのない俺の後見人。父の遺産を管理してくれていて、俺の住む部屋を含めて様々な援助をしてくれているのも彼だ。
「聞いたよ、成績がいいらしいじゃないか。やっぱりご両親に似て頭がいいんだね」
「あれくらい普通です」
「大学はもう決めてるのかい」
「ええ、まあ」
彼と話すとき、いつも緊張する。他人だし、大人だからだろうか。バイトで接する他人の大人ではこんなに緊張はしないから、きっと他に理由があるに違いない。
「ご両親が遺して下さった遺産はじゅうぶんにあるから、好きなところで好きなことを学ぶといい。君の成績なら、きっと望む学校へ入れるはずだ」
たぶん、こういうところが少し苦手なんだと思う。無理強いせず、俺を育てるために手を貸してくれる、親ではない大人。血の繋がりもなければ、俺と彼を繋ぐはずの親だって、初対面の時点ですでに死んでいた。怪しくはないし、これまで不利益もなかったが、距離感を詰めるほどの愛着もない。
ほとんど俺の親みたいなものなのに、全く知らない誰か。他人でも身内でもない曖昧な大人。普段は輪郭もはっきりしないのに、彼の前にくるとはっきりと認識できるようになる。それは居心地の悪さに姿を変えて、俺の身体にまとわりついてくる。その居心地の悪さが、このところ俺のすぐ近くにいる誰かさんの醸し出す不機嫌な匂いと似ていて、どうしても落ち着かない。
物腰も、口のきき方も話の内容も全て違うのに、雰囲気がどこか彼女に似ている。こんな時にまで俺の前に彼女がいるみたいで、何だか急激に疲れてきた。
「君なら大丈夫だ。これからもよく頑張るんだよ。応援してる」
それから俺は、近況報告と軽い世間話をして彼と別れた。一時間程度しか会っていないのに、一日中過ごしたかのように疲れている。今日はまだまだ時間があるのに、もう帰って眠りたいほどに身体が重い。
どうしても、頭のなかに彼女がちらつく。全く違うはずなのに。ただ、一緒にいると居心地が悪いというだけなのに、頭のなかで彼女が微笑む。意地悪な顔だ。
ふと気がついたら、俺は自分の部屋で横になっていた。締め切ったカーテンの隙間から差し込むオレンジの光を見ると、今が夕方くらいであることがなんとか分かる。朝焼けかもしれないが、あの方角から朝日はのぼらない。
記憶が曖昧だ。彼と別れてから、どうやって帰ってきたのかもよく覚えていない。ものすごく疲れていて、さっさと帰ろうと思って歩き始めたのが最後の記憶だ。本当に、気がついたら部屋で寝ていた。
「……起きたのね」
寝起きでうまく働いていない上、記憶の混濁でぼんやりとしている脳みそに、どこか聞き慣れた声が響く。これには、さすがに疲労感よりも驚きの方が勝って、反射的に上体を跳ね起こしてしまった。
「お前こんなとこでなにしてんだよ」
確かに俺の部屋だ。目の前には、ほぼ慣れ親しんだ風景が広がっている。ただひとり、俺の部屋に似つかわしくない女が不機嫌そうな顔で俺を睨みつけていることを除けば。
「あんた、寝てる時は少し可愛げがあるのね」
「勝手に入ってきたのか。今日は来るなって言ったよな」
俺は何時頃に部屋へ帰ってきて、彼女が何時頃にここへやってきたのか、それすらも分からないが、玄関の鍵すらかけていなかったのか。不用心だった。最近、ストレスと疲れが溜まっているんだろう。
「……あんたが呼んだんでしょう」
上体を捻って背骨と首を鳴らしていると、彼女がため息をつきながら呟いた。
「は?」
全く記憶にない。
「あんたが私のこと呼び出したから出てきてやったのに、人のことほっといて四時間も寝てたのよ」
「何の話だよ」
本当に知らない。しかし、彼女が俺に突き出した携帯電話の画面には、たしかに俺からの着信の履歴が残っている。時間は、彼と別れてから三十分後だ。
「泣きそうな声でちょっと付き合えとか言うから、たまにはあんたに合わせてやろうと思ったのに」
必死に記憶をたぐり寄せてみても、彼と別れてから今までの記憶がすっぱり抜けている。
「……覚えてない」
俺の携帯電話を確認してみると、やっぱり彼女へ電話をした記録が残っていた。
「どうりで様子がおかしいと思った」
彼女がまたため息をついて言う。
嫌な予感がした。
「あんた、私に何したかも覚えてないんでしょう」
「……何かしたか」
記憶が全くない。背中に嫌な汗が滲んでくる。彼女にいつもと違う様子はないが、いつもどおり機嫌が悪そうだから、何があったとしても不思議ではない。
「何もなかったわ。あぁ、バカバカしい」
確実に何かあった。しかも、馬鹿馬鹿しいと呆れられるような何かが。
「なんか……悪かったな」
詳しく聞いたところで、どうせ俺の不利益にしかならないだろうから、ここはひとつ罪を認めておく。俺が彼女を呼び出したのは本当のことらしいし、放置したまま眠っていたのも本当のことだ。休日の時間を無駄に使わせたのは、たしかに少し申し訳なかったと思う。
「へぇ、あんた人に謝れるんだ」
かちんときた。下に出るとすぐこれだ。やはり彼女とは合わない。
「悪かったとは思うけど、やることなかったなら帰ればよかっただろ」
「そうやってすぐ文句言うのね」
「お前の態度がムカつくんだよ」
「馬鹿みたい」
寝起きだからか、簡単な一言でもいつもよりイライラする。
「帰ってくれないか」
今日は疲れた。彼女には悪いが、あとはもう何もせずひとりで過ごしていたい。
「嫌よ、暇なんだから」
「いいから出てけ」
このままここにいられたら、もっと酷くなる。今日はダメな日だ。苦手な大人と嫌いな女、その両方を一日で相手にしていたら、俺の精神衛生上よろしくない。
疲れていても腹は減る。そして、たまたま家に食料がないなら、やはり買い出しには行かなければならない。
「あんた本当に料理とかできるの」
駅前のスーパーに買い出しへ向かう道中、なぜか俺の隣を歩いている彼女がそう呟いた。
帰らない。そう言い張って引かない彼女は、俺の買い出しについてきて、さらに俺が作った料理を食わせろとまで言い出した。
間違いだらけだ。俺と一緒にいるところを人に見られたくないはずだろうに、これから向かうスーパーは駅前だ。
「誰かに見られたらどうするんだよ」
たしか、昨日は彼女からそう言われた。俺の部屋の前で待っていた時のことだ。
「見られたら何なのよ。クラスメイトにたまたま会って一緒に歩くのくらい普通じゃない」
「昨日は俺の部屋の前で文句言ってたじゃねえか」
「それはあんたの部屋だからでしょ。たまたま会うのとは状況が違うじゃない」
道でばったりと待ち合わせの違い、ということらしい。だが、それでもおかしいものはおかしい。スーパーについてそのまま別れるならまだしも、俺の部屋で食事をすると言っているのだから。
「このあとまた俺の部屋行くんだろ。その時に人に会ったらどうすんだよ」
「気をつければ平気よ。あんな人通りの少ないとこにあるアパートで誰に会うっていうの。馬鹿じゃない」
言っていることがメチャクチャだ。
この話をこれ以上続けていると頭が変になりそうなので、このあたりでやめておく。最後にため息だけついておいた。
「こんにちは」
どうして俺が彼女のために食事まで作らなければならないのか、なんて考えていると、どこからか声をかけられた。
「茅野さん、こんなところでどうしたの」
一瞬で背中まで冷たくなる。彼女の名前を呼ぶということは、知り合いだ。俺たちと同年代の男。どこかで見たことがあるような気がするのは、きっと同級生かなにかだからだろう。
「こんにちは。ちょっとお買い物に行くの」
彼女の切り替えが早かった。一瞬だけ小さな舌打ちが聞こえたかと思うと、俺とふたりでいるときには見たこともないような優しい笑顔で男に答えた。
「そっちは?」
彼が、俺のことを見ながら言う。声のトーンは普通に世間話の体だが、どう見ても目つきに険がある。何を考えているのか、手に取るように分かった。
そんなことを知ってか知らずか、彼女は学校で見せるような優等生の声でころころと話す。
「そこでたまたま会ったの。同じクラスだよ、知ってるでしょ?ちょうど方向が一緒だから、せっかくだしお散歩してるのよ」
咄嗟の嘘にしてはよくできていると思う。同級生にたまたま会ったからといって一緒に歩いているというのがリアリティに欠けるとは思うが、もしかしたら彼女のような友達の多い人種には普通のことなのかもしれない。
「そうなんだ。それじゃあ、また学校でね」
「うん。気をつけてね」
彼が微笑んで軽く手を振る。それに応えるように手を振る彼女は、笑顔のままため息をついた。
「……めんどくさ」
見えなくなると、すぐに声が低くなった。いつも俺が聞いているのと同じ声だ。さっきの舌打ちといい、表裏がはっきり分かれているというのは、恐ろしいというか闇が深いというか。
「ほらな、だからやめとけって……」
「うるさい。いいから行くわよ」
彼女がまた舌打ちをして、俺を置いていくくらいの速度で歩き出した。そのまま置いていってくれたら楽だが、あとでもっと面倒なことになりそうなので、仕方なくついていく。
買い出しを済ませ、俺よりも堂々と俺の部屋に上がり込んだ彼女を待たせて、だらだらと料理を作る。一人暮らしが長いと、家事全般は手馴れたものだ。
「……まあまあね」
彼女からの評価も高い。べつに褒められたから何があるわけでもないが、これはこれで気分がいい。
「あんたなんで一人暮らしなの」
食事を終え、片付けを終えて帰るのかと思いきや、彼女はゲーム機の電源を当たり前のように入れて呟いた。
「まだ若いのに。実家は遠いの」
「そうだな」
「あらそう」
肉親は死んだし、親戚もいない。後見人はいるが、そんなことまで彼女に伝える必要はないだろう。
「生活とか大変よね」
「べつに」
そういえば、ひとりの生活でなにか困ったことがない。家事はひとりでこなせるし、生活費の問題もない。勉強もひとりで出来ていれば、バイトだってできる。ごく稀に、夜になると何かが頭をよぎることもあるが、ほとんど無視できるようなものだ。
「お前はどうなんだよ」
むしろ、俺の生活で困っていることといえば彼女のことだ。突然やってきては、文句を言って自分勝手に過ごして帰る。今だって勝手にゲームをはじめている。
「いつも俺の部屋に来てるけど、友達とか家族とか、もっと他に行くところねえのか」
すると、彼女はテレビの画面から目を逸らすこともなく、簡単に呟いた。
「両親は家にほとんどいない。友達は学校だけ。私はその全員のことが嫌い」
あまりにあっさりと言うので、俺はため息に混じった返事を小さく漏らしたまま軽く頷く。ひとりが好きなのか、孤独を気取っているだけなのか。みんなが嫌いなら、俺のところにも来なくていいのに。
「俺のことも嫌いだしな」
全員が一律で嫌いなら、相手は本当に誰でもいいんだろう。たまたま俺だっただけで、何かの拍子に別のやつとうまくいけば、そっちに行ってしまえばいい。
彼女の言葉は、単純だ。簡単に予想できる。ただ、思っていたより不快に感じることが多い。今回も、嫌いだ、勘違いするなという言葉が返ってくるに違いない。
そう思っていたら、彼女は忙しく動かしていた指を止めて、俺に顔を向けて答えた。
「あんたは特別」
予想外の言葉だった。
「……は?」
「気を使わなくていいもの。ここにいるのは楽だから好きよ」
気を使わなくていい、ときた。どういう基準で俺にだけ気を使わないでいいと判断したのかは謎だ。
「ひとり暮らしで都合のいい男。面倒もないし、私にいちいち口出しもしない。便利だから嫌いにはならないわ」
「口出しもするし文句も言うけどな。お前なにくつろいでんだよ」
なんとなくで俺の部屋を休憩所代わりにされては、彼女にとって面倒でなくても俺が面倒だ。来てもいいときと、来てほしくないときがある。俺にだって、ひとりになりたいときくらいある。
「はぁ……」
彼女はわざとらしく声に出してため息をつくと、コントローラを床に置いた。
「あんたねぇ、人がせっかく来てやったのにそういうこと言うのは良くないわよ」
「それは……」
もはや見慣れた不機嫌な顔でそう呟きながら、四つん這いの姿勢で俺に向かってくる。たしかに、今日は俺が呼んでしまったらしいから、失敗だったと反省している。
「しんどそうな声だったから何かあったのかと思って来てやったの。それくらいにはあんたのこと好きよ」
「あぁそうですか。それはありがたいことですね」
「喜びなさい。あんたのこと、知り合いで一番好き」
目の前に這い寄ってきた彼女が、俺の肩に手をかける。
「あんただけは特別、ね」
彼女の顔がぐっと近づいてきて、頬に柔らかい感触が触れた。
「この辺ならキスしてあげてもいいくらいには好き」
「……馬鹿か」
頬に変な熱が残っている。
やや強引に引き剥がすと、彼女は柔らかく微笑んだ。
「呼んだら来てあげるってこと。じゃあ今日はもう帰るわ」
学校で見るような、さっき同級生に向けていた笑顔とも違う、いやに熱のこもった微笑みだった。
立ち上がる彼女に何か声をかけようとして、喉が詰まる。
「あの……」
「なに」
鞄を手にした彼女が振り返ると、まだあの微笑みが顔に残っていた。
「……ありがとな」
何を言っていいか分からなくて、とりあえずそれだけが口から出てきた。何に対しての感謝なのかも分からない。
「私だって、いつも感謝してる。ぼっちのくせにいい仕事してるわよ、あんた」
「お前なぁ」
彼女が笑って、なぜか俺も笑えてきた。
「ここ来たのにヤらないで帰るの、初めてだね」
「たまにはな。体力的にな」
「ひょろひょろだもんね、あんた」
ふたりで笑いあったのは、初めてのことだ。
休日に少しこれまでと違うやりとりがあったからといって、なにか変わるわけではない。あの休日を明けて、さらに二週間ほど経っても、学校では彼女と一切の干渉をしないというルールに変わりはなかった。ただ、家に来るときは、以前よりも会話をすることが増えたような気がする。
「ねえ、茅野さんと付き合ってんの?」
トイレから教室に戻る廊下で、誰かに声をかけられた。後ろを振り返ると、スーパーへの道中で遭遇したあの男が立っていた。
「……付き合ってねぇけど」
やはり同級生だった。やけに攻撃的な目つきで俺を見る彼は、ひと気のない廊下でわざわざ俺に話しかけてきて何のつもりだろう。
「じゃあ、茅野さんのこと狙ってる?」
「は?」
ほとんど初めて会話をした相手にいきなり聞くようなことか。友達が多い人間になるには、こういう最初の会話で相手をイラつかせるのが絶対条件なんだろうか。
「あの日はたまたま会っただけだ、お前も会っただろ、おんなじだよ」
「だよね」
こういう人間は本当に嫌いだ。多少の無礼さは彼女で慣れたと思っていたのに、またタイプが違う。
「もし狙ってるならやめとけって言おうと思って。あんなにつまんなそうな顔してる茅野さん見たことなかったから」
「性格わっるいなお前」
そろそろ、さっさと離れていって欲しい。というか、こんなやつと話をして笑顔を作れる彼女を少し尊敬した。ウザすぎる。
「まあ、身の程をわきまえて大人しくしてるならいいんだよ。彼女は僕がもらう」
「そうか。頑張れよ」
俺に喧嘩を売って満足したのか、彼はさっさと歩いていった。あの自信はどこからくるのか分からないが、ああいうタイプの人間も世の中には存在してしまうということだ。やけに使い込まれた制服だったが、そんなに活発なタイプには見えない。中古だろうか。まあ、俺にはどうでもいい。
ため息をついた。
これが、彼女の言うところの、面倒というやつだろう。あんなのに絡まれて、自分のキャラを保つために笑顔を作っていたら、それはたしかにストレスが溜まる。あれがひとりだけならまだしも、きっと他にもああいうやつからうんざりするくらい声をかけられているに違いない。
「……かわいそうに」
次はいつ来るか分からないが、次に会ったときは、もう少しだけ優しくしてやろうと思った。
次に会うとき、といっても、それがいつになるのかは分からない。とはいえ、そう遠くはないだろうと思っていたが、まさか当日だとは予想外だった。いや、来てもおかしくはないが、なんとなく今日は来ないかな、なんて思っていたものだから、学校から帰って部屋で勉強しているときに呼び鈴が鳴って、自分でも驚くくらい大きなため息が出た。
「……お前ほんと暇な」
「あんたも暇でしょ。ぼっちなんだから」
挨拶代わりに軽く罵声を浴びせられ、彼女を部屋に招き入れる。今日のこともあるし、多少の無礼には目をつぶってやることにした。あんなのにつきまとわれたらうんざりして当然だ。
「ああ今日も疲れた」
足繁く俺の部屋に通い続けた彼女は、ついに何をするでもなくだらけるという技を身につけてしまったらしい。
彼女はまっすぐ俺の布団に向かい、畳んであったそれを当たり前のように広げて寝そべった。
「お昼寝させて」
「家でやればいいのにな」
「家にいてもひとりぼっちよ。誰かいた方がいいじゃない」
あくび混じりに返ってくる彼女の声は、今にも眠りに落ちそうなくらい小さい。
「おいお前マジで寝るつもりか」
目的もなくやってきてただ寝るだけなんて、いよいよここに来る意味がない。
すると、彼女はほとんど目を閉じたまま笑顔を浮かべた。
「なに、ヤりたいの。仕方ないわね」
俺に手を伸ばしながらそんなことを言うが、そういう意味で寝るなと言っているわけではない。
「誰がするか」
「もうなんでもいいわ。ほら、手」
こちらに伸ばした手を軽く振って、彼女が俺に何かを催促する。
「なんだよ」
「手、こっちにほら、はやく」
ほとんどまともな言葉にもなっていない。ため息をついて彼女の手をとると、そのまま布団に引っ張られた。
覆いかぶさるような姿勢で見下ろすと、彼女がようやく目を開けて俺をじっと見つめる。その場を動こうとしても、手をしっかりと掴まれたままだ。
「ほら、好きにしていいのよ」
「しねえよ」
「素直じゃないのね」
素直な気持ちだが、今日は彼女の様子がなんだかおかしい。
「お前ちょっと変だぞ」
「そうかしら」
「変だ。いつもより馬鹿っぽい」
いつもはもう少し生意気で不機嫌で腹の立つ言葉をどんどん投げかけてくるのに、今日はふにゃふにゃしているばかりで、どう対応したらいいのか分からなくて戸惑ってしまう。
「ちょっとムカつくことがあったのよ」
そう言いながら、彼女が俺を見上げたまま微笑んだ。ムカつくことがあったという割には、笑顔なのはどういうわけだろう。
「この前、そこの道で会った人のこと覚えてるでしょ」
ムカつくことというのを話しはじめたであろう彼女の口から出てきたのは、あの男子生徒のことだ。あいつなら、俺だって今日はムカつくことがあった。
「今日もあの人に話しかけられたのよ。こんど一緒に映画でも行かないかって」
どのタイミングかは知らないが、俺に喧嘩を売ってきたのと同じ日にデートに誘うなんて、無駄な行動力というかなんというか。どうでもいいが。
「もちろん行かないんだけど、あの人それからなんて言ったと思う」
突然クイズ形式になる会話は苦手だ。正直に言って、興味がないから答えはなんだっていい。
「さあな」
素直に答えると、彼女は俺の首に腕をまわしてまた微笑んだ。
「この前のやつみたいなのと一緒にいると、根暗がうつるからやめたほうがいいよって」
「あいつすげえな、逆に」
「うんざりしちゃった」
彼女が腕に力を入れて、頭を少し持ち上げる。引き寄せられた額がくっつくと、ふわりと甘い香りがした。
「私ね、あんたのこと悪く言われるとムカつくみたい。なんでだろうね」
投げやりな声で彼女が笑う。
「……さあな」
彼女の瞳がまっすぐ俺に向けられて、抱きつかれたままの俺はそれから逃げられない。
「あ、俺も今日あいつに話しかけられたんだ」
なんだか気まずくなってきて、必死に彼女に話題を提供する。会話が途切れたらいけないような気がしたから。
「へぇ。なんか言われたの」
「お前のこと狙ってんのかって……」
そう言いながら、これは今のタイミングでは言わないほうが良かったかもしれない、なんてことを思った。
「……お前があんなつまんなそうな顔してるの見たことないって言われたな。俺と一緒に歩いてるときのことだよ」
これでは別の話題に切り替えられない。
迂闊な自分の口を呪う。
「ふぅん。あの人そんなこと言ったのね」
「まあ、うん、気にするなよ、そういうのはほっとけばいいだろ」
「もちろんあの人のことなんかほっとくわよ。でもイラつかされた私とあんたの気持ちはどうすればいいの」
「それは……」
俺がそう言いかけた瞬間、彼女の腕に力が入って、額がくっついたままの頭をもっと引き寄せられる。一瞬で見えなくなるくらい顔が近づいてきて、これまで感じたことのない感触が唇に触れた。
「……お前」
長く触れていた唇が離れた一瞬だけ漏らした俺の声は、またすぐに塞がれた。唇が少し触れては離れ、すぐに触れる。小さな声を漏らしながら、彼女は鳥が啄ばむようにキスを繰り返した。
「ごめんね、あんたのこと馬鹿にされるのがこんなに嫌だって知らなかったの」
しばらくキスを続けていた彼女が、少し上がった息を整えながら呟く。別に、彼女が俺のことをそんなに評価してくれる必要はないはずだ。
「お前が気にすることじゃないだろ……」
「咲徒」
急に名前を呼ばれて、心臓が止まりそうになる。彼女に呼ばれるのはもちろん初めてだし、人から名前を呼ばれること自体、ずいぶん久しぶりだ。
「咲徒も名前で呼んで」
今日はどこかおかしい。やはり、そう思ったのは正解だったが、それにどう対応すればいいかは全く分からない。
けれど、俺も単純なもので、初めて見るような表情や態度で接してこられると、なんだかそれに合わせてやるほうが楽な気がしてきてしまう。それに、あまり悪い気もしない、というのがやや厄介だ。
「……揚羽」
「うん」
名前を呼んでやると、彼女は見たこともないくらい明るい表情で笑った。はっきり言って嫌いだったのに、この顔はそんな気持ちなんて忘れてしまうくらい、彼女に関する全部の記憶が書き換えられてしまうくらい魅力的だった。
「気を使わなくていいのはどうでもいいからだと思ってたんだけど、違うわ。一緒にいるとほっとするの。咲徒、好きよ」
初めて会った時からは考えられないような声と顔で、彼女が俺の名前を呼ぶ。彼女にこんなことを言われるなんて全く想像していなかったのに、驚くほどすんなりと胸に嵌った。
「揚羽、俺は……」
けれど、俺からは彼女にかけてやれる言葉が見つからない。たしかに今ははっきりと彼女と同じような感情を持っているはずなのに、何も言葉が出てこなかった。
「いいのよ、無理しないで」
言いあぐねている俺を見て、彼女が優しく微笑んだ。
「今までたくさんひどいこと言ったもの。すぐに全部受け入れてくれなくていいの。今は流されてるだけでもいいから」
「揚羽……」
先日までの態度が嘘みたいに、彼女は素直だ。
俺はそんな彼女の魅力を言葉にできない自分が少し情けなくて、恨めしくて、けれどそんな俺の戸惑いも全部分かったような顔をした彼女は、また俺にキスをした。
「ね、触って」
彼女が、俺の手を自分の胸元にあてる。
「好きな人とするのってどんな気持ちなのか、確かめてみたいの」
もうだめだ。物事が一気に動きすぎて、俺の頭は焼き切れてしまったらしい。
彼女と関係を持つようになって初めて、俺は自分から彼女の身体に触れた。
少し前までは確実に嫌いだったはずの相手と、一般的な友人の平均よりも仲良くなってしまうなんて、こんなことってあるんだろうか。実際のところ、俺はずっと小さな疑念が拭い去れないでいる。もしかしたら、彼女がたちの悪い冗談か何かを企んでいて、俺はまんまと罠にはめられているんじゃないか、なんていうことを考えてしまったりしているのだ。そんなことを考えてしまうから、彼女にぼっちだのなんだのと言われてしまうんだろうと思う。友達がいないと、どうでもいいことでも後ろ向きになってしまうものだ。
とはいえ、彼女が素直になるのは、俺の部屋にいる時だけだ。学校ではこれまで通り、お互いに不干渉を貫いていくことになっている。彼女が言ったのだ。恥ずかしいし面倒だからみんなには内緒にしたい、と。
だから俺は、学校では彼女のことを視界にも入れず、声にも耳を傾けない。一切の意識を彼女に向けなければ、うっかり面倒をかける心配もないというわけだ。
「咲徒、ねぇってば咲徒、聞いてるの」
「お前マジかよ……」
俺は間違いなく確実にルールを守った。不干渉を貫き通した。それなのに、彼女は俺の机の前に立って、堂々と俺を見下ろしている。
「お昼、一緒に食べたいんだけど」
昼休み、いつも通りに自分で用意した弁当を広げていたら、彼女が当たり前のように話しかけてきた。ルールはどうした。
「自分が何て言ったか覚えてるよな?」
「べつにいいじゃない。同じところに咲徒がいるんならやっぱり一緒にいたいわ」
「お前そういうのは……」
俺としては、はっきり言ってどうだっていいとは思う。ただ、彼女にとってはあまりよろしくないんじゃないだろうか。実際、同じ教室にいる何人かがこちらを見ている。口のきき方だって、俺と話すときは同級生と話しているときと違うから、そのあたりのイメージがおかしくなってしまうのも、彼女にとって面倒なのではないだろうか。というか、面倒のはずである。
「……なにあれ」
「揚羽ちゃんの彼氏?」
「あの人が誰かと話してるとこ見たことないよ」
そこらじゅうから、ひそひそと話し声が聞こえてくる。ただ、中身はほとんどが俺に関することで、彼女の態度がいつもと違うという点について話している声は聞こえないのがラッキーだった。俺の評価なんて、今さらどうなったって関係ない。
俺の前の席に誰もいないのをいいことに、彼女が勝手に座って自分の昼食を用意しはじめる。どうやら本気らしい。
「……ねえ、その人って、揚羽ちゃんの」
「彼氏なの」
横から小さな声で話しかけてきた女子生徒に対して、彼女が人当たりのいい笑顔で答える。やっぱり本気だ。ちょっと目眩がしてきた。
まわりに気づかれないように、小さくため息をつく。彼女が本気だということは、それなりの面倒も覚悟しているということだろう。それは俺のためだし、俺のせいだ。つまり、俺も彼女の面倒に付き合ってやらなければならない。彼女にここまでやらせて自分だけ無関係でいたいというのは、さすがに罪深い。
遠巻きに様々なひそひそ話をされて過ごした時間もなんとか終わり、これまで彼女がひとりで感じていたストレスからようやく解放された放課後、帰り道ではそれが普通であるかのような顔をした彼女が俺の隣を歩いている。
「みんなに言っちゃったね」
「言っちゃったねじゃねえよ……」
昼休みから放課後までの間、色々と変な声や視線が絶えなかった。これが彼女の感じていた面倒かと思うと、ひとりで耐え抜いてきた彼女を少し褒めてやりたくなる。
「ひそひそじろじろ、すげえ鬱陶しいな」
「でしょ、みんな遠巻きなのよ」
「お前よくこれまで耐えてたな」
俺なら、あんなのにひとりで曝されていたらきっとすぐに音をあげていた。
すると、繋いでいた手に少し力を込めて彼女が笑う。
「でも、好きな人と一緒にいるのってすごいわ。安心する」
人というのはこうも変わってしまうものなのか。まあ、いいことだとは思うが、こうも変わられては、やはり俺の方がついていけない。
「このところお前のイメージがどんどん変わっていくな。なんか変な感じだ」
「お前って呼ばれるの寂しいんだけど」
「そういうとこだよ、揚羽」
人の神経を逆撫でするわけでもなく、ただ寂しいとか安心するとか、楽しいとか好きだっていう言葉を、他でもない彼女が口にしているのが、俺にとっては不思議で仕方ない。違和感を通り越して、ちょっと魅力的に感じてきたくらいだ。
「ちょっと前まですごい嫌いだったのにな」
「じゃあ今は好きなのね」
「普通」
「素直じゃないんだから」
それから、いくつかの無駄話をしながらふたりで歩いた。今日は、残念ながら俺のバイトの日だ。そろそろ時間なので、別れなければいけない。
「頑張ってね」
「気をつけて帰れよ」
彼女が手を振って歩いていくのを見送る。誰かとこんな会話をする日がくるなんて、思ってもみなかった。そんなに悪いものじゃない。
バイトといっても、高校生が働ける時間なんて限られているもので、夜の九時にはもう終業の時間だ。
バイト先を出て、ポケットから携帯電話を取り出すと、ちょうど同じタイミングで彼女からチャットアプリの通知が来たところだった。いろいろ面倒だと言うわりには、彼女はこまめにこうやって連絡を寄越す。今のような関係になるよりも前からだ。
『おつかれさま』
彼女からのメッセージを確認して、ちょっと悩む。こういう場合、なんと返すのが正解なんだろうか。ありがとう、でもどこか変な感じがするし、俺から別の話を始めるのも何か合わない気がする。たぶん面倒くさがっているだけだ。
しかし、返信の内容が思い浮かばない時は、そのままにしておくとすぐに別の話題で彼女からのメッセージが送られてくる。その作戦でいこう、なんて少し卑怯なことを考えていると、すぐに次のメッセージが送られてきた。思った通りだ。
『いま何してるか当ててみて』
新しいメッセージは、もっと面倒だった。興味がない。なんていう返信をするときっと怒られるのは分かっているが、本当に興味がない。それに、彼女がいま何をしているかなんて、分かるはずがない。知ったことか。
『勉強』
『ハズレ』
『テレビ』
『ハズレ』
『読書』
『さきと私に興味なさすぎ』
『正解』
我ながら冴えたやりとりだと思ったのに、彼女からは不満げな顔をした動物のキャラクターのイラストが描かれたスタンプが送られてきた。彼女に興味がないわけではない。彼女がいま何をしているかについてのみ、興味がない。
俺から話題には全く関係のないスタンプを送ってお茶を濁すと、彼女から返信がこなくなった。しばらくだらだらと歩いていても、なかなか返ってこない。まさか本当に怒ったんだろうか。アプリの画面を確認すると、チャットのトーク画面に表示されている俺から最後に送ったスタンプに、彼女がそれを確認したアイコンがついていない。しかし、よく考えたら時間にしてまだ五分くらいだし、これくらいなら普通だ。俺なんか返信自体しないで翌日に直接文句を言われたことがある。
彼女からの返信を待ちながら駅前のスーパーに寄るための道を歩いていると、不意に背後から何かがぶつかってきた。何かというか、人だ。その誰かは、ぶつかってきてそのまま腕を俺の腹にまわしている。
簡単にいうと、抱きつかれている状態だ。
まさかと思いつつ、ほとんど答えを知りながら、背後の人物に話しかけてみる。
「こんな時間にどうした」
答えがない。仕方ないので、もう少し正解が分かりやすい言葉をかけてみることにした。
「揚羽、会いにきてくれたのか?」
「……たまたまこのあたりに用事があったの」
わざわざ俺のバイトが終わる時間に合わせてこんなところにいてくれた彼女の声は、どこか変だ。腕を離させて振り向いてみると、彼女は俯いたまま俺の手を握った。
「咲徒に会いたかった」
「泣いてんのか、どうした」
俺がバイトに行っている間、何かあったらしい。会いたいというだけで寂しくて泣きだすようなタイプではないはずだ。
「部屋に行くだろ」
「うん……」
とりあえず、買い物は後回しだ。黙ったまま涙を拭っている彼女の手を引いて、俺は部屋までの道を歩きはじめた。
俺の部屋に入るなり、玄関で彼女が抱きついてきた。
「おい……」
「咲徒、好きよ。本当に大好き。もう咲徒がいなきゃだめなの……」
そう囁いた彼女が、涙を流しながら俺にキスをする。
「どうしたんだよ、何があった?」
「だって……」
ひとまずその場は彼女をなだめて、畳んだままの布団の横に座らせる。俺もその隣に座ると、彼女はまた俺に抱きついてきた。
「……咲徒と別れてから、あいつがきたのよ」
「あいつ?」
「そこで会ったやつ」
「あぁ……」
あいつか。あの例の同級生。俺に喧嘩を売ってきた性格最悪の制服がボロいあいつだ。
「何かされたのか?」
良い人間じゃないとは思っていたが、まさか彼女に何かしたのではないだろうか。心配になって尋ねると、彼女は首を振った。
「ちょっと話そうって。断ったのにしつこいから、ほんのちょっとだけお茶したのよ、ちょっとだけね。私が好きなのは咲徒だけだからね」
「あぁ、うん。分かった分かった。大丈夫だから。ありがとな。それで?」
彼女の背中をさすりながら先を促す。
「……あの男、咲徒と別れて自分と付き合ってくれって」
「おう、期待を裏切らないな。さすがだわ」
「もちろん断るじゃない、そんなの。そうしたらあいつ……」
そこで、彼女が俺の胸に顔を埋める。また涙が出てきたようだ。
「私が本当は咲徒のことが好きなわけじゃないんだって、ただひとりぼっちで都合の良さそうな相手を見つけて勘違いしてるだけだって言うの」
「それで口説けると思ってるのがすげえな」
「咲徒のこと、最初はただ都合が良かっただけだったけど、でも、今は本当に好きなのよ。勘違いなんかしてない、私は咲徒が好きなの……」
ついに彼女が声を漏らしながら泣きだす。
最初のきっかけがそうだったから、図星を突かれたような気持ちになってしまったんだろう。嫌なやつから向けられた事実とは少し違う話を否定するために俺への気持ちを自分に言い聞かせていたら、訳が分からなくなってしまったらしい。
こういうときにかけてやる言葉は、どういうのが適切なんだろうか。それとも、言葉をかけずにただ泣かせてやるのが正解なんだろうか。
答えがわからなくて、俺はただされるがまま、腕のなかで震える彼女を抱きしめていた。
「家にいると寂しいの」
ひとしきり俺の胸で泣いた彼女が、やがて深呼吸をしながらゆっくりと話しはじめる。
「お父さんもお母さんも、帰ってくるのが遅かったり、いなかったりして。お父さんなんか、たまに会ったら知り合いのお子さんがすごいんだぞって。そればっかり。私も見習いなさいってね」
「それは大変だな」
中学の頃に両親が死んでしまった俺にはいまいちピンとこないが、家族がいても疎外感や距離を感じてしまうことはあるだろう。むしろ、家族だからこそそういう距離感が辛く感じるのかもしれない。
彼女が指で目元の涙を拭いながら微笑む。
「お父さんにね、本当は褒めてもらいたいの。勉強だって頑張ったんだよ」
「偉いな」
「頑張ったら、家族じゃなくて学校の人が私をちやほやするようになったの。すごいねって。目も合わせてくれないようなのばっかりなのに」
彼女が頑張ったのは、父親に認められたいから。それなのに、頑張っても得られるのは同級生からの羨望ばかりときた。
きっと、彼女にとって立場が近い連中から認められたところで嬉しくもなんともないんだろう。もっと上の、自分じゃない他の家の子供を褒めそやす父親から認められなきゃ意味がない。
「家にいても寂しいし、学校でもなんかつまんないし。イライラしてたのよ」
彼女のイライラは、劣等感と閉塞感が根源のようだ。認められたい、この程度じゃ満足できないという気持ちが、若い身体に衝動を溜め込ませる。
「たぶん、世界が狭いんだよ。俺たちみたいなガキにはすごく狭い範囲しか見えてないのに、見えてる全部が世界そのものなんだ。だからもどかしくてイライラする」
「そうなんだろうね」
なんて偉そうに言いつつ、気持ちは分からなくもない。父親に対する感情は俺には分からないが、目標になかなか近づけないもどかしさみたいなものは、きっと誰もが心のなかに抱いているはずだ。劣等感というか、何か物足りない気持ちだ。
「でね、学校で誰かが話してるの聞いたのよ。彼氏とどんなことしてるって」
「あぁ……」
「どこに行ったとか、キスしたとか……セックスした話とかしてるんだよ、学校なのに」
「それで」
「私もやってみたいなって」
イライラしているところに、知り合いのそういう話を聞かされては、興味を持つのも仕方ない。
「それで、ちょうどよさそうな男が俺だったんだな」
俺がそう言うと、彼女が小さく頷いた。
「誰かとしてみたいけど、彼氏はいらないかなって。そしたら、友達といるところとか見たことない、ちょっとくらい遊んでも誰にも言いふらさない感じのちょうどいいのがいたから……」
「悲しい」
「ごめんね」
分かっていたし、そんなに嫌でもない。ちょっとからかってみただけだ。彼女の頭を撫でて、俺は話の続きを促した。
「咲徒は、実際に話してみるとすごいしっかりしてる。おどおどしてたりしないで堂々としてる。それに、私にはっきり文句言ってくる同級生なんて咲徒が初めてだった」
成績優秀で友達の多い彼女に文句をつけようものなら、誰に何を言われるか分からない。誰も彼女に喧嘩を売ったりしないはずだ。ただ、友達のいない俺にはそんなの関係なかった。ぼっちには人間関係の死角がない。
「気を使わないでいいし、咲徒も気を使わないでくれる。ウザかったらはっきり嫌な顔するし、文句言ってくれるから、何も考えずに一緒にいられるの。それで思ったの、この人って、ずっと一緒にいられるんじゃないかなって」
「ずっと?」
「うん。本当にずっと。何年も一緒にいられる気がしたの。そしたら、急に咲徒のいろんなところが、その……」
彼女はそこで言い澱み、俺の顔を見る。
耳まで真っ赤だ。
「なんだよ」
なんだか恥ずかしくなってきたので先を急かすと、彼女が赤い顔で微笑んだ。
「咲徒のいろんなところが、素敵だなって思えたんだよ」
「おぉ……」
彼女の笑顔を見たら、急に心臓が跳ねまわりはじめた。
俺が彼女のことを好きかどうかなんて、今までは曖昧なままにしていただけだったんだとはっきり分かった。
これは、そういう種類の笑顔だ。
「揚羽、俺お前のこと好きだ」
確実に、いま自覚した。これまでぼんやりと思っているだけだった気持ちが、胸のなかではっきりした。なんとなく一緒にいるだけだったけれど、文句を言ったり、いちいち言動に感情を揺り動かされていたのも、彼女に言いようのない魅力を感じていたからなんだろうか。
彼女のせいで、俺のペースは乱れっぱなしだ。
「咲徒……」
彼女が、恐ろしく魅力的な笑顔のまま俺を見つめる。見たこともない、完璧に美しい笑顔だ。
しかし、俺は知らなかった。
「嬉しい」
彼女の笑顔は、もっと上のレベルがあった。
俺のような人間では目を開けていることすらできないような、眩しいほど美しい。あまりの眩しさに、俺は瞼を閉じて、ゆっくりと近づいてくる彼女を強く抱きしめた。
こんなに誰かとお互いを強く求め合ったことなんて、これまで一度だってなかった。友達だって特に必要だとは思わなかったし、中学の頃には家族だっていなくなってしまったから。支援してくれる人はいるが、そばにいてくれる人はいなかった。それでじゅうぶんだった。
「安心するでしょ。私のこと抱きしめてると、咲徒もちょっとくらい癒されるよね」
一緒の部屋で抱き合った彼女が囁いた言葉は、馬鹿らしいけれど、間違ってはいない。
彼女を抱きしめていると、胸のあたりが温められていくように感じる。ただ触れただけでも、なんだか妙に喜びを感じてしまう。自分でも驚くような変化だ。
放課後にふたりで一緒に俺の部屋へと向かいながら、駅前のスーパーに寄るのも、少し前の俺にとっては理解できないことだろうが、この上なく楽しいのだ。
「このところストレスが少ないのよ」
隣を歩く彼女が、ふとそんなことを呟いた。
「良かったな」
面倒事と親への反抗心や劣等感が少しでも紛れているなら、それはいいことだ。俺もそれに貢献できているなら、もっといい。
「咲徒への気持ちがはっきりしたからかな。よく分かんないけど、一緒にいたいのはなんでだろうって思ってた頃のモヤモヤとかもなくなってすごいスッキリしてる」
彼女はこうやって、いきなり心臓をくすぐるようなことを言う。俺なら、たとえ思ったとしてもなかなか口には出せない。
「よくそんなこと言えるよな。恥ずかしくないのか」
「こんなこと咲徒にしか言わないし、聞いてるのも咲徒だけでしょ。全然恥ずかしくないわ」
もっと恥ずかしいこと言ってあげようか、なんて言いながら笑う彼女に手を引かれて、俺の部屋への道をふたりで進む。こんなこと想像したこともなかったし、憧れがあったわけでもないが、もう知らなかった頃には戻れない。俺にとって夢でも思い描けないような幸福だ。
あんなに鬱陶しかったのに……なんて思いつつ、あと少しで俺の部屋、という路地まで来たところで、俺を引っ張って歩いていた彼女が足を止めた。
「どうした?」
ぶつかりそうになるのをぎりぎりのところで避けると、彼女は正面を見たままため息をついた。そして、俺も彼女の視線を追ってため息をつく。
「……ストーカーね、あの人」
「すげぇな、ちょっと尊敬するわ。なんか怖えよ」
俺の部屋まであと少し。ひと気の少ない路地に、例のあいつがいた。やはり制服がどこかくすんでいる。
ふたりで精一杯冷たくあしらったのに、なぜか彼まで部屋に入ってきた。断ったのに。この時点で警察を呼んでもいい気がするが、そうすると彼女にとって面倒なことになりそうだし、俺も面倒だ。それに、ここへ警察がきたら俺の後見人にも連絡がいってしまうはずだから、あの人に無駄な迷惑をかけてしまうのでやめておいた。まあ、俺は何も悪いことをしていないのできっと問題はないだろうけど。
「そんなに俺のこと好きか」
「君、ひとり暮らしだったんだね」
俺のちょっとした冗談を無視して、彼は俺の部屋を見回している。
「実家を離れてひとり暮らしするなんて、ちゃんと自立してるんだ?」
この前はいきなり喧嘩を売ってきたのに、今日はどうでもいい話からはじめている。面倒だからさっさと終わらせて帰ってほしいのに、これでは本題に入れない。
「で、何しにきた?」
どうせ大したことない内容の死ぬほどどうでもいい話なんだからと、俺は彼の無駄話を早々に打ち切って本題を促す。彼は、鼻から息を抜くように軽く笑った。
「いや、なんでこんなのと付き合ってるのかなって」
彼女に向ける視線は、俺でも分かるほど悪意に満ちている。本当に意味が分からない。
「わざわざこんなとこまで来てそんな話か?」
こんなにどうでもいい話に付き合わされて、俺と彼女の時間が浪費されるのは嫌だ。少しくらい強気に出るべきだろうと思い、俺はなるべく高圧的な言葉を選ぶ。
「お前、嫌われてんの分かんねえか?うざがられてんだろ」
どうせ彼も礼儀なんて考えなしに失礼な口をきいてくるに決まっている。
「僕は納得いかないんだよ、茅野さんみたいに成績優秀で美人でスタイルもいい女の子が、なんでこんな大したことないやつと付き合ってるのか。もっと他にも選べるはずだよね?」
やはりだ。失礼にもほどがあるし、話の内容だってものすごくどうでもいい。
「お前のがいいってことか?」
「簡単に言えばね」
「マジかよ」
彼のこの自信はどこからくるのだろう。そんなにすごい人間なんだろうか。そう考えて、そういえば俺は彼のことを何も知らないということに気づいた。名前も知らない。名前も知らないから、完全に他人だ。だからこそ、失礼な物言いに腹が立つ。
「僕はね、こんなのよりもきっと茅野さんを幸せにできる自信がある。いい大学にはいって、いい会社に就職して、好きなことをさせてあげられるよ」
今どきそんな口説き文句があるだろうか。ちょっと笑いそうになっていると、隣に座っている彼女がため息をついたのが聞こえた。吐息がちょっと震えている。隣を見ると、彼女は俯いて肩を震わせていた。こんな時に笑うなんて、いい性格をしている。というか、ずるい。俺だって笑いたいのに。
笑われているのに気づいていない彼を見ると、もっとおかしくなってきた。この自信満々な感じを崩してやりたくなってくる。
「たぶんお前より俺のがいい大学いくけどな」
そもそも、彼が無意味に誇っているまだ決まっていない進学についての認識が、どう考えてもおかしい。
「試験の成績貼り出されるだろ。俺、自分より上に名前書いてあるの見たことねぇわ」
定期試験の成績は、常に学年で首位をキープしている。後見人がどの大学も行けると言ってくれたのは、俺の実力を認めてくれているからだ。そこは俺にだって自信がある。
「進学は単純に成績で決まるわけじゃないよ」
「そうか?まあなんでもいいけど」
飽きてきた。面白くない。
「僕は兄も同じ高校に通ってたんだよ、生徒会長だった。みんなの人気者だったんだよ」
「だからなんなんだよ……」
面白くないし、急に何が目的が分からない関係のない話を始められてうんざりした瞬間、ふと頭に何かがよぎった。
彼は、兄も同じ高校、といった。
「あぁ、なるほど……」
ようやく分かった。そういうことか。
「お前その制服お下がりか。なんでそんな年季の入った制服着てんのかずっと気になってたんだ。あぁスッキリした。なるほどな」
同じだけの期間しか制服を着ていないはずなのに、彼の制服だけやけにボロかったのは、そういう理由があったらしい。彼の無駄な関係ない話に感謝だ。
「……これは僕の御守りみたいなものだよ。馬鹿にしてるのかな」
制服ごときに謎のこだわりがあるらしい彼は、どういうわけか少しイラついた口調でそう呟いた。どの面を下げて不機嫌でいるつもりなんだろうか。招かれてもいない人の部屋なのに。
彼の態度に、俺も少しイラっときた。俺の部屋だし、恋人とふたりきりの時間を邪魔されている。もっと強く汚い言葉を投げかけてやってもいいはずだ。
「いいじゃんか。服がお下がりなら女もお下がりがいいんだろ?人の女にちょっかいかけるようなやつが着るには色落ちしたボロい服が似合ってるよ」
すると、隣にいた彼女がいきなり俺の手を握った。少し力が強い。顔を見ると、彼女は軽く首を振った。
今のは言い過ぎだったらしい。人の部屋に上がりこんで喧嘩を売ってくるような男はどうでもいいが、彼女に嫌われるのは本意ではないので、このあたりでやめておく。
「まあ、どうでもいいから早く帰れよ」
さっさと終わらせて帰ってくれれば、今日はもうそれでいい。嫌な気分にさせてしまった彼女に早く謝らなければいけない。
それなのに、今の言葉で怒ったらしい彼が小さく口を開いた。
「……君がそんな言葉を人に向けて平気な人間だなんて、実家の家族が知ったらどう思うかな」
「ぜひ聞いてみたいね」
聞けるものなら。俺の家族はもういない。
すると、彼は彼女に向かって話し始める。
「聞いたよね、こいつこういう人間なんだよ。茅野さんのことだって馬鹿にしてる。友達がいないのも分かるでしょ、たまたま都合が良かったから勘違いしちゃったかもしれないけど、こういうやつはやめたほうがいいよ」
彼女は答えない。彼女の返答なんか待たずに、彼からの言葉はまだ続いた。
「実家を離れてひとりで暮らしてるのに友達さえ作れないようなやつが、人気者にちょっと遊んでもらっただけなんだよ。運が良かったんだ、君は」
今度は俺に向けられた言葉だ。べつになんとも思わなかった。強がりでもなんでもなく、そんなものは俺にはどうだっていい。
しかし、続けて投げかけられた言葉に、一瞬心臓が止まった。
「ひとり暮らしさせてくれてる両親に感謝しないと。こんなラッキーな体験をさせてくれてありがとうって」
彼の吐き出したラッキーという言葉が、俺の頭のなかで強く反響する。彼女に出会えたのはラッキーだ。幸運だ。そんな幸運に恵まれたのは、ひとり暮らしをしてひとりぼっちだから。
目眩がする。これまで、両親が死んだことに何か思ったことなんてなかった。悲しいとも、辛いとも思わなかった。俺はそういうタイプだと思っていた。
ひとり暮らしをしていてラッキーだった。
「そうだな。両親が死んだのは、そう考えるとラッキーなことなのかもな」
自分でも気づかないうちに、そう口にしていた。
「……咲徒」
隣から、彼女の声がする。手を握ったままだ。
「なるほど、今度からそう考えることにしよう。揚羽と一緒にいられるのは両親が死んだからだ。感謝しないとな、死んでくれてありがとうってな」
「ねぇ、咲徒」
「あの、そういうつもりで言ったわけじゃ……」
ふたりが何か言っているが、よく聞こえない。
自分の声すら、よく聞こえない。
ただ、頭のなかに、両親が死んで良かったという言葉だけがぐるぐるとまわっている。
「いいんだ、ようやく分かったよ。なんで俺だけ遺して死んだのかなってずっと気になってたんだ。そうか、死んでくれたおかげで揚羽と一緒にいられるんだ……」
「もうやめて!」
頬に強い衝撃がきた。何が起こったのか分からないほどの強い痛みと、熱くなった俺の頬に触れて涙を流す彼女の顔が、混乱していた頭を急激に冷ましていく。
「僕は……」
俺と彼女を交互に見ていた彼が、怯えたように震える声をだす。
「帰りなさい」
彼女が、俺の手を握ったままそちらを見もせずに呟いた。こんなに低い声は、久しぶりに聞くような気がする。
「ごめん、知らなかったんだ……」
「早く出ていって!」
彼女に一喝され、そそくさと彼が俺の部屋から出ていく。その後ろ姿の情けなさを見ていたら、なんだか俺まで悲しくなってきた。
「私あんたのこと絶対に許さない。もう二度と私と咲徒に関わらないで」
逃げ出していく背中に、彼女が恐ろしいくらい冷たい声を投げた。俺でも聞いたことがない声だ。こんなに憎悪のこもった声をぶつけられたら、きっと俺ならしばらくは立ち直れない。
玄関の扉が閉まって、ようやくふたりきりになる。そうしたら、すぐに彼女が俺の頬を優しく撫でてきた。
「咲徒、ごめんね……」
泣いている。彼女が泣くようなことじゃない。
「いいんだ、悪かった」
俺はというと、自分でもどれほどの言葉を発したのかまだ自覚できていなくて、頭がぼんやりしている。ただ頬に痛みを感じるのと、心臓が気持ち悪いくらい強く打っていて、立っていられないほどの目眩に襲われていた。
こんな調子では、せっかくふたりきりになれたのに彼女の相手をしてやれない。
「お前も、今日はもう……」
「帰らない。今日は絶対に咲徒から離れないから……」
今日は早めに帰った方がいいと思って口にした言葉は、彼女に泣きながら遮られた。
ふたりきりの部屋で俺に抱きついたまま、彼女はしばらく泣いていた。彼女のすすり泣く声を聞いて、髪の毛を撫でていると、俺の頭のなかも少しずつ整理されてきた。
両親が突然の事故で死んでから、俺はずっとひとりだった。中学を卒業するまでは養護施設で世話になったが、それも数ヶ月のことで、誰かと仲良くなることもなかった。高校のために後見人が部屋を用意してくれてからは、言うまでもなくひとりきり。
思えば、両親のことについて考えてる時間なんてほとんどなかった気がする。ある日突然、なんの前触れもなく二人揃って死んでしまった。当時は現実感がなくて、悲しむ余裕もなかった。両親の死を現実のものとして受け入れられるようになる頃には、悲しいと思うほどの思い出も少なくなってきていた。
どうでもいいわけではないが、そんなに俺のなかで大切な話でもない。ただ、いきなりいなくなった両親。それだけだった。
それなのに、さっきの俺はどうかしていた。イラついたからといって、人の死を武器にして罪悪感を煽るような言葉を口にした自分に腹が立つ。相手も悪かったとはいえ、あまりにも性格の悪い言葉だった。
けれど、止められなかった。
あの瞬間、俺は確かに彼からあんな風に言われた気がしていた。ただ事故で死んだだけの死に意味を持たせる必要なんてないのに、彼が俺の両親の死を祝福したような気がしたのだ。
自分が吐き出した言葉を思い出して、うんざりしてため息をつく。
「……咲徒」
ため息に反応したのか、俺の胸に顔を埋めていた彼女が、涙を流したままの顔を上げた。目が真っ赤だ。
「揚羽、ごめんな」
彼女にまでとても嫌な気分を押し付けてしまって、本当に悪いことをした。
それなのに、彼女は指で目元を拭いながら首を振った。
「私こそ、今まで知らないうちにひどいことたくさん言ったよね。ご両親のこと、咲徒が傷つくようなこと言っちゃってたよね」
俺の胸に額をあてて、彼女が小さく呟く。
「咲徒だって、辛かったよね。私がお父さんやお母さんに文句言うのなんて、贅沢だった」
「違う、やめてくれ」
彼女の顔を上げさせる。そういう言葉をかけられるのは嫌いだ。
「立場も考え方も違うんだ、揚羽が家族に不満を持つのは、俺の親が死んだのとは関係ない。親が生きてたら俺だって親のこと悪く言ってたはずだ」
俺の両親が死んでいるからといって、彼女が自分の両親に対する文句を口にしてはいけないなんていうことにはならない。当たり前だ。みんなこういうピントのズレた気の使い方をする。
「揚羽は自分の頭で考えて、自分の言葉で俺に教えてくれただろ。俺だってそうなんだ。両親が死んだことは、もうちゃんと俺のなかで解決してる。今日のはあいつがウザすぎてちょっと変になってただけだ」
彼女の両親に対する不満や劣等感は、間違いなく彼女自身が考えて、感じた気持ちだ。それを抱え込んでしまうのは、本当に疲れてしまう。ようやく今までの気持ちを俺に明かしてくれたのに、俺の両親が死んでいるからといって、彼女が俺にまで気を使ってしまってはいけない。心のなかのイライラを抑え込んでしまうようなことにはなって欲しくない。
「俺の親が死んでるからって、お前が親の文句を俺の前で隠す必要なんかない。俺にだけは正直に全部話してくれていいんだ」
言いながら、我慢できなくなって彼女を抱きしめる。
「俺にまで気を使うな。揚羽の嫌な気持ちは全部俺に話してくれていいんだ」
俺にまで気を使って自分の気持ちを隠すと、俺は彼女のまわりにいるその他のやつらと同じになってしまう。そうなると、俺が彼女の隣にいられるだけの価値がない。
「揚羽と離れたくないんだよ」
「咲徒……」
俺はもう、彼女が隣にいない自分を想像できない。彼女が俺にだけ明かしてくれた気持ちは、俺への信頼だ。それを閉ざされたら、もう彼女のそばにはいられない。それだけは嫌だ。
胸元に頭を抱きこんだままだった彼女が顔を上げて、優しく微笑んで俺の頬を両手で包む。
「大丈夫。離れたりしない」
彼女の目にはまだ涙がたまっている。俺のために流してくれている涙が、ずっと止まらない。彼女は微笑んだまま、けれど口元だけ少し不満そうに尖らせて呟いた。
「でも、さっきはちょっと怖かった」
「ごめん……」
自分でもよく分からないまま、俺はめちゃくちゃなことを口走っていた。自分はあんな風にもなってしまうんだって、反省しなければ。
「咲徒、泣いてたんだよ。あんなにひどいこと言いながら。どれだけ凄惨な光景だったか分かってないでしょ」
自覚がない。あの場で彼女に引っ叩かれなかったらどうなっていたことか。
「もうあんな風にならないように私が見張っててあげなきゃだめよね」
「ありがとな」
指で彼女の涙を拭ってやる。くすぐったそうに顔を動かす彼女を見ていると、全身から力が抜けそうだ。
「揚羽は可愛いな」
「なによ、急に」
彼女が泣いているのに、内心はちょっと嬉しいなんて言ったら怒られるだろうか。彼女が俺のために涙を流してくれる、というのが、この上なく幸せに感じる。
「俺、揚羽のこと大切にする。ずっと大事にするからな」
「え、ちょっと……」
恥ずかしそうに顔を背ける彼女だが、目線だけはちらちらと俺を見ている。こういう細かいところまで、いまの俺にとっては彼女の全てが魅力的に見える。いつか誰かが見るかもしれなかった彼女の姿を、彼女自身が見せてもいいと思ってくれたのは俺だ。俺はその信頼に応えなければならない。
重なった唇の熱に頭を溶かされそうになりながら、彼女の幸せを願う。その幸せは、俺が彼女と一緒につくっていく。
ある日の放課後、彼女が珍しく俺の部屋に来ない、と言い出した。
「今日は行かないわ。寂しいでしょ」
「ああ、寂しい。今日はバイトもないんだ。せっかく揚羽とふたりきりでいられると思ったのに」
「素直で私にベタ惚れな咲徒って気持ち悪いけど大好きよ」
あの日以来、俺も彼女への好意はなるべく思った瞬間に口に出すようにしている。可愛いものを可愛いと言って、好きなものを好きだと言う。こんな当たり前のことでも、気持ちはとても前向きになれるものだ。最近ストレスが少ない。
「今日は私の家にきてもらうから」
「え、俺が?」
「うん」
彼女がさも当たり前のように言うが、けっこうな大事件である。
「今日はお父さんがいるのよ。会ってもらうから」
やはり大事件だ。初めて家に招かれた日に親に会うなんて。
「……早くないか?」
いくら俺でも、恋人の父親に会うとなればそれなりに心の準備がいる。それなのに、彼女はあっさりと首を振った。
「どうせ嫌でもいつか必ず会うんだから、さっさと会って慣れときなさいよ。大丈夫、たぶんいきなり殴ったりはしないから」
「武闘派お父さんな感じ?」
「普通の会社員だけどね」
こんな会話をしていたときは、俺もそんなに緊張はしていなかった。
ただ、彼女の家に上がり、父親に会った瞬間、俺はその場に倒れこみそうになったのをなんとか気合いで耐え抜くのに必死になってしまった。
「咲徒くん?」
「嘘だろ……」
彼女の部屋の立派なリビングで俺を待っていたのは、後見人の彼だった。
「……なにこの空気」
お互いに顔を見るなり固まった俺と父親を見て、彼女が状況についていけていないような顔をしている。
「茅野さん、どうしてここ、に……あっ」
後見人の彼がどうしてこんなところにいるのかと言いかけて、ふと思い出した。
彼の名は茅野。そして、俺をここに招いた彼女も茅野揚羽。この家の表札には茅野と書いてあった。どうりで彼と会うときにイメージが被るはずだ。親子なんだもの。
「そうかぁ、揚羽のお父さんて、茅野さんだったんだぁ」
背中に薄ら寒いものを感じて、とりあえず薦められるままに椅子に座る。立っていられない。
「娘から会って欲しい人がいるって言われたんだけど、咲徒くんだったんだね」
俺の正面に座った彼自身もどこか戸惑いを滲ませたような顔で、並んで座っている愛娘と俺を交互に見ている。
「ね、なにがどうなってるの、なにこの状況」
「いや……」
この状況をセッティングしたくせに、ひとりだけ何も分かっていない彼女が俺の腕に触れる。この状況がなんなのか、俺だって教えて欲しい。
「茅野さん……えっと、揚羽のお父さんは、俺の両親の遺産を管理してくださってる人……が、お父さん」
「日本語がめちゃくちゃ」
状況が未だに飲み込めていない彼女に、俺は最初から説明をした。途中、彼女の父親が何も口を挟まないのが怖くて仕方なかったが、なんとか話せたと思う。何か試されているような気分だ。
「……咲徒の後見人が、私のお父さん」
「そういうことだ。中学の頃からずっとお世話になってる」
実は彼女よりも付き合いが長い。
すると、ようやく娘が状況を理解できたと見たのか、ずっと黙っていた彼がようやく口を開いた。
「咲徒くん、揚羽がいつも世話になってるみたいだね」
「あ、いや。あの、世話になってるのは俺の方です、はい。あの、いつも仲良くしてくれて、助かってます」
「仲良くできてるのか。それは良かった」
なんだか変なプレッシャーを感じる。しかも両方から。彼を前にして緊張するのはいつものことだが、なぜ隣からも異様な威圧感がある。理由がすぐ分かりそうなのに、それを認めるのはちょっと勇気がいる。
「揚羽は少し抱えすぎて塞ぎ込むところがあるだろう。咲徒くんみたいな子が仲良くしてくれると、いい刺激になると思うよ」
彼がいつものような声で頷きながら話す。こういう時でも声音は変わらない。しかし、俺はいまそれどころではない。
「あの、茅野さん……」
隣からの圧力に耐えられず、俺はついに屈した。もうだめだ。というか、ここで行かなければきっと後で怒られる。むしろ、相手が知っている人で良かったと思うことにした。
「俺、揚羽さんと付き合ってます」
仲良くしてるとかそんな程度の間柄じゃないだろう、はやくいけ、ビビんな。という感じのプレッシャーに圧されつつも、俺はなんとか言い切った。隣からの圧力は一気に解消されたが、今度は正面からの圧力が増した気がする。
「うん。よかったよ、咲徒くんが相手で本当によかった。揚羽のこと、よろしく頼む」
殺されるかも、なんて思っていたが、意外にも彼はあっさりと優しく微笑んだ。
「……あれ」
「どうしたんだい」
「ぶん殴ったりとか……」
「そんなことするわけないだろう?」
彼は笑いながら、俺に向けてぽつぽつといくつかの話しを語りはじめた。
最近、可愛い娘の帰りが遅くなっているらしくて気にしていたこと。あまり構ってやれなかったこと。それから、いつか俺と彼女を会わせてみたいと思っていたこと。
「揚羽は私の可愛い娘だ。咲徒くんも、私の息子だと思ってる。どちらも自慢の子供だ。頭がよくて、しっかりと自分自身の芯を強く持っている」
「そんな……」
「咲徒くん。今の私があるのは、君のお父さんのおかげなんだ。だから、お父さんに立派になった君を見せてあげる義務がある」
何があったのかまでは知らないが、彼は何かというと俺の父に恩があるという。だから、俺を支援してくれることにためらいがないんだと。
「成長する君を見ていると、誇らしくなってくるんだよ。あの人の全てを受け継いだ男が、父を超えて大きくなろうとしている。私がそれに一役かっていると思うと、本当に誇らしくなってくるんだ」
彼がこんなに話すところを見るのは初めてだ。しかも、俺のことをかなり買ってくれている。なんだか恥ずかしくて、背中がむずむずしてきた。
というか、俺ばかりそんなに評価されたら、彼女に悪い気がする。もともと、彼女は父親に認められたくていろいろ頑張っていたのだ。
「もちろん、揚羽も私の自慢の娘だよ」
そろそろ娘に触れたほうが、なんて思ったちょうどいいタイミングで、彼が身体ごと向きなおる。思わず声が出そうになった。これが大人だ。
「勉強も頑張っているし、学校には友達も多いらしいけど、心配していたんだよ。揚羽はお母さんに似て無理をしてしまいがちなタイプだから」
「お父さん……」
彼女が、小さく声を漏らす。泣きそうな声だ。
「でも、揚羽ならきっといい解決策を見つけられると信じてた。繊細でよく気が回る子だから、必ず自分を幸福にできる方法を考えつくはずだろうって。揚羽なら絶対に間違った選択はしない。よく考えて、悩んでも必ず最適な方法を見つけられるって信じてた」
隣から、鼻をすするような声がする。ついに泣きだしてしまった。気持ちは分からなくもない。
「揚羽と咲徒くんを会わせてみたら、きっと何かいい刺激になると思ってた。ふたりはよく似ていて、正反対だからね。揚羽が自分で見つけた男が咲徒くんなら、私からは何も言うことはないよ。咲徒くんなら私の可愛い揚羽を支えてくれるだろうし、揚羽も咲徒くんを支えてあげられるはずだ」
「茅野さん……」
彼の話を聞きながら、いつのまにかあの妙な居心地の悪さがなくなっていることに気づいた。認められていると分かったからだろうか。たぶん、自分が思っていたよりもずっと俺のことを考えてくれていて、はるかに高いところにいる立派な大人だから、素直に勝てないと思ったんだろう。ただ、勝てないのは今だけだ。
そのうち、必ず追い越してみせる。俺には、彼自身からの強力な支援があるし、父親からも何か受け継いでいるらしい。それに、揚羽もいる。
「茅野さん。俺、茅野さんが見守ってくれてて本当に良かったです」
これまでは実感していなかった。彼は、俺と彼女を誰よりもよく見てくれている。きっと生半可な負担じゃなかっただろう。俺も彼に大きな恩がある、ということだ。
「茅野さんが俺を支えてくれたように、俺も揚羽を支えます。ふたりで一緒に、必ず茅野さんに恩返しさせてください」
これまでのこともそうだし、これからのことも感謝しなければならない。それに、俺にこんないい人との縁を遺してくれた親にも感謝しなければならない。
死んでラッキーではなく、死んでからも俺のために何かを遺してくれている親が誇りだ。遺された子供を支えてくれる人が現れるような親の人望が、俺にとってはこの上なく誇らしい。俺の親父はすごい人だったし、そんな親父が人生をかけて幸せにすると誓った母は、きっともっと偉大な女性だったに違いない。
「揚羽と咲徒くんなら、きっとふたりの未来は明るいね」
「本当に、いつもありがとうございます。茅野さん」
「今日からはもうお父さんでいいよ」
「それはまだちょっとすみません」
ただの後見人だった男と、嫌いだった同級生のふたりと顔を合わせて心から笑い合う。両親が死んで以来、長いこと感じていなかった家族の充足感だ。こういう感覚は、ものすごく大事にしなければいけない。嬉しいと思える幸福は、溜め込む器に限界がない。
三人での談笑もひと段落ついて、俺は彼女の自室に招かれた。ふたりきりだ。
初めてきた彼女の部屋には、可愛らしい小物やぬいぐるみ、それからどっさりと参考書がある。整頓された服もあれば脱ぎ散らかされた服もあり、ここの部屋の住人は茅野揚羽です、という説得力に満ちている。
その茅野揚羽はというと、部屋に入るなりベッドに横たわって、静かに手を目元に当てていた。
「……お父さん、私のこと認めてくれてた」
彼女は、父からかけられた言葉がよほど嬉しかったのか、真っ赤な顔をしてため息をついたり、意味なく寝返りをうってみたり、まるで恋でもしているみたいにぼんやりしている。
「良かったじゃないか」
「うん……」
彼女の頑張りは、きちんと父に届いていた。これまで頑張ってきたんだから、たまにはきちんとああやって報われなければいけない。本当に良かった。
「……あっ、だめよ。そうだ、なにめでたしめでたしみたいな感じになってるの」
良かった良かったと感動していたら、彼女が急に起き上がって俺に手を伸ばす。その手をとると、彼女はわざとらしく微笑んだ。
「お父さんがずっとすごいすごいって褒めてたの、咲徒のことだったのね」
「ああ、そうなのかな」
話の流れ的に、そんな感じはする。
ふと、俺もちょっと頭になにか引っかかるような感じがして、それが何かすぐに理解した。
「じゃあ、私はずっと咲徒にムカついてたってことなのね。お父さんが咲徒ばっかり褒めるからすごくイライラしてたのよ」
つまり、そういうことになる。
ややこしい。彼女が劣等感を感じていた原因は、結局のところ俺だ。
「なんかごめんな」
俺が悪いかどうかは置いておいて、とりあえず謝ってみる。お互いに、ほんの冗談だ。
「咲徒に嫉妬して、咲徒に癒されて、咲徒のことが好きになったのね。私の生活ほとんど咲徒じゃない。なんか変な感じ。咲徒地獄よ」
「やっぱ狭い世界に生きてんな、俺たち」
「運命だね」
彼女に手を引かれて、ふたりでベッドに転がる。甘えたように抱きついてくる彼女の背中に腕をまわすと、彼女がキスをせがむように顔を上げた。
「一緒にいるのが決められてたの、ずっと昔からね」
キスをして、彼女が俺をまっすぐ見つめて微笑む。
「これからは、咲徒が持ってて当たり前のもの全てに私がなる。友達も恋人も家族も、全部私がなってあげるから、咲徒も私のそばから離れないで」
友達も恋人も家族も。全部俺が持っていなかったものだ。それら全てに彼女が名乗りを上げてくれるというのだから、こんなに幸せなことはない。
「ああ、ずっと一緒だ」
ひとりで生きていくのもいいが、誰かと一緒にいられるならそれでもいい。
そうやって繋がっていく。
死んだ両親が繋いでくれた縁は、俺に新たな親をくれた。
そして俺自身も、誰よりも大切な人を手に入れた。それは彼女も同じことだ。
ひとりでも、ふたりでも、何十人と一緒に過ごしても楽しめるから、人生ってのは面白い。
おしまい